第37話 玄道天女の渇望と、天空からの道標
極西の果て、俗世の喧騒を隔絶して天を衝く霊峰群――『煌天武朝』。
幾千丈の断崖を突き抜けた雲海の上、霊気澄み渡る頂に築かれた巨楼こそが、道術と玄霊の神秘を統べる筆頭門派――『九天玄霊宗』の総本山であった。
宙に浮かぶ青緑の霊石、切り立った白崖に根を張る千年の霊松、そして大気中をさらさらと流れる濃密な霊霧。水墨画のごとく静謐な仙境の空気を震わせていたのは、凛と張り詰めた一筋の呼吸音であった。
雲海を見下ろす広大な演武壇の中央。
そこに佇んでいたのは、まさに豆蔻の年華(十四歳)にして『玄道天女』の尊称を欲しいままにする宗門の至宝――白 麗蓮であった。
風に揺れるのは、肩口で切り揃えられた艶やかな藍黒のミディアムヘア。
身に纏うのは、墨色のモノトーンから裾にかけて幻想的な薄紫色へと移ろう、優美なグラデーションを描く魏晋漢服であった。幾重にも重なる薄絹の広袖が霊風を孕んでふわりと翻り、華奢な手首には深緑の翡翠腕輪が静かに光を湛えている。
「――陰陽相克、乾坤の理を回天せよ」
鈴の音のように凛とした声が響く。
白 麗蓮が白磁のごとき細い指先を払うと、墨を走らせたかのような漆黒の軌跡が虚空を裂き、巨大な陰陽太極図が足元に展開された。
瞬間、大気が爆ぜる。
左の手のひらには万物を凍てつかせる極陰の蒼氷、右の手のひらには灼熱の万象を焼き尽くす極陽の紫炎――相容れぬ二極の理を同時に操る、至高の『陰陽道術』。
――これほどの術は、本来であればそれだけで一つの完成された儀式である。だが、彼女がこれから行う「万物召霊」――英魂が現世に繋ぎ止めるには、乱れた空間の理をあらかじめ完璧に調和・支配しておく必要があった。
陰陽の理によって周囲の霊気を統制すると、麗蓮はさらに虚空へ向けて指先を鋭く弾いた。
「――九天の霊気よ集いて陣を成せ。幽冥の底より目覚めよ、古の戦場を統べし猛将の英魂――」
麗蓮がしなやかな指先を鋭く虚空へ走らせると、黒墨の幾何学ルーンが六方向に展開し、演武壇に強烈な霊気の暴風が巻き起こる。
「――我が呼び声に応じ、いま至高の威光を以て陣上に降臨せよ! 『万物召霊』――真名、『覇天の猛将・項玄』ッ!」
ズズズ……ッ! と演武壇の石畳が凄まじい地響きとともに脈打ち、黒墨の幾何学ルーンが描き出す漆黒の六芒星の陣が激しく明滅する。空間を切り裂く次元の裂け目から、濃密な霊霧が爆発的に噴き上がった。
その深淵を突き破るようにしてゆっくりと現れたのは、身の丈三メートルを超す巨躯に禍々しい真紅の鎧を纏い、手には大地を引き裂くような巨大な漆黒の戟を携えた、長く流れる白髪と、真紅の目をした――境地一流の武魂であった。
凄まじい威圧感を放つその巨体は、少宗主たる麗蓮の前に深々と膝を突き、完全なる恭順の礼を捧げる。
壇の周囲で見守っていた門派の長老たちが、感心したように小さく息を漏らした。
「流石は少宗主様……一流の境地の猛将を呼び出すとは、お見事ですな」
「……我が九天玄霊宗の『玄道天女』……その片鱗を示す、見事な御業よ……!」
長老たちの賛辞が渦巻く中、白 麗蓮はふっと息を吐き、召喚した武神の霊魂を静かに霧散させた。
だが、その霊銀の瞳に誇らしげな色は微塵もなかった。
(……これでも、まだ足りない)
己の掌を見つめ、麗蓮は密かに唇を噛みしめる。
たゆまぬ修練を重ね、同年代に敵なしと謳われようと、彼女の魂の奥底には埋まらない「乾き」があった。一流のさらに先、絶頂の境地を超え未知の領域に触れたいという、道術者としての切実な渇望であった。
その時だった。
『――ゴォォォォォッ!!』
突如として天空が軋み、頭上の雲海を垂直に両断する淒烈な雷鳴が轟いた。
暴風が吹き荒れ、長老たちが「敵襲かッ!?」と色めき立ち、腰の長剣を抜かんとした次の瞬間――。
パァァァァンッ!!
眩い青白い光条とともに、一振りの巨大な仙剣が演武壇のど真ん中へと突き刺さった。
閃光の煙が晴れる中、その切っ先の上に片足で悠然と立ち、髭を撫で下ろしている老武人の姿が現れる。
「な……ッ! 愚弄するか、何者だ――ッ!」
激昂して詰め寄ろうとした長老たちであったが、老人の飄々とした顔立ちと、その全身から湯気のように立ち昇る霊圧を目にした瞬間、全員の動きが凍りついた。
「……ひっ!?」
「ま……まさか……あのお方は……ッ!?」
長老のみならず、奥から宗主までもが青ざめた顔で急ぎ足で駆けつける。
その場にいた全員が瞬時に背筋を伸ばし、李雲海へ畏敬の視線を向けたまま、胸の前で右の拳を左の手のひらで包み込む――『抱拳礼』をピタリと揃えて捧げた。
「「「『化境の拳聖』……天拳道聖、李大師におかれましては……九天玄霊宗一同、謹んでご挨拶申し上げますッ!!」」」
恐れ戦く屈強な武人たちを前に、李 雲海はカッカッカと快活に笑い、仙剣から軽やかに飛び降りた。
「よい、楽にせよ。門派の掟を破って空から押し通った無礼は詫びる。……だが、急ぎの届け物があってな」
李雲海は薄紫の漢服を纏う少女の前へと歩み寄ると、その鋭い眼光を細めた。
白 麗蓮は動じることなく、霊銀の瞳で伝説の拳聖を静かに見つめ返し、優雅に一礼する。
「九天玄霊宗・少宗主、白 麗蓮と申します。伝説の李大師が、私に何の御用でしょうか」
「……うむ……人目がちと多すぎる……大勢の前で話す内容ではない」
「……承知いたしました。では、我が宗門の『太極殿・奥宮の祭壇の間』へ参りましょう。こちらへ」
◇
麗蓮に導かれ、二人が向かったのは、大寺院の喧噪から隔てられた黒檀の扉の奥――歴代の宗師が神聖な儀礼を行う、厳粛な室内の祭壇の間であった。
屋根の一部が開放された特異な構造の堂内には、外の闇夜からひんやりとした夜風が吹き抜け、青白い月光が冷ややかに床を舐めている。
黒石と白玉石で組み上げられた祭壇の周囲には、霊気を燻らせる青い霊火が揺らめき、その幻想的な炎と月光が交錯して、麗蓮の影を長く怪しく引き延ばしていた。
吹き抜ける風が白檀の香りと麗蓮の薄紫の広袖をサラサラと揺らし、静まり返った空間には、時折パチパチと霊火が爆ぜる乾いた音だけが響き渡る。
俗世から完全に切り離された密室の只中で、李雲海は懐から一通の書状を取り出し、不敵な笑みを浮かべた。
「うむ。良い面構えじゃ。……天空魔導学院ステラリアより、おぬしへ今年度の特待生招待状を預かって参った」
李雲海が差し出したのは、天空の紋章が刻まれた豪奢な金色の書状であった。
――麗蓮は静かに眉を寄せる。
「ステラリア……天空の学び舎ですか。名誉なこととは存じますが、私はこの地で我が宗門の道術を極める身。異国の魔導など、学ぶ価値を見出せません」
淡々と断りを入れる麗蓮。だが、李雲海は不敵な笑みを深めた。
「ほう? ならば聞くが、白の小娘よ。おぬしは『召喚魔法』をどう見ておる?」
「召喚……? 異界の怪物を気まぐれに呼び出すだけの外道の術式など、我が道術の比ではありません。神霊や英魂すら我が意の厳格な理の下に降臨せしめる『万物召霊』こそが、至高の大道です」
「くくっ、やはりそう答えるか。だがな……いま、そのステラリアへ、もう一人の魔星が招かれようとしておる」
李雲海は一歩近づき、低く、重厚な声を響かせた。
「かの者が振るうのは、世に言う小手先の召喚魔法などではない。……異界の神仏を己の肉体に縛り付けることができるのは【Sランク】のみと伝え聞く。だが――いや、もはや測定不能の【X級】、原初の召喚よ……!」
「……ッ!?」
白 麗蓮の霊銀の瞳が、生まれて初めて激しく見開かれた。
原初の召喚。概念の具現。測定不能のX級――。
「おぬしの誇る『万物召霊』が、その少年の前に通用するか……あるいは、交わることでいかなる高みへ至るか。……見てみたくはあるまいか?」
老拳聖の言葉が、麗蓮の魂の奥深くに眠っていた渇望を激しく撃ち抜いた。
求めていたのだ。己の常識を覆し、道の先を見せてくれる圧倒的な存在を。
胸の奥が熱く高鳴る。
麗蓮は薄紫の魏晋漢服の広袖を翻すと、李雲海の前で恭しく両手を合わせ、凛とした声で応えた。
「――謹んで、お受けいたします。我が万物召霊を凌駕するというその少年……この目で、確かめさせていただきます」
霊銀の瞳に、獲物を見据える猛獣のごとき強い光が宿った。
◇◇◇
――極西から遥か東方、アルヴェディア帝国。
父をはじめとする影武者たちによって完全に水面下から掌握されたグラディス公爵邸――その一角にある執務室にて、ヴェルスは机の上に置かれた白金色の封筒を静かに見つめていた
封蝋に刻まれているのは、天空魔導学院『ステラリア』の紋章。
ヴェルスは指先でその封を切り、嘲笑を浮かべた。
冷徹な漆黒の双眸の奥底で、輝く文字盤と底知れぬ星々が夜空のごとく明滅する。
前世のホストとして培った人心掌握の術、そして時空神としての神威。
裏から世界を統べるための舞台は、いまや天空の城へと移ろうとしていた――。




