第38話 絶天の鉄鎖と、雲上の仙膳
果てしなく広がる白銀の雲海——その雲を突き抜け、九天の真っ只中に佇む霊峰。
幾千丈の断崖絶壁が天を穿ち、下界の喧騒や人間の醜悪な欲望を一切拒絶するかのように、深い霧が重々しく立ち込めていた。
——煌天武朝、武雲山。
一年中、冷ややかな霊気と深い濃霧に覆われたこの神秘の霊峰こそ、道術と「気」「柔」の極致を追求する門派——武雲派の本拠であった。
山肌を撫でる風は冷たく澄み渡り、霧の隙間から時折差し込む陽光が、湿った黒石や千年の霊松を静かに照らし出している。
『サッ……、サッ……』
誰も踏み込めぬはずの険しい山道を、一人の老人が悠然と歩みを進めていた。
白髪碧眼、雲を模した白い道服を纏い、周囲の空間そのものを従えるかのような圧倒的な気圧を放つ男——武雲派の道士であり、ステラリア武芸・錬気指導長を務める『化境の拳聖』李 雲海である。
久しぶりに踏みしめる故郷の土。
李 雲海は青い瞳を細め、ひげを撫でながら、そびえ立つ断崖の上方を見上げた。
◇
目指すのは、武雲山の垂直な崖に食い込むようにへばりついて建つ、孤高にして圧倒的な迫力を誇る宮殿——絶天宮。
だが、その絶天宮へ至る道は、通常の階段や橋など存在しない。
眼前に立ちはだかるのは、底知れぬ深淵の谷。谷底からは激しい上昇気流が「ヒュウゥゥゥ……」と不気味な咆哮を上げて吹き荒れ、見下ろせば真っ白な雲海が広がるばかりで、足を踏み外せば生きては戻れぬ死の崖であった。
その崖と崖の間に渡されているのは、ただ数本の巨大な黒鉄の鎖——『絶天の鉄鎖』。
風に煽られて重厚な鉄環が「ガチリ……ガチリ……」と揺れ動く。
並の武芸者であれば、その一端に立っただけで足がすくみ、冷や汗を流して平伏する天然の要塞。この鉄鎖を渡る実力のない者は、端から門前払いされる仕組みであった。
「ふむ……相変わらず、無愛想な出迎えじゃな」
李 雲海は不敵な笑みを浮かべると、両手を背に回したまま、躊躇なく一歩を踏み出した。
「――急々如律令。踏み出せば、これ即ち雲海の如し」
老道士の唇から静かに呪訣が零れ落ちた刹那、ヒュッと風が爆ぜる。
それは、空間そのものを踏み台にして空を疾走する高境地(化境以上)の軽功——『凌空飛雲』。
足が黒鉄の鎖に触れることすらなく、李 雲海はただ雲の上を歩むように風を切った。
猛烈な谷風が彼の道服を激しく羽ばたかせるが、その体躯は微動だにせず、一瞬にして数百メートルの崖間を渡り切ってみせる。
絶天の鉄鎖を軽々と超えた先、垂直の崖にそり立つ絶天宮の重厚な朱塗りの門が、堂々とその姿を現した。
◇
「——李大師! 李大師が帰られたぞッ!」
門をくぐると、静寂に包まれていた境内に威勢の良い声が響き渡った。
集まってきたのは、髪をお団子に結い、白や青の清潔な道服を纏った武雲派の道士や俗家弟子たちであった。彼らは過度な殺気を削ぎ落とした「気」と「柔」の達人たちであり、厳しい修練の中に穏やかな気品を宿している。
「お久しぶりでございます、李大師!」
「ステラリアでのお役目、ご苦労様でございます!」
弟子たちが一斉に胸の前で右の拳を左の手のひらで包む『抱拳礼』を捧げる。
李 雲海は「うむ、うむ」と満足そうに頷きながら、彼らの肩を叩いた。
「皆、精が出るな。……ふむ、ちょうど良い刻限か。腹が減っては道術も錬気も破綻する。まずは飯にしようではないか」
李 雲海の一言に、若い弟子たちの顔がぱっと華やいだ。
◇
——厨房から香ばしい湯気が立ちこめる頃、絶天宮の大広間に用意されたのは、遠征から戻った長老を迎えるための、武雲派伝統の宴——『仙膳』であった。
本来、精神の清浄と気の絶対的な純化を重んじる武雲派の「本格的な道士」たちにとって、俗世の欲を断ち、凍てつく断崖の静寂の中で日夜ひたむきに気を練る厳格な修練は、まさに道の極致であった。
だが、この絶天宮で出される「仙膳」だけは明確な例外とされていた。
霊山で採れる苛烈な薬草の毒性を打ち消し、体内の『気』を瞬時に引き上げて爆発的に練り上げるための「特製の薬膳」であると同時に、まだ道士の境地に至らず俗世の垢を纏う「俗家弟子」たちにとっては、厳しい鍛錬の日々に耐え、心身を健やかに整えるための最高の活力源であった。
日常の厳格な修行から解き放たれ、若者たちが笑顔を取り戻して心身の英気を養う——これこそが、長老の帰還を祝う名目の下で許された、至福の「養生のひととき」でもあったのだ。
長卓の上に次々と運ばれてくる蒸籠からは、もくもくと白く温かな湯気が立ち上り、甘く香ばしい竹と小麦の香りが大広間いっぱいに広がる。
蓋が開けられると、そこに鎮座していたのは、職人が丁寧にこね上げた極上の『白饅頭』であった。
ツヤツヤと光沢を放つふっくらとした白い生地。手に取れば指が沈み込むほど柔らかく、二つに割ると熟成された小麦の甘い香気が湯気とともに鼻腔を激しくくすぐる。
そしてその傍らには、霊山で採れた香ばしい山菜の餡を凝縮した『菜包』や、溢れんばかりの肉汁を閉じ込めた『肉包』が、ふっくらと、いかにも美味そうに並んでいる。
さらに卓を彩るのは、武雲山で採れた新鮮な山菜と乾物を香ばしく炒め合わせた一品や、滋味豊かな塩漬け豚肉の薄切り。そして中央の陶器鍋では、枸杞の実や当帰などの霊草とともに地鶏を丸ごとじっくり煮込んだ、澄んだ黄金色の薬膳スープから、滋味豊かな香気がふわりと立ち上っていた。
「さあ大師、冷めないうちにどうぞ召し上がってください!」
「かかかっ、これは美味そうじゃな!」
李 雲海は大きな白饅頭を手にとると、そこに塩漬け豚肉と山菜の炒め物を贅沢に挟み込み、豪快に口へと運んだ。
モチッとした生地の優しい甘みと、ジューシーな塩豚の旨味、山菜の香ばしさが口内で見事に調和する。
間髪入れずに黄金色の薬膳スープを匙ですくって飲めば、鶏の深い出汁とハーブの滋味がじんわりと胃の腑へ染み渡り、全身の『気』がみるみる満ちていくのが実感できた。
そのまま泥封された素焼きの酒甕の封を力任せに割り、口の広い酒盃へと注がれた武雲山特産の老酒『白雲醴』をグッと干し、芳醇な米の香りに目を細める李 雲海。
「美味い! やはり故郷の飯と酒は格別じゃ!」
「お爺様、お疲れの体に『白雲醴』の効能は良いですが、飲み過ぎるとただの毒になりますからね」
呆れたような、しかし愛おしげな鈴を転がすような声とともに、空になった酒盃にトトト……と手際よく老酒が注がれる。
そこにいたのは、彼の最愛の孫娘——李 蒼蓮、今年で破瓜の年華(十六歳)を迎える少女であった。
武雲山の光と影を映したかのような、美しい黒と白が混じり合う見事な長髪。薬を調合する際に邪魔にならぬよう、両サイドの髪を繊細な編み流しにして後ろへと垂らした、吸い込まれそうな蒼玉の瞳を持った美少女。
彼女が纏うのは、柔らかな青と白の色彩がシームレスに融合した魏晋漢服であった。風が吹くたび、何層もの薄絹の裾が美しく揺らめき、まるで雲の衣を羽織った仙女を思わせる。薬を調合する職にある彼女の手先からは、どこか仄かに、厳選された薬草や霊丹の清涼な香りが静かに漂っていた。
「かかかっ、お主が注いでくれる酒なら、いくら飲んでも薬にしかならんわい!」
青い瞳を細めて豪快に笑う李 雲海に、孫娘は「もう、ステラリアでもそうやってお酒ばかり飲んでいるのですか?」と、呆れたように微笑みかけた。
周囲では、髪をお団子に結ったまだ幼さの残る若き俗家弟子たちが、口いっぱいに白饅頭を頬張りながら、「大師、ステラリアとはどんな場所なのですか?」「外国の魔術師は強いのですか?」と目を輝かせて酒瓶を片手に問いかけていた。
酒を傾け、弟子たちの賑やかな笑い声に包まれながら——李 雲海の青い瞳の奥に、ふと冷徹で鋭い光が宿る。
脳裏に浮かぶのは、極西の『玄道天女』白 麗蓮が見せた渇望。
そして、アルヴェディア帝国より、ステラリアへと招集されようとしている【X級】の規格外——ヴェルス・グラディスという存在。
(……召喚魔法の常識を覆す、稀代の凶星……。あのような異端が天空の学院へ足を踏み入れるのだ)
李 雲海は残りの白饅頭を豪快にかじり、満足そうに腹を叩いた。
(武雲山の平和な空気も良いが……ステラリアで巻き起こるであろう嵐が、今から楽しみでならんわい)
雲上の絶天宮に賑やかな宴の音が響く中、伝説の拳聖は、間もなく訪れる新たな時代の波乱に思いを馳せていた。




