第27話 温かな便りと、再会の予感
場面は変わり――セルヴィス伯爵家・長女クラリスの自室。
暗く冷え切った部屋の床。埃と雑多なゴミが散乱する中、クラリスは突伏した姿勢のまま、かろうじて息を繋いでいた。
皮脂と埃でべったりと固まった黄金色の髪が不快に頬へこびりつき、かつては深い輝きをたたえていた翠玉の瞳は光を失っている。だが、その痩せこけた両腕だけは、先ほど侍女のマリアから渡された一通の紙片を、埃と汚れに塗れた指先で汚さぬよう、必死に胸元へ抱きかかえ続けていた。
――ヴェルスからの手紙。
壊れかけた精神を繋ぎ止める、たった一筋の光。
「あ……っ、……ぅぐ……、……ふっ」
かすれた呼吸を吐き出しながら、クラリスは震える指先で、胸に抱いていた手紙をそっと持ち上げた。大粒の涙で紙を濡らしてしまわないよう、慎重に、まるで壊れやすい宝物を扱うような手つきで折り目を開いていく。
そこに並んでいたのは――間違いなく、自分を強く求め、愛を注いでくれた彼からの言葉であった。
『拝啓
寒風が吹き荒び、息さえ白く凍りつく冬が巡ってまいりました。
クラリス様におかれましては、お変わりなくお元気でお過ごしでしょうか。
暗く冷たい地下牢の壁に囲まれ、石床からの底冷えに震える夜も、俺の心にはずっとあの美しいクラリス様が鮮明に息づいています。
目を閉じれば今も、眩い陽光を浴びて閃く黄金色の髪、一切の隙もない洗練された指先と気高き佇まいが、鮮やかに脳裏へ浮かび上がります。社交界で披露されたという、あの気高く美しき『氷華の演武』を、俺もこの目で観たかったです。
ですが……あの密室のベッドの上で、俺だけに魅せてくださった『極寒の氷華』。氷の冷気と薔薇の香りが渦巻く中で俺を縛り、愛おしそうに見つめてくださったあの時のクラリス様は、社交界のどんな演武よりも遥かに美しかったに違いありません。
あの指先の温もり、凛とした気品あふれるお声、そして肌に触れた瞬間の氷のように滑らかで愛おしい感触――。今も俺の胸を熱く締め付けて離さず、この凍える暗闇を照らす唯一の光となっております。
それから――』
「それから――」
その言葉を指先でなぞった瞬間、クラリスの脳裏に、あの密室で二人きり貪り合った甘く狂おしい記憶が、鮮やかに蘇っていった。
◇
(あの密室で……私は確かに、彼を私だけのものにしたはずだったのに)
冷たく閉ざされた自室のベッドの上。
手足と首を氷の鎖で縛り上げ、苦悶に身をよじるヴェルスを見下ろしたときの、あの背筋を駆け抜けた甘美な痺れ。
「はっ……ぁ、ふふ……もう余計な言葉なんていらないわ……ッ。泣いても叫んでも……絶対に、逃がしてなんてあげない……っ」
首筋に顔をうずめ、抗おうとする彼の柔らかい皮膚を噛みちぎるように愛撫した。
氷の針が与える激痛と、熟した熱い愛撫。苦痛と快楽で、自分だけの可愛いお人形の肉体と精神を狂わせていく感覚に、私は悦楽の深淵に酔いしれていたのだ。
食卓で父や妹の目を盗み、テーブルの下で指を絡め合わせたあの瞬間も。
冷たく熱い指先から伝わる彼の体温は、間違いなく「私だけのもの」として私を焦がしていた。
――思い出したくもなかった。その先に待っていた、あまりにも残酷な光景を。
あの日、爆音とともに破られた扉。
白煙の向こうから姿を現した父ギルバートの冷酷な瞳を目にした瞬間、私の全身の血は凍りついた。
ヴェルスが不意に放った、見たこともない無詠唱の召喚魔法――蠢く闇の中から現れた漆黒の巨蜘蛛。
だがそれも、父が放った一筋の閃光――『絶対零度』によって、一瞬で凍りつき、粉々に砕け散った。
『パァァァンッ!!』
氷の砕屑が虚しく舞い散る。
――私を魅了したあの美しい少年のすべてが、圧倒的な暴力の前に完膚なきまでに砕かれた瞬間だった。
「やめてぇぇぇッ!! いやぁぁッ! 父上、お願いだから殺さないでぇぇぇッ!!」
冷たい石畳の上。
騎士たちの鉄靴で顔面や腹部を容赦なく蹴りつけられ、吐血と嘔吐感に身をよじるヴェルス。
かつて私の前で見せていた怪しい色気など跡形もなく、血まみれになって「助けて」と惨めに喘ぐ彼の姿を、私は髪を乱し、床に突っ伏して泣き叫びながら見つめることしかできなかった。
助け出せない己の無力。
大切な宝物を、目の前で汚され、奪われていく狂おしいほどの絶望。
引きずられていく彼の血の痕が、廊下の石畳にどこまでも黒く伸びていた――。
◇
「うっ……ぁ……っ、うぁぁぁっ……!」
過去の凄惨な記憶に胸をかきむしられ、クラリスは埃に塗れた床の上で号泣した。
彼を傷つけたのは父たちだが、彼を守れず、惨めな目にあわせたのは自分だ。罪悪感と喪失感が、ズタズタになった心をどこまでも苛んでいく。
だが――クラリスは涙で視界を濡らしながら、震える指先で再び手紙の続きへと視線を落とした。
『―こちらの心配は決してなさらないでください。
格子窓から吹き込む冬風は刃のように冷たく、石造りの壁は凍てつく氷のように冷えておりますが、俺の心は驚くほど穏やかです。あなたの面影を思い出すだけで、この暗く冷たい地下牢であっても、胸の奥には優しい温もりが灯るのですから。
またいつの日にか、あの凛としたお姿のクラリス様と、ゆっくりと言葉を交わせる日が来ることを……声を聞かせていただける日が来ることを、心より祈っております。
どうかクラリス様も、冷え込む季節ゆえ、お身体を温かくしてお過ごしください。』
「ヴェ、ル……っ、……ぁ……っ」
あんなにも無惨に尊厳を砕かれ、過酷な暗闇に囚われているはずの彼が、手紙の文面の中ではどこまでも穏やかに、変わらぬ敬愛を込めて自分を気遣ってくれている。
掠れた声は満足な言葉にすらならず、ただ乾いた息となって漏れ出るだけだった。だが、手紙を抱きしめるクラリスの胸の奥では、絶望を塗りつぶすほどの激しい愛しさが、滾るように蘇っていく。
(ああ……あなたはこんなにも私を想い、私の声を待ってくれているのね。また二人で、あんなにも甘く愛おしい言葉を交わし合いたいと願ってくれているのね……!)
光を失っていた翠玉の瞳に、かつてないほど濃密で、蠱惑的な情愛の光が再び宿りはじめた。
◇◇◇
ヴェルスからの手紙を肌身離さず胸元に抱き込み、微かな希望と焦燥の中で数日が過ぎ去った。
屋敷全体が死したような静寂に包まれた、草木も眠る深夜。
扉が開く音も、足音すらもなく。部屋の隅に落ちる濃い影が静かに揺らめくと、クラリスの背後――暗闇の奥からすっと姿を現したのは、侍女のマリアであった。
光すら吸い込むような重厚な黒蜘蛛の漆黒のメイドロングドレス。豊満な胸元と引き締まった腰の曲線美を妖艶に浮き彫りにさせ、一歩を刻むたびに、夜の冷気を甘く溶かすような熟した体温と淫らな香気が立ち昇る。
月光に照らされたその瞳が、闇の奥で――夢魔の魅惑的な真紅に揺らめいている。
「……っ!? マ、リア……? いつ……どこから……?」
音もなく現れた侍女に驚き、掠れた声で問いかけるクラリス。霞む視界の中、月光を反射して怪しく煌めいたマリアの赤の瞳に、わずかな違和感を覚えて眉をひそめる。
「それに……その目……一体、どうしたの……?」
「――すべては、ヴェルス様のお力によるものにございます」
捉えどころのない笑みを浮かべ、密やかに囁くマリア。その名を聞いた瞬間、クラリスの胸が激しく跳ね上がった。
(ヴェルス様の……力……?)
意味を問いただそうとするクラリスを制するように、マリアは漆黒のドレスの裾を優雅に揺らし、恭しく頭を下げた。
「それよりも、クラリス様。当主様より、帝国へ発つ前の『最後のお別れ』として地下牢への立ち入りが許可されました。……ご案内いたします」
「……っ!?」
マリアの言葉に、クラリスの身体が大きく跳ね上がった。
当主である父の逆鱗に触れ、この部屋へ閉じ込められた末に言い渡された、見知らぬ帝国への強制的な輿入れ。自分の人生も、恋も、すべてが終わったのだと打ちのめされていたはずだった。
だが、帝国へ追いやられる絶望すら霞むほどの激動が、クラリスの胸を激しく揺さぶる。
(……会える。ヴェルスに、会えるの……!?)
この手紙を書いた時の、凛とした美しいヴェルスの姿を思い描きながら。
クラリスは血の気の失せた唇に狂おしい笑みを浮かべ、胸に強く抱きしめた手紙を放さぬまま、地下牢へと続く暗がりへと足を踏み出した。




