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第二幕 ― 風彦と華子の最初の事件調査

 蓮田風彦の朝は、厠の前で深呼吸することから始まるようになった。


 以前は違った。


 起きる。


 腹の具合を確認する。


 湯を沸かす。


 薬を飲む。


 厠へ行く。


 それだけの、慎ましくも切実な朝だった。


 だが今は、厠へ行く前に覚悟がいる。


 なぜなら、厠には華子がいる。


 厠の華子さん。


 六道魔導学園北校舎三階女子厠、三番目の個室を本拠地としていた女怪異。


 黒い着物。


 濡羽色の長い髪。


 朱の唇。


 刀を持ち、鬼を斬り、紅茶にうるさく、掃除にもっと厳しい。


 そして、現在は蓮田家の厠へ居座っている。


「……入りますぞ」


 風彦は厠の扉の前で、控えめに声をかけた。


 中から、すぐに返事がある。


「どうぞ」


 どうぞ。


 自宅の厠へ入るのに、どうぞと言われる生活。


 風彦はいまだに慣れない。


 扉を開けると、華子は便器の蓋へ腰掛け、足を揃えて紅茶を飲んでいた。


 黒い着物の裾は乱れず、長い髪もきちんと整えられている。洗面台の横には小さな茶器が並び、窓辺には椿が一輪生けられていた。


 風彦は無言で扉を閉めた。


 数秒後、もう一度開ける。


「まだいるのでござるな」


「消えたほうがよかった?」


「できれば、使用時だけでも」


「先ほど、どうぞと言ったでしょう」


「そういう意味ではなく」


「分かっているわ。顔を洗いに来たのでしょう?」


「なぜ分かるのでござる」


「あなた、用を足すときはもっと悲壮な顔をするもの」


「観察しないでいただきたい!」


 華子は紅茶を一口飲み、ふっと笑った。


「今日は少しましね。顔色」


「それは幸いでござる」


「でも、寝癖がひどいわ」


「それは霊障ではなく寝相の問題でござる」


「霊障より厄介な寝相ね」


 風彦はため息をつき、洗面台へ向かった。


 鏡には布がかけられている。


 昨日の騒ぎ以降、華子が勝手にかけたものだった。


 最初は、風彦もそこまでする必要はないと思った。


 だが、学園で鏡に関わる怪談が広がり、実際に生徒が倒れたとなると、布一枚でも安心材料になる。


 顔を洗おうとして、風彦は蛇口をひねった。


 水が出る。


 その音に、華子が微かに目を細めた。


 ただの水音のはずだった。


 だが華子は、何か遠くの会話を聞くように、じっと耳を澄ませている。


 風彦は顔を上げた。


「華子さん?」


「静かに」


 華子の声から、からかう色が消えていた。


 風彦は蛇口を止めようとしたが、華子が手で制する。


「そのまま」


 水は細く流れ続けている。


 洗面台に当たる音。


 排水口へ落ちる音。


 その奥に、別の音が混じり始めた。


 ざわざわ。


 遠い廊下の声。


 誰かの笑い声。


 水が配管を伝うように、学園中の厠や手洗い場の音が、ここへ届いている。


 風彦は息を呑んだ。


 華子は、学園を離れたのに、まだ水を通じて校内の気配を聞いている。


 厠の怪異。


 水場の主。


 その意味を、いまさら理解する。


「……やった?」


 水音の奥から、女子生徒の声が聞こえた。


「死に顔鏡、昨日のやつ見た?」


「顔のない人、映ってたよね」


「保存したら、さっきより近づいてない?」


 別の声。


 男子生徒の笑い。


「鏡に名前言うだけだろ。怖がりすぎ」


「でも倒れた子いるんだぞ」


「それ、演技じゃねえの」


「じゃあ今日やってみろよ」


 また別の水音。


 誰かが手を洗っている。


 そこに、囁くような声が混じった。


「三回名前を言うんだって」


「自分の名前?」


「そう。日没後、鏡の前で」


「死に顔が映ったらどうするの?」


「撮る」


「馬鹿じゃないの」


「だって見たいじゃん」


 風彦は背筋が冷たくなるのを感じた。


 水音は、ただ噂を運んでいるだけではない。


 同じ言葉が、何度も何度も繰り返されている。


 日没後。


 鏡。


 名前を三度。


 死に顔。


 見る。


 撮る。


 流す。


 その言葉が水の中で混ざり、形を持ち始めているようだった。


 華子は目を伏せ、紅茶のカップを置いた。


「速すぎるわね」


「速すぎる?」


「噂が育つ速度よ」


 華子は流れる水を見つめた。


「怪談は、勝手に大きくなることもあるわ。けれど、ふつうはもっとむらがある。聞いた者が怖がり、面白がり、少しずつ言い換え、場所ごとに違う形になる」


「今回は違うのでござるか」


「ええ。言葉が揃いすぎている」


 風彦は眉を寄せた。


「誰かが意図的に広めている、と?」


「広めているだけなら、まだ可愛らしいわ」


 華子は指先でティーカップの縁をなぞる。


「噂が自然に育ったのではないわ。誰かが、育つように水をやっている」


 厠の中が静かになった。


 水は流れている。


 その音が、急に生き物の呼吸のように聞こえた。


「誰か、でござるか」


「誰か、よ」


「華子さんは、心当たりが?」


「学園には、噂を食べるものも、記録をいじるものも、名前を欲しがるものもいるわ」


「多すぎるでござる」


「学校とは、そういう場所よ」


「そんな学校には通いたくなかったでござる」


「もう入学したでしょう?」


「初日から後悔しているでござる」


 華子は微笑んだが、すぐに真顔へ戻った。


「それと、鏡の怪談は厠の怪談とは相性が悪いわ」


「相性?」


「厠は、隠す場所。流す場所。ひとりになる場所。鏡は、映す場所。返す場所。自分をもう一人にする場所」


 華子は風彦へ視線を向ける。


「名前を三度告げる。鏡が死に顔を映す。それだけなら、よくある怪談よ。でも、その後ろに顔のない卒業生が映るなら話は別」


 風彦の腹が小さく痛んだ。


「顔のない卒業生……」


「あなたも見たのでしょう?」


「動画で少し」


「動画で少し、ね」


 華子は少し不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「便利な時代になったものね。昔は怪談を広めるにも、人の口と夜道が必要だったのに」


「今は端末で一瞬でござる」


「だから怪異も焦るのよ。ゆっくり噂になる暇もない」


 風彦は布のかかった鏡を見た。


 自分の顔は映らない。


 それが少しだけありがたかった。


「学園へ行くのでござるか」


「あなたがね」


「華子さんは」


「わたくしは、ここにいるわ」


「置いていくのは心配でござる」


「あら。心配してくださるの?」


「家の中の茶葉と掃除道具が心配なのでござる」


「失礼ね」


「昨日、台所の茶葉を『救いようがない』と言って処分しかけたのはどなたでござったか」


「処分ではなく、供養よ」


「茶葉を供養しないでくだされ!」


 華子は楽しげに笑った。


 しかし、すぐに表情を引き締める。


「風彦」


 名を呼ばれ、風彦は背筋を伸ばす。


「鏡を見すぎないこと。名前を問われても答えないこと。誰かが鏡の中からあなたを呼んでも、返事をしてはいけないわ」


「承知」


「それから」


「まだあるのでござるか」


「腹痛がひどくなったら、逃げなさい」


「いつもひどいので判断に困るでござる」


「普段と違う痛みなら分かるでしょう?」


 風彦は黙った。


 それは分かる。


 嫌なことに、よく分かる。


 華子は少しだけ声を柔らかくした。


「無理をするなとは言わないわ。あなた、どうせするもの」


「読まれている」


「厠では、本音が出ると言ったでしょう?」


「便利な理屈でござるな」


「ええ。便利に使っているもの」


 風彦は苦笑した。


 そのとき、学園端末が鳴った。


 茜からの連絡だった。


 文面は短い。


 ――朝一で集まるわよ。アサミが変なことになってる。


 風彦は顔を上げる。


 華子も水音から視線を外した。


「行ってくるでござる」


「ええ」


「華子さん」


「なあに?」


「くれぐれも、茶葉は」


「分かっているわ」


「本当に?」


「帰ってきたら、よい茶葉の選び方から教えて差し上げる」


「やはり何かする気でござる!」


     ◇


 六道魔導学園の朝は、いつもより騒がしかった。


 鏡の怪談が、もう日没後だけの話ではなくなっている。


 昨夜のうちに、学園は校内の主要な鏡へ封印布をかけ、手洗い場の一部を閉鎖した。窓硝子や展示ケースにも簡易霊符が貼られ、魔導端末には注意喚起が届いている。


 ――鏡面、硝子面、水面への長時間注視を避けること。


 ――自分の名前を鏡へ向けて発声しないこと。


 ――不審な鏡像を見た場合、直ちに教職員へ通報すること。


 それでも生徒たちは落ち着かない。


 布で覆われた鏡を見て怖がる者。


 面白がって写真を撮る者。


 あえて布の隙間を覗こうとして教師に怒られる者。


 怪談は、禁止されることでかえって輪郭を濃くしていた。


 風彦が指定された教室へ行くと、茜とアサミはすでに来ていた。


 雅琥はいない。


 教室は朝の自習用に開放されている小部屋で、壁に鏡はない。窓には布がかけられ、机は四つだけ中央へ寄せてある。


 茜は腕を組み、落ち着きなく足を揺らしていた。


 アサミは椅子に座っている。


 顔色が悪い。


 鬼門の件で受けた霊障は落ち着いたはずだが、右手にはまだ薄い封印具を巻いている。


 そして、机の上には小さな手鏡が伏せて置かれていた。


「おはようでござる」


 風彦は慎重に挨拶した。


「おはよう」


 茜の声は硬い。


「朝から呼び出してごめん。でも、これは早いほうがいいと思って」


「新垣殿の身に何か?」


 アサミが静かに手鏡へ触れる。


 茜が即座にその手を押さえた。


「待って。説明が先」


「分かった」


 アサミは素直に手を引いた。


 風彦はその様子を見て、少しだけ驚いた。


 以前なら、アサミは自分の興味を優先していたかもしれない。


 少なくとも、危険な資料を見つけたときの彼女はそうだった。


 だが今は、茜の制止を受け入れている。


 それだけで、あの鬼門の出来事が何も変えなかったわけではないと分かった。


 茜は深く息を吸う。


「今朝、アサミから連絡があったの」


「はい」


「鏡に、変なのが映るって」


 風彦の腹が、ゆっくりと冷えた。


 アサミは伏せた手鏡を見つめる。


「鬼門痕の残留反応だと思っていた」


「鬼門痕?」


 風彦が尋ねる。


「前の霊障で、ワタシの身体に鬼門境の残留座標が少し残っている。保健医からは一週間程度で薄れると言われている」


 アサミは自分の右手首を見る。


「実際、痛みや悪寒は減っていた。でも、鏡にだけ反応が残る」


 茜が唇を噛む。


「今朝、洗面所で見たんですって」


「自分の死に顔でござるか」


「違う」


 アサミは首を振る。


「ワタシではない顔」


 風彦は沈黙した。


 それは、死に顔鏡の噂とは少し違う。


 死に顔が映る。


 つまり、本人の未来の姿が映るという噂だった。


 だがアサミには、自分ではない顔が映った。


「どのような顔でござったか」


 アサミは答える前に、茜を見る。


 茜は嫌そうにしながらも頷いた。


「見せるなら、短く。名前は言わない。覗き込みすぎない。何か変だったらすぐ伏せる。いい?」


「うん」


 アサミは手鏡をゆっくりと起こした。


 風彦は眼鏡越しに、角度をずらして見る。


 真正面からは見ない。


 鏡面には、教室の天井と布で覆われた窓が映っている。


 アサミの顔は映らない角度だ。


 最初は何もなかった。


 ただの鏡。


 古いが清潔な、銀縁の手鏡。


 だが数秒後、鏡面の奥が曇った。


 曇りの向こうから、誰かの顔が浮かび上がる。


 風彦の腹が刺すように痛んだ。


 その顔は、アサミではなかった。


 若い女の顔。


 輪郭はぼやけている。


 髪は濡れたように頬へ張りつき、目元だけが暗い。


 口元は動いているが、声は聞こえない。


 泣いているようにも、何かを訴えているようにも見えた。


 アサミは鏡を見つめようとする。


 茜がすぐに鏡を伏せた。


「そこまで」


 鏡面が机へ伏せられ、教室の空気が少し戻る。


 風彦は無意識に腹を押さえた。


「……新垣殿。これはいつから?」


「昨夜。最初は洗面所の鏡に一瞬だけ。今朝、手鏡で再確認した」


「一人で?」


 茜の声が怖い。


 アサミは首を振った。


「最初は一人。でも再確認前に茜へ連絡した」


「最初から呼びなさいよ」


「朝五時だった」


「起こしなさいよ!」


「眠っていると思った」


「友達が鏡に別人の顔を見たっていうなら、起こしていいの!」


 アサミは少し考え、真面目に頷いた。


「次からそうする」


「次がないようにしたいのよ、こっちは!」


 風彦は二人のやり取りを聞きながら、手鏡を見た。


 鏡面は伏せられている。


 それでも、そこに何かがいるような気配が残っている。


 アサミはひとりで抱え込まなかった。


 それはよいことだ。


 だが、最初に見た時点で一度試してしまっている。


 彼女らしい。


 そして、危うい。


「新垣殿」


 風彦は静かに言った。


「その顔に、見覚えは?」


「ない」


「声は?」


「聞こえない。でも口の形は読めた」


 茜が身を乗り出す。


「何て言ってたの?」


 アサミは伏せた手鏡へ視線を落とす。


「帰れない」


 教室の空気が冷えた。


「それだけ?」


「何度も。帰れない、帰れない、と」


 風彦の脳裏に、華子の言葉が蘇る。


 噂が自然に育ったのではない。


 誰かが、育つように水をやっている。


 鏡に映る死に顔。


 顔のない卒業生。


 鏡の中だけに立ち続けた生徒。


 そして、帰れない女の顔。


「これは、学園側へ知らせるべきでござる」


「だから呼んだの」


 茜は立ち上がった。


「行くわよ」


「どこへ」


「学園長室」


「いきなりでござるか」


「いきなりよ。こういうのは、遠慮してたらまた『正式な調査の後だ』って言われるだけ」


 茜の目が燃えている。


 鬼門の件で、彼女は大人の沈黙にかなり腹を立てている。


 それは風彦にも分かった。


「でも、学園長先生に会うには予約が必要でござる」


「稲葉家の名前を使うわ」


 茜は迷いなく言った。


 アサミが顔を上げる。


「茜は、家の名前を使うのが嫌では?」


「嫌よ」


「では、なぜ」


「使われるだけなのが嫌なの」


 茜は自分の胸元の家紋へ触れた。


「使えるものなら、こっちから使う。父上の病も、鬼契りも、今回の鏡も、学園が何か知ってるなら聞き出す」


「強い」


 アサミが淡々と言う。


 茜は少し照れたように顔を逸らす。


「うるさい。強がってるだけ」


「それでも有効」


「アサミに言われると、褒められてるのか分析されてるのか分かんない」


「両方」


「ならいいわ」


 風彦は苦笑した。


 この二人の関係も、少し変わった。


 茜はアサミを止める。


 アサミは茜に報告する。


 危うさはまだある。


 だが、ひとりで抱え込むよりずっといい。


「では、行くでござるか」


「もちろん」


 茜は扉へ向かう。


 そのとき、廊下の向こうから怒鳴り声が聞こえた。


「離せ!」


 雅琥の声だった。


 三人は顔を見合わせ、教室を飛び出した。


     ◇


 廊下の先で、雅琥が教師二人に取り押さえられていた。


 床には割れた鏡の破片が散らばっている。


 今度は手洗い場ではない。


 廊下の掲示板横に設置されていた姿見だった。


 封印布がかけられていたはずの鏡を、布ごと叩き割ったらしい。


 雅琥の右手には、また細い切り傷が増えていた。


 教師が厳しい声で言う。


「六道、昨日に続いて何度目だ!」


「割らなきゃ駄目なんだよ!」


「危険だからやめろと言っている!」


「危険だから割ってんだ!」


 雅琥の声は荒い。


 怒っている。


 だが、その怒りの下に恐怖が見える。


 風彦には、もうそれが分かる。


 雅琥は鏡を割りたいのではない。


 鏡がそこにあることに耐えられない。


 茜が駆け寄る。


「六道くん!」


「来るな!」


 雅琥は反射的に叫んだ。


 その直後、自分の声に驚いたように目を伏せる。


 茜は足を止めた。


「……ごめん」


 雅琥が小さく言った。


 その謝罪はあまりに小さく、教師たちには聞こえなかったかもしれない。


 だが、茜には聞こえた。


 アサミにも。


 風彦にも。


 風彦は、割れた鏡の破片へ視線を落とした。


 破片の一つに、何かが映っている。


 白い制服。


 顔のない影。


 それは風彦と目が合ったように見えた。


 目などないのに。


 腹痛が走る。


 風彦は思わず一歩下がった。


 そのとき、学園長室へ続く階段のほうから、低い声がした。


「何をしている」


 六道玄斎だった。


 廊下のざわめきが、すっと引いていく。


 玄斎は教師たちへ目配せし、雅琥を離すよう促した。


 教師たちは戸惑いながらも手を離す。


 雅琥はすぐに距離を取った。


 ただし、玄斎の顔は見ない。


「雅琥」


 玄斎が名を呼ぶ。


「鏡を割るな」


「じゃあ鏡を置くな」


 雅琥は即座に返した。


 玄斎の表情は変わらない。


「すでに校内の主要鏡面は封印処置を進めている」


「遅えんだよ」


「おまえが勝手に割れば、封印線も壊れる」


「知るか」


「知れ」


 短い言葉だった。


 雅琥の肩が強張る。


 茜は一歩前へ出た。


「学園長先生。今、少しお時間をいただけますか」


 玄斎は茜へ視線を向ける。


「稲葉」


「あたしたちは、鏡の件で聞きたいことがあります。稲葉家次期当主候補として、正式に情報開示を求めます」


 廊下にいた生徒たちがざわめく。


 茜は顔を赤くしながらも、引かなかった。


 家の名前を盾にする。


 嫌なやり方だ。


 でも、何も知らされないまま危険へ突っ込むよりはましだ。


 玄斎はしばらく茜を見ていた。


 それから、アサミ、風彦、雅琥へ順に視線を移す。


「来なさい」


     ◇


 学園長室は、朝の光の中でも重苦しかった。


 大きな机。


 壁一面の書棚。


 結界図面。


 古い名簿。


 窓の外に見える六道学園の全景。


 玄斎は机の向こうへ座らず、立ったまま生徒たちと向き合った。


 茜は腕を組み、正面から睨むように立っている。


 アサミは手鏡を布で包み、両手で持っていた。


 風彦は少し後ろに控え、腹を押さえている。


 雅琥は部屋の扉に最も近い場所に立ち、壁の装飾鏡へ一切視線を向けない。もっとも、その鏡にはすでに封印布がかけられていた。


 玄斎は最初にアサミの手鏡を見た。


「それか」


「はい」


 アサミは手鏡を机の上へ置いた。


「ワタシには、自分ではない顔が映りました。『帰れない』と口の形で言っていた」


 玄斎の右目が、わずかに細くなる。


「鬼門痕の影響か」


「その可能性はあります。ただ、死に顔鏡の怪談と同時発生しているため、無関係とは思えません」


「賢明な判断だ」


 アサミは少しだけ目を伏せた。


「今回は、一人で調査を続けませんでした」


「それも賢明だ」


 茜がすぐに言う。


「褒めるより説明してください」


 玄斎は茜を見る。


 その目には、わずかな苦味がある。


「君は本当に遠慮がないな」


「遠慮してたら教えてくれないでしょう」


「そうだな」


「認めるんですね」


「認める」


 風彦は、玄斎が意外と正直に答えたことに驚いた。


 しかし、茜はそれで満足しない。


「学園長先生。死に顔鏡は何なんですか。学園は何を知っているんですか」


 玄斎は静かに答えた。


「現在流行している怪談は、単なる新規都市伝説ではない。鏡術研究棟に封じられている《返り鏡》の影響が出ている可能性がある」


 雅琥の身体が、目に見えて強張った。


 風彦はそれに気づく。


 返り鏡。


 その言葉へ、雅琥だけが過剰に反応した。


「返り鏡とは」


 アサミが尋ねる。


「本来は、迷い込んだ魂魄を現世へ返すための鏡だ。鏡界へ落ちた者の名前と姿を捉え、こちら側へ呼び戻すために使われた」


「本来は、ということは」


「現在は使用禁止。鏡術研究棟の奥で封印管理されている」


「なぜ禁止に?」


 玄斎は、少しだけ間を置いた。


「事故があった」


 雅琥が、低く笑った。


 笑いではない。


 喉の奥から漏れた、荒い息だった。


「事故」


 彼はようやく玄斎を見た。


「便利な言葉だな」


 玄斎は雅琥へ視線を向ける。


「雅琥」


「その鏡がまた動いてんだろ」


「まだ確定ではない」


「いつもそうだ」


 雅琥の声が低くなる。


「まだ確定じゃない。正式な調査の後だ。危険だから近づくな。おまえのためだ」


 茜は、息を呑んだ。


 それは、彼が学園長へ言っているだけではない。


 もっと古い怒りだ。


 ずっと胸の中に溜めていたものが、返り鏡という言葉で表に出てきている。


 玄斎は表情を変えない。


 だが、右手がわずかに動いた。


「鏡術研究棟へは近づくな」


 玄斎は言った。


 雅琥の目が鋭くなる。


「誰に言ってる」


「おまえにだ」


「他の奴らはいいのかよ」


「危険であれば全員へ立入制限を出す。だが、おまえは特に近づくな」


「理由は」


「危険だからだ」


 雅琥が一歩踏み出した。


 風彦は反射的に身構える。


 茜も止めようとした。


 だが、雅琥は玄斎へ殴りかかりはしなかった。


 ただ、拳を握りしめる。


「それが理由かよ」


「そうだ」


「あんたはいつも、オレを守るって言って何も話さねえ」


 学園長室の空気が凍った。


 アサミは手鏡を見つめたまま、動かない。


 茜は雅琥と玄斎を見比べている。


 風彦は、何も言えなかった。


 雅琥の声は怒っている。


 しかし、その奥には痛みがあった。


「守るって言えば、何を隠してもいいのかよ」


 雅琥は続けた。


「危ないから近づくな。おまえのためだ。知らなくていい。忘れろ。何回聞いたと思ってんだ」


「雅琥」


「呼ぶな!」


 叫びが部屋を揺らした。


 玄斎は黙る。


 雅琥は肩で息をしていた。


 鏡のときと同じだ。


 怒りで隠している。


 本当は怖い。


 でも、怖いからこそ怒っている。


 怖いと認めたら、あの鏡の前で動けなかった子どもに戻ってしまうから。


 風彦は、そんな気がした。


 玄斎は静かに言った。


「返り鏡については、私が調査する」


「オレも行く」


「駄目だ」


「決めんな」


「駄目だ」


 同じ言葉。


 同じ声。


 雅琥の顔が、歪んだ。


「勝手にしろ」


 彼は踵を返し、扉へ向かった。


「雅琥」


 茜が呼ぶ。


 雅琥は立ち止まらない。


「六道くん!」


 それでも止まらない。


 扉を開け、乱暴に出ていく。


 ばたん、と扉が閉まった。


 学園長室に沈黙が残る。


 茜は玄斎を睨んだ。


「追わないんですか」


「今追えば、余計に離れる」


「放っておいても離れると思いますけど」


 玄斎は何も言わなかった。


 茜は唇を噛む。


 アサミは静かに尋ねる。


「返り鏡の事故と、雅琥は関係があるのですか」


 玄斎は答えない。


 その沈黙が、答えに近かった。


 風彦の腹が重く痛む。


 鏡の怪異。


 返り鏡。


 雅琥の過去。


 顔のない卒業生。


 そして、帰れないと訴える女の顔。


 すべてが、まだ見えない糸でつながっている。


 玄斎は、机の上の手鏡へ封印布をかけた。


「君たちは、これ以上不用意に鏡へ触れるな」


 茜が言う。


「それも『守るため』ですか」


「そうだ」


「本当に便利ですね、その言葉」


 玄斎は、今度も否定しなかった。


 ただ、少し疲れた声で言った。


「便利だから、間違えやすい」


 茜は黙った。


 アサミも。


 風彦も。


 その言葉だけは、嘘ではないように聞こえた。


 だが、嘘ではないことと、納得できることは別だった。


 窓の外で、学園の鐘が鳴る。


 授業開始を告げる鐘。


 その音に混じって、どこか遠くから鏡の割れる音がした気がした。


 がしゃん。


 誰も、その音が現実だったのかどうかを確かめなかった。


 ただ、風彦の腹だけが、確かに痛みを増していた。

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