第40話 王城の闇に咲く、深紫の茨
紗美菜に手を引かれ、茉莉愛が息を潜めて進むのは、贅沢を極めた大理石の回廊。
高すぎる天井には精巧な彫刻が施され、足元の中央には上質な深紅の絨毯が敷かれている。だが、剥き出しになった白大理石の床は鏡のように冷たく光を反射し、その眩いばかりの豪華さは、人目を忍んで第四王女宮へと急ぐ今の二人にとって、いつ誰に見つかるかもわからない逃げ場のない冷酷な一本道のようだった。
「ねえ、紗美菜……ここ、本当に私たちがいていい場所なの……?」
不安げに周囲を見渡す茉莉愛の手を、紗美菜は人目を盗むように強く握り締めていた。
「大丈夫よ、茉莉愛。私が仕えているアイリス様の宮殿へ行けば、絶対に匿ってもらえるから。でも、ここから先は本当に気を付けて。ここは私たちがいた平和な日本じゃないの。王族の気まぐれ一つで、人の命すら簡単に踏みにじられる……そういう恐ろしい世界よ」
紗美菜が唇を噛み締め、さらに足を速めようとした――その時だった。
「——ここでコソコソと、ネズミが何を這い回っている?」
冷ややかで、ねっとりとした濁った欲を含んだ声が、急に背後からピタリと投げかけられた。
背筋が凍るような気配に振り返った二人を待ち受けていたのは、王族の証である絢爛な外套をまといつつ、下卑た笑みを浮かべた傲慢な男――オルディニア王国の第2王子ベルギィム・オルディニアだった。
いつの間に背後まで忍び寄っていたのか、その冷酷な瞳が獲物を品定めするようにねっとりと光っている。
「どれどれ……ほう、見慣れぬ顔だが、なかなかの掘り出し物ではないか」
「っ……! 王子殿下……っ!」
紗美菜が即座に茉莉愛を庇うように一歩前に出る。だが、ベルギィムは鬱陶しそうに顔を歪めた。
「邪魔だ、虫けらが」
冷酷に吐き捨てたベルギィムが供の騎士たちに目配せをすると、騎士たちは一瞬で紗美菜の両腕を強引に拘束し、その場に組み伏せた。
「やめてくださいっ、離してください……っ!」
暴れる紗美菜を無視し、ベルギィムは下卑た笑みを浮かべながら茉莉愛の細い腕を乱暴に掴み、引き寄せた。拒絶する間もなく、その下品な手が茉莉愛の胸元を容赦なく揉みしだき、酒の臭いを漂わせた唇で無理やり塞がれる。
「うぐ……っ、ん、ぅ……! はな、して……っ! 酒臭い、息ができない……っ!」
激しく抵抗する茉莉愛の顎を強引に掴み上げ、ベルギィムは愉悦に唇を歪めた。
「威勢がいいな。だが、どこの馬の骨とも知れん小娘がどう扱われようと、この王国の法では罪にならん。……この私に逆らえると思うな」
恐怖と屈辱に涙を流す茉莉愛の悲鳴をかき消し、ベルギィムは彼女の身体を力任せに抱え上げると、そのまま王城の奥にある自身の私室へと強引に連れ去っていった。
「茉莉愛……っ! 待って、離してく……っ!」
「すっこんでいろ!」
引き裂かれるような紗美菜の絶叫を遮るように、騎士の無慈悲な拳が振り下ろされる。乱暴に突き放された紗美菜は、激しい衝撃とともに冷たい大理石の廊下にたたきつけられた。
遠ざかっていく茉莉愛の姿と悲鳴を前に、自らの無力さに涙を呑みながら――。
痺れる身体を震わせてどうにか立ち上がり、もつれる足を必死に動かして、冷え切った石畳を蹴った。
(……っ! 一刻も早く、アイリス様に……この状況を伝えなければ……っ!)
◇
――第2王子の寝室。
暗い寝室へと連れ込まれ、天蓋のついた豪華なベッドへと力任せに放り投げられた。
バウンドするほどの衝撃に息を詰まらせる間もなく、ベルギィムの重い身体がのしかかってくる。
「いやっ、放して……っ!」
茉莉愛は必死に身をよじらせて抵抗したが、男の絶対的な暴力を前にその身体は無慈悲に押さえつけられた。卑俗な笑みを浮かべたベルギィムの手が、茉莉愛の制服のスカートを乱暴に捲り上げていく。
肌を這う汚らわしい手の生々しさと、逃れられない絶望の底で――茉莉愛の脳裏で、何かが激しく音を立てて弾けた。
(あぁ……また……だ……)
――突如として、意識の底から溢れ出したのは、「回帰前」の忌むべき記憶と狂おしい記憶だった。
かつてこの世界で、同じようにこの男――ベルギィム・オルディニアに踏みにじられ、弄ばれ、人生を徹底的に破壊された記憶。そして、漆黒の髪と瞳を持つ美少年——ヴェルスとの狂おしいまでの地下牢での日々と契約の記憶が、鮮烈な炎となって蘇る。
――これまで眠っていた『宵闇の星と絡み合う茨の魔術刻印』が、彼女の激昂に呼応するように、妖しく鮮烈な明滅を繰り返した。
茉莉愛は無理やり奪われた唇の不快感を拭い払うように、冷たいシーツの上へ忌々しげに唾を吐き捨てた。
荒く息を乱しながら、その黒茶の瞳から光が消え、底知れぬ深淵の殺意と冷徹さが宿り――赤黒の光を帯びて妖しく変色していく。
「……殺す、殺す、殺す、殺す……っ! こんなゴミクズ、絶対に、生かしておかない……っ!」
怯えに震えていたはずの少女は消え失せ、彼女は冷酷に歪む口元に狂おしいほどの愉悦の笑みを浮かべて、静かに詩を紡ぐ。
「外なる息吹は透過させ、内なる理は静寂の帳に秘匿せよ。世界を聴き、闇を語れ。漏れ出る音なき、秘匿の円環を構築しなさい――」
ふ、と細くしなやかな人さし指を自身の艶やかな唇へと添える。
『夢幻の静寂』
甘い吐息とともに解き放たれた魔術。瞬間、寝室を包む空気の層が揺らぎ、外の廊下の足音や他の部屋からの物音は普段通りに聞こえながらも、この部屋の中から発せられるいかなる悲鳴も物音も、そして迸る禍々しい魔力や存在力すらも外部へ一歩も漏れ出ることのない『完全な密室空間』が描き出された。
外の現実を内側へ通しつつ、内部のすべてを完全に隠蔽する絶対の障壁――。
音が少しこもるその空間の中で、ベルギィムはふと違和感を覚えて眉をひそめた。
「な……なんだ? 急に空気が重くなったぞ……? おい、その目は何だ……っ!?……そ、そんな目で私を見るな……っ!」
急変した茉莉愛の雰囲気に慄くベルギィム。
その眼前で、茉莉愛の唇が微かに開いた。人たる者の言語体系を超越した、深淵の底から響くような声が少しこもった静寂の寝室を甘く震わせる。
『――‡‡ΨΨ……†‡Ψ……Ψ‡†‡ΨΨ‡†――』
それは絶望的なまでに重厚でありながら狂おしいほどに甘美な調べ――常人であればその音色を耳にしただけで魂を奪われ、膝を屈して平伏しかねない、四柱の夢魔の女王が――その一柱、ナアマの原初より継承される異界の音律であった。
『深紫の牢獄茨』
虚空から、真紅と深紫の魔力を纏った無数の茨が一斉に跳ね踊った。
尖った刺を持つ茨は蛇のようにベルギィムの四肢と胴体を容赦なく絡め取り、肉に食い込みながら空中へと宙吊りに固定・拘束した。
「ぐああああああっ!? な、なんだこの植物は!? 動かん……解け、解けろっ!」
叫び苦しむベルギィムを見上げ、マリアは冷ややかな笑みを浮かべながら、手元に極太の紫茨の槍を顕現させた。
「――お前のその汚い肉体も、欲望も、すべてこの場で根絶やしにしてあげる」
ブシュッ、と肉を貫く鈍い音が寝室に響く。
マリアが突き入れた茨の槍は、ベルギィムの心臓と胴体を容赦なく幾重にも幾重にも串刺しにした。
(――前世から続くその傲慢も、今度こそ私の手で徹底的に踏みにじってあげる)
脳裏に蘇る屈辱の記憶を冷酷な愉悦で塗り潰しながら、マリアは自らの意志でその命を奪い尽くす。
噴き出そうとした鮮血が床を汚すことはなかった。マリアの操る茨がその傷口からほとばしる血の一滴すらも残らず絡め取り、虚空の彼方へと綺麗に吸い尽くしていく。部屋の気配や汚れは一切残さぬまま、ただその生命の根源だけが容赦なく破壊されていった。
空中に吊るされたベルギィムの死体を見上げながら、……自らの手で完全な傀儡へと変貌させるための儀式へと移る。
瞬間、彼女の胸元に刻まれた――『宵闇の星と絡み合う茨』の魔術刻印が、まるで鼓動するかのように禍々しく脈打った。
マリアが紡いだのは、ヴェルスから受け継ぎ、自らの異界の権能へと昇華させた独自の錬成術式。その妖艶な瞳に冷徹な光を湛え、彼女は静かに、しかし絶対的な支配の呪文を滑らせる。
「——『罪深き肉の器を解き、絡みし茨にて虚像を編み直せ。我が掌中で這いつくばる人形となれ、深層の底に絶対の服従を刻め。影武者』」
術式の起動とともに、ベルギィムの四肢を貫き宙吊りにしていた無数の深紫の茨が不気味にうねり始めた。
茨は絶命した彼の肉体を絡め取ったまま、空間そのものを穿つ虚空の裂け目へとずるずると引きずり込んでいく。
――わずか一瞬にして闇の彼方へと喰われ、文字通り『無』に帰した肉体。
直後、同じ虚空の裂け目から急速に禍々しい影の粒子が溢れ出し――脳深層へ絶対服従の刻印を打たれたベルギィムが、何事もなかったかのように音もなく床へと降り立った。
これにより、表向きの挙動や表情、人間らしい生気は生前と何一つ変わらないまま、マリアの意思に従う傀儡へと変貌を遂げていた。
主の許可なく言葉を発することすら許されぬように、マリアの前で冷たい石畳へ深く膝を折り、頭を垂れた。
◇
それからしばらくして。
ドンドン!と激しく寝室の扉が叩かれ、解錠された扉から第4王女アイリス・オルディニアと、息を切らした望来月 紗美菜が飛び込んできた。
「茉莉愛……っ! 大丈夫だった!? 待たせてごめん――」
駆け寄った紗美菜の目に飛び込んできたのは、乱暴された惨状など微塵もなく、開いた扉のすぐ傍で大人しく控えている茉莉愛と、上等な椅子に深く腰掛け、整った身なりで書類に目を通している第2王子ベルギィムの姿だった。
アイリス・オルディニアは不審そうに眉をひそめながら問いただす。
「……これは一体どういうことですの、ベルギィム兄様? この者を強引に連れ込んだと聞きましたが」
傀儡となったベルギィムは、いつもの冷淡な声で答えた。
「何がだ? 少し話をしただけだ。……時間差で異世界転移に巻き込まれたそうだな」
静かで理知的な兄の態度に、アイリスは一瞬首をかしげる。
「いつもの兄様となんか違う……? そうですか。では、何事もなかったのでしたら良いのですが……」
ベルギィムは、自ら王宮内の余計な混乱を避けるような素振りで、淡々と付け加えた。
「この件は内密にした方が良いだろう。無駄な騒ぎを起こす気はない」
その言葉を受けたアイリスは、納得したように深く頷いた。
「そうですわね。……なら、彼女は私が侍女として雇い、しばらく面倒を見た方が良さそうですわね」
「勝手にしろ」
そっぽを向くベルギィムの背を後に、アイリスと紗美菜、そしてマリアは静かに寝室を後にした。
紗美菜の差し出す温かい手を握り返しながら、マリアは誰にも気づかれぬよう、胸の内で妖しく微笑んだのだった。




