第二幕 ― 風彦と華子の最初の事件調査
蓮田風彦の朝は、厠の前で深呼吸することから始まるようになった。
以前は違った。
起きる。
腹の具合を確認する。
湯を沸かす。
薬を飲む。
厠へ行く。
それだけの、慎ましくも切実な朝だった。
だが今は、厠へ行く前に覚悟がいる。
なぜなら、厠には華子がいる。
厠の華子さん。
六道魔導学園北校舎三階女子厠、三番目の個室を本拠地としていた女怪異。
黒い着物。
濡羽色の長い髪。
朱の唇。
刀を持ち、鬼を斬り、紅茶にうるさく、掃除にもっと厳しい。
そして、現在は蓮田家の厠へ居座っている。
「……入りますぞ」
風彦は厠の扉の前で、控えめに声をかけた。
中から、すぐに返事がある。
「どうぞ」
どうぞ。
自宅の厠へ入るのに、どうぞと言われる生活。
風彦はいまだに慣れない。
扉を開けると、華子は便器の蓋へ腰掛け、足を揃えて紅茶を飲んでいた。
黒い着物の裾は乱れず、長い髪もきちんと整えられている。洗面台の横には小さな茶器が並び、窓辺には椿が一輪生けられていた。
風彦は無言で扉を閉めた。
数秒後、もう一度開ける。
「まだいるのでござるな」
「消えたほうがよかった?」
「できれば、使用時だけでも」
「先ほど、どうぞと言ったでしょう」
「そういう意味ではなく」
「分かっているわ。顔を洗いに来たのでしょう?」
「なぜ分かるのでござる」
「あなた、用を足すときはもっと悲壮な顔をするもの」
「観察しないでいただきたい!」
華子は紅茶を一口飲み、ふっと笑った。
「今日は少しましね。顔色」
「それは幸いでござる」
「でも、寝癖がひどいわ」
「それは霊障ではなく寝相の問題でござる」
「霊障より厄介な寝相ね」
風彦はため息をつき、洗面台へ向かった。
鏡には布がかけられている。
昨日の騒ぎ以降、華子が勝手にかけたものだった。
最初は、風彦もそこまでする必要はないと思った。
だが、学園で鏡に関わる怪談が広がり、実際に生徒が倒れたとなると、布一枚でも安心材料になる。
顔を洗おうとして、風彦は蛇口をひねった。
水が出る。
その音に、華子が微かに目を細めた。
ただの水音のはずだった。
だが華子は、何か遠くの会話を聞くように、じっと耳を澄ませている。
風彦は顔を上げた。
「華子さん?」
「静かに」
華子の声から、からかう色が消えていた。
風彦は蛇口を止めようとしたが、華子が手で制する。
「そのまま」
水は細く流れ続けている。
洗面台に当たる音。
排水口へ落ちる音。
その奥に、別の音が混じり始めた。
ざわざわ。
遠い廊下の声。
誰かの笑い声。
水が配管を伝うように、学園中の厠や手洗い場の音が、ここへ届いている。
風彦は息を呑んだ。
華子は、学園を離れたのに、まだ水を通じて校内の気配を聞いている。
厠の怪異。
水場の主。
その意味を、いまさら理解する。
「……やった?」
水音の奥から、女子生徒の声が聞こえた。
「死に顔鏡、昨日のやつ見た?」
「顔のない人、映ってたよね」
「保存したら、さっきより近づいてない?」
別の声。
男子生徒の笑い。
「鏡に名前言うだけだろ。怖がりすぎ」
「でも倒れた子いるんだぞ」
「それ、演技じゃねえの」
「じゃあ今日やってみろよ」
また別の水音。
誰かが手を洗っている。
そこに、囁くような声が混じった。
「三回名前を言うんだって」
「自分の名前?」
「そう。日没後、鏡の前で」
「死に顔が映ったらどうするの?」
「撮る」
「馬鹿じゃないの」
「だって見たいじゃん」
風彦は背筋が冷たくなるのを感じた。
水音は、ただ噂を運んでいるだけではない。
同じ言葉が、何度も何度も繰り返されている。
日没後。
鏡。
名前を三度。
死に顔。
見る。
撮る。
流す。
その言葉が水の中で混ざり、形を持ち始めているようだった。
華子は目を伏せ、紅茶のカップを置いた。
「速すぎるわね」
「速すぎる?」
「噂が育つ速度よ」
華子は流れる水を見つめた。
「怪談は、勝手に大きくなることもあるわ。けれど、ふつうはもっとむらがある。聞いた者が怖がり、面白がり、少しずつ言い換え、場所ごとに違う形になる」
「今回は違うのでござるか」
「ええ。言葉が揃いすぎている」
風彦は眉を寄せた。
「誰かが意図的に広めている、と?」
「広めているだけなら、まだ可愛らしいわ」
華子は指先でティーカップの縁をなぞる。
「噂が自然に育ったのではないわ。誰かが、育つように水をやっている」
厠の中が静かになった。
水は流れている。
その音が、急に生き物の呼吸のように聞こえた。
「誰か、でござるか」
「誰か、よ」
「華子さんは、心当たりが?」
「学園には、噂を食べるものも、記録をいじるものも、名前を欲しがるものもいるわ」
「多すぎるでござる」
「学校とは、そういう場所よ」
「そんな学校には通いたくなかったでござる」
「もう入学したでしょう?」
「初日から後悔しているでござる」
華子は微笑んだが、すぐに真顔へ戻った。
「それと、鏡の怪談は厠の怪談とは相性が悪いわ」
「相性?」
「厠は、隠す場所。流す場所。ひとりになる場所。鏡は、映す場所。返す場所。自分をもう一人にする場所」
華子は風彦へ視線を向ける。
「名前を三度告げる。鏡が死に顔を映す。それだけなら、よくある怪談よ。でも、その後ろに顔のない卒業生が映るなら話は別」
風彦の腹が小さく痛んだ。
「顔のない卒業生……」
「あなたも見たのでしょう?」
「動画で少し」
「動画で少し、ね」
華子は少し不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「便利な時代になったものね。昔は怪談を広めるにも、人の口と夜道が必要だったのに」
「今は端末で一瞬でござる」
「だから怪異も焦るのよ。ゆっくり噂になる暇もない」
風彦は布のかかった鏡を見た。
自分の顔は映らない。
それが少しだけありがたかった。
「学園へ行くのでござるか」
「あなたがね」
「華子さんは」
「わたくしは、ここにいるわ」
「置いていくのは心配でござる」
「あら。心配してくださるの?」
「家の中の茶葉と掃除道具が心配なのでござる」
「失礼ね」
「昨日、台所の茶葉を『救いようがない』と言って処分しかけたのはどなたでござったか」
「処分ではなく、供養よ」
「茶葉を供養しないでくだされ!」
華子は楽しげに笑った。
しかし、すぐに表情を引き締める。
「風彦」
名を呼ばれ、風彦は背筋を伸ばす。
「鏡を見すぎないこと。名前を問われても答えないこと。誰かが鏡の中からあなたを呼んでも、返事をしてはいけないわ」
「承知」
「それから」
「まだあるのでござるか」
「腹痛がひどくなったら、逃げなさい」
「いつもひどいので判断に困るでござる」
「普段と違う痛みなら分かるでしょう?」
風彦は黙った。
それは分かる。
嫌なことに、よく分かる。
華子は少しだけ声を柔らかくした。
「無理をするなとは言わないわ。あなた、どうせするもの」
「読まれている」
「厠では、本音が出ると言ったでしょう?」
「便利な理屈でござるな」
「ええ。便利に使っているもの」
風彦は苦笑した。
そのとき、学園端末が鳴った。
茜からの連絡だった。
文面は短い。
――朝一で集まるわよ。アサミが変なことになってる。
風彦は顔を上げる。
華子も水音から視線を外した。
「行ってくるでござる」
「ええ」
「華子さん」
「なあに?」
「くれぐれも、茶葉は」
「分かっているわ」
「本当に?」
「帰ってきたら、よい茶葉の選び方から教えて差し上げる」
「やはり何かする気でござる!」
◇
六道魔導学園の朝は、いつもより騒がしかった。
鏡の怪談が、もう日没後だけの話ではなくなっている。
昨夜のうちに、学園は校内の主要な鏡へ封印布をかけ、手洗い場の一部を閉鎖した。窓硝子や展示ケースにも簡易霊符が貼られ、魔導端末には注意喚起が届いている。
――鏡面、硝子面、水面への長時間注視を避けること。
――自分の名前を鏡へ向けて発声しないこと。
――不審な鏡像を見た場合、直ちに教職員へ通報すること。
それでも生徒たちは落ち着かない。
布で覆われた鏡を見て怖がる者。
面白がって写真を撮る者。
あえて布の隙間を覗こうとして教師に怒られる者。
怪談は、禁止されることでかえって輪郭を濃くしていた。
風彦が指定された教室へ行くと、茜とアサミはすでに来ていた。
雅琥はいない。
教室は朝の自習用に開放されている小部屋で、壁に鏡はない。窓には布がかけられ、机は四つだけ中央へ寄せてある。
茜は腕を組み、落ち着きなく足を揺らしていた。
アサミは椅子に座っている。
顔色が悪い。
鬼門の件で受けた霊障は落ち着いたはずだが、右手にはまだ薄い封印具を巻いている。
そして、机の上には小さな手鏡が伏せて置かれていた。
「おはようでござる」
風彦は慎重に挨拶した。
「おはよう」
茜の声は硬い。
「朝から呼び出してごめん。でも、これは早いほうがいいと思って」
「新垣殿の身に何か?」
アサミが静かに手鏡へ触れる。
茜が即座にその手を押さえた。
「待って。説明が先」
「分かった」
アサミは素直に手を引いた。
風彦はその様子を見て、少しだけ驚いた。
以前なら、アサミは自分の興味を優先していたかもしれない。
少なくとも、危険な資料を見つけたときの彼女はそうだった。
だが今は、茜の制止を受け入れている。
それだけで、あの鬼門の出来事が何も変えなかったわけではないと分かった。
茜は深く息を吸う。
「今朝、アサミから連絡があったの」
「はい」
「鏡に、変なのが映るって」
風彦の腹が、ゆっくりと冷えた。
アサミは伏せた手鏡を見つめる。
「鬼門痕の残留反応だと思っていた」
「鬼門痕?」
風彦が尋ねる。
「前の霊障で、ワタシの身体に鬼門境の残留座標が少し残っている。保健医からは一週間程度で薄れると言われている」
アサミは自分の右手首を見る。
「実際、痛みや悪寒は減っていた。でも、鏡にだけ反応が残る」
茜が唇を噛む。
「今朝、洗面所で見たんですって」
「自分の死に顔でござるか」
「違う」
アサミは首を振る。
「ワタシではない顔」
風彦は沈黙した。
それは、死に顔鏡の噂とは少し違う。
死に顔が映る。
つまり、本人の未来の姿が映るという噂だった。
だがアサミには、自分ではない顔が映った。
「どのような顔でござったか」
アサミは答える前に、茜を見る。
茜は嫌そうにしながらも頷いた。
「見せるなら、短く。名前は言わない。覗き込みすぎない。何か変だったらすぐ伏せる。いい?」
「うん」
アサミは手鏡をゆっくりと起こした。
風彦は眼鏡越しに、角度をずらして見る。
真正面からは見ない。
鏡面には、教室の天井と布で覆われた窓が映っている。
アサミの顔は映らない角度だ。
最初は何もなかった。
ただの鏡。
古いが清潔な、銀縁の手鏡。
だが数秒後、鏡面の奥が曇った。
曇りの向こうから、誰かの顔が浮かび上がる。
風彦の腹が刺すように痛んだ。
その顔は、アサミではなかった。
若い女の顔。
輪郭はぼやけている。
髪は濡れたように頬へ張りつき、目元だけが暗い。
口元は動いているが、声は聞こえない。
泣いているようにも、何かを訴えているようにも見えた。
アサミは鏡を見つめようとする。
茜がすぐに鏡を伏せた。
「そこまで」
鏡面が机へ伏せられ、教室の空気が少し戻る。
風彦は無意識に腹を押さえた。
「……新垣殿。これはいつから?」
「昨夜。最初は洗面所の鏡に一瞬だけ。今朝、手鏡で再確認した」
「一人で?」
茜の声が怖い。
アサミは首を振った。
「最初は一人。でも再確認前に茜へ連絡した」
「最初から呼びなさいよ」
「朝五時だった」
「起こしなさいよ!」
「眠っていると思った」
「友達が鏡に別人の顔を見たっていうなら、起こしていいの!」
アサミは少し考え、真面目に頷いた。
「次からそうする」
「次がないようにしたいのよ、こっちは!」
風彦は二人のやり取りを聞きながら、手鏡を見た。
鏡面は伏せられている。
それでも、そこに何かがいるような気配が残っている。
アサミはひとりで抱え込まなかった。
それはよいことだ。
だが、最初に見た時点で一度試してしまっている。
彼女らしい。
そして、危うい。
「新垣殿」
風彦は静かに言った。
「その顔に、見覚えは?」
「ない」
「声は?」
「聞こえない。でも口の形は読めた」
茜が身を乗り出す。
「何て言ってたの?」
アサミは伏せた手鏡へ視線を落とす。
「帰れない」
教室の空気が冷えた。
「それだけ?」
「何度も。帰れない、帰れない、と」
風彦の脳裏に、華子の言葉が蘇る。
噂が自然に育ったのではない。
誰かが、育つように水をやっている。
鏡に映る死に顔。
顔のない卒業生。
鏡の中だけに立ち続けた生徒。
そして、帰れない女の顔。
「これは、学園側へ知らせるべきでござる」
「だから呼んだの」
茜は立ち上がった。
「行くわよ」
「どこへ」
「学園長室」
「いきなりでござるか」
「いきなりよ。こういうのは、遠慮してたらまた『正式な調査の後だ』って言われるだけ」
茜の目が燃えている。
鬼門の件で、彼女は大人の沈黙にかなり腹を立てている。
それは風彦にも分かった。
「でも、学園長先生に会うには予約が必要でござる」
「稲葉家の名前を使うわ」
茜は迷いなく言った。
アサミが顔を上げる。
「茜は、家の名前を使うのが嫌では?」
「嫌よ」
「では、なぜ」
「使われるだけなのが嫌なの」
茜は自分の胸元の家紋へ触れた。
「使えるものなら、こっちから使う。父上の病も、鬼契りも、今回の鏡も、学園が何か知ってるなら聞き出す」
「強い」
アサミが淡々と言う。
茜は少し照れたように顔を逸らす。
「うるさい。強がってるだけ」
「それでも有効」
「アサミに言われると、褒められてるのか分析されてるのか分かんない」
「両方」
「ならいいわ」
風彦は苦笑した。
この二人の関係も、少し変わった。
茜はアサミを止める。
アサミは茜に報告する。
危うさはまだある。
だが、ひとりで抱え込むよりずっといい。
「では、行くでござるか」
「もちろん」
茜は扉へ向かう。
そのとき、廊下の向こうから怒鳴り声が聞こえた。
「離せ!」
雅琥の声だった。
三人は顔を見合わせ、教室を飛び出した。
◇
廊下の先で、雅琥が教師二人に取り押さえられていた。
床には割れた鏡の破片が散らばっている。
今度は手洗い場ではない。
廊下の掲示板横に設置されていた姿見だった。
封印布がかけられていたはずの鏡を、布ごと叩き割ったらしい。
雅琥の右手には、また細い切り傷が増えていた。
教師が厳しい声で言う。
「六道、昨日に続いて何度目だ!」
「割らなきゃ駄目なんだよ!」
「危険だからやめろと言っている!」
「危険だから割ってんだ!」
雅琥の声は荒い。
怒っている。
だが、その怒りの下に恐怖が見える。
風彦には、もうそれが分かる。
雅琥は鏡を割りたいのではない。
鏡がそこにあることに耐えられない。
茜が駆け寄る。
「六道くん!」
「来るな!」
雅琥は反射的に叫んだ。
その直後、自分の声に驚いたように目を伏せる。
茜は足を止めた。
「……ごめん」
雅琥が小さく言った。
その謝罪はあまりに小さく、教師たちには聞こえなかったかもしれない。
だが、茜には聞こえた。
アサミにも。
風彦にも。
風彦は、割れた鏡の破片へ視線を落とした。
破片の一つに、何かが映っている。
白い制服。
顔のない影。
それは風彦と目が合ったように見えた。
目などないのに。
腹痛が走る。
風彦は思わず一歩下がった。
そのとき、学園長室へ続く階段のほうから、低い声がした。
「何をしている」
六道玄斎だった。
廊下のざわめきが、すっと引いていく。
玄斎は教師たちへ目配せし、雅琥を離すよう促した。
教師たちは戸惑いながらも手を離す。
雅琥はすぐに距離を取った。
ただし、玄斎の顔は見ない。
「雅琥」
玄斎が名を呼ぶ。
「鏡を割るな」
「じゃあ鏡を置くな」
雅琥は即座に返した。
玄斎の表情は変わらない。
「すでに校内の主要鏡面は封印処置を進めている」
「遅えんだよ」
「おまえが勝手に割れば、封印線も壊れる」
「知るか」
「知れ」
短い言葉だった。
雅琥の肩が強張る。
茜は一歩前へ出た。
「学園長先生。今、少しお時間をいただけますか」
玄斎は茜へ視線を向ける。
「稲葉」
「あたしたちは、鏡の件で聞きたいことがあります。稲葉家次期当主候補として、正式に情報開示を求めます」
廊下にいた生徒たちがざわめく。
茜は顔を赤くしながらも、引かなかった。
家の名前を盾にする。
嫌なやり方だ。
でも、何も知らされないまま危険へ突っ込むよりはましだ。
玄斎はしばらく茜を見ていた。
それから、アサミ、風彦、雅琥へ順に視線を移す。
「来なさい」
◇
学園長室は、朝の光の中でも重苦しかった。
大きな机。
壁一面の書棚。
結界図面。
古い名簿。
窓の外に見える六道学園の全景。
玄斎は机の向こうへ座らず、立ったまま生徒たちと向き合った。
茜は腕を組み、正面から睨むように立っている。
アサミは手鏡を布で包み、両手で持っていた。
風彦は少し後ろに控え、腹を押さえている。
雅琥は部屋の扉に最も近い場所に立ち、壁の装飾鏡へ一切視線を向けない。もっとも、その鏡にはすでに封印布がかけられていた。
玄斎は最初にアサミの手鏡を見た。
「それか」
「はい」
アサミは手鏡を机の上へ置いた。
「ワタシには、自分ではない顔が映りました。『帰れない』と口の形で言っていた」
玄斎の右目が、わずかに細くなる。
「鬼門痕の影響か」
「その可能性はあります。ただ、死に顔鏡の怪談と同時発生しているため、無関係とは思えません」
「賢明な判断だ」
アサミは少しだけ目を伏せた。
「今回は、一人で調査を続けませんでした」
「それも賢明だ」
茜がすぐに言う。
「褒めるより説明してください」
玄斎は茜を見る。
その目には、わずかな苦味がある。
「君は本当に遠慮がないな」
「遠慮してたら教えてくれないでしょう」
「そうだな」
「認めるんですね」
「認める」
風彦は、玄斎が意外と正直に答えたことに驚いた。
しかし、茜はそれで満足しない。
「学園長先生。死に顔鏡は何なんですか。学園は何を知っているんですか」
玄斎は静かに答えた。
「現在流行している怪談は、単なる新規都市伝説ではない。鏡術研究棟に封じられている《返り鏡》の影響が出ている可能性がある」
雅琥の身体が、目に見えて強張った。
風彦はそれに気づく。
返り鏡。
その言葉へ、雅琥だけが過剰に反応した。
「返り鏡とは」
アサミが尋ねる。
「本来は、迷い込んだ魂魄を現世へ返すための鏡だ。鏡界へ落ちた者の名前と姿を捉え、こちら側へ呼び戻すために使われた」
「本来は、ということは」
「現在は使用禁止。鏡術研究棟の奥で封印管理されている」
「なぜ禁止に?」
玄斎は、少しだけ間を置いた。
「事故があった」
雅琥が、低く笑った。
笑いではない。
喉の奥から漏れた、荒い息だった。
「事故」
彼はようやく玄斎を見た。
「便利な言葉だな」
玄斎は雅琥へ視線を向ける。
「雅琥」
「その鏡がまた動いてんだろ」
「まだ確定ではない」
「いつもそうだ」
雅琥の声が低くなる。
「まだ確定じゃない。正式な調査の後だ。危険だから近づくな。おまえのためだ」
茜は、息を呑んだ。
それは、彼が学園長へ言っているだけではない。
もっと古い怒りだ。
ずっと胸の中に溜めていたものが、返り鏡という言葉で表に出てきている。
玄斎は表情を変えない。
だが、右手がわずかに動いた。
「鏡術研究棟へは近づくな」
玄斎は言った。
雅琥の目が鋭くなる。
「誰に言ってる」
「おまえにだ」
「他の奴らはいいのかよ」
「危険であれば全員へ立入制限を出す。だが、おまえは特に近づくな」
「理由は」
「危険だからだ」
雅琥が一歩踏み出した。
風彦は反射的に身構える。
茜も止めようとした。
だが、雅琥は玄斎へ殴りかかりはしなかった。
ただ、拳を握りしめる。
「それが理由かよ」
「そうだ」
「あんたはいつも、オレを守るって言って何も話さねえ」
学園長室の空気が凍った。
アサミは手鏡を見つめたまま、動かない。
茜は雅琥と玄斎を見比べている。
風彦は、何も言えなかった。
雅琥の声は怒っている。
しかし、その奥には痛みがあった。
「守るって言えば、何を隠してもいいのかよ」
雅琥は続けた。
「危ないから近づくな。おまえのためだ。知らなくていい。忘れろ。何回聞いたと思ってんだ」
「雅琥」
「呼ぶな!」
叫びが部屋を揺らした。
玄斎は黙る。
雅琥は肩で息をしていた。
鏡のときと同じだ。
怒りで隠している。
本当は怖い。
でも、怖いからこそ怒っている。
怖いと認めたら、あの鏡の前で動けなかった子どもに戻ってしまうから。
風彦は、そんな気がした。
玄斎は静かに言った。
「返り鏡については、私が調査する」
「オレも行く」
「駄目だ」
「決めんな」
「駄目だ」
同じ言葉。
同じ声。
雅琥の顔が、歪んだ。
「勝手にしろ」
彼は踵を返し、扉へ向かった。
「雅琥」
茜が呼ぶ。
雅琥は立ち止まらない。
「六道くん!」
それでも止まらない。
扉を開け、乱暴に出ていく。
ばたん、と扉が閉まった。
学園長室に沈黙が残る。
茜は玄斎を睨んだ。
「追わないんですか」
「今追えば、余計に離れる」
「放っておいても離れると思いますけど」
玄斎は何も言わなかった。
茜は唇を噛む。
アサミは静かに尋ねる。
「返り鏡の事故と、雅琥は関係があるのですか」
玄斎は答えない。
その沈黙が、答えに近かった。
風彦の腹が重く痛む。
鏡の怪異。
返り鏡。
雅琥の過去。
顔のない卒業生。
そして、帰れないと訴える女の顔。
すべてが、まだ見えない糸でつながっている。
玄斎は、机の上の手鏡へ封印布をかけた。
「君たちは、これ以上不用意に鏡へ触れるな」
茜が言う。
「それも『守るため』ですか」
「そうだ」
「本当に便利ですね、その言葉」
玄斎は、今度も否定しなかった。
ただ、少し疲れた声で言った。
「便利だから、間違えやすい」
茜は黙った。
アサミも。
風彦も。
その言葉だけは、嘘ではないように聞こえた。
だが、嘘ではないことと、納得できることは別だった。
窓の外で、学園の鐘が鳴る。
授業開始を告げる鐘。
その音に混じって、どこか遠くから鏡の割れる音がした気がした。
がしゃん。
誰も、その音が現実だったのかどうかを確かめなかった。
ただ、風彦の腹だけが、確かに痛みを増していた。




