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厠の華子さん―ネオ江戸魔導学園怪異録―  作者: 秋月キアラ
第1話 ― 三番目の個室に華は咲く
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第五幕 ― 華子対鬼

 水滴の音が、勝負の始まりを告げた。


 ぴちょん。


 その一音が落ちた瞬間、厠の空気が変わった。


 先ほどまで扉の外で暴れていた鬼の気配が、ふっと遠のいたように感じた。逃げたのではない。息を潜めたのだ。


 外にいるものが、内側に現れたものを警戒している。


 風彦には、それが分かった。


 鬼も、華子を見ている。


 扉一枚隔てた向こうで、赤黒い巨大な気配が動きを止めている。荒い息。木を引っ掻く爪。床下から響く、重い鼓動のような音。


 華子は扉へ向かって歩き出した。


 草履の底がタイルを踏む音は、驚くほど静かだった。


 刀を抜いてはいない。


 だが左手は鞘へ添えられ、右手は柄の近くで遊ぶように揺れている。その仕草だけで、彼女がいつでも抜けるのだと分かる。


 茜はアサミを支えたまま、思わず息を呑んだ。


 美しい。


 悔しいほどに。


 厠という場所にも、怪談という状況にも似合わない。けれど、ここ以外のどこにも似合わないような女だった。


 雅琥は壁際で膝を立て、立ち上がろうとしていた。顔色はまだ悪い。だが、華子が扉へ向かう姿から目を離せずにいる。


 怖い。


 でも、見てしまう。


 それは鬼を見たときの恐怖とは違った。


 見てはいけないものではなく、見逃してはいけないもののように思えた。


 風彦は白衣神咒の残りを懐から取り出し、息を整える。


 腹痛は治まらない。


 むしろ、これから何か大きなものが動く予感に、内臓がきつく絞られていた。


「華子さん」


 風彦が声をかける。


「はいな」


 華子は振り返らずに答えた。


「扉を開けても大丈夫でござるか」


「あら。心配してくださるの?」


「扉が破られたら、拙者たちも大変困るのでござる」


「素直でよろしい」


 華子は右手の指先で、扉の内側に触れた。


 その瞬間、外側から鬼の爪が叩きつけられる。


 どん。


 木戸が内側へたわむ。


 茜が一歩下がり、アサミを抱え直した。


 しかし華子は一歩も退かない。


 扉に添えた指先だけで、その衝撃を受け止めているように見えた。


「わたくしの厠の戸を、ずいぶん乱暴に扱ってくれるじゃない」


 声は穏やかだった。


 しかし、その奥に怒りがある。


 鬼が低く唸る。


「いなば」


「ええ。稲葉の子なら中にいるわ」


 華子はさらりと言った。


 茜がぎょっとする。


「ちょっと!」


「けれど、ここはわたくしの聖域よ」


 華子の声が低くなる。


「その子へ用があるなら、まずは主に挨拶なさい」


 扉の向こうで、鬼が吠えた。


 衝撃。


 今までで最も大きい。


 木戸の表面に、初めて黒い亀裂が走った。


 結界が軋む。


 厠の鏡に、赤黒い光が走る。


 風彦の腹が、ぐっと冷えた。


「華子さん!」


「大丈夫」


 華子は微笑んだ。


「少し、お行儀を教えるだけよ」


 言うなり、華子は扉の掛け金を外した。


「えっ」


 茜の声が裏返る。


「開けるの!?」


「入れないまま斬るのは難しいもの」


「斬るの!?」


「遊びとは、そういうものよ」


「そういうものじゃない!」


 茜の抗議を聞き流し、華子は扉を押し開けた。


 外の廊下が見えた。


 いや、見えたのは廊下ではなかった。


 北校舎三階の廊下は、すでに赤黒い霧に飲まれている。壁は伸び、床は波打ち、天井は遠く高く歪んでいた。そこに、巨大な腕があった。


 先ほどまで教室や廊下から伸びていた腕とは違う。


 今度は、腕だけではない。


 扉の外の空間を押し広げるように、鬼の肩が見えた。


 赤黒い皮膚。


 岩のような筋肉。


 黒い爪。


 そして、頭部。


 天井を押し上げるほどの巨体が、廊下の奥に屈み込んでいる。


 額からは二本の角が伸びていた。


 片方は途中で折れている。


 口には獣のような牙。


 目は爛々と赤く、怒りと苦痛で濁っていた。


 それは、昔話に出てくる鬼の姿に似ていた。


 だが絵巻物の怪物とは違う。


 臭いがある。


 呼吸がある。


 皮膚のひび割れから黒い煙が漏れ、そこに巻きついた縄が肉へ食い込んでいる。


 縄。


 何重にも、何百本にも見える赤い縄。


 鬼の首、腕、胴、脚。


 そのすべてを縛っている。


 縄の表面には、かすれた文字があった。


 古い人名。


 役職名。


 祈祷文。


 契約文。


 判読できないものもある。


 茜はその縄を見た瞬間、胸を押さえた。


 赤い縄。


 稲葉家の家紋にある縄と同じ色だった。


 鬼は華子を見下ろす。


 華子は扉の前に立ったまま、刀を抜いていない。


 体格差はあまりに大きい。


 鬼の指一本が、華子の腕ほどある。


 普通なら、立っているだけで恐怖に押し潰される。


 しかし華子は、むしろ不機嫌そうに眉を上げた。


「まあ」


 鬼が唸る。


「いなば」


「わたくしは稲葉ではないわ」


「どけ」


「嫌よ」


 短い返答。


 鬼の目が怒りに燃えた。


「どけ」


「嫌だと言ったでしょう」


 次の瞬間、鬼の腕が振り下ろされた。


 風彦は反射的に経文を構えたが、華子のほうが早かった。


 刀が抜かれた。


 抜刀の音は、ほとんどなかった。


 ただ、花が散るような気配だけが走る。


 華子の姿が、視界から消えた。


 黒い影が一閃する。


 鬼の巨大な爪が、空中で弾かれた。


 金属がぶつかるような音ではない。


 硬い霊的なものが断ち切られる、澄んだ音。


 鬼の腕が大きく跳ね上がる。


 廊下の壁が衝撃で砕け、赤黒い霧が渦を巻いた。


 華子は扉の前へ戻っていた。


 刀身は、薄く光っている。


 無銘胴太貫《花切》。


 重い刀のはずなのに、華子の手の中では扇のように軽く見えた。


「お客様」


 華子は、にっこりと笑った。


「ここから先は土足厳禁よ」


 鬼が吠えた。


 今度は腕だけでなく、肩から突進するように体重をかけてくる。


 廊下そのものがたわむ。


 扉の境界が軋む。


 華子は床を蹴った。


 黒い着物の裾が翻る。


 彼女は廊下へ出た。


 鬼の腕が横薙ぎに振るわれる。


 華子は一歩で懐へ入った。


 刃が走る。


 鬼の皮膚が裂ける。


 黒い煙が噴き出す。


 だが、血は出ない。


 代わりに、鬼の肉の奥から赤い縄が見えた。


 華子の刀が、その縄へ触れかける。


 その瞬間、刀が止まった。


 華子の手首が、見えない何かに引かれたように止まる。


 彼女の眉がわずかに動いた。


「……なるほど」


 風彦はそれを見逃さなかった。


 華子の剣が止まった。


 彼女の意思ではない。


 何かの制約がある。


 華子は鬼の身体を斬れる。


 だが、その奥にある契約の核へは踏み込めない。


 風彦は歯を食いしばった。


 眼鏡を外すしかない。


 これ以上は、表面だけを見ていても分からない。


 彼は茜へ短く言う。


「稲葉殿、ここから動かないで」


「動けって言われても動けないわよ!」


「それなら結構」


「結構じゃない!」


 風彦は眼鏡へ手をかけた。


 腹の奥が、外す前から警告するように痛む。


 真視は疲れる。


 いや、疲れる程度では済まない。


 見るという行為は、こちらの輪郭を向こう側へ晒すことでもある。


 だが、見なければ判断できない。


 風彦は眼鏡を外した。


     ◇


 世界の形が崩れた。


 厠の白いタイルも、木戸も、廊下も、一度薄い紙のように透ける。


 かわりに、意味の線が見えた。


 扉の内側には、淡い水の結界が張り巡らされている。


 水路。


 井戸。


 排水。


 流すための道。


 そこに花の形をした黒い霊符が重なっている。


 三番目の個室を中心に、厠全体が一つの小さな聖域になっていた。


 華子の領域。


 穢れを受け止め、流し、斬る場所。


 そして、廊下の鬼。


 風彦は息を呑んだ。


 鬼は、一体ではなかった。


 表面上は巨大な一体の鬼に見える。


 だが真視では違う。


 赤黒い肉体の内側に、無数の影が折り重なっていた。


 小さな鬼。


 大きな鬼。


 角の折れた鬼。


 腕を失った鬼。


 顔のない鬼。


 形になる前の怨念。


 名前を奪われた霊。


 それらが、赤い縄で束ねられている。


 縄には人名が記されていた。


 稲葉家の歴代当主の名。


 家臣の名。


 祈祷師の名。


 そして、消えかけた鬼の名らしきもの。


 名は、ほとんど塗り潰されている。


 縛られ、使われ、削られ、命令されてきた年月が、鬼の身体そのものになっている。


 風彦の腹が焼ける。


 ただの敵ではない。


 稲葉家が長い年月をかけて作り上げた、契約の塊。


 鬼の姿をした歴史。


 怒りと苦痛の集合体。


 それが今、茜へ向かって手を伸ばしている。


「……これは」


 風彦の声が掠れた。


「単独の鬼ではござらん」


 茜が振り返る。


「どういうこと」


「稲葉家の契約に縛られた鬼たちの一部が、束ねられて出てきている。あの身体は、一体の肉体ではなく、契約でまとめられた怨念と霊格の束でござる」


 アサミが、壁にもたれたまま薄く目を開ける。


「……複合契約体」


「たぶん」


「記録と一致……歴代当主の命令履歴が残留……」


「新垣殿、今は寝ていてくだされ」


「無理。重要」


「でしょうね!」


 茜は鬼を見る。


 今まで見えていたものが、別の意味を持ち始める。


 赤い縄。


 苦しそうな呼吸。


 自分を狙う目。


 あれは、ただの怪物ではない。


 何かを訴えている。


 けれど、その訴えがあまりに大きく歪んでいて、人間の言葉へ戻れない。


 鬼が茜へ向かって口を開いた。


「名を……」


 声は途切れ途切れだった。


 複数の声が重なっている。


 低い声。


 高い声。


 老人のような声。


 獣のような声。


「名を……返せ」


 茜の喉が凍る。


 鬼の目は自分を見ている。


 いや、自分の中にある稲葉の血を見ている。


「我らを……使うな」


 赤い縄が軋む。


 鬼の皮膚へ食い込み、黒い煙を上げる。


「稲葉の血……契りを継げ」


「知らない」


 茜は思わず言った。


「そんなの、あたし知らない。あたしは……」


 言いかけて、言葉が止まる。


 知らない。


 それは本当だ。


 でも、知らされていなかったから関係ないと言えるのか。


 自分が稲葉家の娘であることは事実だ。


 その家の繁栄の土台に、目の前の鬼たちの苦痛があったのだとしたら。


 父の病は。


 あの優しかった父が、右手の感覚を失い、記憶を失い、少しずつ壊れていく理由は。


 鬼の呪いだけではない。


 稲葉家が結んだ契約の反動。


 風彦が言っていた、使役の歴史。


 アサミが調べていた写本。


 すべてがつながっていく。


 茜は、胸元の家紋を握りしめた。


「父上は……」


 声が震える。


「父上は、何をしたの」


 鬼は答えない。


 かわりに、赤い縄が一斉に震えた。


 風彦の真視には、ほんの一瞬、別の景色が見えた。


 稲の実る田。


 飢饉。


 戦火。


 疫病。


 鬼が命じられている。


 守れ。


 祓え。


 殺せ。


 運べ。


 防げ。


 燃やせ。


 奪え。


 当主たちが血判を押す。


 鬼が動く。


 土地は守られる。


 人々は生き延びる。


 そのたびに、当主の命が削れる。


 鬼の名が削れる。


 契約の縄が増えていく。


 善意だけではない。


 悪意だけでもない。


 土地を守るため。


 家を守るため。


 人を守るため。


 そして、そのために誰かを縛り続けた歴史。


 風彦は眼鏡をかけ直した。


 見続けるには、負荷が強すぎる。


 膝が笑い、腹を押さえる手に力が入る。


「消してはいけない」


 風彦が言った。


 華子が廊下で鬼の攻撃を受け流しながら、わずかにこちらを見た。


「今、なんて?」


「鬼を完全に消してはいけないでござる!」


 鬼の爪が華子へ迫る。


 華子は刀で受け、足を滑らせるように後退した。


 その身のこなしは美しい。


 だが、先ほどより動きが制限されている。


 鬼そのものではなく、鬼に絡む契約へ刃が触れかけるたび、華子の腕が止まる。


 見えない鎖に引かれるように。


「面倒なことを言う子ね」


 華子は笑った。


「理由は?」


「あれは稲葉家の鬼契りと、学園東側の結界に接続している。完全に斬れば、鬼だけでなく結界まで裂ける可能性がある」


「……見たのね」


「見てしまったでござる」


 華子の笑みが、少しだけ消える。


 彼女は鬼の足元を斬ろうとし、また止まった。


 刀身が、赤い縄の手前で震える。


「なるほど」


 華子は低く呟いた。


「わたくしにも、斬れないわけだ」


「契約の制約でござるか」


「ええ。忌々しいことに」


 華子は鬼の一撃を避け、厠の扉前へ戻る。


 黒い髪が揺れ、花の香りが散った。


 彼女は微笑んでいたが、その目は冷たかった。


「学園の結界を支えるものを、わたくしが勝手に壊すことはできない。そういう約束を結ばされているの」


「守護神なのに?」


 茜が思わず言う。


 華子は横目で茜を見る。


「守護神なんて、都合のよい呼び方よ。呼び名が綺麗だと、縛るほうも縛られるほうも、少しだけ罪を忘れられるでしょう?」


 その言葉は、茜の胸に刺さった。


 藩主家。


 次期当主。


 家を守る娘。


 それらも、綺麗な呼び名なのかもしれない。


 その下で、誰かの自由が少しずつ削られているのだとしたら。


「では、殺さず送り返す」


 風彦が言った。


 華子は楽しげに眉を上げる。


「できるの?」


「やるでござる」


「さっきも聞いたわね、その台詞」


「できる、と言ったほうがよろしいでござるか」


「ええ。女の前では、少し見栄を張るものよ」


「では、できるでござる」


「よろしい」


 茜が叫ぶ。


「ちょっと待って! 送り返すってどうやって!」


「門を開く」


「さっき開いて大変なことになったじゃない!」


「今度は鬼門へ戻すための道でござる」


「言い方が簡単!」


「実際は簡単ではござらん!」


「じゃあ簡単そうに言わないで!」


 風彦は白衣神咒の残りを確認する。


 少ない。


 紙形も減っている。


 真視の負荷で視界は少し揺れている。


 それでも、道は見えた。


 鬼を殺さない。


 契約を断ち切らない。


 現世へ引きずり出された部分だけを、鬼門境へ押し戻す。


 そのためには、鬼を一瞬だけ現世へ留める必要がある。


 完全に実体化させるのではない。


 落ちる直前の橋へ、縄をかけるように。


 戻る道が開くまで、鬼を固定する。


「稲葉殿」


 風彦が言った。


 茜はびくりとする。


「なに」


「あなたの茜縄は使えるでござるか」


「あれ、まだ授業でちょっとやっただけ」


「使えるでござるか」


「……使える」


 茜は答えた。


 怖かった。


 声が震える。


 でも、使えると答えた。


「鬼を縛るのではござらん。つなぐだけでよい。鬼が鬼門へ戻るまで、現世との接点を安定させる」


「つまり、あたしがあれとつながるってこと?」


「はい」


「最悪ね」


「最悪ではござるが、たぶん必要でござる」


 茜は鬼を見る。


 大きい。


 怖い。


 自分を狙っている。


 父の病と関係しているかもしれない。


 自分の家が傷つけてきたものかもしれない。


 逃げたい。


 逃げたくて仕方ない。


 なのに、逃げれば何も分からないままだ。


 父がなぜ壊れていくのか。


 稲葉家が何をしてきたのか。


 目の前の鬼が何を訴えているのか。


 茜は召喚杖を握った。


 手が震える。


 足も震えている。


 胸が苦しい。


 目の奥が熱い。


「あたし」


 声がかすれた。


 茜は唇を噛む。


 いつものように怒鳴ればいい。


 強がればいい。


 怖くないふりをすればいい。


 でも、それでは昼間と同じだ。


 最後の言葉が言えなかった。


 今もきっと、何かを言えなくなる。


 茜は、初めてその言葉を口にした。


「怖い」


 厠の中が静かになった。


 外では鬼が唸り、華子が刀を構えている。


 雅琥は壁際で目を見開いた。


 茜が、自分の恐怖を認めた。


 あれほど強気で、怒ったように振る舞っていた少女が。


 風彦は笑わなかった。


 からかいもしなかった。


 ただ、静かに頷いた。


「怖いままでよいので、逃げるでござる。怖くないふりをする必要はない」


 茜は風彦を見た。


「逃げるの?」


「はい」


「でも、あたしがつなぐんでしょ」


「はい」


「言ってること、矛盾してる」


「逃げながら、つなぐのでござる」


「無茶苦茶」


「人生はだいたい無茶苦茶でござる」


「急に悟らないで」


 風彦は少しだけ笑った。


「稲葉殿は、鬼を倒さなくてよい。契約者になる必要もない。命令もしなくてよい。ただ、あれが戻るまで、自分と現世の間に細い道を残す。それだけでござる」


「それだけって言い方、嫌い」


「拙者も言いながら無茶だと思っているでござる」


「正直すぎる!」


 茜は、震える息を吐いた。


 それでも召喚杖を構える。


 赤い霊力が、彼女の手元に集まり始めた。


 細い糸。


 縄というには頼りない。


 けれど、赤く、まっすぐな光。


 茜縄。


 対象を縛るために教えられた術。


 しかし今、茜は縛るために使わない。


 つなぐ。


 引き戻す。


 相手を所有するためではなく、落ちないように支えるために。


 茜は鬼へ向き直った。


「稲葉の血が欲しいなら」


 声は震えている。


 でも、消えない。


「あたしはここにいる」


 鬼の赤い目が茜を見る。


 その視線の重さに、膝が折れそうになる。


 茜は踏みとどまった。


「でも、命令なんかしない」


 赤い縄が伸びる。


 鬼へ向かって。


 鬼の腕に巻きつく。


 束縛ではない。


 細い線が、鬼の肉体と現世の境界へ触れる。


 鬼が吠えた。


 茜の身体へ衝撃が走る。


 膝が床へ落ちそうになる。


「茜!」


 アサミが叫ぼうとして咳き込む。


 雅琥が彼女の前へ半歩出た。


 まだ震えている。


 鬼のほうは見られない。


 それでもアサミの前に立った。


「こいつは俺が見てる」


「六道殿」


 風彦が言う。


「無理は」


「うるせえ。おまえに言われたくねえ」


 雅琥は自分の足元を睨みながら言った。


「見ねえ。あれは見ねえ。でも、こいつに手出す奴が来たら殴る。それだけだ」


 アサミはかすかに笑った。


「合理的ではないけど、有効」


「黙って寝てろ」


「寝ない。記録する」


「気絶しろ」


「それは命令?」


「願望だ!」


 そんなやり取りの間にも、茜縄は鬼と茜をつないでいる。


 赤い光が震えるたび、茜の身体へ鬼の怒りが流れ込んでくる。


 憎い。


 苦しい。


 寒い。


 名前がない。


 命令される。


 走れ。


 殺せ。


 守れ。


 燃やせ。


 稲を守れ。


 子を守れ。


 村を守れ。


 ならば、我らは誰が守る。


 茜は歯を食いしばった。


 涙が出そうだった。


 怖いだけではない。


 痛い。


 鬼の痛みが、自分のもののように流れ込んでくる。


「ごめん」


 茜は呟いた。


「何に謝ってるのかも、まだ分かんないけど……ごめん」


 鬼の動きが一瞬止まった。


 ほんの一瞬。


 それで十分だった。


「風彦」


 華子が言った。


 初めて、風彦を名で呼んだ。


「道を開ける?」


 風彦は息を吸う。


 眼鏡の奥で、瞳が黄色く揺らいだ。


「開ける」


 今度は「ござる」ではなかった。


 風彦は両手を広げた。


 白衣神咒の残りを床へ落とす。


 紙片が風もないのに舞い上がり、厠の入口と鬼の足元の間に円を描いた。


 風彦の影が伸びる。


 人の形をしていない影。


 肩から、袖口から、背中から、薄い黒い肢のようなものが揺らめく。


 鱗に覆われた鞭のような影。


 人間の手足ではない。


 茜はそれを見た。


 雅琥も、見たくないのに見てしまった。


 アサミは目を細め、記録しようとするように指を動かす。


 だが誰よりも近くで見ていた華子だけが、驚かなかった。


 彼女はただ、少しだけ懐かしむように目を細めた。


「あら」


 その声は、小さく優しかった。


「あなたも、ずいぶん厄介なものを背負っているのね」


 風彦は答えない。


 答える余裕がなかった。


 黄風。


 ハスターの血に由来する、境界を削る風。


 使えば、人間としての輪郭が薄くなる。


 公儀の施設で何度も警告された力。


 不用意に使うな。


 人前で使うな。


 戻れなくなる可能性がある。


 それでも、今は使うしかない。


 風彦の足元から、黄色い風が吹いた。


 物理的な風ではない。


 タイルの上の水滴は揺れない。


 しかし空間が削れる。


 厠の入口の向こう、鬼の足元、赤黒い裂け目が広がった。


 鬼門境への帰還路。


 先ほど教室で開いた歪な裂け目とは違う。


 風彦が、戻るためだけに開いた細い道。


 腹の奥が燃える。


 風彦は膝をつきそうになった。


 華子が横目で見る。


「倒れたら負けよ」


「承知……している」


「見栄は?」


「張って……いる」


「よろしい」


 華子は刀を構えた。


 鬼が道に気づき、暴れ始める。


 戻されるのを拒むように。


 あるいは、まだ言い足りないことがあるように。


「稲葉!」


 鬼が叫ぶ。


「契りを!」


「継がない!」


 茜が叫び返した。


 赤い縄が激しく震え、彼女の手のひらが裂けた。


 血が滲む。


 それでも離さない。


「継がないけど、聞く! あんたたちが何をされたのか、ちゃんと聞く! だから今は戻って!」


「名を……」


「名前も!」


 茜は泣きそうな声で叫んだ。


「返せるなら、返す方法を探す! だから、今は戻ってよ!」


 鬼の動きがまた揺らいだ。


 風彦が黄風を強める。


 鬼門の道が開く。


 雅琥がアサミの前で踏ん張る。


 華子が踏み出した。


「では、仕上げね」


 鬼の現世へ出ている部分と、鬼門境へ残っている本体。


 その境界を、華子は見ていた。


 鬼そのものを殺すのではない。


 契約の赤縄を斬るのでもない。


 現世へ無理やり突き出た部分だけを、切り離す。


 刃が低く構えられる。


 華子の瞳から、からかうような色が消えた。


 そこにいるのは、榊原華だった。


 誰にも剣士と認められなかった娘。


 死んでもなお、刀を手放さなかった女。


「華月流」


 華子の足が、床を滑る。


 黒い着物が花弁のように翻る。


 鬼の爪が迫る。


 華子はそれを紙一重でかわした。


 刀身が、赤黒い霧と現世の境目をなぞる。


「――華蝶風月」


 一閃。


 それは斬撃というより、花が散る光景だった。


 黒い刃が走ったあとに、薄い花弁のような光が舞う。


 鬼の腕が切断されたわけではない。


 肉体が裂けたわけでもない。


 しかし、現世に固定されていた鬼の輪郭だけが、すぱりと断たれた。


 鬼が吠える。


 茜縄が強く引かれる。


 茜の身体が前へ倒れかけた。


「稲葉殿!」


 風彦が叫ぶ。


 雅琥がとっさに手を伸ばした。


 鬼は見ない。


 鬼のほうは見ないまま、茜の後ろ襟を掴んだ。


「行くな!」


「行きたくて行ってるんじゃない!」


「なら踏ん張れ!」


「踏ん張ってるわよ!」


 アサミが、かすれた声で言う。


「縄、緩めて……押すのではなく、流す」


「どうやって!」


「命令じゃなく……手放す準備を……」


 茜は一瞬だけ目を閉じた。


 縛るのではない。


 つなぐ。


 支える。


 そして、戻すときには手放す。


 稲葉家の術式は、命令し、拘束し、服従させるものだった。


 でも自分は、それをしたくない。


 できないのではない。


 したくない。


 茜は赤い縄を握る手を緩めた。


「戻って」


 命令ではない。


 願いだった。


「帰って」


 鬼の身体が、鬼門の裂け目へ沈み始める。


 華子の斬撃で現世の固定を失い、風彦の黄風が開いた道へ引かれ、茜縄が迷わぬようにつないでいる。


 鬼は抵抗する。


 だが、その抵抗は弱くなっていく。


 怒りだけではなく、疲労が見えた。


 長く縛られ、長く使われ、長く忘れられてきたものの疲れ。


「名を」


 鬼が言った。


 今度は、少しだけ声が澄んでいた。


「名を……返せ」


 茜は答えられない。


 約束などできない。


 自分には、まだ何も分からない。


 だから、嘘は言わなかった。


「探す」


 茜は言った。


「必ず、探す」


 鬼の赤い目が、茜を見た。


 その奥に、ほんの一瞬だけ、怒りではないものが見えた。


 哀しみ。


 あるいは、待ちくたびれた者の諦め。


 鬼の身体が、さらに裂け目へ沈む。


 華子が刀を鞘へ収める。


 風彦は黄風を保とうとするが、足元が崩れそうになる。


 影の異相肢が揺らぎ、人の形へ戻ろうとする。


 腹痛が限界を超えた。


「……っ」


 風彦の膝が折れた。


 倒れかけた肩を、華子が片手で支える。


「まだよ」


「分かって……いる」


「いいえ、分かっていない顔ね。男の子はすぐ無理をする」


「性別関係なく、今は無理をする場面でござる」


「あら、戻った」


「戻ってしまったでござる」


 華子は小さく笑う。


「なら、あと少し」


 風彦は歯を食いしばり、最後の黄風を絞り出した。


 裂け目が大きく開く。


 鬼の巨体が、ついに鬼門境へ引き戻される。


 腕。


 肩。


 角。


 赤い縄。


 すべてが向こう側へ沈んでいく。


 最後に、鬼の顔だけが残った。


 鬼は茜を見た。


「稲葉の血」


 茜は震えながら立っている。


「なによ」


「次の契りまで」


 鬼の声が、廊下と厠と、茜の胸の奥へ響いた。


「待つ」


 その言葉を最後に、鬼は裂け目の向こうへ消えた。


 風彦は黄風を閉じる。


 空間の裂け目が、縫い合わされるように塞がっていく。


 赤黒い霧が薄れ、廊下の歪みが少しずつ戻る。


 水滴が落ちた。


 ぴちょん。


 今度は、静かな音だった。


     ◇


 誰もすぐには動けなかった。


 厠の扉は開いたまま。


 廊下はひどく壊れている。


 壁は裂け、床板はめくれ、ところどころに黒い焦げ跡が残っていた。


 それでも、先ほどまでの赤黒い異界ではない。


 北校舎の廊下へ戻っている。


 夕暮れの光も、少しだけ普通の色に近づいていた。


 茜はその場に膝をついた。


 赤い縄は消えている。


 手のひらには、細い切り傷が残っていた。


 血が滲んでいる。


 痛い。


 でも、その痛みのおかげで自分がまだここにいると分かった。


「……待つって、何よ」


 茜は呟いた。


 答える者はいない。


 アサミは壁にもたれている。


 まだ顔色は悪いが、目は開いていた。


「次の契り……継承儀式の可能性が高い」


「今それ言う?」


「言わないほうがいい?」


「言って。言わないで。いや、やっぱり言って。ああもう、分かんない!」


「混乱している」


「してるわよ!」


 茜の声が震えた。


 怒っている。


 泣きそうでもある。


 アサミは少し考え、かすれた声で言った。


「生きている」


「……何が」


「茜も、ワタシも」


 茜は言葉を失った。


 それから、アサミの隣へ座り込む。


「そうね」


 小さく答える。


「生きてるわね」


 雅琥は壁にもたれ、ずるずると座り込んだ。


「俺もな」


「あなたは勝手に死なないでよ」


「死んでねえよ」


「途中で半分死にかけてたじゃない」


「うるせえ」


 雅琥は顔を背ける。


 その手はまだ震えていた。


 しかし彼は、最後まで逃げなかった。


 鬼を直視できなくても、アサミを守り、茜を掴み、現世へ引き戻した。


 風彦はそれを見て、何か言いかけた。


 だが言葉を飲み込む。


 今、褒めれば怒るだろう。


 そういう人間だ。


 風彦自身も、壁へ手をついてようやく立っていた。


 眼鏡はかけ直したが、まだ視界が揺れている。


 腹痛は、ひどい。


 ひどいが、鬼門が閉じたぶん、冷たい痛みは薄れている。


 残っているのは、力を使いすぎた反動だった。


 華子は刀を完全に鞘へ納め、風彦へ歩み寄った。


「お疲れさま」


「華子さんも、お見事でござった」


「当然でしょう」


「謙遜は」


「しないわ」


「清々しいでござる」


 華子は微笑む。


 その笑みには、先ほどまでの戦闘の名残がまだあった。


 美しく、怖い。


 だが、風彦は少しだけ安心もしていた。


 少なくとも彼女は、鬼のように茜を狙わない。


 ただし、それが善良だからなのか、気まぐれなのかは分からない。


 華子は風彦の顔を覗き込む。


「さて」


「さて?」


「勝負の結果だけれど」


 風彦は固まった。


 茜が顔を上げる。


「そういえば、勝負してたわね」


「忘れたかったでござる」


「わたくしは忘れないわ」


 華子は楽しげに言った。


 風彦は冷や汗を流す。


 鬼は送り返した。


 華子が現世へ出た部分を斬り、風彦が道を開き、茜がつなぎ、雅琥が支え、アサミが助言した。


 誰が先に退けたか。


 そんなもの、判定が難しい。


 だが華子の顔を見る限り、難しいほうへは持っていかないだろう。


 絶対に、自分に都合よく解釈する。


「一応、共同作業ということで引き分けは」


「なし」


「やはり」


「わたくしが斬らなければ、鬼は現世から剥がれなかったわ」


「拙者が道を開かなければ戻せなかったでござる」


「つまり、わたくしが先に退ける準備を整え、あなたがその後始末をしたのね」


「解釈が強引!」


 茜が思わず言う。


 華子はにこりとする。


「厠の主に有利な解釈が採用されるのよ」


「横暴!」


「領地とはそういうものよ、稲葉のお嬢さん」


 茜はまた言葉に詰まる。


 華子は風彦へ視線を戻した。


「まあ、今すぐ頼みを聞けとは言わないわ。あなた、立っているのもやっとでしょう?」


「お心遣い痛み入るでござる」


「心遣いではないわ。倒れられたら面白くないだけ」


「やはり心遣いではなかったでござる」


 華子は笑う。


 その笑みは、先ほど鬼へ向けたものよりずっと柔らかい。


 だが風彦は、そこに別のものも感じた。


 興味。


 風彦自身への。


 彼女は、風彦の影を見た。


 黄色い風を見た。


 人ではないものを見ても、驚かなかった。


 むしろ、知っているような顔をした。


 風彦はそのことを覚えておくことにした。


 今は聞けない。


 聞いたところで、答えてくれるとも思えない。


 だが、華子は何かを知っている。


 学園についても。


 風彦についても。


 そして、おそらく稲葉家についても。


 廊下の遠くから、ようやく人の声が聞こえ始めた。


 教師たちの声。


 結界異常を知らせる警報音。


 清掃式神が壊れた床を見て混乱しているような、からからという音。


 現実が戻ってくる。


 その前に、華子は三番目の個室へ戻ろうとした。


「待って」


 茜が呼び止める。


 華子が振り返る。


「何かしら」


「あの鬼、また来るの?」


「ええ」


 華子は迷わず答えた。


 茜の顔が強張る。


「今日と同じ形かは分からないけれど、稲葉の契りが残っているかぎり、いずれまた」


「……そっか」


「怖い?」


 茜は唇を結んだ。


 今度は、すぐに否定しなかった。


「怖いわよ」


 華子の目が、少しだけ細くなる。


「そう」


「でも、知らないままはもっと嫌」


 華子は、ほんの短い沈黙のあとで笑った。


「いい顔になったじゃない」


「上から目線」


「実際、上よ。二百年以上は年上だもの」


「それ、見た目詐欺じゃない!」


「怪異に年齢を言わせるなんて、失礼な子ね」


 茜は言い返そうとして、疲れ切ったように肩を落とした。


「もういい。今は怒る気力もない」


「賢明ね」


 華子は三番目の個室の扉へ手をかける。


 その前に、風彦を見た。


「風彦」


 名を呼ばれ、風彦は背筋を伸ばす。


「はい」


「あなたの頼み、いずれ聞いてもらうわ」


「……やはり勝ちは華子さん扱いなのでござるね」


「当然」


「せめて内容だけ先に」


「駄目」


「そこを何とか」


「駄目」


「では、期限は」


「わたくしが決めるわ」


「契約としてかなり不利ではござらんか」


「そういう勝負を受けたのは、あなたよ」


 風彦は返す言葉を失った。


 華子は満足げに微笑む。


「それでは、ごきげんよう。次に呼ぶときは、もう少し丁寧にお願いね」


「善処するでござる」


「それと」


「はい?」


 華子は朱唇に人差し指を当て、昼間のことを思い出させるような笑みを浮かべた。


「紙の補充は、忘れないように」


 風彦は固まった。


 茜がゆっくりとこちらを見る。


「蓮田くん」


「違うでござる」


「まだ何も言ってない」


「違うでござる」


「あとで聞くわ」


「何卒ご容赦を」


 華子は声を立てて笑い、三番目の個室の内側へ消えた。


 扉が閉まる。


 花の香りが、少しずつ薄れていく。


 外では、教師たちの足音が近づいていた。


 誰も、すぐには動けない。


 ただ、全員が分かっていた。


 今起きたことは、ただの召喚事故ではない。


 鬼は消えていない。


 契約も終わっていない。


 学園の結界を歪めた何かも、まだどこかで見ている。


 そして、三番目の個室には華子がいる。


 その事実だけが、これからの学園生活を、もう二度と普通には戻さなかった。

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