第32話 絶望の因果を、影で塗り潰す
――四年前。グラディス公爵家の地下奥深くに位置する、冷たく薄暗い地下牢。
寒冷な石畳の冷気が、薄着の腹と背中を容赦なく痛めつける。
背中と胸を穿つような激痛。それは大聖堂の大理石の床へ叩きつけられた時に負ったものだった。
「……ふっ」
丸まり、膝を抱えていた少年――十四歳のヴェルスの口から、吐息のような冷笑が漏れた。
ゆっくりとゆっくりと瞼を開く。傷だらけで冷え切った身体の感覚とは裏腹に、その瞳の奥には冷徹な知略の光が徐々に宿っていった。
(覚醒前の僕――いや俺……まさしく、惨めな絶望の渦中か)
(……それと、失語症か。前世の心理術の知識から察するに、俺の失語症は絶望的なショックで喉に余計な力が入りすぎ、それが強力な『身体反射』として固着していたのが原因だったか。独り言すら満足に喋れなかったのは、単に喉が力みすぎていただけか……)
ヴェルスは深呼吸をひとつ挟み、喉奥の緊張を心理術と魔力制御で静かに弛緩させた。長らく自分を縛っていた『喋れない』という呪縛が、氷解していく。
◇
その日の夜中、重々しい鉄格子が開く音が地下牢に不気味に響き渡った。
松明の火光が揺れ、二つの影を引き連れて姿を現したのは、父親である当主ヴァルターと、長男のレオンであった。
「ヴェルス。お前の処遇が決まった」
ヴァルターの声には、肉親に対する情など微塵も残っていなかった。
「お前のような『無能』を我が家に置いておくわけにはいかん。だが、ただ追放して野垂れ死にさせても公爵家の名に傷がつく。よって……お前を奴隷商人に売却する」
「…………」
ヴェルスはピクリとも表情を崩さず、深遠な瞳で冷徹に父親を見据えていた。
その口から吐き出される侮蔑の言葉のすべてを、ただの『盤上の状況』として客観的に処理しながら。
「安心しろ。お前は事故で失踪したことにし、その闇の奴隷市場へ流す。世間には捜索のフリでもしておけばいい。二度と我が家の前に面を出すなよ、出来損ない!」
レオンが冷たく吐き捨てると同時に、後ろに控えていた配下の騎士たちが縄と黒い布を手に歩み寄ってくる。
「処遇……か。それはこちらの台詞だな」
「……何?」
ヴェルスの不敵な言葉に、ヴァルターが眉をひそめる。
直後、抵抗を許さぬよう、彼は冷笑とともに手元へ魔力を収束させ、短く呪文を紡いだ。
「――熱せよ、緋色の弾丸――『火炎塊』」
(『時空凍絶』)
――ズシ、と。
世界を形作っていたあらゆる『音』と『動き』が、根こそぎ消失した。
放たれた火炎塊は、手元から五十センチほど離れた空中でそのまま歪に固定され、襲いかからんと足を踏み出した騎士たちの踏み込みも、空気を割る呼吸すらも、その場でピタリと凍りつく。揺らめいていた松明の炎すらも、炎の形のまま固形物のように静止していた。
時間が完全に死滅した静寂の暗闇の中、ヴェルスだけが悠然と立ち上がった。
ヴェルスの白皙の指先が一筋、空間へと滑る。
(――『次元一閃』)
世界に微小な亀裂が走り、時が止まったままのヴァルター、レオン、そして騎士たちの首筋と胴体を正確に透過・切断した。
時間が停止しているため、血は一滴たりとも流れない。切り裂かれた肉体すら崩れ落ちることなく、完璧な静止状態を保っている。
「……さて、素材としては十分だ」
ヴェルスが詠唱したのは、『影武者』の錬成術式。
ヴェルスが静かに唇を滑らせる。
「——『死に魅入られし肉体を解き、刻まれた知識を編み直せ。我が意のままに動く器となれ、深層の底に刻印を成せ。影武者』」
術式の起動とともに、ヴァルターたちの足元の石畳が『底なしの漆黒の沼』へと激変する。
無数の影の手が石底から一斉に伸び上がり、倒れ伏す身体や散らばった武具を一切の抵抗すら許さず影の深淵へと引きずり込んで呑み去った。
一瞬にして影へと喰われ、文字通り『無』へと解体された彼らの肉体。
直後、石畳の影が急速に盛り上がり――脳深層へ絶対服従の刻印を打たれた完璧な影武者たちが、何事もなかったかのように静かに立ち上がった。
これにより、表向きの挙動や表情、人間らしい生気は生前と何一つ変わらないまま、その精神の根底のみを完璧な手駒へと塗り替えたのだ。
それを見届け、ヴェルスが静かに指を鳴らした。
パチン、と。
小さく澄んだ音が地下牢に響くと同時に、世界を縛っていた時間の凍結が解き放たれる。
時が動き出した瞬間、固定されていた火炎塊が猛然と勢いを取り戻し、石壁へと激突して激しい爆風と轟音を撒き散らした。
だが、飛び散る炎の余韻が地下牢を照らし出した時には――すでにすべてが終わっていた。
――ヴァルターも、レオンも、騎士たちも、ヴェルスの意思に従う無機質な傀儡へと変貌を遂げていた。
主の許可なく言葉を発することすら許されぬように、一切の私情も無駄な音声も削ぎ落とした無言のまま、一斉にヴェルスの前で冷たい石畳へ深く膝を折り、頭を垂れた。
膝を折り、無言で頭を垂れる傀儡たちを見下ろしながら、ヴェルスは自らの脳裏に伝わる刻印の感触を確かめる。
「刻印の定着から察するに、知識の引き継ぎも執務の遂行も問題なさそうだな。……地上へ戻るぞ」
「「……」」
声を出さず、ただ深く首肯した当主と長男、そして公爵家の騎士たちを完璧な手駒として従え、ヴェルスは平然と地下牢の階段を上っていった。
◇
地下牢を出て執務室へと続く静かな回廊。
向かいから歩いてきた次男のジークが、当主たちを引き連れて歩くヴェルスの姿を見て足を止めた。
「あれ……? 父上、兄上……? そいつは地下牢に入れたのでは……?」
「ああ、処遇を取りやめた」
ヴァルターの姿をした影武者が、本人と何一つ変わらぬ声で答える。
「ジーク、これから執務室に来い。今後の公爵家の動向について話がある」
「は、はい……? 分かりました」
◇
疑問を抱きつつも執務室へと足を踏み入れたジーク。その背後で重々しいドアが閉まった瞬間、ヴァルターとレオンの影武者が素早くジークの両腕をガチッと背後から拘束した。
「なっ……!? 父上、兄上!? これは何の真似ですか……!?」
不意を突かれ、狼狽するジークの前に、ヴェルスがゆっくりと歩み寄る。
「動くなよ、ジーク兄さん。床を汚したくないんだ」
「ヴェルス……お前、何を……がはっ!?」
言い終わる前に、ヴェルスの無詠唱による即死術式がジークの心臓を内側から沈黙させた。
叫ぶ間もなく崩れ落ちそうになるジークの身体を、当主と長男の影武者が静かに支え持つ。
息絶えたジークの肉体もまた、一瞬にして影へと喰われ、記憶と知識のみを残し絶対服従の刻印を刻まれた無機質な影武者へと再構成されていった。
表向きは何も変わらないグラディス公爵家。だがその実体は、ヴェルスの指先ひとつで動く『忠実な人形たちの城』へと変貌を遂げていく。
ヴェルスは窓の外、幽邃な中庭を見下ろし、冷たい笑みを深めた。
絶望の過去を裏から塗り潰すヴェルスの侵食劇は、静かに、そして確実にその第一歩を踏み出したのであった。




