第11話 二つの夢と、甘い毒の深み
甘い口づけの余韻が、心地よい体温とともに寝室に漂っている。
胸元で静かに呼吸を繰り返すエレノアは、すっかり安心して眠りについていた。その顔立ちには、かつて浮かべていた刺々しい苛立ちはなく、自分だけの宝物を抱きしめたような安らぎが満ちている。
(……さて、まずはこの世界の『ルール』を整理させてもらうとするか)
覚醒したヴェルスの瞳に、冷徹な光が宿る。
ヴェルスが静かに意識を集中させると、胸元からするりと丸い影が滑り出てきた。
召喚獣『夢喰いバク』だ。
バクはヴェルスの意思に応えるように、小さな鼻先をエレノアの額へと寄せた。
(バク、彼女の夢の領域へ繋げ。……そこで少し勉強させてもらう)
『くぅ……』
バクが小さく鳴くと、ヴェルスの視界がふっと歪み、深い闇へと沈み込んでいった。
◇◇◇
深く重い闇を抜けた瞬間、ヴェルスは思わず息を呑んだ。
眼前に広がっていたのは、天を突くほど巨大な書架がどこまでもどこまでも並び立つ、幻想的で圧倒的な書庫空間だった。
足元には星屑のような光が蠢き、棚には幾千、幾万もの輝く書物が整然と収められている。
前世の不夜城の世界でも決して見たことのない異次元の光景。ただの少女の精神世界とは到底思えないその圧倒的なスケール感に、覚醒したばかりのヴェルスすらもしばし言葉を失い、圧倒されていた。
(エレノアが生まれてから今日までに触れてきた記憶と知識の結晶……それが夢(脳)の中でこれほどのライブラリとして体系化されているのか)
現実ではほんの小一時間。だが、精神を共有したバクの知識から察するに、この夢の中の時間経過は現実の十数倍も遅いらしい。
静寂に包まれた広大な知識の海を見上げ、ヴェルスはフッと口元を吊り上げた。
(……なるほど、これは想像以上の大収穫だな。だが、一夜で全てを紐解くにはあまりにも莫大すぎる。これから夜な夜な潜り込み、順を追ってこの世界の裏まで剥ぎ取っていくとしよう。まずは――一番手近なこの棚からだ)
ヴェルスは棚から知識の結晶を次々と手に取り、脳内へ叩き込んでいった。
王立学院の仕組み、高位貴族たちの勢力図、そして――魔法の適性に関する常識。
◇◇◇
(ふむ……なるほどな)
手にした知識を素早く整理しながら、ヴェルスは密かに思案を巡らせる。
なぜ、自分の『召喚魔法』が無能と蔑まれているのか。
この世界では伝え聞く詠唱魔法自体が非常に少ない。また、魔方陣を描くのにも手間がかかるうえ、召喚対象を明確にイメージし難く、喚び出した後の制御も極めて困難とされていたからだ。
(精神や概念、そして異次元の存在とすら接続できる『召喚魔法』の真価に、この世界の誰も気づいていないとはな。現代の知識を持つ俺からすれば、これほど都合のいい術はないというのに。……そして、エレノアの『土魔法』も同じか)
貴族社会において、美しく華やかな「氷」や「火」が至高とされ、泥や岩を捏ねる土魔法は「農民の魔法」「不浄の属性」と蔑まれている。
(愚かな話だ。地形の改変、構造物の探知、物質の変化……使い方次第で、一国の城塞すら裏から解体できる最強の属性じゃないか)
夢の書庫の中で、ヴェルスはこの世界のあらゆる基礎知識を自分のものとし、さらにはエレノアの持つ潜在能力の生かし方までを完璧に組み立てていた。
◇◇◇
そして、翌朝。
窓から差し込む柔らかい陽光が、豪華なベッドを照らし出す。
「……ん……っ」
目を覚ましたエレノアは、目の前にいるヴェルスを確認した瞬間、ぎゅっと彼の胸元に抱きついてきた。
「……ヴェルス。夢じゃ、なかったのね……」
まだ半分夢の中にいるような潤んだ瞳でヴェルスを見上げると、エレノアは自分の指先を彼の首筋に絡め、吸い寄せられるようにその唇へと自身の唇を重ねた。
「んっ……ふ……ぅ……っ」
寝起きの朦朧とした意識のまま、昨夜甘く確かめ合った体温を辿るように、小さく重なる唇。エレノアから求める拙くも積極的なキスに応え、ヴェルスも彼女の腰を優しく引き寄せながら、甘い口づけを返していく。
「あ……ん、っ……ふぁ……」
静かに唇が離れると、熱い吐息を漏らし、顔を真っ赤に染めたエレノアは、夢ではなく確かに目の前に自分の愛する『所有物』がいるのだと実感し、うっとりと頬を緩ませた。
「……離れないでね。私を……私だけを見ていてね……」
「勿論です。俺の心も身体も、すべてお嬢様だけのものですから」
耳元で低く囁かれる甘い誓い。
その優しくも甘美な声が脳裏を満たすたび、エレノアの心は甘い痺れに侵されていく。
(ああ……私には、この子しかいない……この子なしじゃ、生きていけない……っ)
ヴェルスが仕掛けた甘い心理の罠(毒)は、次第にエレノアの精神を侵食していった。
彼女は自分の意志でヴェルスに抱きつきながら、その実、彼という存在なしでは息すらできないほどに、深い依存の沼へと自ら落ちていっていることに気づいていなかった。
胸の中で身を寄せて甘える令嬢の髪を、ヴェルスはただ静かに、優しく撫で下ろし続けていた。




