第一幕 ― 死に顔を映す鏡
鬼門の騒ぎから、一週間が過ぎた。
六道魔導学園の北校舎三階は、いまだに一部立入禁止になっている。
廊下の壁は修繕用の結界布で覆われ、床板の剥がれた箇所には仮の霊木板がはめ込まれていた。放課後になると、作業用の紙式神が列を作って廊下を移動し、黒く残った鬼の爪痕を削り取っている。
表向きの発表は、無許可召喚実習による霊障事故。
学園側は、それ以上の説明をしなかった。
生徒たちは、それで納得したわけではない。
むしろ、説明が少なすぎるせいで、噂は勝手に育った。
「稲葉さんが鬼を召喚したらしい」
「新垣さんが禁書を読んだって聞いた」
「蓮田くんって、公儀の隠密なんだろ?」
「六道先輩、鬼と殴り合ったらしいよ」
「北校舎の女子厠から、刀を持った女が出たって」
最後の噂だけは、広がりかけるたびに不自然なほど失速した。
誰かが話題に出しても、すぐ別の噂へ流れる。
端末の掲示板に書き込まれても、数分で文字化けする。
動画にまとめようとした生徒は、なぜか編集画面を開くたびに厠の清掃マニュアルが表示されると言って諦めた。
それを聞いた風彦は、なんとなく理由を察した。
蓮田家の厠へ移住してからというもの、華子は自分に関する安っぽい噂をひどく嫌っている。
特に、「血まみれの女が出る」「呼ぶと殺される」「便器から手が出る」といった低俗な怪談には容赦がない。
ある夜、風彦が端末で学園掲示板を確認していると、華子は便器の蓋へ腰掛けたまま紅茶を飲み、画面を横から覗き込んで言った。
「品がないわね」
「怪談に品を求めるのでござるか」
「求めるわ。恐怖にも作法というものがあるの」
「恐怖の作法」
「ええ。雑な噂は怪異を雑にするのよ」
「怪異にもブランド管理があるのでござるな」
「あなたも気をつけなさい。『腹痛侍』で噂が固定されたら、一生その名で呼ばれるわよ」
「それは本当に困るでござる!」
その日から風彦は、腹痛侍という呼び名が学園内で定着しないよう、ひそかに祈るようになった。
しかし、噂は止めようとすると別の形で広がる。
北校舎の鬼事件が一段落したころ、学園内には新しい怪談が流行し始めていた。
鏡の怪談である。
◇
最初にその話を聞いたのは、昼休みの食堂だった。
六道魔導学園の食堂は、現代的な学生食堂と江戸の茶屋を混ぜたような場所だ。
券売機の横には霊障避けの護符が貼られ、配膳口の上には「食前食後の簡易浄化を忘れずに」と書かれた木札が下がっている。
定食の味噌汁には、日替わりで霊力安定に効く薬草が入る。味は日によって当たり外れが激しい。
その日、風彦は端の席で消化によさそうな湯豆腐定食を前にしていた。
向かいには茜。
隣にはアサミ。
そして、なぜか少し離れた斜め向かいに雅琥が座っている。
四人で食べようと約束したわけではない。
茜が「一人で食べるのも何だし」と言ってアサミを連れてきた。
アサミが「風彦に確認したいことがある」と言って風彦の席へ来た。
雅琥は「空いてる席がそこしかなかった」と言って、空いている席だらけの食堂でそこへ座った。
全員がそれぞれ別の言い訳を持ち寄った結果、同じ卓になった。
「で、蓮田くん」
茜が箸を持ったまま言う。
「今日も顔色悪いわね」
「お心遣い、痛み入るでござる」
「心配というより、観察」
「新垣殿に似てきておられる」
「やめて。あたしはまだ人の顔色を資料扱いしない」
アサミは小鉢の煮物を正確に三等分しながら言った。
「顔色は健康状態と霊障反応を示す重要な資料」
「ほら出た」
「今の風彦の顔色は、寝不足、消化器不調、軽度霊障負荷」
「合っているのが嫌でござる」
雅琥は黙って大盛りの唐揚げ定食を食べている。
その皿の横に、なぜか牛乳が三本並んでいた。
茜が横目で見る。
「六道くん、牛乳好きなの?」
「背が伸びる」
「まだ伸ばす気?」
「伸びて困ることねえだろ」
「天井に頭ぶつけるくらい?」
「そのときは天井を壊す」
「発想が白虎」
「誰が白虎だ」
雅琥が睨む。
茜は肩をすくめた。
「学園中でそう呼ばれてるわよ。六道学園の白虎」
「くだらねえ」
「強そうでいいじゃない」
「怪談みたいで嫌なんだよ」
その言葉に、風彦は少しだけ顔を上げた。
雅琥は怪談という言葉を嫌う。
鬼事件のときもそうだった。
怪異そのものに対する反応が、人一倍強い。
だがその理由を、風彦はまだ聞いていない。
聞くべきかどうかも分からなかった。
風彦が口を開く前に、隣の席から賑やかな声が聞こえてきた。
「ねえ、やった? 死に顔鏡」
「やったやった。昨日、寮の洗面所で」
「マジで映った?」
「映る直前に怖くなって逃げた」
「意味ないじゃん」
「でも先輩の動画見た? やばくない?」
「見た見た。あれ本物?」
茜が箸を止める。
「死に顔鏡?」
アサミが即座に端末を取り出した。
「今朝から学内ネットで検索数が上昇している語」
「調べるの早いわね」
「すでに調べていた」
「なんで」
「新しい怪談は発生初期の観測が重要」
「また危ない方向に興味持ってる」
「今回は試さない」
「本当?」
「一人では」
「そこ、すごく不安」
アサミの端末画面には、学園内限定の匿名掲示板が表示されていた。
投稿のいくつかには、警告色の薄い赤枠がついている。
危険な怪談や召喚手順が含まれている可能性がある投稿には、学園の管理式が自動で注意表示を出す。
だが、完全削除にはなっていない。
まだ遊びの範囲だと判断されているのだろう。
アサミは画面を読み上げる。
「日没後、鏡の前に立つ。自分の名前を三度告げる。三度目のあと、瞬きをせずに鏡を見続ける。鏡の中に、自分が死ぬときの顔が映る」
風彦の腹が、きゅっと小さく痛んだ。
軽度。
まだ警告というほどではない。
だが、嫌な感じがした。
「典型的な鏡怪談でござるな」
「既存類型との一致率は高い。名前の三度呼び、日没、鏡面凝視、未来視、死相。素材自体は珍しくない」
アサミは続ける。
「ただし、六道学園では鏡術研究棟がある。校内の鏡は通常、境界安定処理がされているはず」
「じゃあ安全なの?」
茜が聞く。
「安全処理済みの鏡で怪談が成立しているなら、むしろ危険」
「なんでそういう方向で答えるかな」
雅琥の箸が止まっていた。
彼はアサミの端末を見ていない。
むしろ、画面そのものから視線を逸らしている。
「くだらねえ」
吐き捨てるように言う。
「鏡なんか見るな。終わりだ」
茜が眉を上げる。
「極端ね」
「見る必要ねえだろ」
「身だしなみとか」
「どうでもいい」
「いや、どうでもよくはないでしょ。制服の襟、いつも曲がってるし」
「曲がって困ったことねえ」
「先生に注意されてるじゃない」
「困ってるのは先生だ」
「強い理論」
アサミは雅琥をじっと見る。
「雅琥は鏡が嫌い?」
「好きな奴のほうが変だろ」
「一般には、身支度、自己確認、魔導媒介として広く利用される。嫌悪率は個人差がある」
「統計でこっち見るな」
「恐怖?」
雅琥の目が、鋭くアサミへ向いた。
食堂の空気が一瞬だけ固まる。
茜が慌てて口を挟んだ。
「アサミ、そういう聞き方」
「ごめん」
アサミはすぐに言った。
雅琥は何も答えず、唐揚げを乱暴に口へ運ぶ。
風彦はその手を見た。
箸を持つ指が、わずかに震えていた。
それは怒りだけではない。
鬼を見たときと同じ、呼吸の浅さがあった。
雅琥は怪異が怖い。
それはすでに分かっている。
だが、鏡に対する反応はそれ以上だった。
「六道殿」
風彦が静かに言う。
雅琥は目だけで睨む。
「何だよ、腹痛侍」
「その呼び名は本当に定着させないでいただきたいのでござる」
「じゃあ何だよ」
「いえ。何でもござらん」
「何でもない顔じゃねえだろ」
風彦は困ったように笑う。
「拙者、そういう顔をするのが得意なので」
「得意げに言うな」
茜が端末を覗き込みながら言った。
「でも、こういうのって本当に試す人いるのよね。学園側も注意喚起すればいいのに」
「注意喚起すると、逆に増える場合がある」
アサミが言う。
「禁止された怪談は、試したくなる。特に発生条件が簡単なものは拡散しやすい」
「じゃあどうするの」
「初期段階で、実例を確認する」
「試す気じゃないでしょうね」
「試さない。一人では」
「だからそこ!」
風彦の腹が、もう一度痛んだ。
今度は少し強い。
刺す痛みではない。
冷えでもない。
鏡面に指を這わせたような、薄く気持ちの悪い痛み。
風彦は湯豆腐を見下ろした。
食欲が消えかけている。
湯豆腐に罪はない。
だが、怪談の話を聞きながら食べるには、あまりにも白すぎた。
◇
その日の放課後。
死に顔鏡の噂は、すでに学園中へ広がっていた。
魔導学園の生徒たちは、怪異の危険を一般の学校よりずっと知っている。
それでも、怖いものを試したい年頃であることには変わりない。
むしろ、半端に知識があるぶん、自分なら大丈夫だと思ってしまう。
鏡術基礎を履修している上級生。
召喚術の成績がよい生徒。
動画配信に慣れた寮生。
彼らは「安全確認」「検証」「噂の鎮静化」といったもっともらしい理由をつけて、夕暮れの鏡の前に立った。
日没後の女子寮洗面所。
男子寮の更衣室。
本校舎二階の手洗い場。
部室棟の姿見。
そして、北校舎に近い古い廊下の壁掛け鏡。
学内端末で撮影した動画が、匿名でいくつも投稿された。
最初は、笑い声が混じっていた。
『いきまーす』
『やばいって、ほんとにやんの?』
『名前言うだけだろ』
『三回ね、三回』
動画の中で、生徒が鏡の前に立つ。
夕暮れの薄暗い洗面所。
白い照明。
背後に並ぶ蛇口。
鏡面には、撮影者の端末を構えた手と、緊張を笑いでごまかす友人たちの顔が映っている。
生徒は、自分の名前を言った。
一度目。
笑い声。
二度目。
少しだけ声が小さくなる。
三度目。
その瞬間、動画の音声が一瞬だけ乱れた。
鏡に映る生徒の顔が、わずかに遅れて動く。
本人が笑っているのに、鏡の中の顔は笑っていない。
『今、ずれた?』
『編集?』
『してねえって』
動画はそこで終わっている。
コメント欄はすぐに盛り上がった。
フェイクだ。
本物だ。
加工だ。
鏡術研究棟の生徒なら簡単にできる。
いや、端末の霊障ノイズが本物。
そんな会話が何十件も続いた。
次の動画は、もう少し長かった。
男子生徒が更衣室の姿見の前でふざけている。
彼は自分の名前を三度言い、鏡へ向かって変顔をした。
周囲の友人たちが笑う。
だが、鏡の奥の廊下に、白い制服の人影が立っていた。
撮影時には誰も気づいていない。
投稿後、コメント欄で指摘され、動画は一気に拡散された。
白い旧式制服。
黒い頭巾のような影。
顔の部分だけが、ぼやけている。
目も鼻も口もない。
それは、誰か一人の背後にいるのではなかった。
鏡の中の廊下の奥から、こちらを見ている。
誰にでもなく。
画面を見ている全員に向かって。
その動画は、投稿から十分で閲覧制限がかかった。
しかし、制限される前に保存した生徒たちがいた。
保存された動画は、別の端末へ移る。
画質が荒くなる。
音声が歪む。
顔のない人影だけが、妙にくっきりしていく。
◇
風彦は、学園からの帰り道、その動画を見た。
正確には、見せられた。
茜が端末を突きつけてきたのである。
「見て。これ」
「できれば見たくないのでござるが」
「そういうこと言うから見せたくなるのよ」
「その理屈は危険な怪談を試す生徒と同じでござる」
「いいから」
学園門前の甘味処前だった。
夕暮れを少し過ぎ、門前町の提灯型境界灯が淡く灯り始めている。
アサミは茜の隣で、すでに同じ動画を何度も見返していた。
雅琥はいない。
放課後になると、彼は「用がある」とだけ言って姿を消した。
その言い方があまりに不自然だったので、誰も追及できなかった。
風彦は茜の端末画面を覗き込んだ。
更衣室の動画。
ふざける男子生徒。
笑い声。
鏡。
そして、奥に立つ顔のない影。
見た瞬間、腹が痛んだ。
鋭くはない。
だが、嫌な痛みだった。
名前を引っ張られるような痛み。
風彦は思わず端末から目を逸らす。
「どう?」
茜が聞く。
「どう、と言われましても」
「本物?」
風彦は答える前に、アサミを見る。
アサミは頷いた。
「加工痕は検出されていない。端末の霊障ノイズも自然。ただし、動画を再保存するたびに背後の人影が鮮明化している」
「それ、自然じゃないでござる」
「うん。自然ではない」
茜は顔をしかめる。
「じゃあ本物なの?」
「本物、という表現は難しい」
アサミが言う。
「鏡に映った時点で現実とは限らない。けれど、映像上の霊的干渉は存在する」
「つまり?」
「かなり危険」
「最初からそう言って」
風彦は門のほうを振り返った。
学園の敷地内は、すでに夜へ向かっている。
校舎の窓に灯りがつき、あちこちの結界柱が青白く光っていた。
その灯りの中で、鏡というものが急に別の意味を持ちはじめる。
窓硝子。
端末画面。
食堂のステンレス。
水面。
反射するものは、すべて薄い境界になり得る。
「学園へ報告したほうがよいでござる」
「もう管理式が検知しているはず」
アサミが言う。
「でも、制限が遅い」
「理由は?」
「まだ被害者が出ていないから」
その言葉の直後、茜の端末が震えた。
同時に、アサミの端末も。
風彦の学園端末も、遅れて通知音を鳴らした。
――本校舎二階、洗面所付近で生徒が意識消失。
――周辺生徒は教職員の指示に従い、鏡面を直視しないこと。
――未確認の怪談検証行為を禁止。
茜は端末を握りしめた。
「出たじゃない」
風彦の腹が、深く沈むように痛んだ。
「戻るでござる」
「言うと思った」
「ワタシも行く」
アサミが即座に言う。
茜は一瞬迷い、それから頷いた。
「もちろん行くわよ。放っておけないでしょ」
「普通は教師に任せるでござる」
「なら蓮田くんだけ戻る理由もないわよね?」
「拙者は腹痛が」
「言い訳が雑!」
「実際痛いのでござる!」
言い合いながら、三人は学園へ引き返した。
◇
本校舎二階の洗面所は、すでに封鎖されていた。
廊下には教師が数人立ち、周囲の生徒たちを遠ざけている。
しかし騒ぎを聞きつけた生徒たちが遠巻きに集まり、ざわめきは消えない。
「見た?」
「倒れたんだって」
「鏡の中に何かいたって」
「死に顔、本当に映ったのかな」
「やばくない?」
「動画撮れた?」
教師が声を荒げる。
「撮影禁止! 端末を下げなさい!」
風彦たちは廊下の角で足を止めた。
封鎖線の向こう、洗面所の床に、女子生徒が倒れている。
保健医と教師が対応していた。
倒れた生徒の顔色は悪いが、呼吸はある。
問題は、鏡だった。
洗面台の大きな鏡。
そこには、倒れた女子生徒が映っていなければならない。
実際、床に倒れた彼女の姿は鏡の中にも映っていた。
しかし、鏡の中の彼女は倒れていなかった。
立っていた。
洗面台の前に、まっすぐに。
現実の身体は床に横たわっている。
だが鏡像だけが、こちらを向いて立っている。
顔は俯いていて見えない。
髪が垂れ、肩が小さく上下している。
まるで泣いているようだった。
「なに、あれ……」
茜の声が震えた。
アサミは一歩前へ出ようとし、風彦に肩を掴まれた。
「近づかないで」
「観測距離が」
「近いと引かれるでござる」
「引かれる?」
「鏡の中へ」
アサミは口を閉じた。
風彦は鏡を見つめすぎないよう、視線を少しずらして観察する。
腹痛は強い。
刺す痛みではない。
冷えでもない。
もっと薄い。
自分の顔と名前の間に、紙を一枚差し込まれるような感覚。
鏡像だけが立っている。
あれは本人の魂の一部か。
それとも、本人の姿を借りた別のものか。
教師の一人が、鏡へ封印布をかけようとした。
その瞬間、鏡の中の女子生徒が顔を上げた。
現実の彼女は意識を失っている。
だが鏡の中の目だけが、開いた。
その口が動く。
音は聞こえない。
けれど、風彦には何を言っているか分かった。
――わたしの名前を呼ばないで。
封印布が鏡へかかった。
同時に、倒れていた女子生徒が小さく息を吐いた。
鏡像は見えなくなる。
廊下のざわめきは、かえって大きくなった。
「今、動いたよな?」
「鏡の中のほう」
「やばいやばい」
「本物じゃん」
「誰か録ってた?」
「だから撮るな!」
教師たちが生徒を下がらせる。
風彦は茜とアサミを連れて廊下の角へ戻った。
茜の顔は強張っている。
「冗談じゃないわね」
「はい」
風彦は頷く。
「これは、もう怪談遊びではござらん」
アサミは静かに言った。
「鏡像が本人から独立している。意識消失と同時に、魂魄または名前の一部が鏡面へ転写された可能性」
「つまり?」
茜が聞く。
「放置すると、現実の本人と鏡像のどちらが本体か分からなくなる」
「最悪」
「うん」
アサミは真顔で頷いた。
「最悪」
風彦は封鎖線の向こうをもう一度見た。
教師たちが鏡を覆い、倒れた生徒を運び出している。
だが風彦の腹痛は消えなかった。
むしろ、別の場所から新しい痛みが来ている。
本校舎だけではない。
学園中の鏡が、わずかに震えている。
噂が形を持ち始めている。
そして、その背後にいるものが、生徒たちの名前を探している。
◇
最初の鏡が割れたのは、その十分後だった。
がしゃん、と乾いた音が本校舎の廊下に響いた。
続いて、教師の怒鳴り声。
「六道! 何をしている!」
風彦たちが駆けつけたとき、廊下の姿見が粉々に割れていた。
鏡の破片が床に散らばり、その中央に雅琥が立っている。
右手には、掃除用具入れから持ち出したらしい金属製のモップ柄。
鏡を叩き割ったのだろう。
雅琥の呼吸は荒い。
額には汗。
銀白色の髪が乱れ、目は血走っている。
教師二人が彼を取り押さえようとしていたが、雅琥はモップ柄を構えたまま後ずさっている。
「近づくな」
「六道、落ち着け!」
「鏡を片づけろ」
「危険だから下がれ」
「違う!」
雅琥の声が、廊下に響いた。
「鏡が危険なんだよ!」
周囲の生徒たちがざわめく。
「また六道?」
「やっぱり問題児じゃん」
「鏡割って回ってるって本当?」
「さっき二階の洗面所にもいたらしいよ」
「怖がってんの?」
「白虎が?」
笑いが混じった。
雅琥の肩がびくりと震える。
その反応は一瞬だったが、風彦は見逃さなかった。
怒りではない。
恥でもない。
恐怖。
雅琥は、割れた鏡の破片を見ないようにしている。
床へ散らばった破片一つ一つが、小さな鏡になっている。そこに自分の顔が映るのを避けるように、視線を壁へ固定していた。
それでも、モップ柄を持つ手は震えている。
教師が一歩踏み出した。
「六道、得物を下ろしなさい」
「先にそれを片づけろ」
「落ち着けと言っている」
「だから、鏡を片づけろって言ってんだよ!」
雅琥が怒鳴った瞬間、廊下の反対側で、また鏡の割れる音がした。
別の手洗い場だ。
誰かが割ったわけではない。
壁の鏡が、内側から押されたようにひび割れた。
ひびの奥で、一瞬だけ白い制服の影が揺れた。
生徒たちが悲鳴を上げる。
教師たちの注意がそちらへ逸れた。
その隙に、雅琥は別の鏡へ走ろうとした。
「止まるでござる!」
風彦が前へ出た。
雅琥の前に立ちはだかる。
体格差は明らかだ。
雅琥が本気で押せば、風彦など簡単にどかせる。
だが風彦は退かなかった。
「どけ」
雅琥の声は低い。
「どかないでござる」
「どけって言ってんだろ」
「その手で鏡を割り続けたら、破片で怪我をするでござる」
「知るか」
「知ってください」
「おまえに関係ねえ」
「あります」
風彦は雅琥の右手を見た。
モップ柄を握る手が震えている。
関節が白くなるほど力が入っている。
手の甲には、鏡の破片で切ったらしい細い傷があった。
血がにじんでいる。
「六道殿」
「名前で呼ぶな」
「雅琥殿」
「もっと嫌だ!」
「では六道殿」
「くそ、調子狂うな!」
雅琥の怒鳴り声に、茜が後ろから言った。
「いや、今のは蓮田くんが悪い」
「拙者でござるか!?」
「この状況で呼び方を試すのは変」
「それはそうかもしれませぬが」
アサミが静かに言う。
「雅琥、鏡を割る理由を説明して」
「説明してる時間がねえんだよ」
「説明しないと、教師には問題行動として扱われる」
「もう扱われてる」
「さらに悪化する」
「知るか」
「知って」
アサミの声には、いつもの淡々とした調子があった。
だが、その奥に少しだけ心配が混じっている。
雅琥はそれを感じ取ったのか、目を逸らした。
しかし、鏡の破片のほうへは向けない。
風彦は、ゆっくりと言った。
「怖いのでござるな」
空気が凍った。
茜が息を呑む。
アサミも、わずかに目を開く。
雅琥の顔が歪んだ。
「……何だと」
「鏡が怖いのでござる」
「黙れ」
「笑っているのではござらん」
「黙れって言ってんだよ」
雅琥の手が震える。
モップ柄の先が床を叩いた。
金属音が鳴る。
周囲の生徒たちが一歩下がった。
風彦は退かない。
腹痛がじわじわと強くなっている。
割れた鏡の破片から、薄い冷気が上がっていた。
それだけではない。
雅琥の周囲にも、何かが揺らいでいる。
怒りと恐怖が混ざり、足元の現世を強く踏みしめるような気配。
鬼事件のとき、扉を蹴り破った瞬間にも感じたもの。
彼はただの喧嘩屋ではない。
何かを現世へ固定する力がある。
だが今は、その力が恐怖で乱れている。
「六道殿」
風彦は声を落とした。
「今、鏡を全部割っても終わらないでござる」
「じゃあどうする」
「調べる」
「調べてる間に、誰かが引き込まれたら?」
「だから一緒に止める」
「一緒?」
雅琥が吐き捨てるように笑った。
「おまえらに何が分かる」
「分からないので、聞こうとしているでござる」
「聞くな」
「では、今は聞かない」
風彦は、雅琥の手元を見た。
「ただし、その手を離してくだされ」
「嫌だ」
「では、せめてこちらへ渡してくだされ」
「同じだろ」
「違うでござる。自分で離すか、人に奪われるかでは、だいぶ違う」
雅琥は風彦を睨んだ。
睨みながら、モップ柄を握る手がさらに震える。
風彦は待った。
茜も、アサミも、何も言わなかった。
教師たちも近づけずにいる。
やがて雅琥は、低く悪態をついた。
「……くそ」
モップ柄が床へ落ちた。
乾いた音が響く。
同時に、雅琥の身体から力が抜けた。
教師二人が駆け寄り、彼の両腕を押さえる。
雅琥は抵抗しなかった。
ただ、割れた鏡の破片だけは最後まで見なかった。
「六道雅琥。器物損壊および危険行為として、指導室へ来なさい」
教師が告げる。
雅琥は笑った。
荒い、投げやりな笑いだった。
「また反省文かよ」
「当然だ」
「題は何だ。『私はなぜ鏡を割ったのか』か?」
「希望するならそうする」
「希望なんかしてねえ」
雅琥は教師に連れられて歩き出す。
すれ違いざま、風彦の横で足を止めた。
「余計なこと言うな」
「努力するでござる」
「努力じゃなくて黙れ」
「それは難しいかと」
「難しくすんな」
雅琥は小さく吐き捨て、歩いていった。
その背中は大きい。
乱暴で、強そうで、周囲の生徒たちが避けて通る背中。
だが風彦には、彼の右手がまだ震えているのが見えた。
教師に連れられながらも、彼は拳を握りしめている。
鏡の破片に映る自分を、見ないために。
茜が風彦の隣へ来る。
「……あれ、ただ暴れてるだけじゃないわよね」
「はい」
アサミも割れた鏡を見つめている。
教師たちが封印布をかけ始めた破片の一つに、白い影が映った。
すぐに消える。
「死に顔鏡は、雅琥の恐怖を刺激している」
アサミが言う。
「それだけ?」
茜が尋ねる。
「分からない。でも、鏡の怪異と雅琥の過去には関係がある可能性が高い」
風彦はうなずく。
廊下の遠くで、また鏡に封印布がかけられる音がした。
布の向こうから、誰かが笑ったような気がした。
顔のない卒業生。
死に顔を映す鏡。
雅琥の震える手。
そして、学園のどこかで、また一つ鏡がひび割れる音。
がしゃん。
新しい怪談は、もう遊びではなくなっていた。




