第36話 極西の仙姫と、化境の飛翔
果てしなく広がる白銀の雲海——その雲を突き抜け、蒼穹の真っ只中に浮かび上がる浮遊国家が存在する。
古代の地脈結晶が放つ神秘的な光と、雲間から射し込む陽光に照らされたその空中国家は、地上のあらゆる大国や権力の干渉を寄せ付けぬ絶対聖域として空に輝いていた。
——天空魔術中立国『アルティリス』。
そしてその国家の中央に、天を穿つように立ち聳える一筋の巨大な塔。
白亜の魔導合金と高純度結晶ガラスで組み上げられた幾何学的な巨塔こそが、世界最高峰の叡智と才能が集う場所——天空魔導学院『ステラリア』である。
特待選考局は、ただならぬ緊張感に包まれていた。
「——帝国側が握り潰していた「適性鑑別の儀」のログの解析がやっと完了しました」
一人の担当官が、冷や汗を拭いながら万魔端末のホログラムを投影する。そこには、かつて地上の帝国にて、聖職者が「こ、これは……『召喚魔法』……適性ランク……」と絶句したまま闇に葬られていた忌まわしきデータが映し出されていた。
「詳細な波形データを解析した結果……当時の聖職者が気絶せんばかりに驚愕し、帝国が隠蔽した真の適性は――間違くなくSランクです!」
職員が声を震わせる。
【アルヴェディア帝国:グラディス公爵家令息】
【測定対象:ヴェルス・グラディス】
【召喚魔法:測定上限超越(Sランク)】
【総合評価:判定不能(規格外・X級)】
【魂魄深度:霊肉乖離・異界深淵接続】
「なっ……!? 神代の至宝たる召喚魔法で、測定上限を超越しているだと!?……判定不能のX級!?」
別の幹部が、さらに青ざめた顔で端末のデータを指差す。
「それに、魂魄深度は……霊肉乖離・異界深淵接続だと!? ……まっ……まさか、あの異世界からの転生者どもと同質の怪物か……ッ!」
円卓室の静寂を破り、身を乗り出した幹部の一人が怒気を孕んだ声で机を叩く。
「攻撃魔法至上主義に毒され、理解できぬ深淵の力を『無能』と決めつけて握り潰したというのか……帝国の武官どもは総じて節穴か!」
それに呼応するように、別の教授も吐き捨てるように言った。
「帝国による不当な冷遇、そして失踪や奴隷落ちの噂……神聖なる才能をここまで貶めるとは言語道断ですな!」
室内に怒声と憤懣が渦巻く中、すべての議論を断ち切るように、中央の議長席から総長が重く静かな声を発した。
「――そこまでだ。帝国がどう扱おうと知ったことではない。我が天空魔導学院の威信にかけ、直ちにヴェルス・グラディス殿の身柄を保護せよ。……それと同時に、最高位の特待生招待状を至急発行するのだ!」
だが、特待選考局の波瀾はそれだけにとどまらなかった。
別の観測端末の前に座っていた職員が、今度は青ざめた顔で叫ぶ。
「そ、総長! 今度は極西の武仙国家『煌天武朝』の天霊壇から、規格外の反応を検知しました!」
「なんだと? 西方の武仙国家か」
「はっ……名門『九天玄霊宗』の少宗主にして、極西の神秘を統べる『玄道天女』白 麗蓮の鑑別データです!」
投影された文字列に、執務室の空気が凍りついた。
【煌天武朝:九天玄霊宗・少宗主】
【尊称:玄道天女】
【測定対象:白 麗蓮】
【陰陽道術:A+】
【万物召霊:A+】
【総合評価:A+級】
「陰陽道術と万物召霊の双方がA+……! 西方の秘術を極めた、まさに伝説級の才女か」
「しかし、西方の武仙界は我がステラリアの魔導体系とは異なる独自の理で動いている。おまけにあの国は、よその干渉を嫌う巨大霊峰国家。一歩間違えれば国家間の外交問題になりかねん。使者を送るにしても、普通の教官では相手にすらされないだろう」
どう動かすべきか議論が紛糾する中、執務室の隅で静かに瞑目していた老人がゆっくりと目を開いた。
白髪碧眼、雲を模した白い道服をまとい周囲の空間そのものを従えるかのような圧倒的な気圧を放つ男——ステラリア武芸・錬気指導長、『化境の拳聖』李 雲海。
「ふむ……西方か。ならば、その大役、老夫が直接赴いて届けて参りましょう」
「り、李大師が自ら……!?」
「あちらの重鎮どもも、我が顔を見せれば無用な詮索はすまい。間違いがあってはならぬ特待生の招待状だ。この老骨が、直接あの娘の元へ届けてやるのが一番確実じゃろうて」
最高法務・教育省の総長は深く頷き、即座に手続を進めるよう命じた。
◇◇◇
李 雲海が向かったのは、『アルティリス』に鎮座するセリオン大聖堂の地下――その最深部に位置する厳重な禁域である。
そこに存在する『古代の転移魔法陣』は、最大宗派『聖輪天環教』の専門機関『神代環理機構』によって厳重に管理されており、部外者が立ち入る余地など一切存在しない。
重厚な禁域の扉の前に立った李 雲海は、所持していた『刻印章』をかざし、制御ルーンへ直接『暗号化された認証コード』を叩き込んだ。
すると、幾重もの神聖結界が静かに解除され、最深部の転移室へと通じる道がひそやかに開かれる。
制御台へと歩み寄った李 雲海は、認証コードを流し込んで暗号座標を打ち込む。
足元の床一面に刻まれた六芒星の幾何学模様が、まるで眠りから覚醒したかのように淡く輝き始めた。
(――空間同期確認。転移、開始)
一瞬、澄んだオゾンと冷ややかな金属を思わせる魔力の匂いが鼻腔を突く。室内の空気が一気に重みを増し、肌を撫でるピリピリとした静電気のような微振動が全身を駆け巡った。
腹の底を揺らす低い重低音とともに、青白く透き通る六芒星の幾何学ルーンの群れが光彩を放ち、空間を水面のように歪ませていく。キーーーンと耳奥で透き通る高周波の響きがピークに達する。
光の旋風と次元の歪みへと身を委ねた李 雲海の身体は、一飛びに空間を越えて消失した。
◇
――極西、煌天武朝。
標高数千メートル、霊気が濃密に渦巻く断崖絶壁に築かれた『聖輪天環教』の『天霊壇』。
轟音とともに、地に描かれた古代の転移魔法陣が目も眩むような閃光を放った。激しい光の粒子が収まり、もうもうと立ち込める砂煙の向こうから、一人の老人——李 雲海が悠然と歩み出てくる。
ただそこに佇んでいるだけだというのに、彼がまとう至高の境界『化境』の濃密な内功が空間の重力そのものを変質させ、周囲の空気をびりびりと震わせた。
厳重な警護を任されているエーテル・リングの精鋭たちは、転移の光の中から現れたその人物の姿を認めるや否や、背筋に走る戦慄を抑え込み背筋を伸ばし、李 雲海に目線を合わせ一糸乱れぬ動作で胸の前へと右の拳を突き出し、それを左の掌でピタリと包み込んだ。
――パシィ、と乾いた精悍な音が、静まり返った天霊壇の冷気の中に鋭く響き渡る。
「「『化境』の李 雲海様に、謹んでご挨拶申し上げます――っ!」」
圧倒的な練気と格の違いの前に、冷や汗を流しながらも微動だにせず頭を垂れる武人たちを前に、李 雲海は静かに頷いた。
「うむ、ご苦労」
「九天玄霊宗の少宗主へ届け物があってな。……さて、長々と歩くのも野暮というもの」
李 雲海は懐からステラリアの紋章が押された金色の特待生招待状に触れつつ、淀みのない足取りで前を向く。
李雲海は背に佩いた古びた長剣――『蒼霊剣』の柄へそっと指をかけた。
――瞬間。
『キィン……ッ』
澄み渡る金属音が霊峰の静寂を震わせると同時に、自ら鞘から抜け出た仙剣が、青白い霊光を放ちながら巨大な光の刃へと変化し、空中にピタリと静止した。
李雲海はその刃の上へと、まるで何事もないように軽やかに飛び乗る。
そのまま雲煙を切り裂き、爆音と共に天空へと垂直に駆け上がっていった。
「——『御剣飛翔』」
仙剣は一筋の青い光となって、天を穿つ霊峰の頂――九天玄霊宗の総本山へと疾翔していった――。




