ファルコールの谷へ
B.C.508 Cittamāsa(3-4月)
カンボージャ国ヒンドゥークシュ北麓 、金鉱山の麓集落。
Tena hi, Bactriyānaṃ Farkhor-nāmaṃ valle manusse pesessāma.
(それでは、バクトリアのFarkhor 谷へ、人を出すことにする。)
長老のヴァルダーナ が決議を述べると、妻のロクシャーナーが、山羊の乳を落とした茶を黙って一椀ずつ座卓へ置いていった。しかし、湯気は立つ茶器を、誰ひとり手にしようとはしなかった。
落ちる夕陽の残光がかすかに座卓を照らしていた。
半月前、Karoura(現在地カブール)への粗金搬出ルートを、カンボージャ国の西に広がるバクトリア国の軍隊が突然封鎖した。
この集落の金製錬が停止し、物資の供給も途絶えた。
集落の食料と生活物資は、もう半月ともたない。
Evaṃ sante, kaṃ pesetabbaṃ bhavissatī ti?
(そうなると、誰をいかせるべきかのぉ)
精錬職長が、つぶやくように言った。
Ahaṃ gamissāmi! Maṃ etaṃ kammaṃ niyojehi, tāta.
(俺が行く!任せてくれ父さん)
血気盛んで武闘派の後継ぎでもある長男のアルシャカが名乗りを上げた。
交易と勘定に明るい実務家、次男ミトラヴァラがなだめるように言う。
Jeṭṭhabhātika, sace tvaṃ Bactriyabhāsaṃ na jānāsi, dūteyyaṃ dukkaraṃ bhavissati.
(兄さん、バクトリア語が話せないと交渉は難しい。)
Kiṃ tvaṃ evaṃ pamādam āpajjasi? Sace mayaṃ āhāraṃ āharituṃ na sakkoma, ayaṃ gāmo sabbaso vinassissati.
(何を呑気なことを言っているのだ。食料を持って帰らなければ、この集落は全滅だぞ!)
Āma, etaṃ saccaṃ. Api ca, bhātika, mayaṃ corā na homa. Mittabhāvena paccaye pariyesituṃ yuttaṃ.
(確かにその通り。でも兄さん、我々は山賊じゃない。あくまでも、友好的に物資を調達するのが筋ってものだ)
Tava evarūpaṃ sanikaṃ caritaṃ mayhaṃ na ruccati. Atthasiddhiyā kadāci upāyesu vikappo na hoti.
(おまえのそういうのんびりしたところが俺は嫌なんだ。目的を果たすには手段を選んでいられないときもある。)
Tathā pi, balakāro pacchā kātabbo. Paṭhamaṃ panābhivādanena āraddhuṃ vaṭṭati.
(それでも、武力を行使するのは最後です。まずは、挨拶から始めるのが礼儀でしょう)
Alaṃ, ettāvatā.
(良し、それまでだ)
長老が水を入れた。
Tena hi, evaṃ karissāma.
(それでは、この様にする。)
Paṭhamaṃ Mitravaraṃ, rakkhājeṭṭhakaṃ Zarvīraṃ, khaṇakajeṭṭhakaṃ Rukhšavaṃ, dasa ca khaṇake bhaṇḍavāhanatthāya pesetha. Tassa pañcarattātikkamena Aršakaṃ, Rukhšavaṃ, pañcadasa ca bhaṇḍavāhake pesetha. Pacchā Oxus-uttarāya nadī-sākhāya tīre tiṭṭhatha.
(先発で、ミトラヴァラ、護衛頭ザルヴィーラ、そして鉱夫頭ルフシャヴァと荷物を運ぶために鉱夫を十名ほどが出発。その五日後にアルシャカ、鉱夫頭ルフシャヴァと荷物運びを十五人ほどが出発しなさい。そして、オクソス北の支流の川岸で待機するように)
金製錬が停止したことにより、金の主要輸出国であるマガダ国の金相場が高騰していた。そのため、マガダ国はカンボージャへ経済的な圧力を掛け、同時に兵力をカシミール地方へ展開するべく準備に入っていた。
カンボージャとしては、寝耳に水の状態であった。
バクトリア国による、金搬出のための街道が突然封鎖された。
そして同盟国であり、金の輸出・武器の輸入という経済的に密接な関係があるマガダ国からの圧力を受けていた。
つまり、理由もわからぬまま板挟みになっていると言えた。
Paṭhamasenā sve pabhāte nikkhamissati. Taṃ disvā ahaṃ Kapisiṃ gamissāmi; tattha amacce disvā tesaṃ vacanaṃ suṇissāmi.
(先発隊の出発は明日の夜明け、それを見届けてから私はKapisi (カピシ)へ向かう。大臣たちに会って話を聞いてくる。)
そう言うと、ヴァルダーナ長老は深い溜息をひとつ吐き出した。
―――――
2026年4月
ペルシャ湾カタール沖。
満載したコンテナの屋根に、強烈な日差しが叩きつけていた。
その照り返しが、操舵室にも溢れていた。
کیپٹن، کچھ جاپانی سنگل مالٹ کے بارے میں کیا خیال ہے؟
『船長、日本のシングルモルトはいかがですか?』
『うむ、もらおう』
イラン情勢が緊迫し、突然ホルムズ海峡の封鎖が始まった。
米国の艦隊が集結し、イラン軍と睨み合いながら、お互いに相手の動きを封じているような状態だった。
ペルシャ湾に留め置きになっている大型タンカー、貨物船などの船舶は2000隻を超える。
AIS(Automatic Identification System) のモニターには、ペルシャ湾にぎっしりと浮かぶ、赤や青に光る船のアイコンがひしめいていたが、船は微動だにしなかった。
船長は、深いモルトの香りとオークを燻した香りが織りなす芳醇な最高級シングルモルトを一口含むと、
(まるで、船のメッカだな)
と呟いた。
大型貨物船”Gwadar Horizon” の船長は、大きな笑い声を上げた。
『船長、残りの乗組員たちにも、そろそろ下船の指示を出してはいかがでしょう』
2月28日、湾岸情勢は臨界点を越えた。
ホルムズ海峡をめぐる緊張は一気に高まり、拿捕、威嚇射撃、臨検が相次ぐ。航行そのものは禁止されてはいないが、船主は出航を見合わせ、通常なら1日125〜140隻が通行していた海峡も、数隻レベルまで激減、海峡を抜ける船影はほぼなくなった。
三月に入ると、状況はさらに悪化する。機雷敷設の疑いが報じられ、実際に触雷したとされる船舶の情報も断片的に流れた。
四月中旬、米軍は海上警戒と臨検を強化し、事実上の通航統制に踏み込んだ。イラン側も対抗措置を強め、世界の動脈といえる海峡は双方の緊張が張りつめる”乾いた海峡”と化した。
その影響は、海の上にとどまらない。
輸出の滞りは、陸上の石油インフラを静かに締め上げていく。積み出せない原油と製品は貯蔵施設に積み上がり、やがて余裕を失う。だが油井は、蛇口のように単純に閉じることはできない。圧力と流量を制御しながら、生産は段階的に絞られていった。
それでも長期化すれば、井戸の内部ではパラフィンが析出し、配管にはスケールが付着し、腐食は静かに進行する。再び流れを取り戻すには、洗浄と再調整に時間を要する。
一旦閉じた油井の生産を再開するには、莫大なメンテナンスのコスト支出と停止期間の減収が国家の経済に大きくのしかかってくる。
『航海長、それでは次の満月の日に、二等航海士以下の乗組員を下船、帰国させてくれ』
『アイアイサー』
航海長は右手で口元を押さえ、小さく咳払いしてから笑った。
『次の満月って……サッタヴァータ船長、まるでキャラバンの民みたいですね』
『フフ、そうだな。聞かせようか?私の祖先のその話を...』
『ぜひ』
船長ジャティラ・サッタヴァータの目がキラリと光った。
『では話そう。インダス川の畔で足止めになったキャラバンの話だ』
BGM:
"Hussain Al Jassmi - Boshret Khei"




