表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
厠の華子さん―ネオ江戸魔導学園怪異録―  作者: 秋月キアラ
第1話 ― 三番目の個室に華は咲く
PR
5/26

第四幕 ― 女子厠の三番目

 北校舎三階の女子厠へ飛び込んだ直後、扉は背後で閉まった。


 誰かが閉めたわけではない。


 風に押されたのでもない。


 まるで厠そのものが、外のものを拒むように。


 がたん、と木戸が鳴る。


 そのすぐ外側へ、鬼の腕が叩きつけられた。


 どん。


 厠全体が揺れた。


 洗面台の鏡が震え、天井の古い照明がかすかに明滅する。壁に掛けられた清掃点検札がからからと音を立て、蛇口の先から水滴が落ちた。


 ぴちょん。


 だが、扉は壊れない。


 薄い木造の扉である。


 古びた蝶番。


 内側から簡易的にかけられただけの掛け金。


 本来なら、巨大な鬼の腕どころか、雅琥が本気で蹴れば一撃で壊れそうな戸だった。


 それなのに、外の鬼は入ってこられない。


 どん。


 さらに一撃。


 扉の板が内側へたわみ、茜が反射的に悲鳴を上げかける。


 しかし扉は、やはり破れなかった。


 たわんだ板は、次の瞬間には何事もなかったように元へ戻る。


 表面に走ったはずの亀裂も消えている。


「……なに、ここ」


 茜はアサミの肩を支えたまま、息を切らしていた。


 額には汗が滲み、髪は乱れ、顔には恐怖と苛立ちが同居している。


 それでもアサミを離さない。


 アサミは半ば意識を失っており、茜にもたれかかるようにして立っていた。唇は青白く、右手にはまだ黒い染みが残っている。


「アサミ、しっかりして」


「……床、冷たい……」


「感想がそれ?」


「記録……厠内、霊圧……安定……」


「記録する前に立って!」


 一方、雅琥は厠へ入った直後、アサミを茜へ預けるなり壁際へ崩れ落ちていた。


 完全に倒れたわけではない。


 片膝をつき、片手で壁を掴んでいる。


 だが顔色は悪く、呼吸も浅い。


 鬼を見てから、ずっと張り詰めていたものが切れかけていた。


 彼は洗面台の鏡のほうを絶対に見ようとしない。


 視線を床へ固定したまま、乱暴に息を吐く。


「……くそ」


 低く、掠れた声。


「なんだよ、あれ」


「鬼でござる」


 風彦が答えた。


 答えながら、自分も厠の床へ手をつきそうになる。


 腹痛が限界に近かった。


 教室で白衣神咒を使い、アサミから悪霊を引き剥がし、さらに鬼の腕を足止めした。どれも、本来なら短時間で連発していい術ではない。


 胃の奥が絞られる。


 下腹部は冷えているのに、背中には汗が流れる。


 おまけに、ここへ入ってから腹痛の質が変わった。


 外の鬼門から来る冷たい痛みは、扉の外で遮られている。


 代わりに厠の内側から、別の圧がかかっていた。


 水。


 花。


 古い井戸。


 刃物。


 そして、名前を呼ばれるのを待っている何か。


 風彦は息を整えながら、ゆっくりと周囲を見回した。


 女子厠は、清潔だった。


 古い校舎の厠であるにもかかわらず、嫌な臭いがしない。床のタイルは磨かれ、洗面台の白磁には水垢もない。


 しかし現代的な明るさはない。


 天井の照明は淡く、青みを帯びている。


 壁の隅には、古い木札が掛けられていた。


 清浄第一。


 字は達筆だが、少し古めかしい。


 鏡の前には椿の花が一輪、誰が置いたのか分からないまま、小さな白い皿に生けられていた。


 そして、奥に三つの個室。


 一番目。


 二番目。


 三番目。


 三番目の扉だけが、わずかに他と違って見える。


 同じ木の扉。


 同じ古い金具。


 だがそこだけ、夕暮れの赤も、照明の青白さも届いていない。


 閉じた扉の向こうから、花の香りが漂っている。


 濃く、甘く、少しだけ血の匂いに似た香り。


 風彦は、その扉を見つめた。


 昼間、紙を投げ込んでくれた声。


 あれはこの中から聞こえた。


 気のせいではなかったのだろう。


 風彦はそのことを認めたくなかった。


 認めたくなかったが、外には鬼がいる。


 厠の中には、どう考えても普通ではない何かがいる。


 そして今、自分たちを守っているのは、たぶん後者だった。


「蓮田くん」


 茜の声が鋭く飛ぶ。


「何ぼーっとしてるの! 助け呼んで!」


「呼んでいるでござるよ。心の中で」


「心じゃなくて端末で呼んで!」


「さっき圏外でしたでしょう!」


「なら術とかで!」


「拙者もできればそうしたいのでござるが、いま紙形を飛ばしても廊下で食われる未来しか見えないでござる!」


「未来が見えるならもっと早く何とかして!」


「比喩でござる!」


 どん、と扉がまた鳴った。


 全員の身体が跳ねる。


 雅琥は壁を掴む手に力を込め、歯を食いしばった。


「うるせえな……」


 声だけは強い。


 だが膝はまだ震えている。


「入って来られねえなら、そのまま諦めろよ」


 外から、鬼の声が響いた。


「いなば」


 扉越しなのに、耳元で囁かれたようだった。


 茜の身体が強張る。


「ちぎりを」


 どん。


「つげ」


 どん。


「名を」


 どん。


「返せ」


 最後の言葉は、怒りだけではなかった。


 痛みがあった。


 長い間、誰にも聞かれなかった声のようだった。


 茜は唇を噛んだ。


「……何なのよ」


 強がる声が、かすかに震えている。


「あたし、知らないわよ。鬼契りとか、契約とか、そんなの……」


 言いながら、自分でも嘘だと思った。


 言葉だけは聞いたことがある。


 家の蔵。


 母の声。


 父の病室。


 家臣たちの視線。


 知らされていないだけで、自分の周囲にはずっとそれがあった。


 稲葉家の赤い縄。


 鬼を縛るもの。


 そして、今、鬼が求めているもの。


 茜はアサミを支える腕に力を込めた。


「父上の病と、関係あるの……?」


 アサミは薄く目を開けた。


「……たぶん」


「たぶん禁止」


「可能性は……高い」


「そういう言い換えも禁止」


「ごめん」


 短いやり取りだった。


 だが、二人が生きている証拠のようでもあった。


 風彦は扉から目を離し、厠の床と壁、天井を順に確認する。


 霊的な線が見えるわけではない。


 眼鏡をかけたままでは、表層しか捉えられない。


 それでも、術者としての感覚が告げていた。


 ここはただの避難場所ではない。


 怪異の領域でありながら、厠の内側には強い秩序がある。


 不浄を流す場所。


 隠された本音が漏れる場所。


 人が一人になり、名前や立場から少しだけ離れる場所。


 その性質が、境界として成立している。


 外の鬼は、稲葉という名と血を追っている。


 だがこの場所では、藩主の娘も、学園の問題児も、公儀の見習い隠密も、ただの一人の人間へ戻される。


 だから、扉が耐えている。


 そんな理屈が、風彦の中で形になっていく。


「ここ、たぶん強いでござる」


「強いって何が」


 茜が苛立った声で尋ねる。


「避難結界としてでござる。外からの侵入を拒む性質がある。鬼の腕を止められるなら、かなり古い」


「古いって、どれくらい」


「少なくとも、現代の学園設備ではないでござるね」


「つまり?」


「ここにいる何かが、自分の領域を守っている」


 沈黙。


 茜と雅琥が、ゆっくりと三番目の個室を見た。


 アサミだけが、目を閉じたまま呟いた。


「三番目の華子……」


 雅琥が即座に言った。


「名前言うなって言っただろ」


「名前は接続キー」


「だから怖えんだよ!」


 茜は乾いた笑いを漏らした。


「ちょっと待って。まさか本気で言ってる? 華子さん? あの、三番目を叩いて『遊びましょう』って言うやつ?」


「他に心当たりはござらん」


 風彦は真面目に答えた。


「やだ」


 茜は即答した。


「嫌でござるか」


「嫌よ! 鬼に追われて女子厠に逃げ込んだら、今度は華子さんを呼ぶ? 怪談の数珠つなぎじゃない!」


「状況としては、おっしゃる通りでござる」


「肯定しないで!」


 どん、と外からまた衝撃。


 扉の向こうで、鬼が爪を立てている音がする。


 木を引っ掻く嫌な音。


 しかし扉には傷一つつかない。


 代わりに、厠の空気が少しずつ重くなっていく。


 守られている。


 だが、永遠ではない。


 風彦には分かった。


 この場所の主が、自分たちを助ける意思を明確に示しているわけではない。


 あくまで、自分の領域へ外敵が入ることを拒んでいるだけだ。


 こちらが対価を示さなければ、これ以上は動かない。


「稲葉殿」


「なに」


「呼ぶしかないでござる」


「ほかに方法は」


「拙者が扉を開けて鬼と交渉する」


「華子さんを呼びましょう」


「判断が早いでござる」


「鬼と交渉よりはまし!」


 雅琥が壁際から低く言う。


「俺は反対だ」


 茜が振り返る。


「あんた、まだ顔色悪いけど、反対する元気はあるのね」


「ある。怪異を呼ぶとか、正気じゃねえ」


「もう外に鬼がいる時点で、正気の選択肢は売り切れよ」


「鬼がいるからって、追加で怪談呼ぶ馬鹿がどこにいる」


「ここに」


 風彦が控えめに手を上げた。


 雅琥は睨む。


「おまえ、腹痛で頭おかしくなってんじゃねえのか」


「否定しきれないのがつらいところでござる」


「否定しろよ!」


 風彦は三番目の個室へ目を向けた。


 花の香りが濃くなっている。


 まるで中にいる何かが、こちらの会話を楽しんでいるようだった。


 風彦は息を吐いた。


 怖い。


 正直、とても怖い。


 鬼も怖い。


 学園結界を内側から歪めている何かも怖い。


 そしてこの個室の内側にいる存在も、当然怖い。


 だが、恐怖には種類がある。


 鬼の恐怖は、血と契約と暴力の気配だ。


 廊下を歪めた何かの恐怖は、名前を奪われるような冷たさだ。


 この個室の中にいるものは、少し違う。


 鋭い刃物を首筋へ当てられているようでありながら、その刃がこちらを殺すためだけにあるとは思えない。


 風彦は眼鏡の位置を直した。


「三回叩いて、呼ぶ」


 茜がごくりと喉を鳴らす。


「本当に出るの?」


「出るかどうかは、向こう次第でござる」


「出なかったら?」


「外の鬼と再会でござる」


「最悪!」


「最悪を避けるために、少し悪そうな選択肢を選ぶのでござる」


「言い方!」


 風彦は個室の前へ立った。


 三番目の扉。


 木目は古い。


 だが清潔で、傷もない。


 扉の取っ手は黒い金属製で、妙に冷たそうに見えた。


 風彦は片手を上げる。


 その手が少し震えているのを、自分で見た。


 腹痛のせいだ。


 たぶん。


 きっと。


 そういうことにしておく。


 一度目。


 こん。


 軽い音が響いた。


 その瞬間、外の鬼が扉を叩く音が止まった。


 ぴちょん、と続いていた水滴の音も消える。


 厠全体が、息を止めたように静まり返った。


 茜がアサミを支えたまま固まる。


 雅琥は壁を掴む指に力を込めた。


 アサミだけが、薄く目を開ける。


「……応答、あり」


「分析しなくていいから黙ってて」


 茜の小声。


 二度目。


 こん。


 花の香りが広がった。


 さっきまで厠の奥に漂っていた香りが、一気に足元から立ちのぼる。


 椿。


 夜桜。


 古い香。


 血を洗ったあとの鉄の匂い。


 それらが混ざり合い、不思議なほど嫌ではない香りになっていた。


 風彦の腹痛が、ほんの少しだけ和らぐ。


 その代わり、背筋に冷たいものが走った。


 三度目。


 こん。


 叩いた指先が、扉の向こうへ吸い込まれるような感覚がした。


 風彦は唾を飲み込む。


 もう引き返せない。


 彼は、できるだけはっきりとした声で呼びかけた。


「華子さん、遊びましょう」


 言葉が、厠の中で反響しなかった。


 吸い込まれた。


 扉の内側へ。


 どこか遠く、井戸の底のような場所へ。


 沈黙。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 茜が耐えきれず、小声で言う。


「ねえ、出ないんじゃ」


 その瞬間、個室の内側から女の声がした。


「わたくしと、どのようにお遊びしたいのかしら?」


 艶やかな声だった。


 若い女の声にも聞こえた。


 長く生きた女の声にも聞こえた。


 上品で、優雅で、どこか人を試すような響きがある。


 茜は背筋を伸ばした。


 雅琥は小さく悪態をついた。


「出やがった……」


 アサミがかすかに呟く。


「記録上の怪談と一致……」


「今メモ取ったら怒るわよ」


「手が動かない」


「そういう問題じゃない」


 風彦は扉の前に立ったまま、慎重に言葉を選んだ。


「外に鬼がいるのでござる」


「ええ。ずいぶんと騒がしいお客様ね」


 声は楽しげだった。


「お客様扱いでござるか」


「あら。わたくしの厠の前まで来たのでしょう? 礼儀を知らないお客様ほど、始末に困るものはないわ」


 その言い方に、風彦は一瞬だけ言葉を失う。


 中の女は、外の鬼を恐れていない。


 少なくとも、声には恐怖がない。


 風彦は姿勢を正した。


「拙者たちを助けていただきたい」


「助ける?」


 扉の向こうで、女が笑う気配。


「人様の領域へ勝手に逃げ込んでおいて、助けてほしいとは、ずいぶん素直なお願いね」


「大変申し訳なく思っているでござる」


「謝るくらいなら、最初から厠へ駆け込む前に一言断りなさいな」


「非常時でござったので」


「昼間も非常時だったのかしら?」


 風彦の顔が固まった。


 茜が怪訝そうに見る。


「昼間?」


「な、何のことでござろうか」


 扉の向こうで、くすりと笑う声。


「紙は足りた?」


 茜の目が、ゆっくりと風彦へ向いた。


「蓮田くん」


「違うでござる」


「まだ何も言ってないわよ」


「違うでござる」


「昼間、何したの」


「不可抗力でござる」


「何が」


「人としての尊厳に関わることでござる」


「女子厠で?」


「不可抗力でござる!」


 雅琥が壁際でうめくように言った。


「おまえ、すげえな。怪異よりおまえのほうが怖いわ」


「誤解でござる! 少なくとも意図的な侵入ではなく、男子厠が臨時休業中で、腹痛が限界で、かつ紙が――」


「説明しなくていい! 今は外の鬼!」


 茜が叫ぶ。


 その瞬間、外から再び鬼の腕が扉を叩いた。


 どん。


 厠の壁が揺れる。


 華子の声が、わずかに低くなった。


「あら。しつこい」


 その声音だけで、空気が変わった。


 先ほどまでの優雅でからかうような気配の奥に、刃が覗いた。


 風彦は息を呑んだ。


 個室の鍵が、内側からかちりと外れる。


 ゆっくりと扉が開いた。


 まず見えたのは、白い足袋だった。


 黒い鼻緒の草履。


 その上に、黒い着物の裾。


 裾には、闇の中でかすかに浮かぶような花の刺繍が施されている。


 次に、細くしなやかな手。


 指先は白く、爪は薄く紅を差したような色をしていた。


 左手には、鞘に納められた長い刀。


 現れた女は、十九歳ほどに見えた。


 しかし、その眼差しは、十九年では到底得られない深さを持っていた。


 腰より長い濡羽色の髪。


 眉の上で真っ直ぐに切り揃えられた前髪。


 磁器のように白い肌。


 形のよい朱唇。


 深い黒の瞳。


 黒い戦装束は着物を基調としているが、動きやすいよう裾が整えられ、腰には幅広の帯が巻かれている。


 帯の横には、重そうな胴太貫。


 華やかさと死の気配が同居している。


 美しい。


 その第一印象を、茜は否定できなかった。


 同時に、近づいてはいけないとも思った。


 桜の下に立つ幽霊ではない。


 便所に出る子どもの怪談でもない。


 そこにいたのは、刀を持った女だった。


 ただし、人間ではない。


 女は扉の内側から一歩踏み出し、厠の空気を自分のものにするように微笑んだ。


「お待たせしたかしら」


 風彦は思わず頭を下げた。


「お初にお目にかかるでござる」


「昼間に会ったわ」


「その件はできれば記憶から流していただきたく」


「厠の出来事は、そう簡単には流れないものよ」


「厠なのにでござるか」


「お上手」


「褒められた気がしないでござる」


 女は楽しげに目を細めた。


 茜はたまらず声を挟む。


「ちょっと待って。あなた、本当に華子さんなの?」


 女は茜へ視線を向けた。


 その瞬間、笑みがほんのわずかに薄くなった。


 茜の胸元。


 制服に縫い込まれた稲葉家の紋。


 三束の稲穂を赤い縄で結んだ紋。


 女――華子の瞳が、そこへ留まる。


 一呼吸だけ、空気が冷えた。


 茜は反射的に身構える。


「なに」


 華子はすぐに微笑を戻した。


「いいえ。懐かしいものを見ただけよ」


「懐かしい?」


「それを聞くには、少しばかり早いわね。あなた、今は自分の足で立つだけで精一杯でしょう?」


「立ってるわよ」


「震えているけれど」


「震えてない!」


「そう。では、床が怯えているのかしら」


 茜は顔を赤くした。


「性格悪い!」


「よく言われるわ」


 華子は気にした様子もない。


 その視線が、次に雅琥へ向いた。


 雅琥は壁際で座り込み、彼女を見ないようにしている。


 華子は少し首を傾げた。


「そちらの白い虎は、ずいぶん毛を逆立てているのね」


「誰が虎だ」


 雅琥は低く返す。


「目を逸らしながら威嚇するところなど、とても可愛らしいわ」


「ぶっ飛ばすぞ」


「できるなら、あとで遊んで差し上げる」


「誰が遊ぶか!」


「ふふ。元気はあるのね」


 華子は最後に、茜に支えられたアサミを見た。


 アサミは薄く目を開け、華子を見ていた。


「三番目の華子……都市伝説型怪異……でも核は古い人霊……戦闘霊格……」


「まあ」


 華子は感心したように微笑む。


「倒れかけているのに観察とは、よい根性ね」


「可能なら、後日聞き取り調査を」


「お断りよ」


「まだ依頼文を作成していない」


「作成前にお断り」


 アサミは残念そうに目を閉じた。


 風彦は一歩前へ出る。


「華子殿」


「華子さん、でいいわ。殿と呼ばれるほど立派なものではないもの」


「では、華子さん」


 風彦は深く息を吸った。


「外の鬼を追い返してほしいでござる」


 華子は微笑んだまま、首を傾げる。


「なぜ?」


「なぜ、と申されましても」


「あなたたちが呼んだのでしょう?」


 風彦は黙った。


 茜の肩が揺れる。


 アサミは目を伏せる。


 華子は責めるようには言わなかった。


 ただ事実を置くように言った。


「門を開いた。名を問おうとした。契約の匂いを撒いた。稲葉の血をここまで連れてきた。なら、鬼が追ってくるのは自然なことよ」


「……あたしたちが悪いって言いたいの?」


 茜が言う。


 華子は視線だけを動かした。


「悪いかどうかは、あとで考えなさい。今は、生きているかどうかのほうが大事でしょう」


 その言葉に、茜は反論できなかった。


 華子は扉の外へ目を向ける。


 鬼はなおも戸を叩いている。


 だが、彼女が現れてから、音の間隔が少し長くなっていた。


 外の鬼も、内側の主に気づいたのだろう。


「追い返すことはできるわ」


 華子は静かに言った。


 茜の顔に希望が差す。


 しかし次の言葉で、それはすぐに曇った。


「ただし、ただでは嫌」


「この状況で対価を取るの!?」


 茜が叫ぶ。


 華子は涼しい顔だ。


「当たり前でしょう。あなたたち、人の家に駆け込んで、敵を連れてきて、助けろとおっしゃるのよ」


「家って厠じゃない!」


「わたくしの厠よ」


「主張が強い!」


「領地を持つ家の娘なら、縄張りの大事さくらいお分かりでしょう?」


 茜が言葉に詰まる。


 華子はにこりとする。


 風彦は、その会話を聞きながら考えていた。


 華子は動ける。


 鬼を恐れていない。


 しかし、対価なしには動かない。


 怪異の契約原理だ。


 呼びかけに応じるには、召喚者側も何かを差し出さなければならない。


 それは命とは限らない。


 秘密。


 約束。


 勝負。


 あるいは、関係そのもの。


「何を望まれるでござるか」


 風彦が尋ねる。


 華子は満足そうに彼を見る。


「話が早い子は嫌いではないわ」


「できれば、命や魂以外でお願いしたいのでござるが」


「あら、最初からそれを差し出すつもりで?」


「ないでござる」


「正直ね」


「腹の具合が悪いので、見栄を張る余裕がござらん」


 華子は声を立てて笑った。


 その笑いは、鈴のようであり、刀の鍔鳴りのようでもあった。


「面白い子」


「笑われているでござる」


「ええ。褒めてもいるわ」


「褒めると笑うが同時成立するのでござるか」


「厠ではよくあることよ」


「どの厠でござるか」


「わたくしの厠」


 茜が割り込む。


「もう厠トークはいいから! 早く条件!」


 華子は少し考えるように、朱唇へ指を添えた。


 外で鬼が扉を叩く。


 どん。


 だが彼女は急がない。


 その余裕が、逆にこの場を支配していた。


「では、遊びましょう」


「遊び?」


 風彦が聞き返す。


「あなたがそう呼んだのでしょう? 華子さん、遊びましょう、と」


「形式上の召喚句でござる」


「形式に言葉を乗せたのはあなたよ。なら、遊ばなければ」


 華子は刀の鞘を軽く指で叩いた。


「勝負をしましょう。外の無作法者を、どちらが先に退けるか」


「どちらが先に?」


「わたくしが先にあの鬼を退けたら、あなたはわたくしの頼みを一つ聞く」


「内容は」


「勝ってから考えるわ」


「それが一番怖いでござる」


「では、あなたが先に退けたら、わたくしはあなたたちを無条件でここから逃がしてあげる。それに加えて、学園について知っていることを一つだけ答えて差し上げる」


 風彦の目が細くなる。


 学園について。


 この状況で、その言葉は重い。


 華子は、学園の秘密を知っている。


 少なくとも、鬼や結界やこの北校舎について、何かを知っている。


 そして、それを簡単には話せないのだろう。


 対価が必要なのは、華子の性格だけではない。


 契約による制約。


 風彦はそう感じた。


「その勝負、拙者に不利ではござらんか」


「あら。どうして?」


「拙者はもう腹痛と術式使用で限界に近いでござる。華子さんは、この厠の主。場所の利もある」


「なら、降りる?」


 華子は微笑む。


 風彦は外の扉を見た。


 鬼の声。


 いなば。


 名を返せ。


 茜は強がっているが、足元が震えている。


 アサミは立っているのもやっとだ。


 雅琥は壁際で、恐怖と怒りを必死に押さえ込んでいる。


 誰も、ここへ来たくて来たわけではない。


 だが、来てしまった。


 なら、誰かが引き受けるしかない。


 風彦は腹を押さえ、深く息を吐いた。


「確認でござる」


「どうぞ」


「華子さんが勝った場合、拙者が頼みを聞く。稲葉殿、新垣殿、六道殿には及ばない」


「ええ。あなたがわたくしを呼んだのだもの」


「頼みの内容は、拙者が実行可能なものに限る」


「ずるい条件をつけるのね」


「命と魂を守るためでござる」


「嫌いではないわ」


「それから、拙者が勝った場合、ここにいる全員を逃がす。学園についての質問にも答える」


「一つだけ」


「一つだけ」


「よろしいわ」


 華子は楽しそうに頷いた。


 茜が風彦の袖を掴む。


「ちょっと、本気?」


「本気でござる」


「華子さんの頼みって何よ。変なこと言われたらどうするの」


「そのときは、そのとき考えるでござる」


「考えてから受けなさいよ!」


「考える時間がないのでござるよ!」


「正論っぽく言わないで!」


 雅琥が壁際から言う。


「俺は反対だ」


「理由は?」


 風彦が尋ねる。


「そいつ、信用できねえ」


 華子は微笑んだ。


「よい勘ね」


「ほら見ろ!」


「けれど、今のあなたたちが信用できるものだけ選んで助かる状況かしら?」


 雅琥は歯を食いしばった。


 返せない。


 華子は人をからかっているようで、状況判断だけは正確だった。


 アサミがかすれた声で言う。


「契約条件としては……比較的、公平」


「アサミまで!」


「ただし、華子側の頼みが未確定。リスクは高い」


「じゃあ駄目でしょ!」


「でも、選択肢がない」


 茜は悔しそうに唇を噛んだ。


 風彦は静かに頷く。


「受けるでござる」


 華子の笑みが、深くなった。


 厠の空気が一段冷える。


 それは恐怖ではなく、儀式の成立に近い感覚だった。


 呼びかけ。


 応答。


 条件提示。


 同意。


 契約が形を取る。


 華子は左手で刀の鞘を押さえ、右手を風彦へ差し出した。


「では、成立ね」


 風彦はその手を見た。


 白く、細い手。


 人間の手に見える。


 だが、そこから漂う気配は、人間のものではなかった。


 風彦は一瞬だけ躊躇し、それから手を重ねた。


 冷たい。


 けれど死体の冷たさではない。


 井戸の水のような、深く澄んだ冷たさ。


 華子は風彦の手を軽く握った。


「逃げないでね」


「逃げたい気持ちは常にあるでござる」


「正直でよろしい」


「でも、今回は逃げないでござる」


 華子は、初めてほんの少しだけ目を細めた。


 からかう笑みではない。


 何かを見定めるような顔だった。


「そう」


 外で、鬼が大きく吠えた。


 扉が震える。


 厠の照明が一瞬消え、すぐに戻る。


 華子は風彦の手を放し、刀の柄へ手をかけた。


 その姿勢が変わった瞬間、彼女の雰囲気が一変した。


 優雅な怪談の女ではない。


 剣士。


 それも、生前も死後も斬ることをやめなかった者の姿。


「では、遊びを始めましょうか」


 華子は扉の外へ視線を向ける。


 朱唇が、艶やかに弧を描いた。


「ただし、覚えておきなさい。わたくしの厠で暴れた代金は、高くつくわよ」


 風彦は白衣神咒の残りを握り直した。


 茜はアサミを支え、雅琥は壁を掴みながら立ち上がろうとする。


 外には鬼。


 内には華子。


 そして、風彦はそのどちらとも勝負しなければならない。


 腹が痛い。


 怖い。


 帰りたい。


 でも、今はここで足を止めるわけにはいかなかった。


 風彦は静かに息を吸う。


「承知したでござる」


 その声に、華子が楽しげに笑った。


 水滴が落ちる。


 ぴちょん。


 それが、勝負開始の合図のように響いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ