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第29話

「解毒薬を、作ります」


私のその一言が、ジークフリードの絶望に一条の光を灯した。

私は彼の必死に頼む姿に背を向け、エリアーデと共に小屋を飛び出す。

残された王子の運命は、今や完全に私の両手に任されたのだ。

研究室へ戻る道すがら、私は王都の方角に広がる不吉な暗い雲を眺めていた。

まるで嵐の前の静けさで、これからの激しい戦いを予感させる。

私の手の中にある毒キノコが、運命の鍵のように思えた。


カン、カン、カン、カン!


その時だった、村の広場に設置された見張り台から甲高い鐘が鳴り響いた。

その音は、穏やかだった村の空気を鋭く引き裂く。

森の鳥たちが、驚いて一斉に飛び立った。

畑仕事をしていた村人たちが、鍬を持つ手を止めて不安そうに顔を上げる。

それは、明らかに普通ではない事態の発生を知らせる音だった。

村の子供たちの笑い声がぴたりと止まる。

そして、母親の元へと駆け寄っていった。

穏やかだった日常が、硬い金属の音によって粉々に砕かれた瞬間だった。


「先生、これは一体!」

隣を走っていたエリアーデが、息を飲んで私を見上げた。

彼女の顔には、緊張と混乱の色がありありと浮かんでいる。

無理もない、この村で警戒の鐘が鳴るのはこれが初めてのことだったからだ。

「ええ、どうやら招かれざる客が来たようね」


私たちは、顔を見合わせる。

そして、研究室ではなく広場へと急いだ。

広場には、すでにアルブレヒトが率いる防衛部隊の兵士たちが集まり始めていた。

彼らは屈強な体つきで、私が開発した手榴弾を腰に下げている。

ギュンターさんが鍛えた、鋼の槍を手にしていた。

その動きには、一切の無駄も乱れもない。

かつて騎士団にいた時の訓練が、この村の守り手としてさらに磨き上げられていた。

農作業で鍛えられた村の若者たちも、手に手に武器を持って駆けつけてくる。

彼らの目には恐怖よりも、強い意志が宿っていた。

自分たちの手で作り上げた、この村を守るのだという決意だ。


「報告します!」

見張り台から、一人の若者が梯子を滑り降りてくる。

彼は、アルブレヒトの前に駆け寄ると切羽詰まった声で叫んだ。

「村の東、街道より所属不明の一団が接近中です。数は、およそ三十騎ほどです。アークライト王国の紋章旗を掲げていますが、軍の正規の隊列ではありません!」

「王国の紋章旗、だと?」


アルブレヒトが、厳しい表情で眉をひそめた。

王都で政変が起きた直後という、最悪のタイミングだった。

オルデンブルク侯爵の失脚を知った、保守派貴族の誰かが兵を動かした可能性もある。

あるいは、混乱に乗じてこの村の富を奪いに来た盗賊のような連中かもしれない。

どちらにせよ、友好的な訪問者でないことは明らかだった。


「リディア先生、ご指示をお願いします」

アルブレヒトが、私の方を振り向く。

彼の瞳には、絶対的な信頼が宿っていた。

この村の最高指揮官は、私なのだ。

私の判断一つで、この村の運命が決まる。


「敵の目的が分かるまで、下手に手出しはしないで」

私は、冷静に指示を出した。

「ですが、村の防衛体制は最大限に固めます。防衛隊は第一防衛ラインに展開し、いつでも迎撃できるように準備してください。村人たちは、全員校舎の中へ避難させて。あそこは、最高の砦になりますから」

「はっ、承知しました!」


アルブレヒトの号令一下、村はまるで一つの生き物のように動き始めた。

兵士たちは、村の入り口に築かれた土嚢と逆茂木で作られた柵の陰に素早く身を隠す。

ギュンターさんは、子供や老人たちを誘導して頑丈なコンクリート校舎へと避難させていった。

その素早く、統率の取れた動きは見事なものだ。

この村が、もはや単なる開拓者の集まりではないことを示していた。

誰もが、自分の役割を理解して行動している。

それは、私がこの地で育ててきた科学という名の秩序そのものだった。


そして、私とエリアーデは再びジークフリードの小屋へと駆け戻った。

外の騒ぎを聞きつけた彼は、寝台の上で不安そうに身を起こしている。

「リディア、一体何が起こったのだ。今の鐘の音は、ただ事ではないだろう」

「あなたを殺そうとした、あなたの『お仲間』がご挨拶に来ただけですわ」

私の皮肉のこもった言葉に、彼は息を呑んだ。

「そんな、馬鹿なことがあるか」


「馬鹿なものですか。彼らは、あなたに渡した毒が効く頃合いを見計らって来たのでしょう。そして、瀕死のあなたを発見する。そうして、『魔女リディアに毒殺された哀れな王子』という物語をでっち上げるつもりです。私を討伐するための、最高の大義名分が手に入りますからね」

「……なんという、ことだ」

ジークフリードは、顔を真っ青にして震え始めた。

自分が信じていた者たちに、いいように利用され捨て駒にされようとしていたのだ。

その事実に、彼は今更ながら気づいた。

彼の心は、絶望と怒りでぐちゃぐちゃになっていた。

王族としての誇りも、自信も、全てが足元から崩れ去っていくのを感じているようだ。


「エリアーデ、彼を頼みます」

私は、テキパキと指示を出した。

「解毒薬の精製を、急いでちょうだい。敵が村の防衛ラインを突破するまで、時間はあまりないかもしれないわ」

「はい、先生。お任せください」

エリアーデは、力強くうなずいた。

彼女は、私が研究室から持ち出した携帯用の分析キットと薬草を広げる。

そして、その場で解毒薬の精製作業を開始した。

その集中力は、凄まじいものがあった。

外の緊迫した空気など、まるで気にしていないかのように彼女は自分の研究に没頭している。

彼女は、もう守られるだけの聖女ではなかった。

自らの知識と技術で、戦うことのできる科学者なのだ。


私は小屋を出ると、村の入り口にある第一防衛ラインへと向かった。

柵の隙間から、街道の向こうに迫り来る一団の姿がはっきりと見え始めていた。

先頭に立つのは、見覚えのある貴族の紋章旗だった。

オルデンブルク侯爵家に次ぐ、保守派の重鎮であるヴァルデック伯爵の旗印だ。

彼は、オルデンブルク侯爵の最も忠実な仲間として知られていた。

おそらく、侯爵が捕らえられた報復として私兵を率いて乗り込んできたのだろう。

その数は三十騎ほどと少ないが、一人一人が熟練の傭兵で構成されているようだ。

その殺気は、本物だった。


「リディア先生、ご危険です。ここは我々にお任せください」

柵の指揮を執っていたアルブレヒトが、心配そうな顔で言った。

「いいえ、私もここに残るわ。それに、あなたたちに戦わせるつもりはないもの」

「え、どういう意味ですか」


「彼らは、話し合いに来たわけではないわ。最初から、私たちを皆殺しにするつもりよ。そんな相手に、まともに正面からぶつかるのは愚かな策というものよ」

私は、不敵に微笑んでみせた。

「科学の戦い方というものを、彼らに教えて差し上げましょう」

私は懐から、ガラス製の小瓶をいくつか取り出した。

中には、私が特別に調合した二種類の液体が入っている。

一つは無色透明の液体で、もう一つは黒く粘り気のある液体だ。


私は、柵の前に広がる地面を指さした。

「アルブレヒト、あなたの部下の中から弓の扱いに長けた者を数名選んで。そして、あの地面一体に、この黒い液体を『雨』のように降らせてちょうだい」

私が手渡したのは、原油から精製した粘度の高い重油だった。

アルブレヒトは、一瞬私の意図が分からず戸惑った顔をした。

だが、すぐに何かを察したようにうなずく。

彼は、私がただの思いつきで行動しないことをよく知っていたからだ。

私の言葉の裏には、必ず科学的な根拠と計算がある。

「承知いたしました」


弓の名手たちが、矢の先に布を巻き付けそれに重油をたっぷりと染み込ませていく。

風向きと距離を慎重に計算し、私の指示した場所に向かって次々と矢を放った。

ヒュン、ヒュンと音を立てて飛んでいった矢は、敵の目の前の地面に突き刺さる。

染み込んでいた重油が、あたりに飛び散った。

あっという間に、敵が通るであろう道は黒く湿った油の帯で覆われた。

それはまるで、これから始まる悲劇の舞台に幕を引くかのようだった。


「何だ、あれは。妖術か何かか?」

「構うな、進め!魔女の小細工に、怯むでないわ!」

ヴァルデック伯爵らしき男の怒鳴り声が、風に乗って聞こえてきた。

彼らは、地面にまかれた油を気にすることなくこちらへ突撃してくる。

馬のひづめが、油のせいでぬかるんだ地面に足を取られ始めていた。

彼らの速度が、明らかに落ちている。

それでも彼らは、自分たちの武勇を信じきって止まろうとはしなかった。


「ふふ、かかったわね」

私は、ほくそ笑んだ。

そして、もう一つの無色透明の液体が入った小瓶を手に取る。

中身は、高濃度の過酸化水素水と、特殊な触媒を混ぜ合わせたものだ。

この二つが混ざり合うと、爆発的な化学反応を起こして高温の蒸気と酸素を発生させる。

私はその小瓶の蓋を開けると、弓兵に手渡した。


「今度は、これをあの油の帯の中心に撃ち込んで」

「はっ!」

矢は、再び正確に目標地点へと飛んでいく。

ガラスの小瓶が、地面に叩きつけられて粉々に砕け散った。

中の液体が、重油と混じり合った。

その、瞬間だった。


ボオオオオオオオオッ!!


何の前触れもなく、地面から巨大な炎の壁が立ち上った。

重油が、過酸化水素水による急激な酸化反応で爆発的に燃え上がったのだ。

それは、もはやただの火事ではない。

数千度の熱波を伴う、地獄の炎そのものだった。

突撃してきた傭兵部隊は、逃げる間もなくその炎の壁に飲み込まれていく。


「ぎゃあああああああ!」

「熱い、熱い!助けてくれ!」


人と馬の悲鳴が、あたりに響き渡った。

鋼の鎧は、一瞬で赤く熱せられ中の人間を蒸し焼きにする。

馬は、火だるまになって狂ったように暴れ回った。

辺り一面が、肉の焦げ付く匂いと悲鳴に包まれる。

ほんの数秒前まで威勢の良かった傭兵部隊は、あっという間に壊滅状態に陥った。

かろうじて炎から逃れた者たちも、全身に大火傷を負い地面を転げ回っている。

先頭にいたヴァルデック伯爵も、燃え盛る愛馬から転げ落ちていた。

その豪華なマントに火が燃え移り、必死に地面を転がって火を消そうとしている。


「……これが、先生の言っていた科学の戦い方」

アルブレヒトが、目の前の光景に言葉を失っていた。

彼の部下たちも、同じだった。

剣を交えることもなく、血を流すこともなく、敵は一方的に滅んでいく。

そのあまりにも一方的で、そして恐ろしい光景だ。

彼らは、人間が作り出した力への恐れを感じていた。

それは、彼らが知るどんな強力な魔法よりも、無慈悲で絶対的な力だった。


私は、燃え盛る炎の向こうで無様に這いつくばるヴァルデック伯爵を見下ろしていた。

そして、静かに、しかしはっきりと聞こえる声で告げた。

「ヴァイスランドに、ようこそ。伯爵閣下」

「これが、私たちからのささやかな歓迎の挨拶ですわ」

私の声は、まるで悪魔の宣告のように彼の耳に届いたことだろう。

彼は、恐怖に引きつった顔で私を見上げた。

その瞳には、もはや戦う意志など欠片も残っていない。

ただ、純粋な恐怖と後悔の色だけが浮かんでいた。

彼は、自分たちが手を出してはいけない領域に足を踏み入れてしまったのだ。

それを、その身をもって理解した。


その頃、小屋ではエリアーデの懸命な作業が続いていた。

彼女の額には、玉のような汗が光っている。

外の轟音や悲鳴も、彼女の集中力を乱すことはなかった。

目の前の命を救う、その一点だけに彼女の全神経は注がれていた。

そしてついに、最後の工程が終わった。

彼女の手元には、黄金色に輝く液体が満たされた注射器が一本、完成していた。

人類の科学と、元聖女の祈りが生み出した奇跡の解毒薬。

彼女は、その注射器を手に衰弱しきったジークフリードへと向き直った。

彼の命の灯火は、今にも消えそうになっている。

全ては、彼女の双肩にかかっていた。

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