第15話 砕かれた漆黒と、絶対者の氷壁
洗練された石造りの重厚な邸宅、上質な古木と調度品が醸し出す重厚な佇まい、そして足音を静かに吸い込む深紅の絨毯——そこは、歴史と確かな地位を誇るオルディニア王国の名門、セルヴィス伯爵家の執務室である。
窓から差し込む斜陽が、壁一面に飾られた伝統ある武具や幾重もの魔術書を静かに照らし出していた。だが、その静謐な室内に満ちているのは、優雅さとは程遠い、肌を刺すような重苦しい沈黙と張りつめた緊張感であった。
「……以上が、クラリス様とあの元奴隷の間に漂う、極めて不自然な距離感にございます」
老執事セバスが深々と頭を下げ、報告を終えたその瞬間——。
『ガァンッ!!』
「ぐはっ……!?」
突如、重厚な革靴の一撃がセバスの顔面を容赦なく撃ち抜いた。
顔を打たれた衝撃で、老体のセバスは床を転がり、血を撒き散らしてうつ伏せに倒れ込む。
「報告が遅すぎるぞ、セバス……っ!!」
ギルバート・セルヴィス伯爵は、冷酷な怒りに瞳を血走らせながら、床に這いつくばる老執事を見下ろした。身から溢れ出る圧迫感と冷気は、長年修羅場を潜り抜けてきた高位貴族そのものである。
「我がセルヴィス家の令嬢が下等な奴隷ごときにたぶらかされ、密室を作っているだと……!? なぜもっと早く察知しなかった! 貴様はこれまで何を見、何をやっていたのだ無能がッ!」
「はッ……ひぐ……申し、訳……ございません、旦那様……ッ」
激痛に顔を歪め、血を吐きながら必死に平伏するセバス。
ギルバートは鼻を鳴らすと、ワイングラスの残りを床へ捨て、そっと手を払った。その瞬間、執務室内の空気にピキピキと凍てつくような冷気が走り、床や壁に白い霜が広がっていく。
「虫ケラ一匹にいいように踊らされ、我が家門の名に泥を塗るなど断じて許さん……。セバス、案内しろ。今すぐその害虫を処分する」
◇◇◇
クラリスの寝室。
重々しい鍵の閉じられた密室の中で、甘い体温と吐息が充満していた。
シルクのベッドの上。ヴェルスの両手首はしなやかな革紐によって固く縛り上げられ、フレームへと無防備に固定されていた。
逃げ場を奪われたヴェルスの体の上に強引に覆いかぶさっているのは、黄金の髪を乱したクラリスだ。
「ん……む……っ、ふあ……っ……」
クラリスは蕩けた瞳で荒い息を吐きながら、ヴェルスの唇を強引に塞ぎ、熱い吐息を落として何度も口づけていた。
ヴェルスは拘束されたまま翻弄される少年を演じ、耳元で甘く囁く。
「……んっ、クラリスお姉様……俺は、あなただけのものです……っ。だから……俺の全てをクラリスお姉様の好きにしてください……」
「あぁ……っ、ヴェルス……ッ。あなたはなんて可愛くて愛おしいのかしら……っ。もう絶対に、誰にも渡さない……指一本触れさせないわ……ッ」
クラリスがさらに熱狂し、ヴェルスの首筋へと顔をうずめた——その瞬間だった。
『ドガァァァァァンッ!!』
凄まじい衝撃音とともに、頑丈な重厚な扉が爆破されたかのように内側へと吹き飛んだ!
「きゃあぁぁぁぁっ!?」
木屑と白煙が舞い散る中、クラリスが悲鳴を上げて飛び起きる。
乱れた服装のクラリス、ベッドに縛り付けられたヴェルス——その怪しく不潔な現場の光景が、破壊された扉から舞い散る木粉の向こうから容赦なく晒された。
あまりの惨状に、室内を支配したのは一瞬の静寂。
白く舞い散る粉塵の向こうから姿を現したのは、凍てつく圧迫感を全身から放つ当主ギルバートと、顔を腫らし血を流しながら控えるセバス、そして剣を抜いた数人の伯爵領の騎士たちであった。
「チッ……! 父上……!? なぜここに——」
「……見損なったぞ、クラリス」
ギルバートの低く冷徹な一言で、あの高慢なクラリスが弾かれたように口をつぐみ、青ざめた顔で恐怖に身体をガタガタと震わせた。
ギルバートの射抜くような冷酷な視線が、ベッドの上に拘束されたままのヴェルスへ注がれる。
「どこから買い叩かれてきたかも分からん下等奴隷の分際で、澄ました顔をして執事の真似事などを……。我がセルヴィス家の令嬢の部屋で何を企んでいる? 地に這う虫ケラが、分を弁えよ」
「……」
危険だ。本能の警鐘が鳴り響く。
この男は、これまでの侍女や取り巻きとは次元が違う。本物の「殺意」と「武力」を持った絶対者だ。
(ここで殺される……! 手加減なしで殺しに来ている……っ!)
死の恐怖がヴェルスの背筋を凍りつかせる。逃げ場はない。交渉も通用しない。前世で培った心理術や傾城術など、圧倒的な暴力を前にしてはただの言葉遊びに過ぎない。
(やるしかない……! 覚醒した俺の全力を……『真の召喚魔法』をここで叩きつける!!)
ヴェルスは脳内に焼き付けたばかりの『影縫いの黒蜘蛛』の複雑精妙な召喚陣を、魔力を注ぎ込んで瞬時に展開させた!
「——『影縫いの黒蜘蛛』ッ!!」
『無詠唱』かつ『陣描画なし』。
クラリスの夢から泥棒のように盗み出し、脳味噌が焼き切れるほどの激痛に耐え抜き習得した、ヴェルスの絶対の切り札。
次の瞬間、床一面の影がまるで黒い生き物のように激しく蠢き、禍々しい紫黒の六芒星の魔導光が室内の光を呑み込みながら閃光となって弾けた!
空間が歪み、ドロリとした粘液のような闇の奔流の中から、刺すような殺意と凄まじい魔力を撒き散らしながら、漆黒の巨大な蜘蛛がその巨躯をヌッと這い出させていく。
『ズズズズ……ッ! ギイィィィンッ!!』
現れた巨蜘蛛は、鋭利な八本の鎌脚をしならせ、ギルバートの首元を刈り取らんと肉薄した!
『ガアアアアアアアアアッ!!』
ヴェルスは脳内で勝利を確信しかけた。いくら伯爵当主だろうと、至近距離からの無詠唱即時召喚を回避・防御できるはずがない——と。
だが。
「……フッ、『影縫いの黒蜘蛛』か。くだらん」
低く重厚な声で紡がれる、セルヴィス伯爵家に伝わる最高峰の氷属性魔法。
「——咲き誇れ、万物を拒絶する永久の氷花。深遠なる凍土の王よ、世界を静寂の棺へ閉じ込めよ」
ギルバートが億劫そうに右手を一筋、静かに横に振る。
「——『絶対零度』」
次の瞬間——。
『カァァァァァンッ……!!』
世界から音が消えた。
室内を埋め尽くした圧倒的な「絶対零度」の冷気。
闇の光芒を散らしながら現れたばかりの漆黒の巨大蜘蛛は、ギルバートの首元に届くどころか、その八本の脚を伸ばし切ることすら叶わず——一瞬にして、巨大な氷の結晶の中に閉じ込められた。
『ピキ……ピキキッ……』
巨蜘蛛の恐ろしい咆哮も、放たれた殺気も、蠢く闇の魔力すらも、すべてが分厚い透明な氷の中で静止する。
「な……ッ……に……!?」
ヴェルスは目を剥いた。絶句した。
『パァァァンッ!!』
ギルバートが指を一本鳴らした瞬間、氷漬けになった巨大蜘蛛は、まるで安物のガラス細工のように、脆く、惨めに、音を立てて粉々に砕け散った。
閃光のように弾け飛ぶ氷の砕屑。
ヴェルスが激痛の際に習得した渾身の切り札は、当主の圧倒的な氷魔法の一撃の前で、息を吐くほどの時間すら稼げず、一瞬で消滅したのだった。
「……ぁ……あ…………」
声すら出なかった。
喉が干からびたように引きつり、呼吸の仕方すら忘れたかのように、ヴェルスはただ開いた口をガタガタと震わせる。
(……消……えた……? 一瞬……? 届きすら……しないで……粉々に……?)
前世でのホストとしての知恵、心理術で人を転がしてきた自負、覚醒した召喚師としての万能感——そのすべてが、息をすることすら忘れるほどの圧倒的な絶望の前に、跡形もなく消し飛んでいた。
これが、この世界の「本物の強者」。
心理術などという小手先の誤魔化しが一切通用しない、理不尽なまでの圧倒的暴力。
「……くだらん玩具だな。無能はどこまでいっても無能か」
ギルバートは冷淡に吐き捨てると、道端の塵を見るような目でヴェルスを見下ろした。
「捕らえよ。地下牢へぶち込め。二度と日の光を見せるな」
「はッ!」
襲いかかった騎士の一人が腰の剣を抜くと、ベッドのフレームに縛り付けられていた革紐を荒々しく一刀のもとに叩き切った。
手首の自由を失い、魔力を失って倒れ込むヴェルスを、騎士はそのまま髪を掴んでベッドから床へと乱暴に叩き落とす。
『ドカァッ!!』
「死ねッ、害虫がぁ!!」
『ガァァァンッ!!』
「ッ……がはぁッ!……ッ、お……ッ!?」
倒れ伏したヴェルスの腹部へ、命令を受けた騎士の鉄靴が容赦なく力任せに叩き込まれた。
無詠唱召喚の反動と魔力を失った疲弊により、防御すら叶わぬ体へ直接響く破壊的な衝撃。
強烈な激痛に、ヴェルスは声にならない悲鳴を上げ、血を吐きながら激しい悶絶に身を縮こまらせる。
『ドガッ!』
「薄汚い手で姫様に触れてんじゃねえぞ無能がッ!」
「当主様の御前だぞ、分を弁えよ虫ケラ!」
「……っ……ぁ……がっ……! ぶ……ッ……!」
間髪入れず、別の騎士がヴェルスの顔面を硬い拳で殴りつけ、痛みに意識が白く飛ぶ。さらに倒れ込んだ背中に容赦なく鉄靴の蹴りが叩き込まれ、肺の空気をすべて吐き出しながら、ただ呻き声を漏らすだけの木偶と化していく。
「お父様! おやめくださいッ!! ヴェルスを……ヴェルスを殺さないで……っ! 私の宝物を奪わないでぇぇぇッ!!」
「やめてぇぇぇッ!! いやぁぁッ! 父上、お願いだから殺さないでぇぇぇッ!!」
騒ぎを聞きつけて駆けつけたエレノアと、現場にいたクラリスが髪を乱して泣き叫び、ふりほどこうとする手で地面を叩いてすがりつく。だが、二人の令嬢の狂乱した制止など歯止めにもならず、ヴェルスは乱暴に髪を掴み上げられると、血の海から這いずるように引きずり出された。
「引きずっていけ!」
『ザーッ……ザーッ……』
「……あ……がっ……たす……け……っ……ころ……なさ……っ……ぁ……が……っ」
冷たい石畳の床に引きずられ、段差に体を激しく打ち付けながら、ヴェルスは溢れ出る血で喉を鳴らし、もはや言葉の体をなさない情けない喘ぎ声を漏らすことしかできない。命乞いすらも途切れ途切れの呻きと化し、前世の自負も尊厳もすべて惨めにすり減っていく。
視界が真っ赤に染まり、やがて底なしの暗闇へと落ちていく。
血と泥にまみれ、恐怖と痛みに泣き叫ぶだけの惨めな姿のまま、ヴェルスは地下牢の冷酷な闇へと叩き落されていくのだった——。




