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第38話

翌朝、私は心地よい疲れと共に目を覚ました。

昨夜遅くまで、ガルニア帝国との共同研究に向けた資料を整理していたせいだ。

窓を開けると、王都の澄んだ空気が部屋に流れ込んできた。

遠くからは、建設現場で働く人々の活気ある声が聞こえてくる。

都は、かつての閉塞感を脱ぎ捨て、新しい時代のエネルギーに満ち溢れていた。


「おはようございます、リディア先生。よく眠れましたか」

食堂へ向かうと、すでに朝食を終えたジークフリードが新聞を読んでいた。

その新聞も、私たちが最近導入した、大量印刷技術によるものだ。

情報の鮮度が、これまでの比ではない。

「おはよう、ジークフリード。帝国の使節団はどうしているかしら」


「ああ。彼らは今朝早くから、王立研究所の見学に出かけていったよ。案内はアルブレヒトが務めているから、安心だ」

ジークフリードは、コーヒーを一口飲み、満足そうに微笑んだ。

そのコーヒーも、新しく確立された交易路を通って届いたものだ。

「それはよかった。彼らに、私たちの研究の透明性と熱意を、しっかりと感じてもらわなければね」


「全くだ。ところでリディア、君に折り入って相談があるんだ」

ジークフリードは新聞を置き、真剣な表情で私を見つめた。

「相談? 何かしら」

「実は、帝国の大使から、内密に打診があったんだ。彼らの国に、電信網を引きたいのだとね。それも、王都と帝都を直接繋ぐラインを優先してほしいと」


私は少し意外な思いで、彼の言葉を聞いた。

帝国の魔導師たちは、プライドが高い。

自分たちの魔法に頼らず、他国の、それも自分たちが侮っていた科学の力を導入することに、反発はないのだろうか。

「……帝国側は、技術の流出を恐れてはいないのかしら」

「もちろん、慎重な議論はあったようだ。だが、昨日の機関車のデモンストレーションが、彼らの考えを根本から変えてしまったらしい。速度と正確さ。それこそが、これからの国家経営に不可欠だと悟ったのだろう」


私は、その言葉に深く頷いた。

科学は、一度その利便性を知ってしまえば、もう後戻りはできない。

それは魔法という不確かな力に頼ってきた彼らにとって、劇薬のようなものかもしれない。

だが、それをどう使いこなすかは、彼ら次第だ。

「分かったわ。電信網の敷設については、前向きに検討しましょう。ただし、一つ条件があるの」


「条件? 何だい」

「共同での保守管理、そして、通信プロトコルの統一よ。情報の不一致は、かえって混乱を招くわ。私たちが教える科学のルールに従ってもらう必要がある。それが、対等な関係を築くための第一歩よ」

ジークフリードは、私の言葉を吟味するように目を細めた後、力強く頷いた。

「賢明な判断だ。分かった、その条件で交渉を進めよう」


朝食を終えた後、私はエリアーデと共に、王立科学病院を訪れた。

そこでは、帝国から来た魔導師たちが、私たちの医療現場を熱心に見学していた。

彼らの前には、顕微鏡やレントゲン装置といった、彼らの常識を超えた道具が並んでいる。

「……信じられん。病の原因が、このような小さな『虫』だというのか。我々の治癒魔法は、ただこれを抑え込んでいただけに過ぎなかったのか」


一人の、初老の魔導師が顕微鏡を覗き込み、驚愕の声を上げた。

「抑え込むことも、尊い行為ですわ。ですが原因を特定し、それを根本から排除する。それが、私たちの科学的なアプローチです」

エリアーデが、穏やかな声で補足した。

彼女は、魔法の特性を否定することなく、いかに科学と融合させるかを、実演を交えて説明していた。


「魔法で細胞の再生を早め、科学の薬で病原菌を殺す。この二つが組み合わされば、これまで不治とされてきた多くの病から、人々を救い出すことができるでしょう」

エリアーデの言葉は、魔導師たちの心に深く響いたようだ。

彼らは、互いに顔を見合わせ、真剣な眼差しで議論を始めた。

科学は、恐怖や支配の道具ではない。

それは、異なる文化や価値観を持つ人々を結びつける、共通の言語にもなり得るのだ。


「先生、こちらに。例の『ワクチン』の試作が完了しました」

一人の若い研究員が、私に小さなガラス瓶を手渡した。

中には、透明な液体が入っている。

これは、以前隣村を襲ったあの奇病の予防薬だ。

病原体の毒性を弱め、あらかじめ体に覚えさせることで、発症を防ぐ。

これもまた、前の世界の医学が到達した、偉大な英知の一つだった。


「素晴らしいわ。すぐに安全性の試験を開始しましょう。これが成功すれば、もうあの時のような悲劇は二度と繰り返されない」

私は、その小さな瓶を愛おしそうに見つめた。

科学の力で、明日を救う。

その実感が、何よりも私を突き動かす原動力だった。


夕方、私は一人で、夕暮れの街を歩いた。

護衛の騎士たちは、少し離れた場所で私の安全を見守っている。

都の人々は、私に気づくと、親しげに声をかけてくる。

「リディア先生! 昨日の機関車、すごかったですね!」

「先生の街灯のおかげで、夜道も怖くなくなりました! ありがとうございます!」


人々の笑顔。

それこそが、私がこの国で作りたかった本当の宝物だった。

公爵令嬢という身分も、魔力ゼロという蔑みも、今となっては遠い過去の出来事のようだ。

私は、自分自身の知識と、それを信じてくれた仲間たちと共に、ここまで来ることができた。

足元を照らす街灯の光が、温かく私の影を伸ばしている。


ふと、通りの向こうに、聞き覚えのある声が聞こえた。

「……だから言っただろう! このネジの締め具合が、全体の振動に関わってくるんだ!」

声の主は、ギュンターさんだった。

彼は、新しく設置された路面電車のレールを点検しているようだった。

周りには、彼の教えを請う若い職人たちが集まり、真剣な表情でメモを取っている。


「ギュンターさん、お疲れ様」

私が声をかけると、彼は驚いたように顔を上げ、すぐに破顔した。

「おお、嬢ちゃん! じゃなくて、リディア先生! 見てくれよ、職人たちの成長を。彼らはもう、俺がいなくても、立派な機械を組み立てられるようになりつつあるぜ」

「それは嬉しい知らせね。技術は、受け継がれてこそ意味があるもの」


「全くだ。嬢ちゃんの書いたあの難しい教科書も、みんなボロボロになるまで読み込んでる。科学の熱気は、もう誰にも止められねえな」

ギュンターさんは、誇らしげに自分の弟子たちを指し示した。

知識の伝播。

それこそが、革命の本当の正体だ。

一人の天才がいるだけでは、世界は変わらない。

誰もが学び、誰もが考え、誰もが作り出す。

その連鎖が、新しい文明を築いていくのだ。


夜、私は王宮の自室に戻り、静かに日記を書き始めた。

今日の出来事、そして明日への展望。

万年筆の先から、青いインクが滑らかに紙を滑っていく。

これもまた、科学がもたらした小さな贅沢の一つだ。

日記の最後には、いつもの一文を書き添えた。

「知ることは、希望である」


その時、部屋の扉がノックされた。

入ってきたのは、ジークフリードだった。

彼の顔には、どこか興奮した色が浮かんでいた。

「リディア、緊急の電信が入った。交易都市からのものだ」

「交易都市? 何かあったの」


「いや、良い知らせだ。あちらで開発が進んでいた、最初の『飛行船』の浮上実験に成功したそうだ。明日にも、王都に向けて出発すると言っている」

「飛行船……! ついに、できたのね」

空を飛ぶ、という人類の夢。

魔法でも限られた者しか成し得なかったその行為が、科学の力で、誰にでも可能になる。

巨大なガス袋を浮かべ、空の風を捕まえて進む。

それは、私たちの科学が到達する、また一つの頂点だった。


「明日の正午には、王都の上空にその姿を現すはずだ。民衆にも、周知してある」

「……明日が待ち遠しいわね、ジークフリード」

私たちは、窓の外に広がる広大な空を見上げた。

そこには、明日への架け橋となるであろう、明るい月が浮かんでいる。

私たちの旅は、どこまでも続いていく。

この大地を駆け、そして今、空へとその手を伸ばそうとしている。


翌朝、王都の空は、これまでになく澄み渡っていた。

広場には、空を見上げる何万もの群衆が集まっていた。

誰もが、歴史の目撃者になろうと、息を呑んでその瞬間を待っていた。

「……リディア先生、見えました!」

エリアーデが、指を差して叫んだ。

南の空の彼方に、キラリと光る小さな点が現れた。


その点は、次第に大きくなり、堂々としたその姿を現した。

銀色に輝く、巨大な魚のような形をした物体。

その下には、何人もの人を乗せたゴンドラが吊り下げられている。

ゆっくりと、しかし優雅に空を泳ぐその姿は、まさに空の王者のようだった。

「飛行船、ヴァイスランド号……」


私は、その壮大な光景を眺めながら、思わず涙を浮かべた。

自分たちが描き続けた夢が、今、現実に空を飛んでいる。

それはどんな魔法よりも美しく、どんな奇跡よりも確かな、人間の英知の勝利だった。

飛行船は、王都の上空で旋回し、歓迎する群衆に向かって、ゆっくりと降下してきた。

プロペラの回る音が、心地よいリズムを刻んでいる。


「先生、私たちの時代が、本当に始まったのですね」

エリアーデが、私の手を取って言った。

「ええ。でも、これはゴールじゃない。ここからが、新しい冒険の始まりよ」

私は、空飛ぶ船に向かって、大きく手を振った。




もし次の話が気になるなら、


⬇︎の(☆☆☆☆☆)を(★★★★★)に変更して、


次話をお待ちいただけますと幸いです。

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