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厠の華子さん―ネオ江戸魔導学園怪異録―  作者: 秋月キアラ
第1話 ― 三番目の個室に華は咲く
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7/26

第六幕 ― 勝者

 教師たちが北校舎三階へ駆けつけたとき、そこにあったのは、ほとんど災害現場だった。


 廊下の壁は裂け、床板はめくれ、天井の一部は剥がれ落ちている。


 教室から女子厠へ続く廊下には、黒く焦げたような跡が点々と残っていた。鬼の爪が触れた場所では、木材が焼けたのではなく、古く腐ったように変色している。


 普通の火災でも、爆発でもない。


 霊障事故。


 教師たちはその言葉を使った。


 その言葉を使えば、ひとまず多くの説明を先送りにできる。


 北校舎の階段は封鎖され、下級生は本校舎へ避難させられた。清掃式神が破片を集めようとしては、黒い焦げ跡へ近づいた瞬間に紙屑へ戻り、担当教師が慌てて封印札を貼り直す。


 講堂では臨時の安全確認が行われ、学園の魔導端末には一斉通知が流れた。


 ――北校舎三階にて小規模霊障事故発生。


 ――生徒は教職員の指示に従い、該当区域へ近づかないこと。


 ――未確認の噂を流布しないこと。


 最後の一文は、霊的鎖国後の学校ではよくある注意だった。


 怪談は、語られることで形を得る。


 危険な噂が急速に広がれば、それだけで新しい怪異の型になる。


 だから学園は、生徒へ「怖がるな」とは言わない。


 ただし、「勝手に名前をつけるな」と言う。


 しかし、生徒たちの間で噂を完全に止めることなどできなかった。


「北校舎に鬼が出たらしい」


「稲葉さんが召喚に失敗したって」


「いや、新垣さんが禁書で何かやったんだって」


「六道が壁を蹴り壊したらしい」


「蓮田って誰?」


「なんか、腹痛で倒れてた眼鏡の子」


「三階の女子厠から女の人の笑い声がしたって」


 噂はもう、水のように流れ始めていた。


 その中心にいた四人は、保健室と事情聴取室を行き来することになった。


     ◇


 保健室の窓の外では、夕暮れが夜へ変わりかけていた。


 白いカーテンが結界風に揺れている。普通の風ではない。室内へ入り込んだ霊気を外へ流すための、保健室専用の浄化循環だ。


 アサミはベッドの上で上半身を起こしていた。


 顔色はまだ悪い。


 右手首には、憑依痕を抑えるための白い包帯が巻かれている。その上から細い銀線の封印具が嵌められ、脈に合わせて淡く光っていた。


 保健医は「今日はもう安静」と言った。


 アサミは「分かりました」と答えた。


 その三分後、彼女は枕元へ隠していた記録帳を開いた。


「分かってないじゃない!」


 茜が即座に取り上げた。


 茜の両手にも包帯が巻かれている。鬼と茜縄でつながったときにできた切り傷だ。深くはないが、霊的な痛みが残っているのか、ときどき指先を握り直している。


 アサミは記録帳を奪われた手を空中へ伸ばしたまま、静かに言った。


「返して」


「駄目。寝てなさい」


「寝ている姿勢で記録する」


「そういう問題じゃない」


「記録は鮮度が重要」


「命のほうが重要!」


「命を守るためにも記録が」


「屁理屈!」


 茜は記録帳を自分の背中の後ろへ隠した。


 アサミは少し考え、今度は枕の下へ手を入れようとする。


「ちょっと待って。まだ何か隠してる?」


「予備の記録紙」


「没収!」


「横暴」


「命の恩人権限よ」


「命を救ったのは、風彦と華子と雅琥も」


「全員で没収権限を発動するわ!」


 隣の椅子に座っていた風彦は、腹を押さえながら弱々しく手を上げた。


「拙者も賛成でござる。新垣殿は今日は安静がよろしいかと」


 アサミは風彦を見る。


「風彦も寝たほうがいい」


「拙者は横になると腹部が圧迫されて逆につらいのでござる」


「診察対象」


「遠慮したいでござる」


「興味深い症状」


「その目で見ないでいただきたい!」


 風彦は思わず椅子ごと後ずさった。


 保健室の隅では、雅琥が壁にもたれて立っている。


 彼だけはベッドへ座ることを拒否した。


 保健医に何度も「顔色が悪い」と言われたが、「元からだ」と言い張った。


 実際には、まだ少し青い。


 鬼を見たときの震えは治まっているが、完全に戻ったわけではない。鏡のほうは見ない。保健室の洗面台の鏡には、誰かが気を利かせて布をかけていた。


 雅琥は腕を組んだまま、三人のやり取りを聞いていた。


「おまえら、元気だな」


「元気じゃないわよ。元気じゃないから喋ってるの」


 茜が言う。


「意味分かんねえ」


「黙ったら怖いじゃない」


 その言葉に、雅琥は一瞬だけ黙った。


 それから、視線を外したまま小さく言う。


「……それは、まあ」


「分かる?」


「分からねえとは言ってねえ」


 茜は意外そうに目を瞬かせた。


 風彦はそのやり取りを見て、少しだけ表情を緩める。


 先ほどまで命の危険に晒されていた四人が、今はくだらない言い合いをしている。


 それだけで、少しだけ現実に戻ってこられた気がした。


 だが、その空気は長く続かなかった。


 保健室の扉が静かに開いた。


 六道玄斎が立っていた。


 黒に近い長羽織。


 左目を覆う煙色の封印眼鏡。


 講堂で訓示をしていたときと同じ姿だったが、その気配は少し違っていた。


 学園長としての顔。


 そして、封門守としての顔。


 風彦には、後者が分かった。


 玄斎は室内を見渡し、四人の状態を確認した。


 アサミの包帯。


 茜の手。


 雅琥の顔色。


 風彦の眼鏡と、まだわずかに揺れている影。


「全員、命に別状はないようだな」


 低い声。


 茜が背筋を伸ばす。


 アサミはベッドの上で姿勢を正そうとして、茜に止められた。


 雅琥だけが壁にもたれたまま動かない。


「学園長先生」


 茜が先に口を開いた。


「今回のことは、あたしたちが――」


「事情は聞いている」


 玄斎は遮らなかった。


 ただ、静かに続けた。


「無許可の召喚術式使用。封印資料庫由来と思われる写本の持ち出し。北校舎内での霊障発生。校舎設備の損壊。鬼門境への一時接続」


 並べられると、かなりの大事件だった。


 茜の顔が引きつる。


 アサミは淡々と補足した。


「写本を持ち出したのはワタシです。茜は、内容の全容を知らなかった」


「ちょっと」


 茜が振り返る。


「全部一人で被るつもり?」


「事実」


「事実じゃない。あたしも同意した」


「危険性の説明が不十分だった」


「あたしだって止められたのに止めなかった」


「二人とも」


 玄斎の声が、二人の言い合いを静かに止めた。


 怒鳴ったわけではない。


 しかし、室内の空気がすっと締まる。


「責任の所在を競う必要はない。後日、正式な報告書を書いてもらう」


「報告書……」


 茜がうめく。


「反省文より面倒そう」


 雅琥がぼそりと言った。


 玄斎が雅琥を見る。


「おまえにも書いてもらう」


「俺は召喚してねえ」


「北校舎三階の扉を破壊した」


「あれは逃げ道作ったんだろ」


「その点は評価する」


 雅琥は言葉に詰まった。


 玄斎は続ける。


「だが、破壊した事実は消えない」


「結局、書くのかよ」


「書く」


「題は?」


「『私はなぜ状況を確認せず扉を蹴破ったのか』」


「正気か?」


「正気だ」


 雅琥は舌打ちしたが、それ以上言い返さなかった。


 貝塚教師の反省文よりは、まだ納得できると思ってしまったのが悔しかった。


 茜は思い切って玄斎へ向き直る。


「学園長先生。あの鬼は、稲葉家と関係があるんですか」


 玄斎は、すぐには答えなかった。


 その沈黙だけで、茜は胸が冷えるのを感じた。


 知らないわけではない。


 この人は、何かを知っている。


「今回の事案は、無許可召喚実習による霊障事故として処理する」


 玄斎は言った。


 茜の眉が上がる。


「答えになってません」


「今ここで答えるべき内容ではない」


「じゃあ、いつなら答えるんですか」


「正式な調査の後だ」


「大人って、都合が悪くなるとすぐ正式って言いますよね」


 茜の声には怒りがあった。


 風彦は少しだけ心配になる。


 相手は学園長だ。


 しかも六道玄斎は、ただの教育者ではない。


 しかし茜は引かなかった。


「あたしの父の病と、今日の鬼は関係ありますか」


 玄斎は茜を見る。


 その右目には、責める色も、誤魔化す色もなかった。


 ただ、何かを押し殺したような静けさがある。


「稲葉家へは、こちらから連絡を入れる」


「それも答えじゃない」


「今の君へ、断片的な答えを与えれば、次の危険を招く」


「知らないまま危険に突っ込んだから、こうなったんですけど」


 保健室の空気が重くなる。


 雅琥が壁際で顔をしかめた。


 それは同意の顔だった。


 アサミはベッドの上で、じっと玄斎を観察している。


 風彦もまた、玄斎の左目を覆う封印眼鏡を見ていた。


 玄斎は、生徒たちの視線を受け止めた。


 ほんの少しだけ、疲れたように見えた。


「重い処分は下さない」


 玄斎は言った。


「今回の件は、学園側の管理責任も大きい。写本が生徒の手に渡ったこと。北校舎の結界異常を事前に察知できなかったこと。いずれも学園が調査する」


 アサミが口を開く。


「写本の改竄についても?」


 玄斎の視線がアサミへ向く。


「写本は預かる」


「証拠です」


「だから預かる」


「ワタシも確認したい」


「許可なく封印資料へ触れた者に、現時点で再確認を許可することはできない」


「では、監督付きなら」


「新垣」


 玄斎の声が、少しだけ厳しくなった。


「今日は休め」


 アサミは数秒、玄斎を見返した。


 それから静かに頷く。


「分かりました」


 茜が小声で言う。


「本当に分かってる?」


「半分」


「半分しか分かってないじゃない」


「残り半分はあとで考える」


「考えるな、休め」


 雅琥が低く言った。


 アサミは少しだけ目を細める。


「雅琥も休むべき」


「俺は平気だ」


「手が震えている」


「うるせえ」


「事実」


「おまえ、さっきから俺に遠慮ねえな」


「命を運んでもらったので、観察対象としての距離が縮まった」


「縮めんな」


 茜は思わず笑いそうになり、すぐに顔を引き締めた。


 玄斎はそのやり取りを見て、ほんのわずかに目元を緩めた。


 すぐに、いつもの無表情へ戻る。


「稲葉、新垣、六道。三名は今日は帰宅、または寮へ戻りなさい。保護者および担当教員にはこちらから連絡する」


 風彦は、自分の名が呼ばれなかったことに気づいた。


 腹の奥が、今度は霊障とは別の理由で重くなる。


 玄斎は風彦へ視線を向けた。


「蓮田。君は学園長室へ来なさい」


 茜が即座に反応した。


「なんで蓮田くんだけ?」


「確認することがある」


「なら、あたしたちも」


「稲葉」


 玄斎は静かに言った。


「君も確認される側だ。今日は休みなさい」


 茜は悔しそうに唇を噛む。


 風彦は立ち上がろうとして、腹を押さえた。


 身体がふらつく。


 アサミが見上げる。


「歩ける?」


「なんとか」


「嘘」


「歩けるふりならできるでござる」


「それは歩けるとは言わない」


 雅琥が壁から離れ、面倒くさそうに風彦の腕を掴んだ。


「途中まで支える」


「六道殿、ありがたいでござるが」


「倒れられると邪魔だ」


「素直ではない親切、痛み入るでござる」


「黙って歩け」


 風彦は苦笑した。


 ほんの数時間前まで、まともに話したこともなかった相手だ。


 それなのに、今は肩を貸されている。


 不思議な日だった。


 最悪の日で、奇妙な日で、たぶん忘れられない日だった。


     ◇


 学園長室は、本校舎の最上階にあった。


 廊下の奥、黒い木の扉の向こう。


 中へ入ると、古い和室と現代的な執務室が混ざったような空間が広がっている。


 床は板張り。


 壁際には書棚。


 棚には魔導法令集、古い巻物、結界図面、卒業名簿が並んでいる。


 大きな机の上には、紙の書類と魔導端末が同じだけ積まれていた。


 窓の外には学園全体が見える。


 本校舎。


 図書塔。


 鏡術研究棟。


 そして、赤い立入禁止の結界灯が点る北校舎。


 風彦は椅子へ座るよう促された。


 断ろうとしたが、腹痛と疲労に負けて座った。


 玄斎は机の向こうへ回らず、窓際に立った。


 しばらく北校舎を見ている。


「蓮田風彦」


「はい」


「公儀怪異対策局、学園監視任務付き見習い隠密」


 風彦は、背筋を伸ばした。


 やはり知られていた。


 驚きは少ない。


 六道玄斎ほどの人物が、学園へ送り込まれた監視役の存在に気づかないはずがない。


 ただ、実際に口にされると、腹痛とは別の冷えが走る。


「……ご存じでござったか」


「入学手続きの時点で、公儀から通達が来ている」


「では、監視されているのは拙者のほうでもあったわけでござるな」


「そうだ」


 即答だった。


 風彦は少し笑った。


「隠密とは」


「君の場合、隠密というより、観察対象を兼ねた連絡係だろう」


「大変身も蓋もないでござる」


「蓮田家の血を、君自身がどう扱うか。公儀も見ている」


 風彦は黙る。


 自分の手を見る。


 まだ少し震えている。


 鬼門への道を開いたとき、影が変わった。


 茜も、雅琥も、アサミも見たはずだ。


 人間とは違うもの。


 自分がなるべく隠してきたもの。


「報告されますか」


「何を」


「拙者が黄風を使ったこと。異相肢が出かけたこと。学園生徒の前で、封印具を外して真視を使ったこと」


 玄斎は振り返る。


「必要があれば報告する」


「つまり、今は必要ないと?」


「今のところは」


 風彦は、その言い方の曖昧さに苦笑する。


「ありがたい、と思うべきでござるか」


「君がどう思うかは、君が決めればいい」


 玄斎は机の上から一枚の封印札を取り上げた。


 それは北校舎三階女子厠の結界状態を示す監視札らしかった。


 札の中央には、黒い花の印が浮かんでいる。


 その花弁の一枚が、ゆっくりと揺れていた。


「三番厠の華子と接触したな」


「はい」


「勝負をしたか」


「しました」


「条件は」


「鬼を退けること。華子さんが先なら、拙者が頼みを一つ聞く。拙者が先なら、全員を逃がし、学園について一つ答える」


「結果は」


 風彦は答えに詰まった。


「……共同作業、と主張したいところでござる」


「彼女はどう言った」


「自分が勝ったと」


「だろうな」


 玄斎は、ほんのわずかにため息をついた。


 それは華子の性格を知っている者のため息だった。


「華子さんは、何者なのでござるか」


 風彦は尋ねた。


 この機会を逃すべきではないと思った。


「学園七不思議の一つ」


「それだけではござらんでしょう」


「それ以上は、今の君へ話す段階ではない」


「またそれでござるか」


 風彦は思わず言った。


 声に、自分でも驚くほど苛立ちが滲んだ。


 玄斎は怒らなかった。


 ただ静かに風彦を見る。


「君は、知れば背負う性格をしている」


「知らないせいで背負わされることもあります」


「その通りだ」


 玄斎は否定しなかった。


「だからこそ、私も間違える」


 風彦は口を閉じた。


 その言葉は、予想外だった。


 六道玄斎は、間違いを認める人間には見えなかった。


 いや、正確には、間違いを認めても、それで判断を変えるとは限らない人間に見えた。


「華子は、学園の契約領域から一時的に外れている」


 玄斎は言った。


「外れている?」


「君との勝負が、彼女に別の接続先を作った。厠の主としての契約に、君との一時契約が割り込んだ形だ」


「それは、危険なのでござるか」


「非常に」


 玄斎は淡々と答えた。


「学園結界の古い錠前が一つ、持ち場を離れかけているのだからな」


「では、戻すべきでは」


「本来ならそうだ」


 本来なら。


 その言葉に、風彦は引っかかりを覚えた。


 玄斎は封印札を机へ置く。


「だが、今の北校舎は内側から干渉を受けている。華子をそのまま戻せば、彼女の契約を逆用される可能性がある」


「誰に」


「分からない」


 玄斎の答えは短かった。


 だが風彦には、それが嘘ではないと分かった。


 玄斎は何かを隠している。


 しかし、すべてを知っているわけではない。


「今日の廊下の歪み。職員室へ向かう道が閉じられました。鬼の力だけではない」


「気づいたか」


「はい。校則を知っている怪異、という言い方をしました」


 玄斎の右目が、わずかに細くなる。


「面白い表現だ」


「笑い事ではござらん」


「笑ってはいない」


 玄斎は窓の外の北校舎を見た。


「しばらく学園の外へ置け」


 風彦は、すぐには意味を理解できなかった。


「はい?」


「華子を、だ」


「置け、と申されましても」


「君との契約で、彼女は君の周辺へ移動できる可能性がある。学園内に戻すより、そのほうが安全だ」


「拙者の安全は」


「危険だ」


「即答!」


「だが、彼女は約束を守る。少なくとも、君が契約を破らないかぎり、君自身を害することはない」


「頼みの内容が未確定なのでござるが」


「それは君が受けた勝負だ」


「学園長先生まで、その解釈でござるか……」


 風彦は頭を抱えた。


 腹痛がまた少し戻ってきた。


 華子を学園外へ置け。


 簡単に言う。


 だが、どうやって。


 華子が自宅へ来るとでもいうのか。


 いや、まさか。


 まさかであってほしい。


「華子さんは、学園の守護神ではないのでござるか」


「そう呼ばれている」


「呼ばれている、だけ?」


 玄斎は答えなかった。


 風彦はその沈黙で理解した。


 華子は守護神と呼ばれている。


 しかし、それは本人が自由に選んだ名ではないのかもしれない。


 何かを守るために縛られている。


 先ほど、華子自身も言っていた。


 守護神なんて、都合のよい呼び方だと。


「蓮田」


 玄斎が言う。


「公儀へは、必要最低限の報告をする。君からも報告は求められるだろう。だが、華子の一時離脱については、私の管理下での措置として扱う」


「拙者は何をすれば」


「普通の生徒として過ごせ」


「それが一番難しいのでござるが」


「だろうな」


「否定してくださらない」


「君は普通ではない」


 玄斎の言葉は、静かだった。


 風彦の胸が少しだけ痛む。


 言われ慣れた言葉だ。


 だが、玄斎の声には侮蔑がなかった。


「だが、普通ではないことと、生徒でないことは同じではない」


 風彦は顔を上げた。


 玄斎は、相変わらず表情を変えない。


「君は今日、任務ではなく、自分の判断で三人を助けた。それは記録しておく」


 風彦は言葉に詰まった。


 褒められたのか。


 評価されたのか。


 それとも、ただ事実を記録されただけなのか。


 分からない。


 分からないが、少しだけ息がしやすくなった。


「……ありがとうございます」


「礼を言う必要はない」


「では、取り消すでござる」


「そこは受け取っておけ」


「難しいでござる」


 玄斎の目元が、ほんのわずかに緩んだ気がした。


 すぐに戻る。


「今日は帰りなさい。体調が悪いなら、迎えを手配する」


「いえ、自力で帰れるでござる」


「本当にか」


「歩けるふりなら」


「迎えを手配する」


「自力で帰れます!」


     ◇


 その頃、アサミは保健室で写本を見ていた。


 もちろん、玄斎からは「預かる」と言われていた。


 だから、彼女が見ているのは写本そのものではない。


 儀式の前に取っておいた簡易転写記録だった。


 紙ではない。


 魔導解析鏡で読み取った霊的文字圧の写しを、個人用の薄い記録札へ焼きつけたもの。


 保健医が少し目を離した隙に、アサミはそれを取り出した。


 茜は椅子に座ったまま、腕を組んで監視している。


「それも没収したはずなんだけど」


「これは別」


「何個持ってるの、記録媒体」


「必要数」


「その必要数って、何個?」


「状況による」


「答えなさい」


「七」


「多い!」


 アサミは悪びれなかった。


 茜はため息をつく。


「本当に少しだけよ。顔色悪いんだから」


「うん」


「うんって言いながら長くやる顔ね」


「努力する」


「努力じゃなくて約束」


 アサミは茜を見た。


 先ほど図書塔で、自分が言われた言葉だ。


 彼女は少しだけ目を伏せる。


「約束する。確認だけ」


 茜は渋々頷いた。


 アサミは記録札を起動する。


 薄い板の上に、古い写本の文字列が浮かび上がった。


 稲葉家の鬼契り。


 召喚手順。


 名問い。


 鬼門への座標。


 そして、問題の末尾。


 アサミは指先で文字列を拡大した。


 そこで、動きが止まった。


「……ない」


 茜が顔を上げる。


「何が?」


「最後の一節」


 アサミは記録札を茜へ見せる。


 そこには、儀式直前に見たはずの黒い一文がなかった。


 固定式。


 アサミが違和感を覚えた箇所。


 風彦が「依代を差し出すための門」と断じた部分。


 それだけが、綺麗に消えている。


 紙面に穴が空いたのではない。


 最初から何も書かれていなかったかのように、前後の文章が自然につながっていた。


「記録札の故障?」


 茜が尋ねる。


「違う。霊的転写にも残っていない」


「じゃあ、あの文字は何だったのよ」


「分からない」


 アサミは唇を引き結んだ。


 分からない。


 その言葉を口にするのが、少しだけ悔しかった。


 怪異には構造がある。


 発生した理由がある。


 従う規則がある。


 そう思ってきた。


 けれど今日、自分は規則を読み違えた。


 こちらが記録を読むとき、記録もこちらを読んでいる。


 そのことを、身体を奪われる寸前で知った。


「誰かが消したの?」


 茜の声が低くなる。


「可能性は高い」


「誰」


「候補は複数。学園の結界管理者。公儀。稲葉家関係者。写本そのものに潜んでいた怪異。あるいは――」


 アサミはそこで言葉を止めた。


 茜が眉を寄せる。


「あるいは?」


「今日、校舎を歪めた何か」


 保健室の空気が少し冷えた。


 アサミは自分の記録帳を開く。


 茜が止めようとしたが、アサミの顔を見て手を止めた。


 そこにはいつもの淡々とした好奇心だけではない。


 恐怖と、責任感があった。


 アサミはページをめくる。


 儀式前のメモ。


 稲葉家の症状比較。


 西洋式魔法陣の座標。


 茜との約束。


 そこまでは、自分の筆跡だった。


 次のページで、二人は息を呑んだ。


 白い紙の中央に、一行だけ文字があった。


 アサミの筆跡ではない。


 黒いインク。


 いや、インクに見えるだけで、紙そのものが変色しているようにも見える。


 文字は丁寧で、どこか学校の掲示文のように整っていた。


 ――卒業に必要な者、五名を確認。


 茜は、その文字を読み上げなかった。


 読み上げてはいけない気がした。


 アサミも黙っている。


 数秒後、茜が小さく言った。


「五名って」


「風彦、茜、ワタシ、雅琥」


「あと一人」


 アサミは答えなかった。


 だが二人とも思い浮かべていた。


 三番目の個室から現れた女。


 華子。


 茜は、背筋が冷えるのを感じた。


「誰が書いたの」


「分からない」


「またそれ」


「でも、分からないと記録できる」


「前向きなのか何なのか、分かんないわね」


 アサミは記録帳を閉じた。


「これは隠さない。明日、風彦たちにも見せる」


「学園長先生には?」


 アサミは少し考える。


「見せる。ただし、写しを取ってから」


「反省してる?」


「している」


「ほんとに?」


「だから、共有する」


 茜はアサミを見た。


 たしかに、それは少しだけ反省の形だった。


 ひとりで抱え込まない。


 自分なら制御できると思わない。


 少なくとも、アサミは今日の失敗を、なかったことにはしようとしていない。


 茜は小さく息を吐いた。


「明日、みんなで怒られましょう」


「うん」


「あと、今日は寝る」


「うん」


「記録媒体、残り何個?」


「……六」


「全部出しなさい」


「それは研究継続に支障が」


「出しなさい」


 アサミは、少しだけ残念そうに枕の下、袖の内側、術具鞄の底、包帯の隙間から記録札を取り出した。


 茜は頭を抱えた。


「包帯の隙間は反則でしょ」


「非常用」


「非常用の使い方を間違えてる!」


     ◇


 夜。


 蓮田風彦は、学園から少し離れた古い平屋へ帰り着いた。


 公儀が用意した住居である。


 表向きは親戚所有の家ということになっているが、実際には監視と保護を兼ねた住宅だ。


 木造の小さな平屋。


 古い門。


 庭には手入れの行き届かない植木。


 周囲の家々から少し離れており、夜になると虫の声がよく聞こえる。


 家の中は静かだった。


 人の気配はない。


 靴を脱ぎ、廊下へ上がると、風彦はその場に座り込みそうになった。


 疲れた。


 本当に疲れた。


 腹も痛い。


 頭も痛い。


 公儀への報告文も書かなければならない。


 玄斎からは「必要最低限でよい」と言われたが、公儀が必要最低限で満足するとは思えない。


 しかも、三番目の華子を学園外へ置けという謎の指示まで受けている。


「置けと言われましても……」


 風彦は誰もいない廊下で呟いた。


「怪異を荷物のように置けるなら、苦労はしないのでござるよ」


 返事はない。


 当たり前だ。


 この家には自分しかいない。


 風彦は制服の上着を脱ぎ、壁に掛ける。


 手を洗い、うがいをし、台所で白湯を沸かした。


 薬を飲む。


 ようやく少しだけ人心地がつく。


 人間、白湯と下痢止めがあれば、多少の霊障には耐えられる。


 いや、耐えたくはない。


 風彦は湯呑みを両手で包みながら、深く息を吐いた。


 今日の出来事が、頭の中を何度も巡る。


 茜の赤い縄。


 アサミの憑依。


 雅琥の震える手。


 鬼の「名を返せ」という声。


 華子の刀。


 そして、自分の影。


 茜たちは見た。


 自分の人間ではない部分を。


 明日、どんな顔をされるだろう。


 怖がられるか。


 距離を置かれるか。


 あるいは、何も聞かないでいてくれるか。


 それはそれで、怖い。


 風彦は湯呑みを置いた。


「考えても仕方ないでござる」


 まずは風呂。


 それから報告。


 その前に、厠。


 今日一日、腹がひどい目に遭いすぎた。


 風彦は廊下の奥へ向かう。


 この家の厠だけは、やけに設備が新しかった。


 古い平屋の中で、そこだけ温水洗浄便座つきの現代仕様である。公儀の担当官が「健康管理上必要」と判断した結果だった。


 風彦にとってはありがたい。


 怪異よりも腹痛のほうが日常的な敵なのだ。


 彼は厠の扉の前で、ふと足を止めた。


 中から、微かな香りがした。


 紅茶。


 そして花の香り。


 風彦は、しばらく扉を見つめた。


 開けたくない。


 今日だけで何度そう思っただろう。


 だが、自宅の厠を開けないわけにはいかない。


 風彦は恐る恐る扉を開けた。


 そこに、華子がいた。


 便器の蓋を閉じ、その上へ優雅に腰掛けている。


 黒い戦装束ではなく、少し緩やかな黒い着物姿だった。長い濡羽色の髪は背中へ流れ、白い指先には湯気の立つティーカップがある。


 どこから用意したのか、小さな茶器まで洗面台の横へ並べられていた。


 厠の芳香剤は、なぜか片隅へ追いやられている。


 代わりに、椿の花が一輪、ガラスの小瓶に生けられていた。


 華子は風彦を見ると、当たり前のように微笑んだ。


「あら。お帰りなさい」


 風彦は無言で扉を閉めた。


 数秒。


 もう一度開ける。


 華子はまだいた。


「お帰りなさい」


「……なぜ」


「はい?」


「なぜ、拙者の家の厠にいらっしゃるのでござるか」


 華子はティーカップを置いた。


「厠だから」


「説明になっていないでござる」


「あなたのお家、外観は古いのに厠はなかなかよいわね。暖房便座というの? これは素晴らしい発明だわ」


「気に入っていただけたようで何よりでござる。ではなく」


「それと、少し掃除が甘い」


「申し訳ござらん。今日はいろいろあったもので」


「日頃の積み重ねでしょう?」


「初日から厳しい!」


 華子は楽しげに笑った。


 風彦は額を押さえる。


「どうやってここへ」


「勝負の対価よ」


「まだ頼みを聞いていないでござる」


「ええ。だから、まずは取り憑く場所を決めたの」


「順番がおかしい!」


「おかしくないわ。あなたがわたくしを呼び、わたくしが勝った。契約は成立しているもの」


「共同作業だったと主張したいのでござるが」


「却下」


「玄斎先生にも却下されました」


「分かっている方ね、あの人」


「癪でござる」


 風彦は扉の前で立ち尽くした。


 いろいろ聞きたいことはある。


 学園のこと。


 鬼契りのこと。


 華子自身のこと。


 なぜ玄斎が「学園外へ置け」と言ったのか。


 なぜ華子はそれを知っているかのようにここへ来たのか。


 しかし、それらを聞く前に一つだけ、どうしても確認しなければならないことがあった。


「華子さん」


「なあに?」


「拙者、この厠を使ってもよろしいのでござるか」


 華子はしばらく風彦を見つめた。


 それから、くすりと笑う。


「必要なら、席を外して差し上げるわ」


「それはありがたいのでござるが、そもそも自宅の厠で許可を取る状況がすでにおかしいでござる」


「慣れなさい」


「慣れたくない!」


「大丈夫よ。人は大抵のことに慣れるもの」


「慣れてはいけないこともあるでござる!」


 華子はティーカップを持ち直した。


「ちなみに、紙は補充しておいたわ」


「そこはありがとうございます!」


「素直ね」


「重要事項でござるから!」


 風彦は深く息を吐いた。


 疲労が限界を超えると、人間は妙に冷静になるらしい。


 いや、自分が人間かどうかという問題は今は横へ置く。


 目の前に華子がいる。


 自宅の厠にいる。


 紅茶を飲んでいる。


 これが現実だ。


 風彦は認めたくない現実を認めることにした。


「華子さん」


「はい」


「頼みとは、何でござるか」


 華子はティーカップを膝の上へ置いた。


 その笑みが、少しだけ深くなる。


「言ったでしょう?」


「まだ何も」


「あの勝負、勝ったのはわたくしよ」


 風彦の背筋が冷える。


 華子は便器の蓋に腰掛けたまま、まるで自分の屋敷の座敷にいるような優雅さで告げた。


「ですから、あなたには一生取り憑かせてもらうわ」


 風彦は固まった。


 廊下の虫の声が、やけに遠く聞こえる。


「……一生」


「ええ」


「比喩でござるか」


「比喩ではないわね」


「期間の再交渉は」


「却下」


「月極めは」


「何の賃貸契約かしら」


「日割り」


「けち臭いわね」


「拙者の人生設計に大きな影響があるのでござる!」


「人生設計があるようには見えないけれど」


「それは大変失礼では!?」


 華子は声を立てて笑った。


 その笑い声は、昼間の女子厠で聞いたものより、少しだけ近かった。


 怪異の声ではなく、同じ家の中から聞こえる誰かの声に近い。


 風彦はそのことに気づいて、少しだけ困った。


 怖い。


 迷惑だ。


 絶対に面倒なことになる。


 けれど、完全に嫌だとは思い切れない自分がいる。


 今日、華子は鬼を斬った。


 茜を助けた。


 アサミを守る時間を作った。


 雅琥の震えを笑いながらも、弱さそのものを踏みにじりはしなかった。


 そして風彦の影を見ても、怪物を見る目をしなかった。


 それがどれほど珍しいことか、風彦自身が一番よく知っている。


「……一生は困るでござる」


 風彦は小さく言った。


「どうして?」


「拙者にも生活が」


「厠にいるだけよ」


「それが生活の中枢なのでござる!」


「なら、よい場所を選んだわね」


「前向きに解釈しすぎでござる!」


 華子はゆっくりと立ち上がった。


 便器の蓋から降り、風彦の前へ歩いてくる。


 厠の狭い空間では、距離が近い。


 花の香りと紅茶の香りが混ざる。


 華子は風彦の顔を覗き込んだ。


「あなた、今日の鬼を見て逃げなかった」


「逃げたでござる」


「戻ったでしょう」


「逃げ道がなかったのでござる」


「それでも、誰かを置いてはいかなかった」


 風彦は黙る。


 華子の黒い瞳は、からかっているようでいて、奥底だけは真面目だった。


「あなたは、自分をずいぶん低く見積もっているのね」


「適正評価でござる」


「いいえ。過小評価よ」


「華子さんに拙者の何が分かるのでござるか」


「厠では、人はだいたい本音を漏らすものよ」


「拙者、まだ漏らしていないでござる!」


「そういう意味ではないわ」


「今日の流れでその表現は危険でござる!」


 華子はまた笑った。


 風彦は脱力する。


 この女怪異、真面目な話とふざけた話の境界を平気で行き来する。


 厄介だ。


 とても厄介だ。


 だが、気づけば腹痛が少し和らいでいた。


 華子が厠にいるからなのか、紅茶の香りのせいなのか、それとも単に疲れすぎて痛覚が鈍ったのかは分からない。


「これから、どうするつもりでござるか」


 風彦が尋ねる。


「ここへ住むわ」


「即答」


「まずは、この厠をわたくし好みに整えるところからね」


「拙者の意見は」


「聞いてあげる」


「反映は」


「内容によるわ」


「実質、華子さんの支配下では?」


「気づくのが早いわね」


「褒められていない!」


 華子は洗面台の横へ置いた茶器を見た。


「それと、紅茶の茶葉がよくない」


「勝手に家捜しされたのでござるか」


「厠へ住む以上、周辺環境の確認は必要でしょう?」


「範囲が広い!」


「台所は近かったわ」


「外へ出ている!」


「少しだけ」


「怪異の少しだけは信用ならないでござる!」


 風彦は頭を抱えた。


 この先の生活が、容易に想像できてしまう。


 厠の掃除に口を出される。


 紅茶を要求される。


 夜中に怪談めいた声で起こされる。


 公儀への報告には書けないことが増える。


 学園では茜たちと今日の件を調べなければならない。


 稲葉家の鬼契り。


 アサミの記録帳に残った謎の一文。


 雅琥の恐怖。


 玄斎の沈黙。


 華子の正体。


 普通の学園生活は、初日で終わった。


 いや、始まる前から無理だったのかもしれない。


 風彦は長く息を吐いた。


「分かりました」


 華子が眉を上げる。


「あら。受け入れるの?」


「受け入れないと、ここに居座るのでござろう?」


「ええ」


「なら、せめて規則を決めるでござる」


「規則?」


「使用中は退室」


「よろしいわ」


「勝手に家の中を歩き回らない」


「努力する」


「努力ではなく約束」


 華子は、どこかで聞いたような言い回しに楽しげに目を細めた。


「約束するわ。できる範囲で」


「範囲が不穏でござる」


「それから?」


「紙の補充は共同責任」


「重要なのね」


「重要でござる」


「分かったわ」


 華子は右手を差し出した。


 風彦はその手を見る。


 昼間も握った。


 冷たくて、深い水のような手。


 握ればまた、何かが結ばれる気がした。


 けれど今さらだ。


 もう勝負は成立している。


 取り憑かれることも、ほぼ確定している。


 なら、せめて自分の意思で手を取る。


 風彦は華子の手を握った。


「よろしくお願いするでござる、華子さん」


「ええ。よろしく、風彦」


 名前を呼ばれた。


 ただそれだけなのに、風彦は少しだけ息を止めた。


 公儀の記録番号でも、ハスターの血でも、腹痛侍でもない。


 蓮田風彦。


 その名前を、華子はごく自然に呼んだ。


 華子は手を放し、再び便器の蓋へ腰掛けた。


 まるで当然のようにティーカップを持ち上げる。


「では、まず掃除道具の場所を教えてくださる?」


「今からでござるか」


「汚れは、気づいたときに落とすものよ」


「拙者、今日はもう倒れたいのでござるが」


「倒れる前に、床だけ」


「厳しい!」


 風彦の嘆きに、華子は楽しげに笑った。


 古い平屋の小さな厠に、女怪異の笑い声が響く。


 その声は、これから始まる厄介な日々を告げる鐘のようでもあり。


 奇妙な相棒関係の始まりを祝う、ささやかな祝詞のようでもあった。


 こうして、蓮田風彦の平穏な一人暮らしは、入学初日の夜に終わった。


 そして、厠の華子さんは、六道魔導学園の三番目の個室から、蓮田家の厠へ移り住んだ。

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