第34話
沈黙が、会議室を重く支配していた。
窓の外で舞い上がる砂煙が、ゆっくりと風に流されて消えていく。
バルツァー男爵は、未だに立ち上がることができず、床に手をついて震えていた。
彼の喉からは、ヒューヒューという苦しげな呼吸の音だけが漏れている。
これが、科学の力だ。
マナの蓄積も、複雑な詠唱も必要ない。
ただ、物理の法則に従って火薬のエネルギーを解放するだけ。
その一撃は、王国の最高の魔導師たちが放つ極大魔法に匹敵、あるいはそれを凌駕していた。
「……さて、男爵。交渉を続けましょうか」
私は、優雅に椅子に座り直し、冷めた紅茶を一口飲んだ。
バルツァーは、幽霊でも見るような目で私を見上げた。
その瞳からは、先ほどまでの狡猾な光が完全に消え失せている。
あるのは、理解不能な存在への、純粋な恐怖だけだ。
「あ、ああ……。う、うむ……」
彼は、側近の兵士に支えられて、やっとの思いで席に戻った。
兵士たちの手も、ひどく震えている。
彼らは、自分が今、死の隣に座っていることを自覚したのだ。
「宰相閣下への、お返事ですわ」
私は、テーブルの上に一枚の紙を置いた。
それは、私が特別に用意した「ヴァイスランド協定書」だった。
「条件は三つです。一つ、王都の魔導装置のすべての管理権を、正式に私へ譲渡すること。二つ、今回の政変の真相をすべて公表し、不当に拘束された人々を即座に解放すること。そして三つ……」
私はそこで言葉を切り、ジークフリードを力強く見つめた。
「ジークフリード殿下を、唯一正当な国王として即位させること。宰相はその補佐に徹し、一切の独断を禁じます」
「な……! そ、それはあまりにも……!」
バルツァーが、掠れた声で反論しようとした。
だが、私が窓の外へ一瞥をくれると、彼はすぐに口を噤んだ。
先ほどの大砲の残像が、彼の脳裏に焼き付いているのだろう。
「これは提案ではありません、最後通告ですわ」
私は、冷たく言い放った。
「あなた方がこの条件を飲まないというのなら、私たちは私たちのやり方で、王都を『浄化』しに向かうまでです。あの大砲を、十門、いや二十門引き連れてね」
二十門。
その言葉の響きに、バルツァーは顔を真っ青にして絶望した。
一門であの岩山を消し飛ばしたのだ。
二十門もあれば、王都の城壁など紙細工のように崩れ去るだろう。
防壁の魔力障壁など、物理的な衝撃の前には何の意味も持たない。
「……分かった。か、閣下へ、必ずやお伝えしよう……」
バルツァーは、震える手で協定書を懐に収めた。
彼は、もう一刻も早くこの村から逃げ出したいという一心だった。
「素晴らしいわ。では、明日までゆっくりとお休みくださいな。お帰りの際は、私たちの電信網を使って、王都へ先遣の報告を送ることもできますわよ。便利でしょう?」
私の皮肉な申し出に、彼は力なくうなずくことしかできなかった。
こうして、歴史的な和平交渉は、私たちの圧倒的な勝利で幕を閉じた。
翌朝、使者団は逃げるように村を後にした。
彼らの背中は、来た時とは正反対に、ひどく小さく見えた。
王都へ持ち帰る報告は、和平の答えというよりは、新しい時代の恐怖そのものだろう。
「……先生。本当に、これで良かったのでしょうか」
彼らを見送った後、アルブレヒトが隣でぽつりと呟いた。
「宰相という男は、これでおとなしく引き下がるような人物ではありません。むしろ、さらに狡猾な手を使ってくる可能性も……」
「ええ、分かっているわ、アルブレヒト」
私は、青く澄み渡った空を見上げた。
「だからこそ、私たちは休んではいられないの。あの大砲を量産し、さらなる新兵器の開発も進めなければならない」
「科学とは、立ち止まることを許さない学問ですからね」
私の言葉に、アルブレヒトは力強くうなずいた。
彼は、私の目指す未来を、共に歩む覚悟をさらに固めたようだ。
そして、もう一人。
私の背後で、ずっと沈黙を守っていたジークフリードが進み出た。
「リディア。俺は、今の交渉を見て、改めて自分の無力さを知ったよ」
「……どういうことですの?」
「俺は王子として、言葉と権威だけで国を動かせると思っていた。だが、お前が示したのは、実力と理屈による支配だ。それは、どんなきれいな言葉よりも力強く、そして残酷なまでに公平だ」
ジークフリードの瞳には、かつてないほど深い思考の影が宿っていた。
「俺は、お前の作る新しい王国の、ふさわしい王になれるだろうか」
「なれますわ、ジークフリード殿下。いえ、あなたしかなれません」
私は、彼に向き直ってほほえんだ。
「力に溺れるのではなく、力を正しく導く。その難しさを知っているあなただからこそ、私は信頼しているのです」
「……ありがとう。お前のその信頼に、命を懸けて応えてみせる」
ジークフリードは、私の手を強く握りしめた。
その温かさは、もはやかつての臆病な王子の物ではない。
民のために立ち上がる、真の王の決意の熱さだった。
数日後、王都から再び電信が入った。
それは、バルツァー男爵からの、協定書受諾の第一報だった。
『条件、すべて受諾。殿下の帰還を、全霊をもって歓迎す。王都にて待つ』
「……受諾、ですか。思ったよりも早かったですわね」
私は、紙テープを読みながら少し眉をひそめた。
あまりにも素直すぎる。
あの宰相が、これほど簡単に屈服するとは思えない。
おそらく王都に入った瞬間、何らかの策略が待ち受けているはずだ。
「毒、かしら。それとも、魔導兵器による不意打ちか……」
私は、頭の中で起こりうるすべてのリスクをシミュレーションし始めた。
科学者として、楽観的な観測は禁物だ。
常に最悪の事態を想定し、その対策を幾重にも用意しておく。
「エリアーデ、例の試作薬の量産は間に合うかしら」
私は、研究室にいる彼女に無線で呼びかけた。
最近、私たちは近距離用の簡易無線機も開発し始めていたのだ。
「はい、先生! どのような毒にも対応できる、汎用解毒エキスの精製は順調ですわ。ジークフリード様を救ったあの技術を、さらに進化させております」
「頼もしいわね。ギュンターさんも、移動式の大砲の台車、完成させてくれたかしら」
「おうよ! どんな荒れ地でも走れる、鋼の車輪だぜ。こいつがあれば、王都の城門までノンストップで行けるぜ!」
仲間の頼もしい声が、次々と届く。
私たちは、もはや無力な個人の集まりではない。
科学という絆で結ばれた、最強の組織なのだ。
一週間後、ヴァイスランドの村に、壮大な軍列が整った。
と言っても、それは重い鎧を着た騎士の集団ではない。
白い白衣を纏った医療班、工具を手にした工学班、そして火薬を扱う重装班。
誰もが、それぞれの専門分野の誇りを胸に抱いている。
その先頭に立つのは、蒸気機関で動く、巨大な装甲馬車だった。
ギュンターさんと私が設計し、石炭を動力として走る、まさに科学の怪物だ。
砲身が突き出したその姿は、見る者すべてを震え上がらせる威圧感を放っていた。
「……さあ、行きましょうか」
私は、装甲馬車の運転台に乗り込み、周囲を見渡した。
村人たちが、総出で見送りに来ている。
彼らの顔には、寂しさよりも、「自分たちの代表が歴史を変えに行く」という誇りが満ち溢れていた。
「リディア先生! 頑張ってください!」
「新しい王国を、作ってください!」
子供たちの元気な声が、朝の冷たい空気に響き渡る。
私は、彼らに向かって大きく手を振った。
「行って参ります、皆さん! 次に会う時は、もっと素晴らしい世界を、あなたたちにプレゼントしますわ!」
ギュンターさんが、バルブを開いた。
プシューッ!! というすさまじい蒸気の音がして、巨大な車体がゆっくりと動き出す。
石炭が燃える匂いと、オイルの香りが風に乗る。
それは、新しい時代の、芳しい香りだった。
私たちは、王都へと続く街道を、力強い足取りで進み始めた。
行く手には、未だ混乱の霧に包まれた王都が待ち受けている。
だが、私たちの心には一点の迷いもない。
科学の光が、すべての闇を払い、真実の道を示してくれると信じていたからだ。
進軍の途中、街道沿いの村々から人々が溢れ出してきた。
彼らは、見たこともない巨大な鉄の怪物に驚き、最初は恐れおののいていた。
だが、その上に掲げられたヴァイスランドの旗と、ジークフリード王子の姿を見ると、歓喜の声に変わった。
「ジークフリード殿下が、戻ってこられたぞ!」
「聖女リディア様が、王国を救いに来てくださった!」
噂は、風よりも早く伝わっていた。
私たちの進軍は、もはや武力行使ではない。
虐げられてきた民衆の、解放のパレードへと姿を変えつつあった。
あちこちから、人々が私たちの列に加わり、その数は千、二千と膨れ上がっていく。
「……先生。これが、民の心というものなのですね」
ジークフリードが、馬車の窓から外の熱狂を眺めながら、感極まったように言った。
「俺は、自分の権威で民を従わせようとしていた。だが、彼らが求めているのは権威ではない。自分たちの生活を良くしてくれる、確かな希望なのだ」
「ええ、その通りですわ。そしてその希望を具現化するのが、私たちの役目です」
私たちは、ついに王都の巨大な城門が見える丘までたどり着いた。
夕日に照らされたアークライト王国の王都。
かつて私が、汚物のように追い出された場所。
今、私はその場所に、王国の救世主として戻ってきた。
城門の上には、びっしりと兵士たちが並んでいるのが見えた。
彼らの持つ槍の先が、夕日に鈍く光っている。
魔力障壁の光が、薄紫色のドームとなって街全体を覆っていた。
王都は、不気味なほどの静寂に包まれていた。
「……歓迎の準備は、できているようですね」
私は、装甲馬車の速度を落とし、大砲の射程距離ギリギリで停止させた。
アルブレヒトが、すぐに全部隊に布陣を命じる。
電信機が、各地の拠点と慌ただしく連絡を取り合い、状況を逐一報告してくる。
その時、城門の上が騒がしくなった。
一人の男が、最前列に進み出てきたのだ。
それは、バルツァー男爵ではない。
もっと狡猾で、もっと巨大な影。
アークライト王国の宰相、その人だった。
「……お久しぶりですな、リディア殿。そして、ジークフリード殿下」
彼の声が、強力な拡声魔法によって、丘の上まで響いてきた。
その声には、少しの焦りも、恐れも含まれていない。
まるで、すべてが自分の手のひらの上にあるかのような、不気味な余裕があった。
「王都への帰還、心より歓迎いたします。さあ、魔力障壁を解きましょう。中へお入りください。あなた方のための、特別な祝宴の準備は、すべて整っておりますぞ」
彼がそう言うと、王都を覆っていた紫色のドームが、霧のように消え去った。
そして、巨大な城門がゆっくりと、重々しい音を立てて開いていく。
その門の向こうには、真っ黒な影のように沈んだ王都の街並みが広がっていた。
「……罠、ですね」
アルブレヒトが、剣の柄を握りしめた。
「ええ。ですが、入らないわけにはいかないわ。彼らがどんな魔法の罠を仕掛けていようと、私たちの科学は、そのすべてを上回るのだから」
私は、ジークフリードとエリアーデの顔を見た。
二人は、力強くうなずいた。
「ギュンターさん、蒸気圧最大。全軍、進め!」
私の号令とともに、装甲馬車が再び咆哮を上げた。
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