オクソス北の支流
B.C.508 Cittamāsa(3-4月)
真っ青な空を、オジロワシが大きく円を描いていた。
谷の裂け目へ鋭い目を落とした鷲は、山腹の細道を蟻のように進む一列の人影を捉えた。
そのさらに下、灌木の陰にもまた、別の獣の気配が潜んでいるのを察した。
夜明けと同時に村を出た。
午後になって二つ目の峠を越えたとき、道はほとんど獣道にまで痩せていた。
岩肌に残った雪が白く光り、その下を、雪解け水が細い糸のように流れている。
谷底から吹き上げてくる風はまだ冷たかったが、日差しは強く、荷を背負った男たちの額には早くも汗が浮いていた。
先頭を行くザルヴィーラが右手を上げ、一行を止めた。
道の先、曲がり角の岩陰に、何かがいる。
次の瞬間、唸り声が山肌を震わせた。
黄褐色の巨体が跳ねた。
虎だった。
―グルォッ!ファーン―
「伏せろ!」
叫ぶより早く、鉱夫頭ルフシャヴァが前へ出た。
担いでいた棒を横にして受け止める。
だが、虎の牙はそのまま彼の胸から肩口を裂き、男の体を横の岩へ叩きつけた。悲鳴と怒号が狭い峠道にこだまする。
アルシャカが抜刀し、脇から斬りつける。ザルヴィーラも短槍を突き込み、虎は身をひるがえして岩場へ退いた。
低い唸りを残し、やがて灌木の向こうへ虎は消えた。
血の匂いと荒い息だけが、あとに残った。
「ルフシャヴァ!」
ミトラヴァラが駆け寄ると、鉱夫頭はまだ意識を保っていた。だが傷は深い。右肩から胸へ走る裂傷は、布を当ててもすぐ赤く染まった。
ここで引き返せば、村は飢える。進めば、この男の命が危うい。
誰も口を開けなかった。
やがてルフシャヴァが、歯のあいだから声を押し出した。
「止まるな……行け。食料を持って戻れ。俺に構うな」
ザルヴィーラは黙って頷いた。
鉱夫たちは若木を切り、外套を裂いて即席の担架を作る。そこへルフシャヴァを乗せると、一行は歩みを再開した。
岩だらけの坂では担架が跳ね、そのたびに男の喉から低いうめきが漏れた。夕方までに後発隊との合流予定地、オクソス北の支流の川岸へたどり着いたときには、皆、肩で息をしていた。
川音は思いのほか大きかった。雪解け水を集めた流れは白く泡立ち、月のない夜でもその速さが見て取れる。
ザルヴィーラが川を見て言う。
「担架を渡すのは無理だ。この流れの勢いでは、こちらが流される」
「では、荷物を置いて渡そせば良い」
ミトラヴァラの言葉に、男たちは沈黙した。
ルフシャヴァは薄く目を開け、ザルヴィーラとミトラヴァラを順に見た。
「置いていけ」
「馬鹿を言うな」
ミトラヴァラが怒鳴る。
「聞け、ミトラヴァラ」
血に濡れた唇で、ルフシャヴァは笑った。
「荷を捨てて俺を運べば、ファルセットの谷へ着く前に皆死ぬ。おまえたちは村の命を背負っているのだ」
結局、川岸の高み、風を避けられる大岩の陰に担架を移し、アルシャカのいる後続隊がここに到着した時に見つけてもらえるように、目印になる旗を立てた。
そして、五日分の水袋と毛布、干し肉を残した。
ミトラヴァラは最後まで離れようとしなかったが、ルフシャヴァがかすれ声で言った。
「村を救うのだ」
その一言で、ようやく立ち上がった。
一行が川を渡りきったころには、東の空が白みはじめていた。
その日の夕刻、彼らはようやくバクトリアの金鉱村へ着いた。
石を積んだ外壁に囲まれた、思ったより大きな集落だった。だが門前に立った護衛たちは、疲れ切った旅人を迎える目ではなかった。
槍の穂先が向けられ、荒いバクトリア語が飛ぶ。
ミトラヴァラが両手を開いて応じた。自分たちはカンボージャ北麓の金鉱村から来たこと、交易ではなく救援を求めて来たこと。だが、護衛たちの表情はむしろ険しくなるばかりだった。
「縛れ」
短い命令で、一行は武器を外され、石造りの牢へ押し込まれた。
床は冷たく、湿っていた。藁も薄い。誰も眠れぬまま、長い一夜が過ぎた。
翌朝、格子の向こうに二つの影が止まった。
武装した護衛の後ろに、白髭の長老が立っている。深い皺に刻まれた顔は、厳しく乾いて見えた。
ミトラヴァラは立ち上がり、格子の前まで進んだ。そして、流暢なバクトリア語で頭を下げた。
自分たちの村の窮状、街道封鎖、飢えの迫る村、負傷者を川岸に残してきたこと――それらを隠さずすべてを告げた。
長老は最後まで黙って聞いていたが、やがて首を横に振った。
「余剰はない。そなたらに分ける物資はない」
長老はミトラヴァラを改めるように、見つめた。
「そなたの父は、何という名だ」
長老はその名を聞く前から、どこか引っかかるものでもあるように、ミトラヴァラの顔をじっと見ていた。
ミトラヴァラは一瞬ためらったが、まっすぐ答えた。
「ヴァルダーナ」
その名を聞いた瞬間、長老の目が大きく見開かれた。
乾いた顔に、信じがたいものを見たような色が走る。
「……何と」
彼は格子に一歩近づいた。
「ヴァルダーナ。あやつ、生きておったか!」
牢の中の全員が息をのんだ。
長老は背後の護衛を振り返り、声を強めた。
「鍵を開けよ。今すぐだ」
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2026年5月
ホルムズ海峡。
5月上旬の時点でも通航量が大きく落ち込み、英国海事当局系の最新助言でも「交通は依然として著しく減少」とされた。ここ48〜72時間でも、フジャイラ沖の投射物被弾、小型艇による接近事案、火災報告など、散発的な海上インシデントが続く。
米軍は5月7日、海峡で米艦3隻に対するイラン側の攻撃を迎撃したと発表し、停戦の脆さを改めて示したが、一方で外交交渉そのものは続いており、米側の護送・退避支援も「合意進展」を理由に一部停止され、軍事と交渉が同時進行する極めて不安定な状態であった。
海運各社は慎重な姿勢を崩さず、Maersk首脳は封鎖長期化による燃料費高騰と安全リスクの残存を警告、
ロイター通信は、UAEが追跡信号を切るなど高リスクな迂回・秘匿輸送で原油搬出を続けていると報じた。
港湾側ではUAEの一部石油港が稼働を維持しているものの、海峡そのものの正常化にはまだ距離があるようだった。
錨泊している大型貨物船Gwadar Horizon の船上には、船長と航海長、それに機関長とその部下数名のみが残っていた。
「船長、たまにはどうです?一局」
「おお、機関長、ジャパニーズ・チェスか!」
ホルムズ海峡の緊張とは裏腹に、ペルシャ湾の海上にはドロンとしたような静かな時間だけが過ぎていた。
棋盤に目を落としながらも、ジャティラ・サッタヴァータ船長がつぶやくように言った。
「それにしても、もうイスラマバードでの再協議はこのまま立ち消えだろうか?」
その言葉が、船窓から一望するペルシャ湾のひしめくような船舶のデッキの上に、重くのしかかるように聞こえた。




