第14話 深層の夢と、極寒の癖(へき)
重々しい扉が閉じられ、密室となったクラリスの寝室。
「……可愛い、私のヴェルス」
熱を帯びた吐息とともに、クラリスはヴェルスの黒い瞳をじっと見つめたまま、彼をベッドの上へと押し倒した。
抗う素振りすら見せない少年の両手首を掴むと、彼女は迷わずそれを頭上へと持ち上げ、しなやかな革紐で固く縛り上げる。
頭上で両手を拘束され、逃げ場を奪われた美少年の姿を、クラリスは心底愛おしそうに見下ろした。
「はっ、はぁ、はっ……あなたは私のもの……誰にも渡さないわ」
逃げ場のないヴェルスに対し、クラリスはそのまま覆いかぶさり、彼の息を奪うように強引に唇を重ねた。自らの体温と支配を刻み込むような激しい口づけ。
ヴェルスはあえて翻弄される少年を演じ、彼女の加虐的な優越感を極限まで満たしてやった。
やがて息を落ち着かせ、極上の満足感に包まれたクラリスは、ヴェルスを拘束したままその胸元に顔をうずめ、心地よい睡魔へと落ちていった。
◇
規則正しいクラリスの寝息が部屋に響き始める。
その瞬間、頭上を縛られたままのヴェルスの瞳から、あらゆる感情が消え去った。
(……やれやれ。加虐嗜好な上に独占欲の塊か)
ヴェルスの瞳に、冷徹な光が宿る。
ヴェルスが静かに意識を集中させると、胸元からするりと丸い影が滑り出てきた。
召喚獣『夢喰いバク』だ。
バクはヴェルスの意思に応えるように、小さな鼻先を静かにクラリスの額へと寄せていく。
(バク、彼女の精神領域へ繋げ。……この高慢な令嬢の知識を、少し拝借させてもらう)
『くぅ……』
バクが愛らしく短く鳴くと、ヴェルスの視界がふっと歪み、深い闇へと沈み込んでいった。
ヴェルスは意識をバクと同調させ、眠りに落ちたクラリスの精神の深層へと侵入を開始した。
◇
肌を切り裂くような激しい吹雪と、視界を埋め尽くす見渡す限りの氷原。
一切の温もりを拒絶するかのようなその光景。
クラリスの夢の中――そこは、一面の氷雪に閉ざされた極寒の世界であった。
(……なるほど。これが『氷の令嬢』の精神世界か)
ヴェルスはまず、クラリスの広大な記憶の底に眠る「セルヴィス家の書庫の知識」へとアクセスした。
王立学院でも上位の成績を誇る彼女の頭脳には、一般の召喚師では到底触れられないような魔導書や、古代の召喚魔法陣に関する緻密な知識が蓄積されていたのだ。
追放され、奴隷にまで落とされた今の自分はあまりにも無力だ。肉体的な力、実質的な武力を持たなければ、いつ足元をすくわれるか分からない――強い危機感と確かな渇望がヴェルスを突き動かしていた。
本来、召喚魔法とは複雑精妙な「魔法陣」を描き、そこに正確な魔力を通すことで異界の存在を繋ぎ止める術式だ。
ヴェルスはクラリスの知識から魔法陣の構成原理や魔力ラインの癖、幾何学模様の精密な組み上げ方を泥棒のように貪り読み、自らの術式へと組み込んでいく。
さらに古の文献の深層から、影を操る禁忌の召喚魔法陣を発掘する。
そこに記されていたのは、冷酷な殺意を撒き散らす影の異形――『影縫いの黒蜘蛛』の展開図であった。
相手の影に潜み、身動きも気配も完全に縛り付ける隠密と拘束の異形。無数の微小な子蜘蛛を放つことで対象を遠隔から監視し、その精神を陰から密かに侵食し、不安や執着を深底から増幅させる能力を秘めていた。
だが、禁忌の魔法陣だけにその構成は常軌を逸した複雑さであった。
(くっ……一瞬でも魔力の流転が狂えば、術式ごと爆ぜるか……!)
精神世界の中で、ヴェルスは夢と現実の時間感覚のズレを利用し、気の遠くなるような試行錯誤を開始した。
バクの補助を受けながら、幾度となく途中で崩壊する魔法陣を修正し、幾千もの魔術文字と幾何学模様を構築していく。
現実時間にして換算すれば、まる二日分にも及ぶ不眠不休の鍛錬。
激しい精神の消耗と吐き気に苛まれ、意識が削り取られそうになる極限の抗争の果て――極寒の雪原に、漆黒の光を放つ完璧な『影縫いの黒蜘蛛』の召喚魔法陣が完成した。
陣の輪郭からヌッと現れた漆黒の巨大な蜘蛛は、ヴェルスの圧倒的な執念と精密な術式に屈し、その足元へ静かにひれ伏して従順な服従を誓ったのだった。
さらにヴェルスは、『夢喰いバク』の能力を介し、あらゆる種類の精密な召喚魔法陣等を、自らの脳の記憶領域へと強引に叩き込んだ。
「ッ……ぐ、あぁアっ……!!」
脳味噌に直接焼きゴテを押し当てられるような、凄絶な激痛がヴェルスの精神を襲う。
視界が真っ赤に染まり、頭蓋の奥がドロドロに焼き切れるかのような苦痛に歯を喰い縛り、全身の血が逆流する錯覚に耐え抜いた。
その地獄のような痛みを乗り越えた証として――本来なら都度描画と長い詠唱を必要とする召喚魔法を、脳内イメージだけで瞬時に展開する能力、すなわち無詠唱・陣描画なしでの即時召喚を手に入れたのだ。
◇
(っ……ふぅ……吐き気がするほどの激痛だが、苦痛に見合う成果だ……。前世のホスト時代、客に煽られてハッタングラスのマーテルを一気飲みした時よりはマシだな。……まあ、あの後倒れて死にかけたが。脳の奥がまだ焼けるように熱いが、クラリスの知識とバクのおかげで、詠唱どころか魔法陣の描画すら省いて召喚できるようになった……)
ヴェルスは、深く、さらに深くクラリスの夢の奥底――彼女自身すら自覚していない「深層心理」へと足を踏み入れた。
氷城の奥に隠されたその空間で、ヴェルスが目撃したのは――表向きの「完璧な伯爵令嬢」とはかけ離れた、彼女の生々しい本性であった。
夢の中のクラリスは、無力で愛らしい美少年――ヴェルスを自分の足元に侍らせ、存分に甘やかし、自身の所有物として愛で尽くすことに異常なまでの歓喜を感じていた。
(……くっ、ふ……頭が割れそうに痛むが、くくっ……凛として気品漂う伯爵令嬢様の化けの皮の下が、これか……)
視界の端に走る火花とズキズキと疼く頭痛に耐えながら、夢から意識を戻したヴェルスは、拘束されたまま静かに冷ややかな笑みを浮かべた。
完璧な氷の仮面に隠された、あまりにも分かりやすい「弱点」と「癖」。
身体に残る脳内刻印の苦痛と引き換えに、無詠唱・無描画の召喚という圧倒的な力を手に入れ、この高慢な令嬢をさらに深く、逃れられない依存の深淵へと叩き落すための新たな罠を思案し始めた――。




