第39話 時を置き去りし扉と、2026年の残響
遥か遠く、次元の壁を隔てた別の世界――。
――2026年9月20日、日本。
清々しい秋晴れの陽光が差し込む一軒家のリビング。
静けさを破るように、キッチンからエプロン姿の母の叫び声が響き渡った。
「ちょっと茉莉愛! 早く朝ごはん食べないと遅刻するわよ!」
その声を合図に、二階から慌ただしい足音がドタドタと響き始める。
階段を転がるように駆け下りてきた少女——柊海 茉莉愛は、制服のスカートの乱れを整えながら、不満げに声を張り上げた。
「なんでもっと早く起こしてくれなかったのよ!」
「何言ってるの、何度も呼んだわよ! 自分の目覚ましで起きなさいっていつも言ってるでしょう!」
「もうっ!」
茉莉愛が急いで朝食を口に押し込んでいたその時、リビングの壁掛けテレビからアナウンサーの硬い声が流れてきた。
『——本日未明、ホストの男性が自宅マンションで客のホステスの女に刺され死亡する事件がありました』
ニュース画面には、事件現場となった高層タワーマンションの外観が映し出されている。
『本日午前3時半ごろ、東京・新宿区西新宿のタワーマンションの一室で、「交際相手の男性を包丁で刺した」と110番通報がありました。警察官が駆けつけたところ、この部屋に住む飲食店従業員の神代木 蓮侍さん(26)が寝室で血を流して倒れており、その後搬送先の病院で死亡が確認されました。死因は失血死とみられます』
『警視庁新宿署は、部屋にいた自称・東京・銀座の高級クラブ『夜想月』勤務のホステス、水瀬鳥 結菜美容疑者(24)を殺人の疑いで現行犯逮捕しました。水瀬鳥容疑者は「関係がもつれてカッとなって刺した。死ぬとは思わなかった」と容疑を認めています。
近隣住民や店舗関係者によると、亡くなった神代木さんは、歌舞伎町の有名ホストクラブ『CLUB CYBERNETICS』で、「神楽道 水純真」の源氏名で数年間にわたる年間売上ナンバーワンを維持していたトップホストだったということです。
水瀬鳥容疑者は神代木さんの熱心な顧客であったとみられ、警察は二人の間に金銭や交際を巡る深刻なトラブルがあったとみて、犯行の動機を詳しく調べています……なお——』
画面が切り替わり、生前の神代木 蓮侍の顔写真が大きく映し出された。
艶やかな黒髪に洗練されたスタイル、透き通るような肌、そして——どこか人を狂わせるような、深く、妖しく美しい瞳。
(どうして……こんなに、胸がざわつくの……?)
画面の写真に目を奪われ、胸の奥がキュッと締め付けられるような奇妙な既視感を覚えて、ぽつりと呟く茉莉愛。
「……身長187cmで……愛嬌のある、すごいイケメン……」
だが、没頭する間もなく母親の雷が落とされた。
「いつまでもテレビ見てないの! 間に合わないわよ!」
「やば、遅刻確定だわ……! ってか、こんなイケメンが……。行ってきます!」
靴を突っ掛けるようにして玄関を飛び出し、秋風を切って通学路を猛ダッシュする。
その画面の男が、異世界でどのような「怪物」へと生まれ変わり、自分と交錯することになるのか——当時の彼女が知る術もなかった。
◇
「はぁ、はぁ……っ! 頼む、ホームルーム始まらないで……!」
ゼェゼェと息を切らしながら校舎の階段を駆け上がり、自分のクラスである1年B組の前へと辿り着く。
廊下は不気味なほど静まり返っていた。チャイムの音はすでに鳴り終わっている。
茉莉愛は意を決して、教室のガラガラと鳴るスライド式の扉の手すりに手をかけ、思い切り引き開けた。
「ごめんなさい遅刻し――」
扉を開けた、その瞬間。
視界を埋め尽くしたのは、クラスメイトたちの顔でも、教壇に立つ担任の姿でもなかった。
そこにあったのは、言葉を失うほどの――白亜、金色、深青の光条。
教室の床から浮かび上がるようにして、幾重にも重なる幾何学模様と、冷徹なまでに美しい六芒星が、神々しい魔力の大輪を咲かせている。
誰もいない教室の空間そのものがガラスのようにひび割れ、遅れて飛び込んできた茉莉愛の身体を、主を求めるような強烈な吸引力が丸ごと飲み込んだ。
「え……? キャアアアアアアアアアアッ!?」
悲鳴すらも時空の歪みに削ぎ落とされ、茉莉愛の意識は永遠のような一瞬の中で、深く沈んでいった。
◇
——どれほどの時間が流れただろうか。
湿った冷気と、古びた石造りの匂い。そして、仄かに肌を刺す——魔力が引き、沈黙した転移陣の冷徹な気配。
「う……ん……」
意識の覚醒とともに、茉莉愛はゆっくりと上体を起こした。
ひんやりとした床に手を突いた瞬間、指先に薄い埃の感触が触れる。
呆然と見下ろした先——そこは、一分の狂いもなく描かれた、精緻極まる幾何学模様の檻の中だった。
彼女を中心点として、四方へと規則正しく広がる幾重もの同心円と、それを貫く強固な六芒星の直線の溝。
その歴史ある石の刻印は、長い間誰も踏み入っていないかのようにうっすらと白く煤け、ただ一人取り残された少女の細い影を、冷酷に浮かび上がらせていた。
「ここ……どこ……? 私……教室の扉を……」
困惑と恐怖で身体を震わせる茉莉愛の耳に、静かな靴底の音が響いた。
「——ええ? ……その制服……少女……!?」
重厚な石の柱の陰から歩み寄ってきたのは、上質な漆黒の侍女服に身を包んだ一人の若い女性だった。
無駄のない美しい立ち振る舞い、胸元で結ばれた清潔なリボン。そして、どこか冷徹で達観したような深い瞳。
だが、その顔立ちを見た瞬間、茉莉愛の息が止まった。
「さ……紗美菜……!? 望来月 紗美菜なの……!?」
それは、同じクラスで親友だったはずの少女——望来月 紗美菜の姿だった。
しかし、記憶にあるはずの「高校生の制服姿の紗美菜」ではない。身体つきも大人びて、全体的に落ち着いた女性の雰囲気を纏っている。
「……茉莉愛? 柊海……茉莉愛なの……?」
紗美菜は呼吸を忘れ、信じられないものを見るように目を見張った。
その瞳には、かつての平和な日常の亡霊を見たような、絶望的なまでの動揺と、狂おしいほどの懐かしさが入り交じっていた。
「嘘……なんで……? あなた、あの時……転移の巻き込みから外れていたはずじゃ……」
紗美菜は震える手で、茉莉愛の制服の裾をぎゅっと、指が白くなるほど強く掴んだ。
「何言ってるのよ紗美菜! 私、今朝遅刻しそうになって、教室の扉を開けただけよ!? それに、その服……何なの? なんでそんな大人っぽい格好してるのよ!?」
取り乱して駆け寄ろうとする茉莉愛に対し、紗美菜は震える手を伸ばし、彼女の肩を強く掴んだ。その指先の手応えは、かつての華奢な女子高生のそれではなく、過酷な現実を生き抜いてきた者特有の、硬く力強いものだった。
「……落ち着いて聞きなさい、茉莉愛」
紗美菜の声は痛々しく絞り出されていた。
「ここは……オルディニア王国の地下に隠された『異世界転移用の魔法陣』の中よ」
「オルディニア……? 異世界……?」
「そう……私たちは4年前、あの教室にいたみんなとこの世界に召喚されたの。でも……あなただけはいなかったのよ……」
「……え……? 4年前……?」
茉莉愛の頭の中が真っ白になる。
「私にとっては……今朝の出来事なのよ……? 今朝テレビで、歌舞伎町のホストが刺されたニュースを見て……急いで学校に行って……」
「ホストが刺されたニュースって……なにそれ、私知らないけど……」
紗美菜は自嘲するように唇を噛みしめ、どこか遠い目をした。その整った侍女服の裾が、わずかに震えているようにも見えた。
「私にとっては……もう4年も前の昔話よ。私たちはこの世界に召喚され、王宮の管理下に置かれた。……異世界の『兵器』や『道具』として利用されそうになりながら、はいずるようにして生き残るために、ここで侍女として働き始めて……気づけば4年も経っていたのよ」
「そんな……嘘でしょう……? 4年って……みんなは……? 私が……取り残されてた……?」
自分の手を見る。高校生のままの制服、変わらない体躯。
だが目の前に立つ親友は、過酷な異世界で4年の歳月を生き抜き、大人の女性——王宮の冷徹な侍女へと変貌を遂げていた。
「信じられないかもしれない……でも、これが現実よ、茉莉愛」
紗美菜は優しく、しかしどこか冷ややかに茉莉愛の手を包み込んだ。
「これからあなたには、この残酷な異世界のルールを教えてあげる。……『異世界人』として王宮に奪われ、潰されないための、生き残る術をね」
青白い光の中、4年という残酷な時差を越えて再会した二人の少女。
今朝まで当たり前だった日常はすでに音もなく崩れ去り、茉莉愛の胸を満たしていたのは、途方もない混乱と、冷たい恐怖だけだった。制服のポケットに残されたスマートフォンは圏外のまま沈黙し、帰るべき場所は永遠に失われたのだと、痛いほどに突きつけられる。
それでも——目の前で力強く生き抜いてきた親友の手の温もりだけが、放り出された少女の心をかろうじてこの世界につなぎ止めていた。
戻れない過去と、見知らぬ未来の狭間で。
少女はまだ知る由もなかった。この異世界の闇のなかで、やがて自らもまた、運命を狂わせる狂信の道へと踏み出していくことになるのを——。




