第42話 恐怖と魅惑の支配者
1階に位置するグラディス公爵家の執務室。
重厚な執務机に腰を下ろすヴェルスの視線の先――アーチ状の大きな窓の向こうには、朝露を纏った濃紺の薔薇が咲き誇る幽玄な庭園が広がっていた。
手入れの行き届いた芝の絨毯の向こうで、噴水の水しぶきが朝日を浴びて細やかな虹を描き、静寂の中に涼やかな水音を響かせている。
深遠なる漆黒の瞳に宿る光は、十四歳の少年の枠を遥かに超越した、静謐なる支配者の気配を漂わせている。
トントン、と静かなノックの音が執務室に響き、重厚な扉が静かに開かれた。
最初に足を踏み入れたのは、当主ヴァルターから命じられた同行者のひとり――執事のロイドムスであった。
「――お呼び出しにあずかりました、ヴェルス様」
深々と礼を執る彼が身に纏うのは、アルヴェディア帝国式の隙のない高質な深藍の執事服。
二十歳という若さでありながら端正な顔立ちをした美男子であり、すらりと伸びた長身に制服が完璧に馴染んでいる。だが、その洗練された佇まいの裏で、ロイドムスの歩みはわずかにこわばっていた。
(……当主様も、若様方も、あんなにもヴェルス様を蔑み、ゴミのように扱っていたはずだ。……それなのに今や、狂おしいほどに溺愛し、異様なまでの執着を見せている。あの家門の不気味な変貌……その中心に立つこの少年は、一体……)
生身の人間であるロイドムスだからこそ、屋敷を包む狂気めいた空気に強い警戒と恐怖を抱いていた。
だが、執務机の前に立ち止まり、深々と頭を下げた彼の首筋に、冷ややかな視線が鋭く突き刺さる。
「顔を上げろ、ロイドムス」
「――はっ」
促されるままに顔を上げたロイドムスは、ヴェルスの漆黒の瞳と真正面から視線を交わした瞬間、喉を鳴らして息を呑んだ。
そこにあったのは、抗うことを一切許さない圧倒的な威圧。優秀な執事として積み上げてきた二十歳の青年の自負が、そのただ一瞥の前に音を立てて砕け散っていくような錯覚を覚える。
「――ずいぶんと硬くなっているな、ロイドムス。父上たちのあまりの変わりぶりに、心が追いつかぬか?」
「っ……! 恐れながら、ヴェルス様、私はただ……」
弁明しようと焦るロイドムスを、ヴェルスは漆黒の瞳で見つめたまま、静かに言葉を継ぐ。
「恐れる必要はない。お前が優秀な従者として俺に従う限り、望むだけの地位も、相応の報酬も約束しよう。……ただし」
ヴェルスは静かに瞳を細め、わずかに口元を緩めた。その微笑みに、ロイドムスは心臓を冷たい刃物で撫でられたような錯覚を覚える。
「余計な探りを入れる愚か者でないことを、祈っているよ」
低く、甘く、それでいて逃げ場のない絶対的な宣告。
額から一筋の冷や汗が伝い落ちる中、ロイドムスは恐怖だけではない、どこか狂おしいほどの従属心が胸の奥からじわりと這い上がってくるのを覚えていた。
この美しくも底知れぬ少年に、己の全てを委ねてしまいたい――そんな錯覚すら覚える。
ロイドムスはその場に深々と膝をつき、平伏するように頭を垂れた。
「……身に余るお言葉にございます、ヴェルス様。このロイドムス、この命に代えましても、あなた様をお守りし、お支えいたします」
深々と、床に額を擦り付けるほどの忠誠の礼を捧げるロイドムス。
ヴェルスは微かに唇を端に持ち上げ、満足そうに頷いた。
「よろしい。……では、退出して外で待機しているロサミィを入れなさい」
「――かしこまりました」
ロイドムスは恭しく一礼し、退室がてら静かに扉を開いて外へと合図を送る。すると、もう一人の従者が静かに室内へと足を踏み入れ、ロイドムスは入れ替わるように退出していった。
◇
「失礼いたします……っ! 侍女の……ロサミィと申します……っ!」
少し緊張で上ずった、それでいて愛嬌のある可愛らしい声が静かな執務室に響いた。
足を踏み入れてきたのは、十八歳の専属侍女・ロサミィ。
彼女が一歩足を踏み入れた瞬間、ピリついていた室内の空気が、ふわりと甘く華やいだ。
端正な顔立ちを彩るのは、知的な丸眼鏡の奥で煌めく、みずみずしい深緑の瞳。上品で清潔感あふれる深緑色のレイヤーボブは、彼女が歩を進めるたびにサラサラと軽やかに揺れ、可憐な魅力を際立たせている。
そして何より目を引くのは、彼女が纏うアルヴェディア帝国式のメイド服であった。
深藍と白を基調としたフレアスカートには繊細なフリルが重なり、キュッと絞られたウエストにはミリタリー調の金ボタンと重厚なコルセットベルトがあしらわれている。
少女の可憐さと、軍事大国ならではの凛とした厳格さが完璧に融合した、最高にキュートで華やかな装いであった。
(う、うっ……っ!『無能な三男様』なんて聞いていましたけれど……そんなの、全然違うじゃないですか……っ! 冷徹で、でも息を呑むほど綺麗で……まるで精巧なお人形みたいなお顔……。それに、この胸がキュッとしめつけられるような甘い色気は、一体なんなんですか……っ?)
「ロサミィ。ここまで来い」
「ひゃ、はいっ……!」
促されるまま、彼女は緊張に足を震わせながら机の近くまで歩み寄り、おずおずと顔を上げた。
エメラルドの双眸が、ヴェルスの深遠な漆黒の瞳としばらくぶつかり合う。
「似合っているぞ、その服」
「――っ……!?」
ヴェルスが浮かべた優美な微笑みと、低く甘く響く声。
その一言だけでロサミィの思考は瞬時に吹き飛び、心臓がバクバクと激しい音を立てて暴れ出した。
当主様たちから見放されていたはずの若き主人が、自分の姿をまっすぐに見つめ、真っ直ぐに褒めてくれた――。
「あ、ありがたき幸せにございます……っ! 私は……未熟で不束者ですが、ヴェルス様のお世話を一生懸命頑張りますっ! お気に召さないところがございましたら、何なりとお申し付けください、ヴェルス様……っ!」
真っ赤になった顔をさらに真っ赤にし、ロサミィは胸の前で両手をギュッと握りしめて一生懸命に言葉を紡いだ。
愛嬌のある笑顔を浮かべ、健気にスカートの裾をつまんで可愛らしくお辞儀をするロサミィ。
その瑞々しい若さと、純粋な憧憬の眼差しを前にして、ヴェルスは前世で培ったホストとしての甘美な魅惑のスイッチを、静かに切り替えた。
「ああ、期待しているよ、ロサミィ。……これから長い旅になる。俺の側で、ずっとその可愛い顔を見せてくれ」
甘く耳元に響く殺し文句。
「――っ、は、はいっ……! ずっと、ずっとおそばにおります……っ!」
ロサミィは顔を真っ赤に熟させ、涙目になりながらも、弾けたような満面の笑みで頷いた。
恐怖による服従と、甘美な魅惑による心酔――。
新天地『ステラリア』へ向かう布陣は、こうしてヴェルスの完璧な心理掌握のもとに整えられたのだった。




