第28話 歪んだ救済と、夢幻への招待
地下牢へと続く湿った石造りの階段。
ヴェルスからの手紙を愛おしそうになぞり、宝物のように胸元の懐深くへと大事に仕舞い込んだクラリスは、足元の冷たさすら感じないほど激しく動悸する胸を押さえながら、マリアに導かれて地下の暗闇へと降り立っていた。
光の届かない地下牢。
ひんやりとした湿気と、古びた土と鉄の不快な臭いが重く立ち込める暗闇の中、両手首と両足首を重厚な鉄の枷と鎖で繋がれたヴェルスは、冷たい石畳の上で、ただ壁に背をもたせかけて座っていた。
「っ……、ヴェルス……! ヴェルス……ッ!」
クラリスは汚れきったドレスの裾を引きずり、縋りつくように鉄格子へ両手を伸ばした。
その声に応えるように、ヴェルスはゆっくりと頭を持ち上げ、薄暗がりの中で彼女を見つめる。そして、密やかに彼女へと語りかけようと、薄い唇を開いた。
「っ……、……あ、……ぁ……っ」
だが、口から漏れ出たのは、痛々しくかすれた吐息と空気の抜ける音ばかりだった。
月光の微かな光に照らし出されたその口元――かつて自分を惑わせ、甘く囁いたあの美しい唇の隙間から覗いていたのは、無惨に歯を失った痛々しい傷跡だった。
「……ッ!? あ、あぁ……ッ……!? 歯が……っ、あなたの……美しい……お顔が……っ!」
クラリスの顔から一瞬で血の気が引き、激しいショックで息が詰まる。
父ギルバートや騎士たちから受けた惨絶な暴行の凄惨さが、視覚的な暴力となって彼女の胸を鋭く抉った。自力で言葉を紡ぐ術を物理的にも、そして精神的ショックによっても奪われたヴェルスは、失語症を起こしたようにたどたどしく、かすれた声を途切れ途切れに発する。
「っ……ク、ラ……リ……ス、様……。……こ、言葉……が……うまく……で、ない……っ」
「やめて……っ、喋らないで、ヴェルス……! ああぁっ、なんて……なんて残酷なことを……っ!」
激しい痛みに歪む彼の口元を目にして、胸の懐に抱いた手紙の一節が鮮烈に脳裏を駆け巡る。
『―こちらの心配は決してなさらないでください。―またいつの日にか、あの凛としたお姿のクラリス様と、ゆっくりと言葉を交わせる日が来ることを……声を聞かせていただける日が来ることを、心より祈っております。』
こんなにも優しく、自分と穏やかに言葉を交わす日を夢見てくれていた彼の手紙。その温かな文面とは裏腹に、目の前で声すらまともに出せず喘ぐ彼の残酷な現実が、クラリスの心を壊れそうなほど揺さぶる。
私が守れなかったせいで、自分をこんなにも愛してくれた少年が傷つけられ、言葉すら奪われてしまった。溢れ出す猛烈な罪悪感と、狂おしいほどの愛おしさが胸をかきむしる。
ふと、自分が皮脂と埃でべったりと固まった髪を乱し、痩せこけた惨めな身で汚れきったドレスを纏っていることに気づき、クラリスは激しい恥じらいと情けなさに身を震わせた。こんなボロボロの姿で彼の前に立っている己の無力さと惨めさ。
――プチン。
クラリスの頭の中で、理性を繋ぎ止めていた何かが決定的に断ち切られる音がした。
絶望と罪悪感の底から湧き上がってきたのは、理性を焼き尽くすほどの烈火の憎悪。
そして同時に――死人同然だった彼女の心に、かつて社交界を魅了した『氷華の姫君』としての気高き自負と威厳が、猛烈な熱を伴って舞い戻ってくる。
暗闇の中で、彼女の瞳に、かつてないほど深く鋭い翠玉の輝きが鮮然と蘇った。
「……もうよいのです、ヴェルス。……私の愛しいお人形」
先ほどまでの錯乱が嘘のように、クラリスの声から震えが消えた。凛とした、気高き貴族の令嬢たる優雅でどこか冷徹な響き。
マリアが静かに牢の鍵を開けると、クラリスは汚れなど一切気にする素振りもなく滑らかな所作で足を踏み入れ、膝をついてヴェルスを強く、慈しむように抱きしめた。
痩せこけた体躯の恥じらいすら超え、彼女は彼の頭を己の胸元へと優しく引き寄せる。ヴェルスは逃げることなく、その痩せほぞった彼女の体温に静かに身を委ね、かすれた吐息を漏らしながら彼女の首筋に傷ついた口元を寄せた。
「あなたをこんな目に遭わせた者たちを、私は絶対に許さない……。二度と、誰にもあなたを触らせはしません。……お前たちの浅はかな支配など、すべて私が踏み砕いて差し上げますわ」
クラリスの翠玉の瞳が、闇の中で妖しく揺らめく。
たどたどしい呼気の中で、ヴェルスは彼女の深く輝く瞳を見つめ、痛々しく唇を動かした。
「っ……ゆ、夢……の、なか……で……。……お、おはなし……しよ……う……っ」
「夢……の中で……? ええ、もちろんですわ、ヴェルス。あなたの言葉なら、どのようなものであっても私がすべて受け止めて差し上げます」
クラリスが愛おしそうに微笑みながら深く頷くと、ヴェルスは静かに意識を集中させた。
彼の胸元から、するりと丸い影が滑り出てくる。
召喚獣『夢喰いバク』だ。
バクはヴェルスの意思に応えるように、小さな鼻先をクラリスの額へと寄せた。
(バク、彼女を眠らせて夢の領域へ繋げ。……そこでクラリスと会話をする)
『くぅ……』
バクの鳴き声とともに淡い光が広がり、クラリスの意識は現実から切り離され、深く甘い微睡みへと落ちていった。




