第46話 絶望の地に咲く、深紫の女王
馬車の中は、満たされた平穏に包まれていた。 芳醇なカモミールの香りと蜂蜜の甘みが混ざり合った温かな紅茶。隣に座るロサミィの、期待と憧憬に満ちた熱い視線。 すべてが完璧に調和した、甘美な密室空間。
だが、ふっと。 車窓から流れ込んできた微かな風が、その調和を無残に切り裂いた。
「――ロイドムス。馬車を止めろ」
「――御意」
ヴェルスの静かな下令に応じ、御者台のロイドムスが手綱を引く。馬車が滑らかに停車すると同時に、ヴェルスは静かに扉を開けて外の冷気へと身を晒した。
その瞬間、肺の奥まで心地よく満たしていた紅茶の香りは、どろりとした鉄錆のような濃厚な血の臭いと、排泄物、そして獣じみた情欲が混じり合った、吐き気を催すほどの腥臭によって無残に塗り潰された。
街道――少し外れた木立ちの暗がりでは、大盗賊団『黒血狼』による凄惨な惨劇が繰り広げられていた。
吊るされた騎士たちの死体、凌辱に喘ぐ女性たちの悲鳴、そして下品な野望と欲望を撒き散らす畜生どもの嘲笑。
「ひ、ひどい……っ! なんて、惨いことを……っ!」
馬車の陰から覗き込んだロサミィが、あまりの光景に口元を抑えて顔を蒼白にさせる。
御者台から下り立ったロイドムスもまた、深く眉をひそめながらヴェルスの側へと歩み寄り、懐から金色の装飾が施された小型の円筒形器具――『魔導スコープ』を取り出した。
カリカリ、と。 微かな駆動音を立ててピントリングを回すと、レンズの向こうに、その光景が鮮明に、残酷なまでに拡大されて映し出された。
「……これは……」
レンズに映っていたのは、街道から外れた、薄暗い木立の陰――わずかに漏れ入る月光に照らし出されたその場所で、無残に転がっている複数の豪華な馬車。そして、その周囲を埋め尽くす、どす黒い血の湖であった。
「ヴェルス様……。あそこに転がる残骸の紋章、アクアローザ伯爵家のみならず、複数の貴族家のものにございます。……そして、あそこに集結しているのは、大盗賊団『黒血狼』の群れかと。数が尋常ではありません。いかがなさいますか?」
「慌てる必要はない。まずは清掃の準備を整えるとしよう」
ヴェルスは静かに一歩前へ踏み出した。 詠唱はない。魔法陣を描く手間など必要ない。 ただ、彼が脳に意識を集中させた瞬間――。
草原に、真紅と深紫の光が爆ぜた。 そこには、洗練された精緻な六芒星の幾何学模様が、禍々しくも美しく浮かび上がっている。
空間が激しく歪み、二色の魔力が奔流となって渦巻く。 その中心から、ゆっくりと、だが圧倒的な存在感を伴って姿を現したのは――。
身の丈二メートルを超える、絶世の美貌を宿した至高の存在。 黒茶の艶やかなボブヘアを揺らし、赤黒の瞳に冷酷な熱を宿した、原初の夢魔――ナアマであった。
彼女が纏っているのは、黒紫を基調としたゴシック調のセーラー服。 その清楚ながらも妖艶な装いの胸元には、『魔術刻印』が鮮烈に明滅し、背中からは赤黒の翼が誇らしげに広がっていた。
『……あぁ、ヴェルス様。またあなた様に会えましたね』
脳内に直接響く、蕩けるように甘く、けれど絶対的な服従を誓う念話。 ナアマは、愛おしそうにヴェルスを見つめ、その大きな身体を屈めて恭しく頭を下げた。
『……待たせたな、ナアマ』
『いいえ。あなた様の呼び声に応えられることこそ、私の至上の悦びですから』
ヴェルスは、呆然と立ち尽くすロイドムス、ロサミィ、そして護衛騎士たちへ、静かに視線を向けた。
「ロイドムス、ロサミィ。紹介しておこう。俺の秘蔵たる『召喚物』――ナアマだ」
「くっ……ぐっ……! こ、この……底知れぬ魔圧は……っ!」
ロイドムスは、不意に押し寄せた圧倒的な捕食者の気配に、本能的な戦慄を覚えた。冷や汗が背中を伝い、早鐘のように鳴り響く心臓を抑えながら、ヴェルスの人智を超えた力に改めて震え上がり、全身を強ばらせて深々と頭を垂れた。
ロサミィもまた、あまりの恐怖に喉が引き攣り、血の気の引いた顔で「ひっ……! な、ナアマ様……っ」と震えながら小さく頭を下げるのがやっとだった。
二メートルを超える長身と、妖艶を極めた美貌を持つナアマが、小柄で純真なロサミィを見下ろした。
その視線には、可愛らしい小鳥を愛でるような慈しみと、同時にいつか自分と同じ色に染めてやりたいという、夢魔特有の深い支配欲が宿っていた。 ナアマはクスリと可憐に微笑んだ。
だが――その視線が辺りに転がる蹂躙された女性たちに向けられた瞬間。
彼女の瞳から、甘美な色は完全に消え失せた。
「……っ!!」
ナアマの白磁のごとき滑らかな肌に、真紅の星と深紫の茨を模した刺青が、血管を伝うように両腕へと激しく広がっていく。 それは、原初の夢魔が抱く、至高の「怒り」の顕現であった。
ナアマは美しく咲き誇る花のように唇を開くと、その豊満な胸を大きく膨らませ、薄桃色の唇から――ふぅ、と甘く芳醇な深紫色の息を吐き出した。
『――甘美なる閉鎖夢――』
吐き出された甘い吐息は、瞬く間に濃密な紫の霧となり、戦場全体をすっぽりと包み込んだ。
同時に、その甘美な香りを吸い込んだ盗賊たちは、脳を焼き尽くすような痺れと圧倒的な恍惚感に精神を侵され、その場にガクリと膝をついた。
「あ……頭が、とろける……っ。なんだ、これ……っ、全身が熱くて……っ、気持ち、いい……っ」
「ふ、ふふ……っ。身体の力が勝手に抜けて……っ、あぁ、もっと……もっとくれ……っ」
精神を麻痺させられた男たちは、もはや逃げることすら許されない。 彼らは今、世界で最も残酷な「処刑場」に閉じ込められたのだ。
『――ヴェルス様。仰せの通り、処刑の準備が整いました』
ナアマが静かに告げると、ヴェルスは微かに頷き、冷ややかな視線を囚われた盗賊たちへと向けた。
『……分かった。……そうだ、マリアは今オルディニア王国にいるな。あちらでの任務が終われば、またこちらでの再会を楽しみにしていると伝えておけ』
『――かしこまりました。あの娘も、きっと喜びますわ』
脳内で優雅に微笑むナアマへ頷きを返すと、ヴェルスは、隣に立つロサミィに視線を向け、わずかに微笑んだ。
「ナアマ。改めて紹介しよう。俺の専属侍女のロサミィだ。主に俺の身の回りの世話をしてくれている」
主人に促され、ロサミィはおずおずと一歩前に出て、緊張した面持ちで深々と頭を下げた。
「――専属侍女のロサミィと申します。ナアマ様、どうぞよろしくお願いいたします……っ!」
巨躯の夢魔を見上げてやや怯えながらも健気に挨拶するロサミィに対し、ナアマは妖艶に微笑んでふわりと頷いた。
「私はナアマだ。主様のお世話、しっかりと頼むぞ、ロサミィ」
ナアマはそう言ってしなやかな手を差し伸べた。
「はいっ!!」
ぱっと表情を明るくさせたロサミィは、その手を力強く握り返した。
ヴェルスは二人が交わした握手を見届けると、次に執事へと視線を移した。
「それとロイドムス。『飛竜笛』を取り出し、飛竜を呼べ」
「――はっ!」
「護衛騎士の一人をその飛竜に搭乗させ、帝都ヴェディアの憲兵隊へこの惨劇を知らせに行かせろ」
「御意のままに」
単なる使者の派遣ではない。――これから数千の賊を屠り、絶望した伯爵家たちを救い出すという「圧倒的な事実」を、帝国の中枢へ刻み込ませる。
それこそが、今後の政治的な盤面を支配するための、ヴェルスによる冷徹な計算であった。
ロイドムスが即座に懐から重厚な笛を取り出しにかかるのを確認し、ヴェルスは冷酷な宣戦を告げるように手を振り下ろした。
「よし。ナアマ、幹部だけを残して――這いずり回る絶望を与えてから殺せ」
その冷徹な下令に、ナアマの瞳に妖しい愉悦が宿る。
「――ふふ。主様、あの虫けらどもをすべて片付けず、あえて幹部だけを生かしておかれるのは……?」
「あそこにいる哀れな女性たちに、自らの手で腹いせをさせ、トラウマを克服させるためだ。……最高の復讐こそが、最大の救済となる」
「……ふふ。あなた様は、なんて残酷で甘美なご判断をなさるのでしょう」
ナアマが低く、艶やかに笑う。ヴェルスは静かに立ち尽くす護衛たちへと冷徹な視線を滑らせた。
「――お前たちはナアマの邪魔にならないように、生存者の救助と保護にあたれ」
「「――はっ!」」
ヴェルスの護衛騎士たちが緊張に満ちた声で即座に応じる。
血と泥の地獄に、絶対的な断罪の嵐が吹き荒れるまで――あと、数秒。
『黒血狼』の愚か者どもは、まだ知る由もない。
己たちが閉じ込められたのが逃げ場なき処刑場であり、眼前に佇む美女こそが、すべてを薙ぎ払う異界の絶対者――ナアマであることを。




