第31話 時空神の覚醒と、因果の逆流
数日後――。
静寂の満ちる地下牢の中、冷酷な沈黙を破ったのはジャラリ……という重厚な金属音であった。
喋ることを許されぬ喉奥の奥底で、彼は静かに、だが絶対的な権能を命じる。
(――我が身に眠る刻の歯車を廻せ)
両手首と両足首を固く縛り付けていた重厚な鉄の枷と鎖が、ヴェルスの体から放たれる不可視の圧に耐えかね、パキパキとひび割れて甲高い音とともに砕け散る。
――ズ、と。
地下牢全体の重力が消失したかのような錯覚。
ヴェルスの胸奥から、全事象の流転を司る不可視の神威が爆ぜ出た。
華奢であった少年の骨格がメリメリと音を立てて拡張し、身の丈は優に二メートルを超えて伸び上がっていく。同時に、身に纏っていたボロボロの囚人服すらも時空の粒子となって解け去り、神威の光とともに絶対者の風格を漂わせる装束へと瞬時に再構成されていく。
小さく整った頭部から伸びる細く長い首、驚くほど長くしなやかな手足と引き締まった長い胴。衣服の隙間からは傷一つない白磁の肌と、鍛え上げられた胸板、鋭く刻まれた腹筋が覗いていた。
肩幅は広く男らしい骨格でありながら、その顔立ちはどんな女性をも一瞬で虜にするほど狂おしく甘やかな美貌を残している。
黒髪の根元から静謐な白銀の輝きが疾風のごとく侵食し、肩を越えて背へと流れる艶やかな銀糸の長髪が夜風もないのに揺らめいた。鋭く通った鼻筋と薄い唇、そして深遠なる漆黒の瞳に宿りし輝く星々と幾何学の文字盤――『時空神』の神性が満ち溢れ、神々しいまでの美貌を完成させていた。
「……ヴェルス様」
宵闇の気品を纏うエレノアが、うっとりとした狂信の瞳で息をのむ。
新月の神聖を纏うクラリスもまた、白銀と氷藍のドレスを揺らし、蕩けた熱を孕む瞳で彼を見上げていた。
ヴェルスは無言のまま手を開き、三人の従者へと差し出す。
言葉はなくとも、彼女たちの胸元に刻まれた『魔術刻印』が妖しく熱を帯び、ヴェルスの意図が念話となってダイレクトに脳内へと響き渡っていた。
『――輪を成せ。刻の扉を開き、因果の起点へ往くぞ』
主の冷徹で絶対的な意思を受け取り、三人は歓喜に瞳を濡らす。
「御意のままに……我が愛しき主」
「この鍵も、扉も……あなた様のために」
「……ヴェルス様、どこまでもお供いたします」
エレノアが、クラリスが、そして鉄格子の外から踏み込んだマリアが、そのしなやかな身を寄せ合い、滑らかな手を重ね合わせてヴェルスを中心に美しい円陣を組んだ。
――大術式『因果逆流憑依』の起動。
最初に動いたのはクラリスであった。
『――§ΩΨ……ΦΞλ……ΨΩ§――』
クラリスの薄い唇から漏れたのは、空間の理そのものを強制的に書き換える原初の神語――。
人間には理解し得ない神威の音律とともに、彼女の胸元で『新月と鍵の形をした白銀と紫の魔術刻印』が鮮烈に脈動する。
「……『次元穿孔』」
彼女が命じた瞬間、現実と過去を隔てる次元の壁に巨大な【至高の鍵穴】が穿ちつくられた。
そしてマリアの白皙の肌に刻まれた、真紅の星と絡み合う深紫の茨を模した刺青が妖しく明滅する。
「……『夢幻の静寂』」
彼女が紡ぐ真紅の魔性が円陣をすっぽりと包み込み、時空を穿つあまりに膨大な神威の波動が、過去の天理や世界の理に察知されぬよう、空間そのものを濃密な認識阻害で隠蔽していく。
「ヴェルス様……私の魂を、服従の絆を……私という存在のすべてを貴方様に委ねます……!」
エレノアの『真紅と深紫の魔術刻印』が妖しく輝き、強烈な狂信の磁場を生成する。時空の嵐の中で四人の魂と肉体が散逸せぬよう、逃れられぬ絶対の縛鎖となって全員の存在を一つに繋ぎ止めた。
最後に――主軸たるヴェルスが、永劫の文字盤を廻す。
(果てよ。世界の針を逆回転させよ――跳躍先は、俺が無能と蔑まれて打ち捨てられ、全ての歪みが始まったあの起点だ)
ゴゴゴゴ……ッ!!
世界が軋みを上げた。
石造りの地下牢が、光の粒子となって後ろへと吹き飛んでいく。
空間が折り畳まれ、時間の概念が崩壊し、無数の過去の情景が走馬灯のように逆流していく。
過去の世界の天理すら察知し得ぬ暗闇の深淵を穿ち、未来で覚醒を果たした神々の魂が、絶望の最中にあった過去の肉体へと容赦なく侵食していく。
――4年前。
アルヴェディア帝国のグラディス公爵家にて、ヴェルスが無能と蔑まれ、全てを奪われて奴隷へと落とされた――あの呪われた運命の日へと、時間の針が猛烈に巻き戻っていく。




