第六幕 ― 勝者
教師たちが北校舎三階へ駆けつけたとき、そこにあったのは、ほとんど災害現場だった。
廊下の壁は裂け、床板はめくれ、天井の一部は剥がれ落ちている。
教室から女子厠へ続く廊下には、黒く焦げたような跡が点々と残っていた。鬼の爪が触れた場所では、木材が焼けたのではなく、古く腐ったように変色している。
普通の火災でも、爆発でもない。
霊障事故。
教師たちはその言葉を使った。
その言葉を使えば、ひとまず多くの説明を先送りにできる。
北校舎の階段は封鎖され、下級生は本校舎へ避難させられた。清掃式神が破片を集めようとしては、黒い焦げ跡へ近づいた瞬間に紙屑へ戻り、担当教師が慌てて封印札を貼り直す。
講堂では臨時の安全確認が行われ、学園の魔導端末には一斉通知が流れた。
――北校舎三階にて小規模霊障事故発生。
――生徒は教職員の指示に従い、該当区域へ近づかないこと。
――未確認の噂を流布しないこと。
最後の一文は、霊的鎖国後の学校ではよくある注意だった。
怪談は、語られることで形を得る。
危険な噂が急速に広がれば、それだけで新しい怪異の型になる。
だから学園は、生徒へ「怖がるな」とは言わない。
ただし、「勝手に名前をつけるな」と言う。
しかし、生徒たちの間で噂を完全に止めることなどできなかった。
「北校舎に鬼が出たらしい」
「稲葉さんが召喚に失敗したって」
「いや、新垣さんが禁書で何かやったんだって」
「六道が壁を蹴り壊したらしい」
「蓮田って誰?」
「なんか、腹痛で倒れてた眼鏡の子」
「三階の女子厠から女の人の笑い声がしたって」
噂はもう、水のように流れ始めていた。
その中心にいた四人は、保健室と事情聴取室を行き来することになった。
◇
保健室の窓の外では、夕暮れが夜へ変わりかけていた。
白いカーテンが結界風に揺れている。普通の風ではない。室内へ入り込んだ霊気を外へ流すための、保健室専用の浄化循環だ。
アサミはベッドの上で上半身を起こしていた。
顔色はまだ悪い。
右手首には、憑依痕を抑えるための白い包帯が巻かれている。その上から細い銀線の封印具が嵌められ、脈に合わせて淡く光っていた。
保健医は「今日はもう安静」と言った。
アサミは「分かりました」と答えた。
その三分後、彼女は枕元へ隠していた記録帳を開いた。
「分かってないじゃない!」
茜が即座に取り上げた。
茜の両手にも包帯が巻かれている。鬼と茜縄でつながったときにできた切り傷だ。深くはないが、霊的な痛みが残っているのか、ときどき指先を握り直している。
アサミは記録帳を奪われた手を空中へ伸ばしたまま、静かに言った。
「返して」
「駄目。寝てなさい」
「寝ている姿勢で記録する」
「そういう問題じゃない」
「記録は鮮度が重要」
「命のほうが重要!」
「命を守るためにも記録が」
「屁理屈!」
茜は記録帳を自分の背中の後ろへ隠した。
アサミは少し考え、今度は枕の下へ手を入れようとする。
「ちょっと待って。まだ何か隠してる?」
「予備の記録紙」
「没収!」
「横暴」
「命の恩人権限よ」
「命を救ったのは、風彦と華子と雅琥も」
「全員で没収権限を発動するわ!」
隣の椅子に座っていた風彦は、腹を押さえながら弱々しく手を上げた。
「拙者も賛成でござる。新垣殿は今日は安静がよろしいかと」
アサミは風彦を見る。
「風彦も寝たほうがいい」
「拙者は横になると腹部が圧迫されて逆につらいのでござる」
「診察対象」
「遠慮したいでござる」
「興味深い症状」
「その目で見ないでいただきたい!」
風彦は思わず椅子ごと後ずさった。
保健室の隅では、雅琥が壁にもたれて立っている。
彼だけはベッドへ座ることを拒否した。
保健医に何度も「顔色が悪い」と言われたが、「元からだ」と言い張った。
実際には、まだ少し青い。
鬼を見たときの震えは治まっているが、完全に戻ったわけではない。鏡のほうは見ない。保健室の洗面台の鏡には、誰かが気を利かせて布をかけていた。
雅琥は腕を組んだまま、三人のやり取りを聞いていた。
「おまえら、元気だな」
「元気じゃないわよ。元気じゃないから喋ってるの」
茜が言う。
「意味分かんねえ」
「黙ったら怖いじゃない」
その言葉に、雅琥は一瞬だけ黙った。
それから、視線を外したまま小さく言う。
「……それは、まあ」
「分かる?」
「分からねえとは言ってねえ」
茜は意外そうに目を瞬かせた。
風彦はそのやり取りを見て、少しだけ表情を緩める。
先ほどまで命の危険に晒されていた四人が、今はくだらない言い合いをしている。
それだけで、少しだけ現実に戻ってこられた気がした。
だが、その空気は長く続かなかった。
保健室の扉が静かに開いた。
六道玄斎が立っていた。
黒に近い長羽織。
左目を覆う煙色の封印眼鏡。
講堂で訓示をしていたときと同じ姿だったが、その気配は少し違っていた。
学園長としての顔。
そして、封門守としての顔。
風彦には、後者が分かった。
玄斎は室内を見渡し、四人の状態を確認した。
アサミの包帯。
茜の手。
雅琥の顔色。
風彦の眼鏡と、まだわずかに揺れている影。
「全員、命に別状はないようだな」
低い声。
茜が背筋を伸ばす。
アサミはベッドの上で姿勢を正そうとして、茜に止められた。
雅琥だけが壁にもたれたまま動かない。
「学園長先生」
茜が先に口を開いた。
「今回のことは、あたしたちが――」
「事情は聞いている」
玄斎は遮らなかった。
ただ、静かに続けた。
「無許可の召喚術式使用。封印資料庫由来と思われる写本の持ち出し。北校舎内での霊障発生。校舎設備の損壊。鬼門境への一時接続」
並べられると、かなりの大事件だった。
茜の顔が引きつる。
アサミは淡々と補足した。
「写本を持ち出したのはワタシです。茜は、内容の全容を知らなかった」
「ちょっと」
茜が振り返る。
「全部一人で被るつもり?」
「事実」
「事実じゃない。あたしも同意した」
「危険性の説明が不十分だった」
「あたしだって止められたのに止めなかった」
「二人とも」
玄斎の声が、二人の言い合いを静かに止めた。
怒鳴ったわけではない。
しかし、室内の空気がすっと締まる。
「責任の所在を競う必要はない。後日、正式な報告書を書いてもらう」
「報告書……」
茜がうめく。
「反省文より面倒そう」
雅琥がぼそりと言った。
玄斎が雅琥を見る。
「おまえにも書いてもらう」
「俺は召喚してねえ」
「北校舎三階の扉を破壊した」
「あれは逃げ道作ったんだろ」
「その点は評価する」
雅琥は言葉に詰まった。
玄斎は続ける。
「だが、破壊した事実は消えない」
「結局、書くのかよ」
「書く」
「題は?」
「『私はなぜ状況を確認せず扉を蹴破ったのか』」
「正気か?」
「正気だ」
雅琥は舌打ちしたが、それ以上言い返さなかった。
貝塚教師の反省文よりは、まだ納得できると思ってしまったのが悔しかった。
茜は思い切って玄斎へ向き直る。
「学園長先生。あの鬼は、稲葉家と関係があるんですか」
玄斎は、すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、茜は胸が冷えるのを感じた。
知らないわけではない。
この人は、何かを知っている。
「今回の事案は、無許可召喚実習による霊障事故として処理する」
玄斎は言った。
茜の眉が上がる。
「答えになってません」
「今ここで答えるべき内容ではない」
「じゃあ、いつなら答えるんですか」
「正式な調査の後だ」
「大人って、都合が悪くなるとすぐ正式って言いますよね」
茜の声には怒りがあった。
風彦は少しだけ心配になる。
相手は学園長だ。
しかも六道玄斎は、ただの教育者ではない。
しかし茜は引かなかった。
「あたしの父の病と、今日の鬼は関係ありますか」
玄斎は茜を見る。
その右目には、責める色も、誤魔化す色もなかった。
ただ、何かを押し殺したような静けさがある。
「稲葉家へは、こちらから連絡を入れる」
「それも答えじゃない」
「今の君へ、断片的な答えを与えれば、次の危険を招く」
「知らないまま危険に突っ込んだから、こうなったんですけど」
保健室の空気が重くなる。
雅琥が壁際で顔をしかめた。
それは同意の顔だった。
アサミはベッドの上で、じっと玄斎を観察している。
風彦もまた、玄斎の左目を覆う封印眼鏡を見ていた。
玄斎は、生徒たちの視線を受け止めた。
ほんの少しだけ、疲れたように見えた。
「重い処分は下さない」
玄斎は言った。
「今回の件は、学園側の管理責任も大きい。写本が生徒の手に渡ったこと。北校舎の結界異常を事前に察知できなかったこと。いずれも学園が調査する」
アサミが口を開く。
「写本の改竄についても?」
玄斎の視線がアサミへ向く。
「写本は預かる」
「証拠です」
「だから預かる」
「ワタシも確認したい」
「許可なく封印資料へ触れた者に、現時点で再確認を許可することはできない」
「では、監督付きなら」
「新垣」
玄斎の声が、少しだけ厳しくなった。
「今日は休め」
アサミは数秒、玄斎を見返した。
それから静かに頷く。
「分かりました」
茜が小声で言う。
「本当に分かってる?」
「半分」
「半分しか分かってないじゃない」
「残り半分はあとで考える」
「考えるな、休め」
雅琥が低く言った。
アサミは少しだけ目を細める。
「雅琥も休むべき」
「俺は平気だ」
「手が震えている」
「うるせえ」
「事実」
「おまえ、さっきから俺に遠慮ねえな」
「命を運んでもらったので、観察対象としての距離が縮まった」
「縮めんな」
茜は思わず笑いそうになり、すぐに顔を引き締めた。
玄斎はそのやり取りを見て、ほんのわずかに目元を緩めた。
すぐに、いつもの無表情へ戻る。
「稲葉、新垣、六道。三名は今日は帰宅、または寮へ戻りなさい。保護者および担当教員にはこちらから連絡する」
風彦は、自分の名が呼ばれなかったことに気づいた。
腹の奥が、今度は霊障とは別の理由で重くなる。
玄斎は風彦へ視線を向けた。
「蓮田。君は学園長室へ来なさい」
茜が即座に反応した。
「なんで蓮田くんだけ?」
「確認することがある」
「なら、あたしたちも」
「稲葉」
玄斎は静かに言った。
「君も確認される側だ。今日は休みなさい」
茜は悔しそうに唇を噛む。
風彦は立ち上がろうとして、腹を押さえた。
身体がふらつく。
アサミが見上げる。
「歩ける?」
「なんとか」
「嘘」
「歩けるふりならできるでござる」
「それは歩けるとは言わない」
雅琥が壁から離れ、面倒くさそうに風彦の腕を掴んだ。
「途中まで支える」
「六道殿、ありがたいでござるが」
「倒れられると邪魔だ」
「素直ではない親切、痛み入るでござる」
「黙って歩け」
風彦は苦笑した。
ほんの数時間前まで、まともに話したこともなかった相手だ。
それなのに、今は肩を貸されている。
不思議な日だった。
最悪の日で、奇妙な日で、たぶん忘れられない日だった。
◇
学園長室は、本校舎の最上階にあった。
廊下の奥、黒い木の扉の向こう。
中へ入ると、古い和室と現代的な執務室が混ざったような空間が広がっている。
床は板張り。
壁際には書棚。
棚には魔導法令集、古い巻物、結界図面、卒業名簿が並んでいる。
大きな机の上には、紙の書類と魔導端末が同じだけ積まれていた。
窓の外には学園全体が見える。
本校舎。
図書塔。
鏡術研究棟。
そして、赤い立入禁止の結界灯が点る北校舎。
風彦は椅子へ座るよう促された。
断ろうとしたが、腹痛と疲労に負けて座った。
玄斎は机の向こうへ回らず、窓際に立った。
しばらく北校舎を見ている。
「蓮田風彦」
「はい」
「公儀怪異対策局、学園監視任務付き見習い隠密」
風彦は、背筋を伸ばした。
やはり知られていた。
驚きは少ない。
六道玄斎ほどの人物が、学園へ送り込まれた監視役の存在に気づかないはずがない。
ただ、実際に口にされると、腹痛とは別の冷えが走る。
「……ご存じでござったか」
「入学手続きの時点で、公儀から通達が来ている」
「では、監視されているのは拙者のほうでもあったわけでござるな」
「そうだ」
即答だった。
風彦は少し笑った。
「隠密とは」
「君の場合、隠密というより、観察対象を兼ねた連絡係だろう」
「大変身も蓋もないでござる」
「蓮田家の血を、君自身がどう扱うか。公儀も見ている」
風彦は黙る。
自分の手を見る。
まだ少し震えている。
鬼門への道を開いたとき、影が変わった。
茜も、雅琥も、アサミも見たはずだ。
人間とは違うもの。
自分がなるべく隠してきたもの。
「報告されますか」
「何を」
「拙者が黄風を使ったこと。異相肢が出かけたこと。学園生徒の前で、封印具を外して真視を使ったこと」
玄斎は振り返る。
「必要があれば報告する」
「つまり、今は必要ないと?」
「今のところは」
風彦は、その言い方の曖昧さに苦笑する。
「ありがたい、と思うべきでござるか」
「君がどう思うかは、君が決めればいい」
玄斎は机の上から一枚の封印札を取り上げた。
それは北校舎三階女子厠の結界状態を示す監視札らしかった。
札の中央には、黒い花の印が浮かんでいる。
その花弁の一枚が、ゆっくりと揺れていた。
「三番厠の華子と接触したな」
「はい」
「勝負をしたか」
「しました」
「条件は」
「鬼を退けること。華子さんが先なら、拙者が頼みを一つ聞く。拙者が先なら、全員を逃がし、学園について一つ答える」
「結果は」
風彦は答えに詰まった。
「……共同作業、と主張したいところでござる」
「彼女はどう言った」
「自分が勝ったと」
「だろうな」
玄斎は、ほんのわずかにため息をついた。
それは華子の性格を知っている者のため息だった。
「華子さんは、何者なのでござるか」
風彦は尋ねた。
この機会を逃すべきではないと思った。
「学園七不思議の一つ」
「それだけではござらんでしょう」
「それ以上は、今の君へ話す段階ではない」
「またそれでござるか」
風彦は思わず言った。
声に、自分でも驚くほど苛立ちが滲んだ。
玄斎は怒らなかった。
ただ静かに風彦を見る。
「君は、知れば背負う性格をしている」
「知らないせいで背負わされることもあります」
「その通りだ」
玄斎は否定しなかった。
「だからこそ、私も間違える」
風彦は口を閉じた。
その言葉は、予想外だった。
六道玄斎は、間違いを認める人間には見えなかった。
いや、正確には、間違いを認めても、それで判断を変えるとは限らない人間に見えた。
「華子は、学園の契約領域から一時的に外れている」
玄斎は言った。
「外れている?」
「君との勝負が、彼女に別の接続先を作った。厠の主としての契約に、君との一時契約が割り込んだ形だ」
「それは、危険なのでござるか」
「非常に」
玄斎は淡々と答えた。
「学園結界の古い錠前が一つ、持ち場を離れかけているのだからな」
「では、戻すべきでは」
「本来ならそうだ」
本来なら。
その言葉に、風彦は引っかかりを覚えた。
玄斎は封印札を机へ置く。
「だが、今の北校舎は内側から干渉を受けている。華子をそのまま戻せば、彼女の契約を逆用される可能性がある」
「誰に」
「分からない」
玄斎の答えは短かった。
だが風彦には、それが嘘ではないと分かった。
玄斎は何かを隠している。
しかし、すべてを知っているわけではない。
「今日の廊下の歪み。職員室へ向かう道が閉じられました。鬼の力だけではない」
「気づいたか」
「はい。校則を知っている怪異、という言い方をしました」
玄斎の右目が、わずかに細くなる。
「面白い表現だ」
「笑い事ではござらん」
「笑ってはいない」
玄斎は窓の外の北校舎を見た。
「しばらく学園の外へ置け」
風彦は、すぐには意味を理解できなかった。
「はい?」
「華子を、だ」
「置け、と申されましても」
「君との契約で、彼女は君の周辺へ移動できる可能性がある。学園内に戻すより、そのほうが安全だ」
「拙者の安全は」
「危険だ」
「即答!」
「だが、彼女は約束を守る。少なくとも、君が契約を破らないかぎり、君自身を害することはない」
「頼みの内容が未確定なのでござるが」
「それは君が受けた勝負だ」
「学園長先生まで、その解釈でござるか……」
風彦は頭を抱えた。
腹痛がまた少し戻ってきた。
華子を学園外へ置け。
簡単に言う。
だが、どうやって。
華子が自宅へ来るとでもいうのか。
いや、まさか。
まさかであってほしい。
「華子さんは、学園の守護神ではないのでござるか」
「そう呼ばれている」
「呼ばれている、だけ?」
玄斎は答えなかった。
風彦はその沈黙で理解した。
華子は守護神と呼ばれている。
しかし、それは本人が自由に選んだ名ではないのかもしれない。
何かを守るために縛られている。
先ほど、華子自身も言っていた。
守護神なんて、都合のよい呼び方だと。
「蓮田」
玄斎が言う。
「公儀へは、必要最低限の報告をする。君からも報告は求められるだろう。だが、華子の一時離脱については、私の管理下での措置として扱う」
「拙者は何をすれば」
「普通の生徒として過ごせ」
「それが一番難しいのでござるが」
「だろうな」
「否定してくださらない」
「君は普通ではない」
玄斎の言葉は、静かだった。
風彦の胸が少しだけ痛む。
言われ慣れた言葉だ。
だが、玄斎の声には侮蔑がなかった。
「だが、普通ではないことと、生徒でないことは同じではない」
風彦は顔を上げた。
玄斎は、相変わらず表情を変えない。
「君は今日、任務ではなく、自分の判断で三人を助けた。それは記録しておく」
風彦は言葉に詰まった。
褒められたのか。
評価されたのか。
それとも、ただ事実を記録されただけなのか。
分からない。
分からないが、少しだけ息がしやすくなった。
「……ありがとうございます」
「礼を言う必要はない」
「では、取り消すでござる」
「そこは受け取っておけ」
「難しいでござる」
玄斎の目元が、ほんのわずかに緩んだ気がした。
すぐに戻る。
「今日は帰りなさい。体調が悪いなら、迎えを手配する」
「いえ、自力で帰れるでござる」
「本当にか」
「歩けるふりなら」
「迎えを手配する」
「自力で帰れます!」
◇
その頃、アサミは保健室で写本を見ていた。
もちろん、玄斎からは「預かる」と言われていた。
だから、彼女が見ているのは写本そのものではない。
儀式の前に取っておいた簡易転写記録だった。
紙ではない。
魔導解析鏡で読み取った霊的文字圧の写しを、個人用の薄い記録札へ焼きつけたもの。
保健医が少し目を離した隙に、アサミはそれを取り出した。
茜は椅子に座ったまま、腕を組んで監視している。
「それも没収したはずなんだけど」
「これは別」
「何個持ってるの、記録媒体」
「必要数」
「その必要数って、何個?」
「状況による」
「答えなさい」
「七」
「多い!」
アサミは悪びれなかった。
茜はため息をつく。
「本当に少しだけよ。顔色悪いんだから」
「うん」
「うんって言いながら長くやる顔ね」
「努力する」
「努力じゃなくて約束」
アサミは茜を見た。
先ほど図書塔で、自分が言われた言葉だ。
彼女は少しだけ目を伏せる。
「約束する。確認だけ」
茜は渋々頷いた。
アサミは記録札を起動する。
薄い板の上に、古い写本の文字列が浮かび上がった。
稲葉家の鬼契り。
召喚手順。
名問い。
鬼門への座標。
そして、問題の末尾。
アサミは指先で文字列を拡大した。
そこで、動きが止まった。
「……ない」
茜が顔を上げる。
「何が?」
「最後の一節」
アサミは記録札を茜へ見せる。
そこには、儀式直前に見たはずの黒い一文がなかった。
固定式。
アサミが違和感を覚えた箇所。
風彦が「依代を差し出すための門」と断じた部分。
それだけが、綺麗に消えている。
紙面に穴が空いたのではない。
最初から何も書かれていなかったかのように、前後の文章が自然につながっていた。
「記録札の故障?」
茜が尋ねる。
「違う。霊的転写にも残っていない」
「じゃあ、あの文字は何だったのよ」
「分からない」
アサミは唇を引き結んだ。
分からない。
その言葉を口にするのが、少しだけ悔しかった。
怪異には構造がある。
発生した理由がある。
従う規則がある。
そう思ってきた。
けれど今日、自分は規則を読み違えた。
こちらが記録を読むとき、記録もこちらを読んでいる。
そのことを、身体を奪われる寸前で知った。
「誰かが消したの?」
茜の声が低くなる。
「可能性は高い」
「誰」
「候補は複数。学園の結界管理者。公儀。稲葉家関係者。写本そのものに潜んでいた怪異。あるいは――」
アサミはそこで言葉を止めた。
茜が眉を寄せる。
「あるいは?」
「今日、校舎を歪めた何か」
保健室の空気が少し冷えた。
アサミは自分の記録帳を開く。
茜が止めようとしたが、アサミの顔を見て手を止めた。
そこにはいつもの淡々とした好奇心だけではない。
恐怖と、責任感があった。
アサミはページをめくる。
儀式前のメモ。
稲葉家の症状比較。
西洋式魔法陣の座標。
茜との約束。
そこまでは、自分の筆跡だった。
次のページで、二人は息を呑んだ。
白い紙の中央に、一行だけ文字があった。
アサミの筆跡ではない。
黒いインク。
いや、インクに見えるだけで、紙そのものが変色しているようにも見える。
文字は丁寧で、どこか学校の掲示文のように整っていた。
――卒業に必要な者、五名を確認。
茜は、その文字を読み上げなかった。
読み上げてはいけない気がした。
アサミも黙っている。
数秒後、茜が小さく言った。
「五名って」
「風彦、茜、ワタシ、雅琥」
「あと一人」
アサミは答えなかった。
だが二人とも思い浮かべていた。
三番目の個室から現れた女。
華子。
茜は、背筋が冷えるのを感じた。
「誰が書いたの」
「分からない」
「またそれ」
「でも、分からないと記録できる」
「前向きなのか何なのか、分かんないわね」
アサミは記録帳を閉じた。
「これは隠さない。明日、風彦たちにも見せる」
「学園長先生には?」
アサミは少し考える。
「見せる。ただし、写しを取ってから」
「反省してる?」
「している」
「ほんとに?」
「だから、共有する」
茜はアサミを見た。
たしかに、それは少しだけ反省の形だった。
ひとりで抱え込まない。
自分なら制御できると思わない。
少なくとも、アサミは今日の失敗を、なかったことにはしようとしていない。
茜は小さく息を吐いた。
「明日、みんなで怒られましょう」
「うん」
「あと、今日は寝る」
「うん」
「記録媒体、残り何個?」
「……六」
「全部出しなさい」
「それは研究継続に支障が」
「出しなさい」
アサミは、少しだけ残念そうに枕の下、袖の内側、術具鞄の底、包帯の隙間から記録札を取り出した。
茜は頭を抱えた。
「包帯の隙間は反則でしょ」
「非常用」
「非常用の使い方を間違えてる!」
◇
夜。
蓮田風彦は、学園から少し離れた古い平屋へ帰り着いた。
公儀が用意した住居である。
表向きは親戚所有の家ということになっているが、実際には監視と保護を兼ねた住宅だ。
木造の小さな平屋。
古い門。
庭には手入れの行き届かない植木。
周囲の家々から少し離れており、夜になると虫の声がよく聞こえる。
家の中は静かだった。
人の気配はない。
靴を脱ぎ、廊下へ上がると、風彦はその場に座り込みそうになった。
疲れた。
本当に疲れた。
腹も痛い。
頭も痛い。
公儀への報告文も書かなければならない。
玄斎からは「必要最低限でよい」と言われたが、公儀が必要最低限で満足するとは思えない。
しかも、三番目の華子を学園外へ置けという謎の指示まで受けている。
「置けと言われましても……」
風彦は誰もいない廊下で呟いた。
「怪異を荷物のように置けるなら、苦労はしないのでござるよ」
返事はない。
当たり前だ。
この家には自分しかいない。
風彦は制服の上着を脱ぎ、壁に掛ける。
手を洗い、うがいをし、台所で白湯を沸かした。
薬を飲む。
ようやく少しだけ人心地がつく。
人間、白湯と下痢止めがあれば、多少の霊障には耐えられる。
いや、耐えたくはない。
風彦は湯呑みを両手で包みながら、深く息を吐いた。
今日の出来事が、頭の中を何度も巡る。
茜の赤い縄。
アサミの憑依。
雅琥の震える手。
鬼の「名を返せ」という声。
華子の刀。
そして、自分の影。
茜たちは見た。
自分の人間ではない部分を。
明日、どんな顔をされるだろう。
怖がられるか。
距離を置かれるか。
あるいは、何も聞かないでいてくれるか。
それはそれで、怖い。
風彦は湯呑みを置いた。
「考えても仕方ないでござる」
まずは風呂。
それから報告。
その前に、厠。
今日一日、腹がひどい目に遭いすぎた。
風彦は廊下の奥へ向かう。
この家の厠だけは、やけに設備が新しかった。
古い平屋の中で、そこだけ温水洗浄便座つきの現代仕様である。公儀の担当官が「健康管理上必要」と判断した結果だった。
風彦にとってはありがたい。
怪異よりも腹痛のほうが日常的な敵なのだ。
彼は厠の扉の前で、ふと足を止めた。
中から、微かな香りがした。
紅茶。
そして花の香り。
風彦は、しばらく扉を見つめた。
開けたくない。
今日だけで何度そう思っただろう。
だが、自宅の厠を開けないわけにはいかない。
風彦は恐る恐る扉を開けた。
そこに、華子がいた。
便器の蓋を閉じ、その上へ優雅に腰掛けている。
黒い戦装束ではなく、少し緩やかな黒い着物姿だった。長い濡羽色の髪は背中へ流れ、白い指先には湯気の立つティーカップがある。
どこから用意したのか、小さな茶器まで洗面台の横へ並べられていた。
厠の芳香剤は、なぜか片隅へ追いやられている。
代わりに、椿の花が一輪、ガラスの小瓶に生けられていた。
華子は風彦を見ると、当たり前のように微笑んだ。
「あら。お帰りなさい」
風彦は無言で扉を閉めた。
数秒。
もう一度開ける。
華子はまだいた。
「お帰りなさい」
「……なぜ」
「はい?」
「なぜ、拙者の家の厠にいらっしゃるのでござるか」
華子はティーカップを置いた。
「厠だから」
「説明になっていないでござる」
「あなたのお家、外観は古いのに厠はなかなかよいわね。暖房便座というの? これは素晴らしい発明だわ」
「気に入っていただけたようで何よりでござる。ではなく」
「それと、少し掃除が甘い」
「申し訳ござらん。今日はいろいろあったもので」
「日頃の積み重ねでしょう?」
「初日から厳しい!」
華子は楽しげに笑った。
風彦は額を押さえる。
「どうやってここへ」
「勝負の対価よ」
「まだ頼みを聞いていないでござる」
「ええ。だから、まずは取り憑く場所を決めたの」
「順番がおかしい!」
「おかしくないわ。あなたがわたくしを呼び、わたくしが勝った。契約は成立しているもの」
「共同作業だったと主張したいのでござるが」
「却下」
「玄斎先生にも却下されました」
「分かっている方ね、あの人」
「癪でござる」
風彦は扉の前で立ち尽くした。
いろいろ聞きたいことはある。
学園のこと。
鬼契りのこと。
華子自身のこと。
なぜ玄斎が「学園外へ置け」と言ったのか。
なぜ華子はそれを知っているかのようにここへ来たのか。
しかし、それらを聞く前に一つだけ、どうしても確認しなければならないことがあった。
「華子さん」
「なあに?」
「拙者、この厠を使ってもよろしいのでござるか」
華子はしばらく風彦を見つめた。
それから、くすりと笑う。
「必要なら、席を外して差し上げるわ」
「それはありがたいのでござるが、そもそも自宅の厠で許可を取る状況がすでにおかしいでござる」
「慣れなさい」
「慣れたくない!」
「大丈夫よ。人は大抵のことに慣れるもの」
「慣れてはいけないこともあるでござる!」
華子はティーカップを持ち直した。
「ちなみに、紙は補充しておいたわ」
「そこはありがとうございます!」
「素直ね」
「重要事項でござるから!」
風彦は深く息を吐いた。
疲労が限界を超えると、人間は妙に冷静になるらしい。
いや、自分が人間かどうかという問題は今は横へ置く。
目の前に華子がいる。
自宅の厠にいる。
紅茶を飲んでいる。
これが現実だ。
風彦は認めたくない現実を認めることにした。
「華子さん」
「はい」
「頼みとは、何でござるか」
華子はティーカップを膝の上へ置いた。
その笑みが、少しだけ深くなる。
「言ったでしょう?」
「まだ何も」
「あの勝負、勝ったのはわたくしよ」
風彦の背筋が冷える。
華子は便器の蓋に腰掛けたまま、まるで自分の屋敷の座敷にいるような優雅さで告げた。
「ですから、あなたには一生取り憑かせてもらうわ」
風彦は固まった。
廊下の虫の声が、やけに遠く聞こえる。
「……一生」
「ええ」
「比喩でござるか」
「比喩ではないわね」
「期間の再交渉は」
「却下」
「月極めは」
「何の賃貸契約かしら」
「日割り」
「けち臭いわね」
「拙者の人生設計に大きな影響があるのでござる!」
「人生設計があるようには見えないけれど」
「それは大変失礼では!?」
華子は声を立てて笑った。
その笑い声は、昼間の女子厠で聞いたものより、少しだけ近かった。
怪異の声ではなく、同じ家の中から聞こえる誰かの声に近い。
風彦はそのことに気づいて、少しだけ困った。
怖い。
迷惑だ。
絶対に面倒なことになる。
けれど、完全に嫌だとは思い切れない自分がいる。
今日、華子は鬼を斬った。
茜を助けた。
アサミを守る時間を作った。
雅琥の震えを笑いながらも、弱さそのものを踏みにじりはしなかった。
そして風彦の影を見ても、怪物を見る目をしなかった。
それがどれほど珍しいことか、風彦自身が一番よく知っている。
「……一生は困るでござる」
風彦は小さく言った。
「どうして?」
「拙者にも生活が」
「厠にいるだけよ」
「それが生活の中枢なのでござる!」
「なら、よい場所を選んだわね」
「前向きに解釈しすぎでござる!」
華子はゆっくりと立ち上がった。
便器の蓋から降り、風彦の前へ歩いてくる。
厠の狭い空間では、距離が近い。
花の香りと紅茶の香りが混ざる。
華子は風彦の顔を覗き込んだ。
「あなた、今日の鬼を見て逃げなかった」
「逃げたでござる」
「戻ったでしょう」
「逃げ道がなかったのでござる」
「それでも、誰かを置いてはいかなかった」
風彦は黙る。
華子の黒い瞳は、からかっているようでいて、奥底だけは真面目だった。
「あなたは、自分をずいぶん低く見積もっているのね」
「適正評価でござる」
「いいえ。過小評価よ」
「華子さんに拙者の何が分かるのでござるか」
「厠では、人はだいたい本音を漏らすものよ」
「拙者、まだ漏らしていないでござる!」
「そういう意味ではないわ」
「今日の流れでその表現は危険でござる!」
華子はまた笑った。
風彦は脱力する。
この女怪異、真面目な話とふざけた話の境界を平気で行き来する。
厄介だ。
とても厄介だ。
だが、気づけば腹痛が少し和らいでいた。
華子が厠にいるからなのか、紅茶の香りのせいなのか、それとも単に疲れすぎて痛覚が鈍ったのかは分からない。
「これから、どうするつもりでござるか」
風彦が尋ねる。
「ここへ住むわ」
「即答」
「まずは、この厠をわたくし好みに整えるところからね」
「拙者の意見は」
「聞いてあげる」
「反映は」
「内容によるわ」
「実質、華子さんの支配下では?」
「気づくのが早いわね」
「褒められていない!」
華子は洗面台の横へ置いた茶器を見た。
「それと、紅茶の茶葉がよくない」
「勝手に家捜しされたのでござるか」
「厠へ住む以上、周辺環境の確認は必要でしょう?」
「範囲が広い!」
「台所は近かったわ」
「外へ出ている!」
「少しだけ」
「怪異の少しだけは信用ならないでござる!」
風彦は頭を抱えた。
この先の生活が、容易に想像できてしまう。
厠の掃除に口を出される。
紅茶を要求される。
夜中に怪談めいた声で起こされる。
公儀への報告には書けないことが増える。
学園では茜たちと今日の件を調べなければならない。
稲葉家の鬼契り。
アサミの記録帳に残った謎の一文。
雅琥の恐怖。
玄斎の沈黙。
華子の正体。
普通の学園生活は、初日で終わった。
いや、始まる前から無理だったのかもしれない。
風彦は長く息を吐いた。
「分かりました」
華子が眉を上げる。
「あら。受け入れるの?」
「受け入れないと、ここに居座るのでござろう?」
「ええ」
「なら、せめて規則を決めるでござる」
「規則?」
「使用中は退室」
「よろしいわ」
「勝手に家の中を歩き回らない」
「努力する」
「努力ではなく約束」
華子は、どこかで聞いたような言い回しに楽しげに目を細めた。
「約束するわ。できる範囲で」
「範囲が不穏でござる」
「それから?」
「紙の補充は共同責任」
「重要なのね」
「重要でござる」
「分かったわ」
華子は右手を差し出した。
風彦はその手を見る。
昼間も握った。
冷たくて、深い水のような手。
握ればまた、何かが結ばれる気がした。
けれど今さらだ。
もう勝負は成立している。
取り憑かれることも、ほぼ確定している。
なら、せめて自分の意思で手を取る。
風彦は華子の手を握った。
「よろしくお願いするでござる、華子さん」
「ええ。よろしく、風彦」
名前を呼ばれた。
ただそれだけなのに、風彦は少しだけ息を止めた。
公儀の記録番号でも、ハスターの血でも、腹痛侍でもない。
蓮田風彦。
その名前を、華子はごく自然に呼んだ。
華子は手を放し、再び便器の蓋へ腰掛けた。
まるで当然のようにティーカップを持ち上げる。
「では、まず掃除道具の場所を教えてくださる?」
「今からでござるか」
「汚れは、気づいたときに落とすものよ」
「拙者、今日はもう倒れたいのでござるが」
「倒れる前に、床だけ」
「厳しい!」
風彦の嘆きに、華子は楽しげに笑った。
古い平屋の小さな厠に、女怪異の笑い声が響く。
その声は、これから始まる厄介な日々を告げる鐘のようでもあり。
奇妙な相棒関係の始まりを祝う、ささやかな祝詞のようでもあった。
こうして、蓮田風彦の平穏な一人暮らしは、入学初日の夜に終わった。
そして、厠の華子さんは、六道魔導学園の三番目の個室から、蓮田家の厠へ移り住んだ。




