第3話 どん底の奴隷生活
大聖堂での惨劇から数時間後。
ヴェルスが放り込まれたのは、グラディス公爵家の地下奥深くに位置する、冷たく薄暗い地下牢だった。
昨日まで過ごしていた豪奢な自室とは雲泥の差。濡れた石畳の冷気が、薄着のヴェルスのお腹と背中を容赦なく痛めつける。
「痛っ……」
ジークに叩きつけられた背中と胸が激しく痛む。
膝を抱えて丸くなりながら、ヴェルスは暗闇の中で必死に思考を巡らせていた。
(なんで……急にみんな、あんな目をするようになったんだ……?)
優しかった母セレスの温もりも、父ヴァルターの誇らしげな笑顔も、まるで最初から幻だったかのように消え去った。
◇
その日の夜、重々しい鉄格子が開く音が響き、松明の火光とともに父ヴァルターと長男レオンが現れた。
「ヴェルス。お前の処遇が決まった」
ヴァルターの声には、肉親に対する情など微塵も残っていなかった。
「お前のような『無能』を我が家に置いておくわけにはいかん。だが、ただ追放して野垂れ死にさせても公爵家の名に傷がつく。よって……お前を奴隷商人に売却する」
「……え……?」
声が出なかった。「奴隷」という言葉の意味が、まだ経験の浅いヴェルスには重すぎた。
「安心しろ。お前は事故で失踪したことにし、その闇の奴隷市場へ流す。世間には捜索のフリでもしておけばいい。二度と我が家の前に面を出すなよ、出来損ない!」
レオンが冷たく吐き捨て、配下の騎士たちに合図を送る。
そのままヴェルスは黒い布を頭から被せられ、冷たい鉄の縄で縛り上げられた。
◇
ガタゴトと、絶え間なく嫌な振動を立てて走る粗末な馬車。
鉄格子に囲まれた狭い荷台には、ヴェルスと同じように売られてきた無力な奴隷たちが押し込められていた。
目指すのは、帝国の国境の先にある隣国。
途方もなく長い道中、無力な子供たちを待っていたのは、人間としての扱いを一切捨て去られた、地獄のような過酷な日々だった。
◇◇◇
「ほらよ、無能ども! メシだ!」
夕刻、街道沿いの荒野で馬車が止まると、見張りの男たちが雑に放り投げてきたのは、家畜すら嫌がるような腐りかけた干し肉の切れ端と、石のように固いカビの生えたパンの端切れだけだった。
「これ……固くて食べられないよ……」
隣の少年がボロボロと涙をこぼした瞬間、見張りの男が手にしていた鞭を躊躇なく振るった。
バシィンッ!と鋭い打撃音が響き、少年の悲鳴が大気に刺さる。
「泣いてんじゃねえぞ売り物が! 食わねえなら死ね! 代わりなんざいくらでもいるんだよ!」
容赦のない暴力。奴隷商人たちにとって、彼らは「人間」ではなく「商品」であり「使い捨ての道具」に過ぎなかった。
ヴェルスは固く唇を噛み締め、じっと耐えた。
カビ臭いパンの端切れを口に含み、少ない唾液で必死にふやかしながら飲み込む。砂を噛むような苦い味。
グラディス公爵家の豪華な食卓で、家族と笑い合いながら最高級の料理を口にしていたことが――まるで深い夢のように思えた。
(泣くものか……。ここで倒れたら……終わってしまう……)
◇◇◇
それからの年月は、まさに泥を舐めるような苦難の連続だった。
朝は陽が昇る前に叩き起こされ、冷たい水を頭から被らされながら馬車の清掃や雑用を命じられる。両足には重い鉄枷が嵌められ、少しでも動きが遅ければ容赦なく足蹴にされ、背中に鞭が飛んできた。
夜になれば、雨風すら遮れない吹きさらしの馬車の中で、雑雑と他の子供たちと寄り添って雑魚寝させられる。
忍び寄る夜の冷気は容赦なく未熟な身体を蝕み、途中の町に着く頃には、寒さと飢えで息を引き取っていく奴隷の子供もいた。
「……くっ、ふ……」
背中の鞭の跡が痛み、泥と汗に塗れた痩せこけた痛々しい身体は、とうに限界を迎えつつあった。
擦りむいた膝は膿み、何度も吐き気に襲われながら、ヴェルスは馬車の隅で静かに震えていた。
(痛い……寒いよ……。あの温かかった日々は……全部、嘘だったのかな……)
過酷な現実の理不尽さに押し潰されそうになりながらも、ヴェルスの奥底にある「なにか」が、諦めることだけは拒んでいた。
ヴェルスはどこか醒めた目で周りの大人たちの醜悪な欲望や顔色を鋭く観察し、どう振る舞えば暴力を最小限に抑えられるかを本能的に悟っていく。
「おい、そのガキ……こんな過酷な旅なのに、目だけは死んでねえな」
「けっ、どうせ隣国に売られる『無能』だ。途中でくたばらなきゃ何でもいいさ」
奴隷商人たちの冷酷な会話を耳にしながら、満足に食事を与えられず成長すら阻まれた十八歳の小柄なヴェルスは、血が滲むほど爪を立てて拳を強く握りしめた。
長い長い旅路の果て、馬車は静かに国境を越える。めざす目的地――隣国オルディニア王国、セルヴィス伯爵領の景色が眼前に広がっていった。




