第五幕 ― 華子対鬼
水滴の音が、勝負の始まりを告げた。
ぴちょん。
その一音が落ちた瞬間、厠の空気が変わった。
先ほどまで扉の外で暴れていた鬼の気配が、ふっと遠のいたように感じた。逃げたのではない。息を潜めたのだ。
外にいるものが、内側に現れたものを警戒している。
風彦には、それが分かった。
鬼も、華子を見ている。
扉一枚隔てた向こうで、赤黒い巨大な気配が動きを止めている。荒い息。木を引っ掻く爪。床下から響く、重い鼓動のような音。
華子は扉へ向かって歩き出した。
草履の底がタイルを踏む音は、驚くほど静かだった。
刀を抜いてはいない。
だが左手は鞘へ添えられ、右手は柄の近くで遊ぶように揺れている。その仕草だけで、彼女がいつでも抜けるのだと分かる。
茜はアサミを支えたまま、思わず息を呑んだ。
美しい。
悔しいほどに。
厠という場所にも、怪談という状況にも似合わない。けれど、ここ以外のどこにも似合わないような女だった。
雅琥は壁際で膝を立て、立ち上がろうとしていた。顔色はまだ悪い。だが、華子が扉へ向かう姿から目を離せずにいる。
怖い。
でも、見てしまう。
それは鬼を見たときの恐怖とは違った。
見てはいけないものではなく、見逃してはいけないもののように思えた。
風彦は白衣神咒の残りを懐から取り出し、息を整える。
腹痛は治まらない。
むしろ、これから何か大きなものが動く予感に、内臓がきつく絞られていた。
「華子さん」
風彦が声をかける。
「はいな」
華子は振り返らずに答えた。
「扉を開けても大丈夫でござるか」
「あら。心配してくださるの?」
「扉が破られたら、拙者たちも大変困るのでござる」
「素直でよろしい」
華子は右手の指先で、扉の内側に触れた。
その瞬間、外側から鬼の爪が叩きつけられる。
どん。
木戸が内側へたわむ。
茜が一歩下がり、アサミを抱え直した。
しかし華子は一歩も退かない。
扉に添えた指先だけで、その衝撃を受け止めているように見えた。
「わたくしの厠の戸を、ずいぶん乱暴に扱ってくれるじゃない」
声は穏やかだった。
しかし、その奥に怒りがある。
鬼が低く唸る。
「いなば」
「ええ。稲葉の子なら中にいるわ」
華子はさらりと言った。
茜がぎょっとする。
「ちょっと!」
「けれど、ここはわたくしの聖域よ」
華子の声が低くなる。
「その子へ用があるなら、まずは主に挨拶なさい」
扉の向こうで、鬼が吠えた。
衝撃。
今までで最も大きい。
木戸の表面に、初めて黒い亀裂が走った。
結界が軋む。
厠の鏡に、赤黒い光が走る。
風彦の腹が、ぐっと冷えた。
「華子さん!」
「大丈夫」
華子は微笑んだ。
「少し、お行儀を教えるだけよ」
言うなり、華子は扉の掛け金を外した。
「えっ」
茜の声が裏返る。
「開けるの!?」
「入れないまま斬るのは難しいもの」
「斬るの!?」
「遊びとは、そういうものよ」
「そういうものじゃない!」
茜の抗議を聞き流し、華子は扉を押し開けた。
外の廊下が見えた。
いや、見えたのは廊下ではなかった。
北校舎三階の廊下は、すでに赤黒い霧に飲まれている。壁は伸び、床は波打ち、天井は遠く高く歪んでいた。そこに、巨大な腕があった。
先ほどまで教室や廊下から伸びていた腕とは違う。
今度は、腕だけではない。
扉の外の空間を押し広げるように、鬼の肩が見えた。
赤黒い皮膚。
岩のような筋肉。
黒い爪。
そして、頭部。
天井を押し上げるほどの巨体が、廊下の奥に屈み込んでいる。
額からは二本の角が伸びていた。
片方は途中で折れている。
口には獣のような牙。
目は爛々と赤く、怒りと苦痛で濁っていた。
それは、昔話に出てくる鬼の姿に似ていた。
だが絵巻物の怪物とは違う。
臭いがある。
呼吸がある。
皮膚のひび割れから黒い煙が漏れ、そこに巻きついた縄が肉へ食い込んでいる。
縄。
何重にも、何百本にも見える赤い縄。
鬼の首、腕、胴、脚。
そのすべてを縛っている。
縄の表面には、かすれた文字があった。
古い人名。
役職名。
祈祷文。
契約文。
判読できないものもある。
茜はその縄を見た瞬間、胸を押さえた。
赤い縄。
稲葉家の家紋にある縄と同じ色だった。
鬼は華子を見下ろす。
華子は扉の前に立ったまま、刀を抜いていない。
体格差はあまりに大きい。
鬼の指一本が、華子の腕ほどある。
普通なら、立っているだけで恐怖に押し潰される。
しかし華子は、むしろ不機嫌そうに眉を上げた。
「まあ」
鬼が唸る。
「いなば」
「わたくしは稲葉ではないわ」
「どけ」
「嫌よ」
短い返答。
鬼の目が怒りに燃えた。
「どけ」
「嫌だと言ったでしょう」
次の瞬間、鬼の腕が振り下ろされた。
風彦は反射的に経文を構えたが、華子のほうが早かった。
刀が抜かれた。
抜刀の音は、ほとんどなかった。
ただ、花が散るような気配だけが走る。
華子の姿が、視界から消えた。
黒い影が一閃する。
鬼の巨大な爪が、空中で弾かれた。
金属がぶつかるような音ではない。
硬い霊的なものが断ち切られる、澄んだ音。
鬼の腕が大きく跳ね上がる。
廊下の壁が衝撃で砕け、赤黒い霧が渦を巻いた。
華子は扉の前へ戻っていた。
刀身は、薄く光っている。
無銘胴太貫《花切》。
重い刀のはずなのに、華子の手の中では扇のように軽く見えた。
「お客様」
華子は、にっこりと笑った。
「ここから先は土足厳禁よ」
鬼が吠えた。
今度は腕だけでなく、肩から突進するように体重をかけてくる。
廊下そのものがたわむ。
扉の境界が軋む。
華子は床を蹴った。
黒い着物の裾が翻る。
彼女は廊下へ出た。
鬼の腕が横薙ぎに振るわれる。
華子は一歩で懐へ入った。
刃が走る。
鬼の皮膚が裂ける。
黒い煙が噴き出す。
だが、血は出ない。
代わりに、鬼の肉の奥から赤い縄が見えた。
華子の刀が、その縄へ触れかける。
その瞬間、刀が止まった。
華子の手首が、見えない何かに引かれたように止まる。
彼女の眉がわずかに動いた。
「……なるほど」
風彦はそれを見逃さなかった。
華子の剣が止まった。
彼女の意思ではない。
何かの制約がある。
華子は鬼の身体を斬れる。
だが、その奥にある契約の核へは踏み込めない。
風彦は歯を食いしばった。
眼鏡を外すしかない。
これ以上は、表面だけを見ていても分からない。
彼は茜へ短く言う。
「稲葉殿、ここから動かないで」
「動けって言われても動けないわよ!」
「それなら結構」
「結構じゃない!」
風彦は眼鏡へ手をかけた。
腹の奥が、外す前から警告するように痛む。
真視は疲れる。
いや、疲れる程度では済まない。
見るという行為は、こちらの輪郭を向こう側へ晒すことでもある。
だが、見なければ判断できない。
風彦は眼鏡を外した。
◇
世界の形が崩れた。
厠の白いタイルも、木戸も、廊下も、一度薄い紙のように透ける。
かわりに、意味の線が見えた。
扉の内側には、淡い水の結界が張り巡らされている。
水路。
井戸。
排水。
流すための道。
そこに花の形をした黒い霊符が重なっている。
三番目の個室を中心に、厠全体が一つの小さな聖域になっていた。
華子の領域。
穢れを受け止め、流し、斬る場所。
そして、廊下の鬼。
風彦は息を呑んだ。
鬼は、一体ではなかった。
表面上は巨大な一体の鬼に見える。
だが真視では違う。
赤黒い肉体の内側に、無数の影が折り重なっていた。
小さな鬼。
大きな鬼。
角の折れた鬼。
腕を失った鬼。
顔のない鬼。
形になる前の怨念。
名前を奪われた霊。
それらが、赤い縄で束ねられている。
縄には人名が記されていた。
稲葉家の歴代当主の名。
家臣の名。
祈祷師の名。
そして、消えかけた鬼の名らしきもの。
名は、ほとんど塗り潰されている。
縛られ、使われ、削られ、命令されてきた年月が、鬼の身体そのものになっている。
風彦の腹が焼ける。
ただの敵ではない。
稲葉家が長い年月をかけて作り上げた、契約の塊。
鬼の姿をした歴史。
怒りと苦痛の集合体。
それが今、茜へ向かって手を伸ばしている。
「……これは」
風彦の声が掠れた。
「単独の鬼ではござらん」
茜が振り返る。
「どういうこと」
「稲葉家の契約に縛られた鬼たちの一部が、束ねられて出てきている。あの身体は、一体の肉体ではなく、契約でまとめられた怨念と霊格の束でござる」
アサミが、壁にもたれたまま薄く目を開ける。
「……複合契約体」
「たぶん」
「記録と一致……歴代当主の命令履歴が残留……」
「新垣殿、今は寝ていてくだされ」
「無理。重要」
「でしょうね!」
茜は鬼を見る。
今まで見えていたものが、別の意味を持ち始める。
赤い縄。
苦しそうな呼吸。
自分を狙う目。
あれは、ただの怪物ではない。
何かを訴えている。
けれど、その訴えがあまりに大きく歪んでいて、人間の言葉へ戻れない。
鬼が茜へ向かって口を開いた。
「名を……」
声は途切れ途切れだった。
複数の声が重なっている。
低い声。
高い声。
老人のような声。
獣のような声。
「名を……返せ」
茜の喉が凍る。
鬼の目は自分を見ている。
いや、自分の中にある稲葉の血を見ている。
「我らを……使うな」
赤い縄が軋む。
鬼の皮膚へ食い込み、黒い煙を上げる。
「稲葉の血……契りを継げ」
「知らない」
茜は思わず言った。
「そんなの、あたし知らない。あたしは……」
言いかけて、言葉が止まる。
知らない。
それは本当だ。
でも、知らされていなかったから関係ないと言えるのか。
自分が稲葉家の娘であることは事実だ。
その家の繁栄の土台に、目の前の鬼たちの苦痛があったのだとしたら。
父の病は。
あの優しかった父が、右手の感覚を失い、記憶を失い、少しずつ壊れていく理由は。
鬼の呪いだけではない。
稲葉家が結んだ契約の反動。
風彦が言っていた、使役の歴史。
アサミが調べていた写本。
すべてがつながっていく。
茜は、胸元の家紋を握りしめた。
「父上は……」
声が震える。
「父上は、何をしたの」
鬼は答えない。
かわりに、赤い縄が一斉に震えた。
風彦の真視には、ほんの一瞬、別の景色が見えた。
稲の実る田。
飢饉。
戦火。
疫病。
鬼が命じられている。
守れ。
祓え。
殺せ。
運べ。
防げ。
燃やせ。
奪え。
当主たちが血判を押す。
鬼が動く。
土地は守られる。
人々は生き延びる。
そのたびに、当主の命が削れる。
鬼の名が削れる。
契約の縄が増えていく。
善意だけではない。
悪意だけでもない。
土地を守るため。
家を守るため。
人を守るため。
そして、そのために誰かを縛り続けた歴史。
風彦は眼鏡をかけ直した。
見続けるには、負荷が強すぎる。
膝が笑い、腹を押さえる手に力が入る。
「消してはいけない」
風彦が言った。
華子が廊下で鬼の攻撃を受け流しながら、わずかにこちらを見た。
「今、なんて?」
「鬼を完全に消してはいけないでござる!」
鬼の爪が華子へ迫る。
華子は刀で受け、足を滑らせるように後退した。
その身のこなしは美しい。
だが、先ほどより動きが制限されている。
鬼そのものではなく、鬼に絡む契約へ刃が触れかけるたび、華子の腕が止まる。
見えない鎖に引かれるように。
「面倒なことを言う子ね」
華子は笑った。
「理由は?」
「あれは稲葉家の鬼契りと、学園東側の結界に接続している。完全に斬れば、鬼だけでなく結界まで裂ける可能性がある」
「……見たのね」
「見てしまったでござる」
華子の笑みが、少しだけ消える。
彼女は鬼の足元を斬ろうとし、また止まった。
刀身が、赤い縄の手前で震える。
「なるほど」
華子は低く呟いた。
「わたくしにも、斬れないわけだ」
「契約の制約でござるか」
「ええ。忌々しいことに」
華子は鬼の一撃を避け、厠の扉前へ戻る。
黒い髪が揺れ、花の香りが散った。
彼女は微笑んでいたが、その目は冷たかった。
「学園の結界を支えるものを、わたくしが勝手に壊すことはできない。そういう約束を結ばされているの」
「守護神なのに?」
茜が思わず言う。
華子は横目で茜を見る。
「守護神なんて、都合のよい呼び方よ。呼び名が綺麗だと、縛るほうも縛られるほうも、少しだけ罪を忘れられるでしょう?」
その言葉は、茜の胸に刺さった。
藩主家。
次期当主。
家を守る娘。
それらも、綺麗な呼び名なのかもしれない。
その下で、誰かの自由が少しずつ削られているのだとしたら。
「では、殺さず送り返す」
風彦が言った。
華子は楽しげに眉を上げる。
「できるの?」
「やるでござる」
「さっきも聞いたわね、その台詞」
「できる、と言ったほうがよろしいでござるか」
「ええ。女の前では、少し見栄を張るものよ」
「では、できるでござる」
「よろしい」
茜が叫ぶ。
「ちょっと待って! 送り返すってどうやって!」
「門を開く」
「さっき開いて大変なことになったじゃない!」
「今度は鬼門へ戻すための道でござる」
「言い方が簡単!」
「実際は簡単ではござらん!」
「じゃあ簡単そうに言わないで!」
風彦は白衣神咒の残りを確認する。
少ない。
紙形も減っている。
真視の負荷で視界は少し揺れている。
それでも、道は見えた。
鬼を殺さない。
契約を断ち切らない。
現世へ引きずり出された部分だけを、鬼門境へ押し戻す。
そのためには、鬼を一瞬だけ現世へ留める必要がある。
完全に実体化させるのではない。
落ちる直前の橋へ、縄をかけるように。
戻る道が開くまで、鬼を固定する。
「稲葉殿」
風彦が言った。
茜はびくりとする。
「なに」
「あなたの茜縄は使えるでござるか」
「あれ、まだ授業でちょっとやっただけ」
「使えるでござるか」
「……使える」
茜は答えた。
怖かった。
声が震える。
でも、使えると答えた。
「鬼を縛るのではござらん。つなぐだけでよい。鬼が鬼門へ戻るまで、現世との接点を安定させる」
「つまり、あたしがあれとつながるってこと?」
「はい」
「最悪ね」
「最悪ではござるが、たぶん必要でござる」
茜は鬼を見る。
大きい。
怖い。
自分を狙っている。
父の病と関係しているかもしれない。
自分の家が傷つけてきたものかもしれない。
逃げたい。
逃げたくて仕方ない。
なのに、逃げれば何も分からないままだ。
父がなぜ壊れていくのか。
稲葉家が何をしてきたのか。
目の前の鬼が何を訴えているのか。
茜は召喚杖を握った。
手が震える。
足も震えている。
胸が苦しい。
目の奥が熱い。
「あたし」
声がかすれた。
茜は唇を噛む。
いつものように怒鳴ればいい。
強がればいい。
怖くないふりをすればいい。
でも、それでは昼間と同じだ。
最後の言葉が言えなかった。
今もきっと、何かを言えなくなる。
茜は、初めてその言葉を口にした。
「怖い」
厠の中が静かになった。
外では鬼が唸り、華子が刀を構えている。
雅琥は壁際で目を見開いた。
茜が、自分の恐怖を認めた。
あれほど強気で、怒ったように振る舞っていた少女が。
風彦は笑わなかった。
からかいもしなかった。
ただ、静かに頷いた。
「怖いままでよいので、逃げるでござる。怖くないふりをする必要はない」
茜は風彦を見た。
「逃げるの?」
「はい」
「でも、あたしがつなぐんでしょ」
「はい」
「言ってること、矛盾してる」
「逃げながら、つなぐのでござる」
「無茶苦茶」
「人生はだいたい無茶苦茶でござる」
「急に悟らないで」
風彦は少しだけ笑った。
「稲葉殿は、鬼を倒さなくてよい。契約者になる必要もない。命令もしなくてよい。ただ、あれが戻るまで、自分と現世の間に細い道を残す。それだけでござる」
「それだけって言い方、嫌い」
「拙者も言いながら無茶だと思っているでござる」
「正直すぎる!」
茜は、震える息を吐いた。
それでも召喚杖を構える。
赤い霊力が、彼女の手元に集まり始めた。
細い糸。
縄というには頼りない。
けれど、赤く、まっすぐな光。
茜縄。
対象を縛るために教えられた術。
しかし今、茜は縛るために使わない。
つなぐ。
引き戻す。
相手を所有するためではなく、落ちないように支えるために。
茜は鬼へ向き直った。
「稲葉の血が欲しいなら」
声は震えている。
でも、消えない。
「あたしはここにいる」
鬼の赤い目が茜を見る。
その視線の重さに、膝が折れそうになる。
茜は踏みとどまった。
「でも、命令なんかしない」
赤い縄が伸びる。
鬼へ向かって。
鬼の腕に巻きつく。
束縛ではない。
細い線が、鬼の肉体と現世の境界へ触れる。
鬼が吠えた。
茜の身体へ衝撃が走る。
膝が床へ落ちそうになる。
「茜!」
アサミが叫ぼうとして咳き込む。
雅琥が彼女の前へ半歩出た。
まだ震えている。
鬼のほうは見られない。
それでもアサミの前に立った。
「こいつは俺が見てる」
「六道殿」
風彦が言う。
「無理は」
「うるせえ。おまえに言われたくねえ」
雅琥は自分の足元を睨みながら言った。
「見ねえ。あれは見ねえ。でも、こいつに手出す奴が来たら殴る。それだけだ」
アサミはかすかに笑った。
「合理的ではないけど、有効」
「黙って寝てろ」
「寝ない。記録する」
「気絶しろ」
「それは命令?」
「願望だ!」
そんなやり取りの間にも、茜縄は鬼と茜をつないでいる。
赤い光が震えるたび、茜の身体へ鬼の怒りが流れ込んでくる。
憎い。
苦しい。
寒い。
名前がない。
命令される。
走れ。
殺せ。
守れ。
燃やせ。
稲を守れ。
子を守れ。
村を守れ。
ならば、我らは誰が守る。
茜は歯を食いしばった。
涙が出そうだった。
怖いだけではない。
痛い。
鬼の痛みが、自分のもののように流れ込んでくる。
「ごめん」
茜は呟いた。
「何に謝ってるのかも、まだ分かんないけど……ごめん」
鬼の動きが一瞬止まった。
ほんの一瞬。
それで十分だった。
「風彦」
華子が言った。
初めて、風彦を名で呼んだ。
「道を開ける?」
風彦は息を吸う。
眼鏡の奥で、瞳が黄色く揺らいだ。
「開ける」
今度は「ござる」ではなかった。
風彦は両手を広げた。
白衣神咒の残りを床へ落とす。
紙片が風もないのに舞い上がり、厠の入口と鬼の足元の間に円を描いた。
風彦の影が伸びる。
人の形をしていない影。
肩から、袖口から、背中から、薄い黒い肢のようなものが揺らめく。
鱗に覆われた鞭のような影。
人間の手足ではない。
茜はそれを見た。
雅琥も、見たくないのに見てしまった。
アサミは目を細め、記録しようとするように指を動かす。
だが誰よりも近くで見ていた華子だけが、驚かなかった。
彼女はただ、少しだけ懐かしむように目を細めた。
「あら」
その声は、小さく優しかった。
「あなたも、ずいぶん厄介なものを背負っているのね」
風彦は答えない。
答える余裕がなかった。
黄風。
ハスターの血に由来する、境界を削る風。
使えば、人間としての輪郭が薄くなる。
公儀の施設で何度も警告された力。
不用意に使うな。
人前で使うな。
戻れなくなる可能性がある。
それでも、今は使うしかない。
風彦の足元から、黄色い風が吹いた。
物理的な風ではない。
タイルの上の水滴は揺れない。
しかし空間が削れる。
厠の入口の向こう、鬼の足元、赤黒い裂け目が広がった。
鬼門境への帰還路。
先ほど教室で開いた歪な裂け目とは違う。
風彦が、戻るためだけに開いた細い道。
腹の奥が燃える。
風彦は膝をつきそうになった。
華子が横目で見る。
「倒れたら負けよ」
「承知……している」
「見栄は?」
「張って……いる」
「よろしい」
華子は刀を構えた。
鬼が道に気づき、暴れ始める。
戻されるのを拒むように。
あるいは、まだ言い足りないことがあるように。
「稲葉!」
鬼が叫ぶ。
「契りを!」
「継がない!」
茜が叫び返した。
赤い縄が激しく震え、彼女の手のひらが裂けた。
血が滲む。
それでも離さない。
「継がないけど、聞く! あんたたちが何をされたのか、ちゃんと聞く! だから今は戻って!」
「名を……」
「名前も!」
茜は泣きそうな声で叫んだ。
「返せるなら、返す方法を探す! だから、今は戻ってよ!」
鬼の動きがまた揺らいだ。
風彦が黄風を強める。
鬼門の道が開く。
雅琥がアサミの前で踏ん張る。
華子が踏み出した。
「では、仕上げね」
鬼の現世へ出ている部分と、鬼門境へ残っている本体。
その境界を、華子は見ていた。
鬼そのものを殺すのではない。
契約の赤縄を斬るのでもない。
現世へ無理やり突き出た部分だけを、切り離す。
刃が低く構えられる。
華子の瞳から、からかうような色が消えた。
そこにいるのは、榊原華だった。
誰にも剣士と認められなかった娘。
死んでもなお、刀を手放さなかった女。
「華月流」
華子の足が、床を滑る。
黒い着物が花弁のように翻る。
鬼の爪が迫る。
華子はそれを紙一重でかわした。
刀身が、赤黒い霧と現世の境目をなぞる。
「――華蝶風月」
一閃。
それは斬撃というより、花が散る光景だった。
黒い刃が走ったあとに、薄い花弁のような光が舞う。
鬼の腕が切断されたわけではない。
肉体が裂けたわけでもない。
しかし、現世に固定されていた鬼の輪郭だけが、すぱりと断たれた。
鬼が吠える。
茜縄が強く引かれる。
茜の身体が前へ倒れかけた。
「稲葉殿!」
風彦が叫ぶ。
雅琥がとっさに手を伸ばした。
鬼は見ない。
鬼のほうは見ないまま、茜の後ろ襟を掴んだ。
「行くな!」
「行きたくて行ってるんじゃない!」
「なら踏ん張れ!」
「踏ん張ってるわよ!」
アサミが、かすれた声で言う。
「縄、緩めて……押すのではなく、流す」
「どうやって!」
「命令じゃなく……手放す準備を……」
茜は一瞬だけ目を閉じた。
縛るのではない。
つなぐ。
支える。
そして、戻すときには手放す。
稲葉家の術式は、命令し、拘束し、服従させるものだった。
でも自分は、それをしたくない。
できないのではない。
したくない。
茜は赤い縄を握る手を緩めた。
「戻って」
命令ではない。
願いだった。
「帰って」
鬼の身体が、鬼門の裂け目へ沈み始める。
華子の斬撃で現世の固定を失い、風彦の黄風が開いた道へ引かれ、茜縄が迷わぬようにつないでいる。
鬼は抵抗する。
だが、その抵抗は弱くなっていく。
怒りだけではなく、疲労が見えた。
長く縛られ、長く使われ、長く忘れられてきたものの疲れ。
「名を」
鬼が言った。
今度は、少しだけ声が澄んでいた。
「名を……返せ」
茜は答えられない。
約束などできない。
自分には、まだ何も分からない。
だから、嘘は言わなかった。
「探す」
茜は言った。
「必ず、探す」
鬼の赤い目が、茜を見た。
その奥に、ほんの一瞬だけ、怒りではないものが見えた。
哀しみ。
あるいは、待ちくたびれた者の諦め。
鬼の身体が、さらに裂け目へ沈む。
華子が刀を鞘へ収める。
風彦は黄風を保とうとするが、足元が崩れそうになる。
影の異相肢が揺らぎ、人の形へ戻ろうとする。
腹痛が限界を超えた。
「……っ」
風彦の膝が折れた。
倒れかけた肩を、華子が片手で支える。
「まだよ」
「分かって……いる」
「いいえ、分かっていない顔ね。男の子はすぐ無理をする」
「性別関係なく、今は無理をする場面でござる」
「あら、戻った」
「戻ってしまったでござる」
華子は小さく笑う。
「なら、あと少し」
風彦は歯を食いしばり、最後の黄風を絞り出した。
裂け目が大きく開く。
鬼の巨体が、ついに鬼門境へ引き戻される。
腕。
肩。
角。
赤い縄。
すべてが向こう側へ沈んでいく。
最後に、鬼の顔だけが残った。
鬼は茜を見た。
「稲葉の血」
茜は震えながら立っている。
「なによ」
「次の契りまで」
鬼の声が、廊下と厠と、茜の胸の奥へ響いた。
「待つ」
その言葉を最後に、鬼は裂け目の向こうへ消えた。
風彦は黄風を閉じる。
空間の裂け目が、縫い合わされるように塞がっていく。
赤黒い霧が薄れ、廊下の歪みが少しずつ戻る。
水滴が落ちた。
ぴちょん。
今度は、静かな音だった。
◇
誰もすぐには動けなかった。
厠の扉は開いたまま。
廊下はひどく壊れている。
壁は裂け、床板はめくれ、ところどころに黒い焦げ跡が残っていた。
それでも、先ほどまでの赤黒い異界ではない。
北校舎の廊下へ戻っている。
夕暮れの光も、少しだけ普通の色に近づいていた。
茜はその場に膝をついた。
赤い縄は消えている。
手のひらには、細い切り傷が残っていた。
血が滲んでいる。
痛い。
でも、その痛みのおかげで自分がまだここにいると分かった。
「……待つって、何よ」
茜は呟いた。
答える者はいない。
アサミは壁にもたれている。
まだ顔色は悪いが、目は開いていた。
「次の契り……継承儀式の可能性が高い」
「今それ言う?」
「言わないほうがいい?」
「言って。言わないで。いや、やっぱり言って。ああもう、分かんない!」
「混乱している」
「してるわよ!」
茜の声が震えた。
怒っている。
泣きそうでもある。
アサミは少し考え、かすれた声で言った。
「生きている」
「……何が」
「茜も、ワタシも」
茜は言葉を失った。
それから、アサミの隣へ座り込む。
「そうね」
小さく答える。
「生きてるわね」
雅琥は壁にもたれ、ずるずると座り込んだ。
「俺もな」
「あなたは勝手に死なないでよ」
「死んでねえよ」
「途中で半分死にかけてたじゃない」
「うるせえ」
雅琥は顔を背ける。
その手はまだ震えていた。
しかし彼は、最後まで逃げなかった。
鬼を直視できなくても、アサミを守り、茜を掴み、現世へ引き戻した。
風彦はそれを見て、何か言いかけた。
だが言葉を飲み込む。
今、褒めれば怒るだろう。
そういう人間だ。
風彦自身も、壁へ手をついてようやく立っていた。
眼鏡はかけ直したが、まだ視界が揺れている。
腹痛は、ひどい。
ひどいが、鬼門が閉じたぶん、冷たい痛みは薄れている。
残っているのは、力を使いすぎた反動だった。
華子は刀を完全に鞘へ納め、風彦へ歩み寄った。
「お疲れさま」
「華子さんも、お見事でござった」
「当然でしょう」
「謙遜は」
「しないわ」
「清々しいでござる」
華子は微笑む。
その笑みには、先ほどまでの戦闘の名残がまだあった。
美しく、怖い。
だが、風彦は少しだけ安心もしていた。
少なくとも彼女は、鬼のように茜を狙わない。
ただし、それが善良だからなのか、気まぐれなのかは分からない。
華子は風彦の顔を覗き込む。
「さて」
「さて?」
「勝負の結果だけれど」
風彦は固まった。
茜が顔を上げる。
「そういえば、勝負してたわね」
「忘れたかったでござる」
「わたくしは忘れないわ」
華子は楽しげに言った。
風彦は冷や汗を流す。
鬼は送り返した。
華子が現世へ出た部分を斬り、風彦が道を開き、茜がつなぎ、雅琥が支え、アサミが助言した。
誰が先に退けたか。
そんなもの、判定が難しい。
だが華子の顔を見る限り、難しいほうへは持っていかないだろう。
絶対に、自分に都合よく解釈する。
「一応、共同作業ということで引き分けは」
「なし」
「やはり」
「わたくしが斬らなければ、鬼は現世から剥がれなかったわ」
「拙者が道を開かなければ戻せなかったでござる」
「つまり、わたくしが先に退ける準備を整え、あなたがその後始末をしたのね」
「解釈が強引!」
茜が思わず言う。
華子はにこりとする。
「厠の主に有利な解釈が採用されるのよ」
「横暴!」
「領地とはそういうものよ、稲葉のお嬢さん」
茜はまた言葉に詰まる。
華子は風彦へ視線を戻した。
「まあ、今すぐ頼みを聞けとは言わないわ。あなた、立っているのもやっとでしょう?」
「お心遣い痛み入るでござる」
「心遣いではないわ。倒れられたら面白くないだけ」
「やはり心遣いではなかったでござる」
華子は笑う。
その笑みは、先ほど鬼へ向けたものよりずっと柔らかい。
だが風彦は、そこに別のものも感じた。
興味。
風彦自身への。
彼女は、風彦の影を見た。
黄色い風を見た。
人ではないものを見ても、驚かなかった。
むしろ、知っているような顔をした。
風彦はそのことを覚えておくことにした。
今は聞けない。
聞いたところで、答えてくれるとも思えない。
だが、華子は何かを知っている。
学園についても。
風彦についても。
そして、おそらく稲葉家についても。
廊下の遠くから、ようやく人の声が聞こえ始めた。
教師たちの声。
結界異常を知らせる警報音。
清掃式神が壊れた床を見て混乱しているような、からからという音。
現実が戻ってくる。
その前に、華子は三番目の個室へ戻ろうとした。
「待って」
茜が呼び止める。
華子が振り返る。
「何かしら」
「あの鬼、また来るの?」
「ええ」
華子は迷わず答えた。
茜の顔が強張る。
「今日と同じ形かは分からないけれど、稲葉の契りが残っているかぎり、いずれまた」
「……そっか」
「怖い?」
茜は唇を結んだ。
今度は、すぐに否定しなかった。
「怖いわよ」
華子の目が、少しだけ細くなる。
「そう」
「でも、知らないままはもっと嫌」
華子は、ほんの短い沈黙のあとで笑った。
「いい顔になったじゃない」
「上から目線」
「実際、上よ。二百年以上は年上だもの」
「それ、見た目詐欺じゃない!」
「怪異に年齢を言わせるなんて、失礼な子ね」
茜は言い返そうとして、疲れ切ったように肩を落とした。
「もういい。今は怒る気力もない」
「賢明ね」
華子は三番目の個室の扉へ手をかける。
その前に、風彦を見た。
「風彦」
名を呼ばれ、風彦は背筋を伸ばす。
「はい」
「あなたの頼み、いずれ聞いてもらうわ」
「……やはり勝ちは華子さん扱いなのでござるね」
「当然」
「せめて内容だけ先に」
「駄目」
「そこを何とか」
「駄目」
「では、期限は」
「わたくしが決めるわ」
「契約としてかなり不利ではござらんか」
「そういう勝負を受けたのは、あなたよ」
風彦は返す言葉を失った。
華子は満足げに微笑む。
「それでは、ごきげんよう。次に呼ぶときは、もう少し丁寧にお願いね」
「善処するでござる」
「それと」
「はい?」
華子は朱唇に人差し指を当て、昼間のことを思い出させるような笑みを浮かべた。
「紙の補充は、忘れないように」
風彦は固まった。
茜がゆっくりとこちらを見る。
「蓮田くん」
「違うでござる」
「まだ何も言ってない」
「違うでござる」
「あとで聞くわ」
「何卒ご容赦を」
華子は声を立てて笑い、三番目の個室の内側へ消えた。
扉が閉まる。
花の香りが、少しずつ薄れていく。
外では、教師たちの足音が近づいていた。
誰も、すぐには動けない。
ただ、全員が分かっていた。
今起きたことは、ただの召喚事故ではない。
鬼は消えていない。
契約も終わっていない。
学園の結界を歪めた何かも、まだどこかで見ている。
そして、三番目の個室には華子がいる。
その事実だけが、これからの学園生活を、もう二度と普通には戻さなかった。




