第10話 密やかな夜と、開かれた扉
冷ややかな家族との晩餐が終わり、夜の静寂が伯爵邸を包み込む頃。
部屋には、シルクのナイトウェアを纏ったエレノアと、執事服の上着を脱ぎ、薄手のシャツを身にまとったヴェルスだけ。
エレノアの寝室の鍵が、内側から静かに下ろされた。
「……ヴェルス」
エレノアが小さく名前を呼ぶ。
お人形ではなく、初めて口にした少年の名。
昼間、両親や兄姉から存在を無視され続けた彼女の瞳は、いまや激しい孤独と、目の前にいる少年への異様なまでの執着で揺れていた。
「はい、エレノア様」
ヴェルスが静かに一歩を踏み出すと、エレノアは耐えかねたようにその胸元へ飛び込み、細い腕でヴェルスの首に強く抱きついた。
「私を見て……! お父様も、お母様も、ジュリアス兄様もクラリス姉様も、誰も私を見てくれない! 私を泥臭い無能だってバカにするの! ……私を見てくれるのは、あなただけなのよ……!」
「ええ、分かっています。僕はいつでも、あなた様だけを見ています」
ヴェルスの耳元への囁き。
その甘い声に、エレノアの胸の奥が熱く痺れる。
彼女はヴェルスの顔を両手で挟み込むと、縋り付くようにしてその唇を重ねた。
――昨夜までの、戯れのような軽い口づけではない。
「ん……っ」
エレノアは抑えきれない欲求のままに、ヴェルスの息を奪うような激しい口づけで、彼を強く求め合ってきた。
熱い体温、触れ合う唇から伝わる振動、そして少女の必死なまでの依存の感情が、ダイレクトにヴェルスの全身を駆け巡る。
――その、瞬間だった。
(……ッ!?)
ヴェルスの脳裏で、何かが激しく弾けた。
過酷な奴隷道中や、お人形としての屈辱的な日常の中で、かすかに蠢いていた「謎の感覚」。
それらが、この強烈な感情と身体の刺激をトリガーとして、一気の濁流となって溢れ出したのだ。
――輝く街のネオン。
――グラスに注がれる琥珀色の液体と、甘い香水の香り。
――どんな高慢な女性であっても、たった一言の揺さぶりと仕草で底なしの依存へ叩き落としてきた、夜の世界での日々。
(……そうか。僕は……)
頭痛とともに、バラバラだったパズルのピースが完璧に噛み合っていく。
ただの無垢な少年だったヴェルスの意識に、前世のNo.1ホストとしての記憶と、人間を支配するための「傾城術・心理術」のノウハウが、映像と知識として定着した。……なぜ自分が死んだのか、その記憶の欠落を置き去りにしたまま。
「……ふぁ……っ」
やがて息が続かなくなり、エレノアが名残惜しそうに唇を離す。
彼女の顔は熟した果実のように赤く染まり、その瞳はすっかり自分だけの「お人形」を得た喜びに潤っていた。
「……ふふ。これであなたは、絶対に私から逃げられないわ……」
満足そうに息を吐き、ヴェルスの胸に顔を埋めるエレノア。
だが――その肩を抱きかかえるヴェルスの瞳からは、少年の幼さは消え去っていた。
深く、冷たく、そしてどこまでも妖しく冴え渡る光。
(まさか、こんな我儘な小娘の歪んだ執着が、俺の扉を開けることになるとはな……)
ヴェルスは前世で培った「人の心を狂わせる笑顔」を口元に浮かべた。
これまでは無意識の直感でエレノアの隙間を突いていたが、これからは違う。計算し尽くされた心理術によって、彼女の心を完全に掌上で転がすことができる。
「ええ……逃げたりしませんよ、僕の――俺の愛しいお嬢様」
ヴェルスはエレノアの黄金色の髪にそっと指を滑らせ、彼女の耳元で甘く、毒のように低く囁いた。
主従の逆転が、いよいよ本物となる瞬間だった。




