第十二篇 行きたくない
「来たぞーって、あれ? 詩織は?」
竜也が水月の家に行くと、そこに詩織の姿はなかった。大体は詩織が一番に来ることが多いが、今日はいない。
「まだ来とらんな」
水月が答えると同時に襖が開く。そこに立っていたのは、詩織だった。彼女はとても暗い表情のまま部屋に入り、左手をついてゆっくりと腰を下ろす。
すると、何かに気がついた水月は、詩織の右手をバッと掴んだ。
「どうしたんじゃ、これ」
それを見て、湊と竜也も目を見開いた。
彼女の右手のひらは、これでもかと言うほど荒れていた。皮は向け、ところどころに血が滲んでいるではないか。
「なぜ手当もしとらん!」
大きな声にも動じず、詩織はそっぽを向いて答えようとはしない。かと思えば、ゆっくりと口を開き、ポツリと呟く。
「だって、手当なんてしたらバレるじゃないですか」
声にはいつもの覇気はなかった。彼女の声とは思えないほど、低く沈んだ声。
手のひらがこんなことになっているのはきっと、家で鍛錬をしていたのだろう。恐らく、休憩すらも挟まずに。
ちゃんとした手当もしないまま、守人の仕事などできるはずもなく、水月は待ってろとだけ言い残して、手当のできる道具を取りに行った。
沈黙が流れる。
ついこの間まで、守人という役目に重きを置いていたというのに、なぜこんなことになっているのか、まるでわからないのだ。
竜也は話しかけるか迷う。だが、声をかけたところで、彼女が答えてくれるとは思えない。
無言のまま時が過ぎ、やがて水月が戻ってきた。彼女は何も言わず前に座り、包帯を取り出す。
包帯を巻いている間も、会話がされることはなかった。気まずい時間だけが流れていく。
◆
あの後、特に黄泉がえりが出たという情報が舞い込んで来ることはなく、特に話題も盛り上がらないまま業務が終わった。
外は薄紫色に染まっていて、辺りには人はいない。歩道から見える田んぼには、点々と空に浮かぶ星が映り込んでいる。
竜也は沈黙を破ろうと、思い切って詩織に話しかけることにした。
「なあ、詩織––––」
と、彼が振り返って話しかけた瞬間、彼女の目から大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちる。あまりの出来事に、竜也と湊はギョッとした。
「ちょちょちょ、何泣かしてるのさ!」
「いや俺名前呼んだだけなんだけど!?」
二人は詩織から離れ、しゃがみこんで小声で言い合う。
そんな中、詩織はポツリと口にする。
「––––ない」
聞こえなかった二人は、彼女の方を振り返った。
「行きたくない」
言うと、またボロボロと泣き出す。二人はどうしたらいいかわからずてんやわんやだ。とりあえず近くの公園に移動しようということになり、屋根のついたベンチに座った。
泣き腫らした詩織を間に挟んで座り、彼女が話すのを待つ。
しばらくの沈黙の後、詩織がポツポツと話し出した。
「あのね、来週鈴宮で集まるのが決まって……」
それに行きたくない、ということだろう。
「……どうして行きたくないの?」
湊が優しく問いかける。
二人は鈴宮家のことについてはよく知らない。というより、他人の家系のことまで耳に入ってくること自体、稀なこと。明星の事情を他の守人が知っているということが稀有なだけで、それ以外は知らないのは、守人らにとっては普通なことである。
「うちは私だけしか子供がいないの」
それだけ言われ、竜也には疑問符が浮かぶ。しかし、すぐにその意味を理解した。
「蔑まれんの?」
彼が言うと、詩織はコクリと頷く。少しばかりの間を開けた後、
「正確に言うと、蔑まれるのはお母さんなの」
彼女の説明では、鈴宮の一族から冷徹な目で見られると言う。原因は、詩織を––––女一人しか産んでいないことだ。つまり、跡継ぎがいない。
彼女の家は本家筋だ。彼女の相手に婿入りしてもらうか、彼女自身が当主になればいいかもしれない。
だが、他の家系に示しがつかなくなるそんなやり方を、誰が肯定するだろうか。
「お母さんが否定されてると、私まで否定されてる気分になっちゃって……」
自分を産んだ存在の否定と、自分という存在の否定は、彼女の中でイコールになっている。
幼少から刻み込まれたそれは、簡単に消えてくれることはない。それは、竜也も湊も嫌という程理解している。
だから、今それを払拭してやることは叶わない。
そこで湊は、制服のポケットから一つのお守りを取り出した。水色に金の刺繍が施された、巾着型のお守り。
「これ、良かったら持って行ってよ。気休めにもならないかもしれないけど」
ふわりとした優しい笑み。詩織はその笑みに思わず涙腺が緩んだ。
自分も何かしてやれないものかと、あわあわとポケットやら鞄やらの中身を探る。
「あっ、じゃあ俺もこれやるよ」
そう言って渡してきたのは、折りたたまれた一枚の小さな紙切れ。開くとそこに描かれていたのは––––
「……なにこれ、カエル?」
「ちげーよ金魚だよ」
言うと、「はあ?」という返事が返ってきた。
「これのどこが金魚なのよ。目めちゃくちゃ出てるじゃない。あと足も生えてるし」
「デメキンだし。あとそれヒレな!」
授業中に健人と絵しりとりをした時に描いたものだ。その時にも、これが金魚だということを全くわかってもらえなかった。
納得できない詩織と、納得してもらいたい竜也はしばらく言い合いになる。すると、その様子を見ていた湊がプッと吹き出した。
「ごめん、ごめんね。あまりにも金魚に見えなくて」
そしてまたふふと笑う。そこまで笑われたら、さすがの竜也も恥ずかしくなってきた。
「湊兄まで……ふっ、あはははは」
つられて笑うと、詩織もまたそれにつられて笑いだした。静かな公園に、三人の笑い声だけが響き渡る。
「あーもう、おっかし」
目尻に溜まった涙を拭き取る頃には、彼女はいつもの調子に戻っていた。ベンチから立ち上がり、数歩前に進む。そしてクルッと二人の方に振り返り、
「あんたらのおかげで、なんかつらさどっか行っちゃった。……ありがとね」
いつになく素直な礼。それに二人は微笑みで返した。
◆
「ふう……」
一週間後、自宅に来る鈴宮の分家たちを待って、詩織は緊張を解すように一つ息を吐く。胸の前に握りしめたお守りと紙切れに、それを託すようにして。
「大丈夫。だって、私だもん」




