第44話 甘美なる旅立ちと、掌の恋心
朝もやがまだ深く立ち込める白亜の尖塔群を背に、グラディス公爵家の重厚な正門が開かれた。
敷地に咲き誇る濃紺の薔薇が冷たい朝露に濡れ、ふわりと重厚で甘い香気を微風に乗せて漂わせている。カツン、カツンと響く硬質な蹄の音と、重厚な馬具が擦れ合う金属音が、静まり返った早朝の空気を心地よく切り裂いた。
御者台に座るのは、完璧な所作で手綱を握る執事のロイドムス。そして、格式高き公爵家の紋章が刻まれた、深みのある濃紺の馬車の車内には、ヴェルスと専属侍女のロサミィが乗り込んでいた。
「――出発するぞ」
ヴェルスの静かな号令とともに、馬車が滑らかに動き出す。
窓の外で、傀儡と化した当主ヴァルターや長男レオン、次男ジークが満面の笑みを浮かべて手を振っているのが視界に映った。その背後で、母セレスと長女エリスが恐怖で引きつった顔でこちらを見つめているのを確認しながら、ヴェルスはすっと窓のカーテンを引いた。
車内を包み込むのは、上質なクッション革の触感と、微かに漂う木香の落ち着いた匂いだ。
外の冷涼な空気が遮断された空間で、ロサミィは緊張と高鳴る胸の鼓動を抑えるように、スカートの裾をギュッと指先で握りしめていた。
「ヴェルス様……いよいよ、帝都ヴェディアへ向けての長い旅が始まりますね……っ」
「ああ。これから数日間の楽しい旅だ。のんびり風景でも眺めながらいこう、ロサミィ」
そう言って対面に座っていたヴェルスがスッと立ち上がり、ロサミィのすぐ隣へと優雅に腰を下ろした。
「は、はいっ!」
さらに、ごく自然な動作で膝の上に置かれた彼女の手を優しく包み込む。
ふわりと漂う彼の上品な香りと、重なる手のひらから伝わる確かな温もりに、ロサミィの心臓はドッと甘く跳ね上がった。大好きな人に手を握られているという大きな幸福感で胸が満たされ、彼女は嬉しさを噛み締めるようにその手をそっと握り返す。
そしてパッと花が咲くような笑みを浮かべたロサミィの頬は、ぽっと可愛らしく朱色に染まっていた。
重ねられた手の温もりに名残惜しさを覚えつつも、ロサミィはそっと手を離すと、照れ隠しをするように小さくはにかんだ。そして慣れた手つきで魔法の小瓶と小さな銀のカップを取り出し、手際よく温かなハーブティーを注いでいく。
「長旅の始まりですから……宜しければ、こちらをどうぞ。ヴェルス様」
ふわりと立ち上るカモミールと蜂蜜の柔らかな芳香が車内に広がり、二人の鼻腔をくすぐった。
すぐ隣から嬉しそうに手渡されたカップを、ヴェルスは微笑みながら受け取る。そっと口に含めば、程よい甘みとまろやかな温かさが乾いた喉を優しく潤していった。
「見事な手際だ、ロサミィ。香りも味も、実によく調和している」
「っ……! ありがとうございますっ……!」
感無量といった様子で目を潤ませ、胸の前でキュッと両手を握りしめるロサミィ。
馬車がゴトゴトと石畳を抜け、帝都へと続く街道の土を踏みしめていく。揺れに合わせて微かに肩が触れ合うたびに、ロサミィの頬は熱を増していくようだった。車内に響く単調な車輪の音が、かえって二人だけの密室感を甘く、濃密に演出していた。
揺れる車内、甘いお茶の余韻、そしてすぐ側で見つめてくる少女の熱っぽい瞳。
ヴェルスは漆黒の瞳の奥に不敵な笑みを潜ませながら、窓の外に広がる広大な荒野へと視線を移した。
帝都ヴェディアまでの道中――
少女の純粋な恋心を愛でながら、すべてを掌の上で転がしていく。
最高に歪で、最高に甘美な――支配と愛執の旅が、いま静かに幕を開けたのだった。




