第29話 私を、あなたの『召喚物』に
召喚獣『夢喰いバク』の淡い光が収まると、クラリスの意識は現実の冷たい地下牢から切り離され、深く深い微睡みへと沈んでいった。
――夢の領域。
反転した視界の先に広がっていたのは、クラリスの精神が具現化した、白銀の吹雪が吹き荒れる冷たく美しい結晶の城郭であった。
「あふ……っ、ここが……ヴェルス、あなたの言う『夢の中』ですの……?」
クラリスは熱を孕んだ息を漏らし、白銀の吹雪が舞う視界を見渡した。
自分の絶望と激情でグラグラと揺らぎ、醜く歪む氷雪の城郭。己の醜悪な内面を晒している羞恥すら、目の前に立つ存在によって吹き飛ばされる。
目の前に立つのは、地下牢で冷たい鎖に繋がれた惨めな囚人の姿ではない。傷ひとつない白皙の肌、冷徹な静寂と気品を纏った――かつて自分が心から愛し、虐げ、手中に収めていた完璧なヴェルスの姿であった。
「ヴェルス……! ああ、なんて美しいの……!」
「……クラリス様」
「ここは、クラリス様の意識が生み出した夢の領域です」
「夢の領域……?」
夢の中で見る懐かしい本来の彼の姿に、クラリスは息を飲んだ。だが、溢れ出る愛着を抑え込み、気高く美しい微笑を浮かべて静かに歩み寄る。
「……その前にヴェルス、もうその他人行儀な言葉遣いは止めましょう」
ヴェルスは静かに眼差しを緩めると、深遠な声で応えた。
「分かった……クラリス」
呼び捨てにされたその一言に胸を熱く焦がしながらも、クラリスは十九歳の伯爵令嬢たる気品と凛とした佇まいを崩さず、静かに、しかし力強くヴェルスを抱きしめた。
「私をお使いなさい、ヴェルス。あなたをこんな目に遭わせた父上たちを……すべて私の手で踏み砕いて差し上げますわ。そのための威光と力を……私にも授けなさい」
ヴェルスは自分を抱きしめる彼女の背中に静かに手を回すと、その情念を受け止めながら深遠な声で告げた。
「……その話をする前に、クラリスには、これから俺の記憶を見てもらう」
「あなたの……記憶……?」
ヴェルスが頷き、クラリスの手にそっと触れた瞬間、氷結の城郭がガラスのように砕け散り、過酷な情念の奔流がクラリスの意識をまるごと呑み込んでいく。
――波打つ視界。クラリスの眼前に突きつけられたのは、アルヴェディア帝国屈指の魔法の名門・グラディス公爵邸での光景。
長卓を囲む豪奢な大食堂、温かな家族の微笑み。
しかし、氷華の天才であるクラリスの鋭い知性と観察眼は、上べだけの「温かい食卓」に欺かれはしなかった。
(……違う。この家族の眼……愛ではないわ。己の威光と血統を誇るための『道具』として彼を見ているだけ……!)
そして場面は切り替わり、厳かなセリオン大聖堂へ。
魔導水晶に浮かび上がった『召喚魔法』の文字。一瞬で冷酷に翻る家族たちの態度。
「無能」「血汚し」と罵られ、大理石の床へ叩きつけられる暴行。
頭から被せられた黒布、足首を締め付ける冷たい鉄枷。
闇の奴隷市場に売り払われ、腐った肉とカビたパンを与えられ、鞭の打撃音が響く過酷な馬車。
寒さと飢えで白目を剥く周囲の子供たちの中で、血が滲むほど爪を立て、底知れぬ執念で死を拒み続けた少年の地獄――。
光景が弾け飛び、クラリスの意識は再び夢の領域へと引き戻された。
過酷な追体験を終えたクラリスの胸に湧き上がったのは、凄惨な哀しみ以上に、ドス黒く煮え滾るほどの「激怒」であった。
(なんて愚かで、惨めな者たち……! 彼の誇りを踏みにじり、虐げたこの公爵家も、世界も……絶対に許さない……!)
クラリスの翠玉の瞳が、静かな怒りと激動の情愛に揺れる。
そんな彼女の表情を捉えながら、ヴェルスは一切の迷いなく本題を切り出した。
「クラリス、俺の『召喚物』になってくれ。強力な存在と魂を融合させ、俺の手助けをしてほしい。……最終的には、※※※※を※※※※する予定だ」
「……えっ? あなたの……『召喚物』に……?」
思いもよらぬ提案に、クラリスは僅かに眉をひそめた。
「本来の姿は――となるが、変化の能力で今の美しさを保てるし、他の姿に化けることも可能だ。だから見た目も記憶も、クラリスのままだ。身近な者でも異変には気づけない。人としての感覚も残るから、食事や日常の立ち振る舞いも概ね問題なく送れる。他にもいくつか異能があるが……それは追々教えていく」
ヴェルスはクラリスの瞳をまっすぐに見つめ、静かに言葉を重ねる。
「それと、クラリス自身が『召喚物』となることで、種族名は――になり、個体名は――へと変わる。人を超越した存在へと昇華することで、寿命すらも人間とは比較にならないほど永遠のものとなる。魂の繋がりにおいて個体名で呼ぶ方が結びつきが強くなるからな。……魂が完全に融合を果たすまでは、クラリスを呼ぶ時は――とする」
ヴェルスの口から語られる、未知なる領域の理と驚愕の秘術。
それを聞くうちに、クラリスの頭脳の中で点と点が繋がり――彼がただの奴隷などではなく、世界を根底から覆し得る「恐るべき至高の存在」であるという事実にたどり着いた。
(ああ……! なんて素晴らしい……! 愚かな家族すら見抜けなかった彼の本当の価値を、秘められた大いなる力を理解し、彼とここまで深く魂を重ねられるのは……私をおいて他にいないわ……ッ!!)
恐怖など微塵もなかった。むしろ、彼と魂の奥底で不可逆的に繋がれるという狂おしい歓喜が、彼女の全身を駆け巡る。
「……素晴らしいわ、ヴェルス。私を、あなたの真の『召喚物』になさるといいわ」
クラリスの承諾を受け、ヴェルスは傷一つない顔で静かに頷いた。
「……ああ。俺を救ってくれ、クラリス」
まどろみの果ての静寂がゆっくりと剥がれ落ち、甘やかな残照が遠のいていく。
夢魔の導きが生んだ狂おしい幻影の果てに、二人の意識は濃密な闇へと引きずり込まれ――あの冷たく湿った現実の地下牢へと深く沈み込んでいった。
冷酷な暗闇の奥底で、かつての『氷の令嬢』としての理性が跡形もなく崩れ去る。
三つの貌で夜の深淵を見つめ、万物の扉を開く鍵を統べる者――新月の暗闇に導かれ、神聖なる狂愛を抱く真の『――』がその産声をあげる瞬間は、もう目前にまで迫っていた。




