第四幕 ― 女子厠の三番目
北校舎三階の女子厠へ飛び込んだ直後、扉は背後で閉まった。
誰かが閉めたわけではない。
風に押されたのでもない。
まるで厠そのものが、外のものを拒むように。
がたん、と木戸が鳴る。
そのすぐ外側へ、鬼の腕が叩きつけられた。
どん。
厠全体が揺れた。
洗面台の鏡が震え、天井の古い照明がかすかに明滅する。壁に掛けられた清掃点検札がからからと音を立て、蛇口の先から水滴が落ちた。
ぴちょん。
だが、扉は壊れない。
薄い木造の扉である。
古びた蝶番。
内側から簡易的にかけられただけの掛け金。
本来なら、巨大な鬼の腕どころか、雅琥が本気で蹴れば一撃で壊れそうな戸だった。
それなのに、外の鬼は入ってこられない。
どん。
さらに一撃。
扉の板が内側へたわみ、茜が反射的に悲鳴を上げかける。
しかし扉は、やはり破れなかった。
たわんだ板は、次の瞬間には何事もなかったように元へ戻る。
表面に走ったはずの亀裂も消えている。
「……なに、ここ」
茜はアサミの肩を支えたまま、息を切らしていた。
額には汗が滲み、髪は乱れ、顔には恐怖と苛立ちが同居している。
それでもアサミを離さない。
アサミは半ば意識を失っており、茜にもたれかかるようにして立っていた。唇は青白く、右手にはまだ黒い染みが残っている。
「アサミ、しっかりして」
「……床、冷たい……」
「感想がそれ?」
「記録……厠内、霊圧……安定……」
「記録する前に立って!」
一方、雅琥は厠へ入った直後、アサミを茜へ預けるなり壁際へ崩れ落ちていた。
完全に倒れたわけではない。
片膝をつき、片手で壁を掴んでいる。
だが顔色は悪く、呼吸も浅い。
鬼を見てから、ずっと張り詰めていたものが切れかけていた。
彼は洗面台の鏡のほうを絶対に見ようとしない。
視線を床へ固定したまま、乱暴に息を吐く。
「……くそ」
低く、掠れた声。
「なんだよ、あれ」
「鬼でござる」
風彦が答えた。
答えながら、自分も厠の床へ手をつきそうになる。
腹痛が限界に近かった。
教室で白衣神咒を使い、アサミから悪霊を引き剥がし、さらに鬼の腕を足止めした。どれも、本来なら短時間で連発していい術ではない。
胃の奥が絞られる。
下腹部は冷えているのに、背中には汗が流れる。
おまけに、ここへ入ってから腹痛の質が変わった。
外の鬼門から来る冷たい痛みは、扉の外で遮られている。
代わりに厠の内側から、別の圧がかかっていた。
水。
花。
古い井戸。
刃物。
そして、名前を呼ばれるのを待っている何か。
風彦は息を整えながら、ゆっくりと周囲を見回した。
女子厠は、清潔だった。
古い校舎の厠であるにもかかわらず、嫌な臭いがしない。床のタイルは磨かれ、洗面台の白磁には水垢もない。
しかし現代的な明るさはない。
天井の照明は淡く、青みを帯びている。
壁の隅には、古い木札が掛けられていた。
清浄第一。
字は達筆だが、少し古めかしい。
鏡の前には椿の花が一輪、誰が置いたのか分からないまま、小さな白い皿に生けられていた。
そして、奥に三つの個室。
一番目。
二番目。
三番目。
三番目の扉だけが、わずかに他と違って見える。
同じ木の扉。
同じ古い金具。
だがそこだけ、夕暮れの赤も、照明の青白さも届いていない。
閉じた扉の向こうから、花の香りが漂っている。
濃く、甘く、少しだけ血の匂いに似た香り。
風彦は、その扉を見つめた。
昼間、紙を投げ込んでくれた声。
あれはこの中から聞こえた。
気のせいではなかったのだろう。
風彦はそのことを認めたくなかった。
認めたくなかったが、外には鬼がいる。
厠の中には、どう考えても普通ではない何かがいる。
そして今、自分たちを守っているのは、たぶん後者だった。
「蓮田くん」
茜の声が鋭く飛ぶ。
「何ぼーっとしてるの! 助け呼んで!」
「呼んでいるでござるよ。心の中で」
「心じゃなくて端末で呼んで!」
「さっき圏外でしたでしょう!」
「なら術とかで!」
「拙者もできればそうしたいのでござるが、いま紙形を飛ばしても廊下で食われる未来しか見えないでござる!」
「未来が見えるならもっと早く何とかして!」
「比喩でござる!」
どん、と扉がまた鳴った。
全員の身体が跳ねる。
雅琥は壁を掴む手に力を込め、歯を食いしばった。
「うるせえな……」
声だけは強い。
だが膝はまだ震えている。
「入って来られねえなら、そのまま諦めろよ」
外から、鬼の声が響いた。
「いなば」
扉越しなのに、耳元で囁かれたようだった。
茜の身体が強張る。
「ちぎりを」
どん。
「つげ」
どん。
「名を」
どん。
「返せ」
最後の言葉は、怒りだけではなかった。
痛みがあった。
長い間、誰にも聞かれなかった声のようだった。
茜は唇を噛んだ。
「……何なのよ」
強がる声が、かすかに震えている。
「あたし、知らないわよ。鬼契りとか、契約とか、そんなの……」
言いながら、自分でも嘘だと思った。
言葉だけは聞いたことがある。
家の蔵。
母の声。
父の病室。
家臣たちの視線。
知らされていないだけで、自分の周囲にはずっとそれがあった。
稲葉家の赤い縄。
鬼を縛るもの。
そして、今、鬼が求めているもの。
茜はアサミを支える腕に力を込めた。
「父上の病と、関係あるの……?」
アサミは薄く目を開けた。
「……たぶん」
「たぶん禁止」
「可能性は……高い」
「そういう言い換えも禁止」
「ごめん」
短いやり取りだった。
だが、二人が生きている証拠のようでもあった。
風彦は扉から目を離し、厠の床と壁、天井を順に確認する。
霊的な線が見えるわけではない。
眼鏡をかけたままでは、表層しか捉えられない。
それでも、術者としての感覚が告げていた。
ここはただの避難場所ではない。
怪異の領域でありながら、厠の内側には強い秩序がある。
不浄を流す場所。
隠された本音が漏れる場所。
人が一人になり、名前や立場から少しだけ離れる場所。
その性質が、境界として成立している。
外の鬼は、稲葉という名と血を追っている。
だがこの場所では、藩主の娘も、学園の問題児も、公儀の見習い隠密も、ただの一人の人間へ戻される。
だから、扉が耐えている。
そんな理屈が、風彦の中で形になっていく。
「ここ、たぶん強いでござる」
「強いって何が」
茜が苛立った声で尋ねる。
「避難結界としてでござる。外からの侵入を拒む性質がある。鬼の腕を止められるなら、かなり古い」
「古いって、どれくらい」
「少なくとも、現代の学園設備ではないでござるね」
「つまり?」
「ここにいる何かが、自分の領域を守っている」
沈黙。
茜と雅琥が、ゆっくりと三番目の個室を見た。
アサミだけが、目を閉じたまま呟いた。
「三番目の華子……」
雅琥が即座に言った。
「名前言うなって言っただろ」
「名前は接続キー」
「だから怖えんだよ!」
茜は乾いた笑いを漏らした。
「ちょっと待って。まさか本気で言ってる? 華子さん? あの、三番目を叩いて『遊びましょう』って言うやつ?」
「他に心当たりはござらん」
風彦は真面目に答えた。
「やだ」
茜は即答した。
「嫌でござるか」
「嫌よ! 鬼に追われて女子厠に逃げ込んだら、今度は華子さんを呼ぶ? 怪談の数珠つなぎじゃない!」
「状況としては、おっしゃる通りでござる」
「肯定しないで!」
どん、と外からまた衝撃。
扉の向こうで、鬼が爪を立てている音がする。
木を引っ掻く嫌な音。
しかし扉には傷一つつかない。
代わりに、厠の空気が少しずつ重くなっていく。
守られている。
だが、永遠ではない。
風彦には分かった。
この場所の主が、自分たちを助ける意思を明確に示しているわけではない。
あくまで、自分の領域へ外敵が入ることを拒んでいるだけだ。
こちらが対価を示さなければ、これ以上は動かない。
「稲葉殿」
「なに」
「呼ぶしかないでござる」
「ほかに方法は」
「拙者が扉を開けて鬼と交渉する」
「華子さんを呼びましょう」
「判断が早いでござる」
「鬼と交渉よりはまし!」
雅琥が壁際から低く言う。
「俺は反対だ」
茜が振り返る。
「あんた、まだ顔色悪いけど、反対する元気はあるのね」
「ある。怪異を呼ぶとか、正気じゃねえ」
「もう外に鬼がいる時点で、正気の選択肢は売り切れよ」
「鬼がいるからって、追加で怪談呼ぶ馬鹿がどこにいる」
「ここに」
風彦が控えめに手を上げた。
雅琥は睨む。
「おまえ、腹痛で頭おかしくなってんじゃねえのか」
「否定しきれないのがつらいところでござる」
「否定しろよ!」
風彦は三番目の個室へ目を向けた。
花の香りが濃くなっている。
まるで中にいる何かが、こちらの会話を楽しんでいるようだった。
風彦は息を吐いた。
怖い。
正直、とても怖い。
鬼も怖い。
学園結界を内側から歪めている何かも怖い。
そしてこの個室の内側にいる存在も、当然怖い。
だが、恐怖には種類がある。
鬼の恐怖は、血と契約と暴力の気配だ。
廊下を歪めた何かの恐怖は、名前を奪われるような冷たさだ。
この個室の中にいるものは、少し違う。
鋭い刃物を首筋へ当てられているようでありながら、その刃がこちらを殺すためだけにあるとは思えない。
風彦は眼鏡の位置を直した。
「三回叩いて、呼ぶ」
茜がごくりと喉を鳴らす。
「本当に出るの?」
「出るかどうかは、向こう次第でござる」
「出なかったら?」
「外の鬼と再会でござる」
「最悪!」
「最悪を避けるために、少し悪そうな選択肢を選ぶのでござる」
「言い方!」
風彦は個室の前へ立った。
三番目の扉。
木目は古い。
だが清潔で、傷もない。
扉の取っ手は黒い金属製で、妙に冷たそうに見えた。
風彦は片手を上げる。
その手が少し震えているのを、自分で見た。
腹痛のせいだ。
たぶん。
きっと。
そういうことにしておく。
一度目。
こん。
軽い音が響いた。
その瞬間、外の鬼が扉を叩く音が止まった。
ぴちょん、と続いていた水滴の音も消える。
厠全体が、息を止めたように静まり返った。
茜がアサミを支えたまま固まる。
雅琥は壁を掴む指に力を込めた。
アサミだけが、薄く目を開ける。
「……応答、あり」
「分析しなくていいから黙ってて」
茜の小声。
二度目。
こん。
花の香りが広がった。
さっきまで厠の奥に漂っていた香りが、一気に足元から立ちのぼる。
椿。
夜桜。
古い香。
血を洗ったあとの鉄の匂い。
それらが混ざり合い、不思議なほど嫌ではない香りになっていた。
風彦の腹痛が、ほんの少しだけ和らぐ。
その代わり、背筋に冷たいものが走った。
三度目。
こん。
叩いた指先が、扉の向こうへ吸い込まれるような感覚がした。
風彦は唾を飲み込む。
もう引き返せない。
彼は、できるだけはっきりとした声で呼びかけた。
「華子さん、遊びましょう」
言葉が、厠の中で反響しなかった。
吸い込まれた。
扉の内側へ。
どこか遠く、井戸の底のような場所へ。
沈黙。
一秒。
二秒。
三秒。
茜が耐えきれず、小声で言う。
「ねえ、出ないんじゃ」
その瞬間、個室の内側から女の声がした。
「わたくしと、どのようにお遊びしたいのかしら?」
艶やかな声だった。
若い女の声にも聞こえた。
長く生きた女の声にも聞こえた。
上品で、優雅で、どこか人を試すような響きがある。
茜は背筋を伸ばした。
雅琥は小さく悪態をついた。
「出やがった……」
アサミがかすかに呟く。
「記録上の怪談と一致……」
「今メモ取ったら怒るわよ」
「手が動かない」
「そういう問題じゃない」
風彦は扉の前に立ったまま、慎重に言葉を選んだ。
「外に鬼がいるのでござる」
「ええ。ずいぶんと騒がしいお客様ね」
声は楽しげだった。
「お客様扱いでござるか」
「あら。わたくしの厠の前まで来たのでしょう? 礼儀を知らないお客様ほど、始末に困るものはないわ」
その言い方に、風彦は一瞬だけ言葉を失う。
中の女は、外の鬼を恐れていない。
少なくとも、声には恐怖がない。
風彦は姿勢を正した。
「拙者たちを助けていただきたい」
「助ける?」
扉の向こうで、女が笑う気配。
「人様の領域へ勝手に逃げ込んでおいて、助けてほしいとは、ずいぶん素直なお願いね」
「大変申し訳なく思っているでござる」
「謝るくらいなら、最初から厠へ駆け込む前に一言断りなさいな」
「非常時でござったので」
「昼間も非常時だったのかしら?」
風彦の顔が固まった。
茜が怪訝そうに見る。
「昼間?」
「な、何のことでござろうか」
扉の向こうで、くすりと笑う声。
「紙は足りた?」
茜の目が、ゆっくりと風彦へ向いた。
「蓮田くん」
「違うでござる」
「まだ何も言ってないわよ」
「違うでござる」
「昼間、何したの」
「不可抗力でござる」
「何が」
「人としての尊厳に関わることでござる」
「女子厠で?」
「不可抗力でござる!」
雅琥が壁際でうめくように言った。
「おまえ、すげえな。怪異よりおまえのほうが怖いわ」
「誤解でござる! 少なくとも意図的な侵入ではなく、男子厠が臨時休業中で、腹痛が限界で、かつ紙が――」
「説明しなくていい! 今は外の鬼!」
茜が叫ぶ。
その瞬間、外から再び鬼の腕が扉を叩いた。
どん。
厠の壁が揺れる。
華子の声が、わずかに低くなった。
「あら。しつこい」
その声音だけで、空気が変わった。
先ほどまでの優雅でからかうような気配の奥に、刃が覗いた。
風彦は息を呑んだ。
個室の鍵が、内側からかちりと外れる。
ゆっくりと扉が開いた。
まず見えたのは、白い足袋だった。
黒い鼻緒の草履。
その上に、黒い着物の裾。
裾には、闇の中でかすかに浮かぶような花の刺繍が施されている。
次に、細くしなやかな手。
指先は白く、爪は薄く紅を差したような色をしていた。
左手には、鞘に納められた長い刀。
現れた女は、十九歳ほどに見えた。
しかし、その眼差しは、十九年では到底得られない深さを持っていた。
腰より長い濡羽色の髪。
眉の上で真っ直ぐに切り揃えられた前髪。
磁器のように白い肌。
形のよい朱唇。
深い黒の瞳。
黒い戦装束は着物を基調としているが、動きやすいよう裾が整えられ、腰には幅広の帯が巻かれている。
帯の横には、重そうな胴太貫。
華やかさと死の気配が同居している。
美しい。
その第一印象を、茜は否定できなかった。
同時に、近づいてはいけないとも思った。
桜の下に立つ幽霊ではない。
便所に出る子どもの怪談でもない。
そこにいたのは、刀を持った女だった。
ただし、人間ではない。
女は扉の内側から一歩踏み出し、厠の空気を自分のものにするように微笑んだ。
「お待たせしたかしら」
風彦は思わず頭を下げた。
「お初にお目にかかるでござる」
「昼間に会ったわ」
「その件はできれば記憶から流していただきたく」
「厠の出来事は、そう簡単には流れないものよ」
「厠なのにでござるか」
「お上手」
「褒められた気がしないでござる」
女は楽しげに目を細めた。
茜はたまらず声を挟む。
「ちょっと待って。あなた、本当に華子さんなの?」
女は茜へ視線を向けた。
その瞬間、笑みがほんのわずかに薄くなった。
茜の胸元。
制服に縫い込まれた稲葉家の紋。
三束の稲穂を赤い縄で結んだ紋。
女――華子の瞳が、そこへ留まる。
一呼吸だけ、空気が冷えた。
茜は反射的に身構える。
「なに」
華子はすぐに微笑を戻した。
「いいえ。懐かしいものを見ただけよ」
「懐かしい?」
「それを聞くには、少しばかり早いわね。あなた、今は自分の足で立つだけで精一杯でしょう?」
「立ってるわよ」
「震えているけれど」
「震えてない!」
「そう。では、床が怯えているのかしら」
茜は顔を赤くした。
「性格悪い!」
「よく言われるわ」
華子は気にした様子もない。
その視線が、次に雅琥へ向いた。
雅琥は壁際で座り込み、彼女を見ないようにしている。
華子は少し首を傾げた。
「そちらの白い虎は、ずいぶん毛を逆立てているのね」
「誰が虎だ」
雅琥は低く返す。
「目を逸らしながら威嚇するところなど、とても可愛らしいわ」
「ぶっ飛ばすぞ」
「できるなら、あとで遊んで差し上げる」
「誰が遊ぶか!」
「ふふ。元気はあるのね」
華子は最後に、茜に支えられたアサミを見た。
アサミは薄く目を開け、華子を見ていた。
「三番目の華子……都市伝説型怪異……でも核は古い人霊……戦闘霊格……」
「まあ」
華子は感心したように微笑む。
「倒れかけているのに観察とは、よい根性ね」
「可能なら、後日聞き取り調査を」
「お断りよ」
「まだ依頼文を作成していない」
「作成前にお断り」
アサミは残念そうに目を閉じた。
風彦は一歩前へ出る。
「華子殿」
「華子さん、でいいわ。殿と呼ばれるほど立派なものではないもの」
「では、華子さん」
風彦は深く息を吸った。
「外の鬼を追い返してほしいでござる」
華子は微笑んだまま、首を傾げる。
「なぜ?」
「なぜ、と申されましても」
「あなたたちが呼んだのでしょう?」
風彦は黙った。
茜の肩が揺れる。
アサミは目を伏せる。
華子は責めるようには言わなかった。
ただ事実を置くように言った。
「門を開いた。名を問おうとした。契約の匂いを撒いた。稲葉の血をここまで連れてきた。なら、鬼が追ってくるのは自然なことよ」
「……あたしたちが悪いって言いたいの?」
茜が言う。
華子は視線だけを動かした。
「悪いかどうかは、あとで考えなさい。今は、生きているかどうかのほうが大事でしょう」
その言葉に、茜は反論できなかった。
華子は扉の外へ目を向ける。
鬼はなおも戸を叩いている。
だが、彼女が現れてから、音の間隔が少し長くなっていた。
外の鬼も、内側の主に気づいたのだろう。
「追い返すことはできるわ」
華子は静かに言った。
茜の顔に希望が差す。
しかし次の言葉で、それはすぐに曇った。
「ただし、ただでは嫌」
「この状況で対価を取るの!?」
茜が叫ぶ。
華子は涼しい顔だ。
「当たり前でしょう。あなたたち、人の家に駆け込んで、敵を連れてきて、助けろとおっしゃるのよ」
「家って厠じゃない!」
「わたくしの厠よ」
「主張が強い!」
「領地を持つ家の娘なら、縄張りの大事さくらいお分かりでしょう?」
茜が言葉に詰まる。
華子はにこりとする。
風彦は、その会話を聞きながら考えていた。
華子は動ける。
鬼を恐れていない。
しかし、対価なしには動かない。
怪異の契約原理だ。
呼びかけに応じるには、召喚者側も何かを差し出さなければならない。
それは命とは限らない。
秘密。
約束。
勝負。
あるいは、関係そのもの。
「何を望まれるでござるか」
風彦が尋ねる。
華子は満足そうに彼を見る。
「話が早い子は嫌いではないわ」
「できれば、命や魂以外でお願いしたいのでござるが」
「あら、最初からそれを差し出すつもりで?」
「ないでござる」
「正直ね」
「腹の具合が悪いので、見栄を張る余裕がござらん」
華子は声を立てて笑った。
その笑いは、鈴のようであり、刀の鍔鳴りのようでもあった。
「面白い子」
「笑われているでござる」
「ええ。褒めてもいるわ」
「褒めると笑うが同時成立するのでござるか」
「厠ではよくあることよ」
「どの厠でござるか」
「わたくしの厠」
茜が割り込む。
「もう厠トークはいいから! 早く条件!」
華子は少し考えるように、朱唇へ指を添えた。
外で鬼が扉を叩く。
どん。
だが彼女は急がない。
その余裕が、逆にこの場を支配していた。
「では、遊びましょう」
「遊び?」
風彦が聞き返す。
「あなたがそう呼んだのでしょう? 華子さん、遊びましょう、と」
「形式上の召喚句でござる」
「形式に言葉を乗せたのはあなたよ。なら、遊ばなければ」
華子は刀の鞘を軽く指で叩いた。
「勝負をしましょう。外の無作法者を、どちらが先に退けるか」
「どちらが先に?」
「わたくしが先にあの鬼を退けたら、あなたはわたくしの頼みを一つ聞く」
「内容は」
「勝ってから考えるわ」
「それが一番怖いでござる」
「では、あなたが先に退けたら、わたくしはあなたたちを無条件でここから逃がしてあげる。それに加えて、学園について知っていることを一つだけ答えて差し上げる」
風彦の目が細くなる。
学園について。
この状況で、その言葉は重い。
華子は、学園の秘密を知っている。
少なくとも、鬼や結界やこの北校舎について、何かを知っている。
そして、それを簡単には話せないのだろう。
対価が必要なのは、華子の性格だけではない。
契約による制約。
風彦はそう感じた。
「その勝負、拙者に不利ではござらんか」
「あら。どうして?」
「拙者はもう腹痛と術式使用で限界に近いでござる。華子さんは、この厠の主。場所の利もある」
「なら、降りる?」
華子は微笑む。
風彦は外の扉を見た。
鬼の声。
いなば。
名を返せ。
茜は強がっているが、足元が震えている。
アサミは立っているのもやっとだ。
雅琥は壁際で、恐怖と怒りを必死に押さえ込んでいる。
誰も、ここへ来たくて来たわけではない。
だが、来てしまった。
なら、誰かが引き受けるしかない。
風彦は腹を押さえ、深く息を吐いた。
「確認でござる」
「どうぞ」
「華子さんが勝った場合、拙者が頼みを聞く。稲葉殿、新垣殿、六道殿には及ばない」
「ええ。あなたがわたくしを呼んだのだもの」
「頼みの内容は、拙者が実行可能なものに限る」
「ずるい条件をつけるのね」
「命と魂を守るためでござる」
「嫌いではないわ」
「それから、拙者が勝った場合、ここにいる全員を逃がす。学園についての質問にも答える」
「一つだけ」
「一つだけ」
「よろしいわ」
華子は楽しそうに頷いた。
茜が風彦の袖を掴む。
「ちょっと、本気?」
「本気でござる」
「華子さんの頼みって何よ。変なこと言われたらどうするの」
「そのときは、そのとき考えるでござる」
「考えてから受けなさいよ!」
「考える時間がないのでござるよ!」
「正論っぽく言わないで!」
雅琥が壁際から言う。
「俺は反対だ」
「理由は?」
風彦が尋ねる。
「そいつ、信用できねえ」
華子は微笑んだ。
「よい勘ね」
「ほら見ろ!」
「けれど、今のあなたたちが信用できるものだけ選んで助かる状況かしら?」
雅琥は歯を食いしばった。
返せない。
華子は人をからかっているようで、状況判断だけは正確だった。
アサミがかすれた声で言う。
「契約条件としては……比較的、公平」
「アサミまで!」
「ただし、華子側の頼みが未確定。リスクは高い」
「じゃあ駄目でしょ!」
「でも、選択肢がない」
茜は悔しそうに唇を噛んだ。
風彦は静かに頷く。
「受けるでござる」
華子の笑みが、深くなった。
厠の空気が一段冷える。
それは恐怖ではなく、儀式の成立に近い感覚だった。
呼びかけ。
応答。
条件提示。
同意。
契約が形を取る。
華子は左手で刀の鞘を押さえ、右手を風彦へ差し出した。
「では、成立ね」
風彦はその手を見た。
白く、細い手。
人間の手に見える。
だが、そこから漂う気配は、人間のものではなかった。
風彦は一瞬だけ躊躇し、それから手を重ねた。
冷たい。
けれど死体の冷たさではない。
井戸の水のような、深く澄んだ冷たさ。
華子は風彦の手を軽く握った。
「逃げないでね」
「逃げたい気持ちは常にあるでござる」
「正直でよろしい」
「でも、今回は逃げないでござる」
華子は、初めてほんの少しだけ目を細めた。
からかう笑みではない。
何かを見定めるような顔だった。
「そう」
外で、鬼が大きく吠えた。
扉が震える。
厠の照明が一瞬消え、すぐに戻る。
華子は風彦の手を放し、刀の柄へ手をかけた。
その姿勢が変わった瞬間、彼女の雰囲気が一変した。
優雅な怪談の女ではない。
剣士。
それも、生前も死後も斬ることをやめなかった者の姿。
「では、遊びを始めましょうか」
華子は扉の外へ視線を向ける。
朱唇が、艶やかに弧を描いた。
「ただし、覚えておきなさい。わたくしの厠で暴れた代金は、高くつくわよ」
風彦は白衣神咒の残りを握り直した。
茜はアサミを支え、雅琥は壁を掴みながら立ち上がろうとする。
外には鬼。
内には華子。
そして、風彦はそのどちらとも勝負しなければならない。
腹が痛い。
怖い。
帰りたい。
でも、今はここで足を止めるわけにはいかなかった。
風彦は静かに息を吸う。
「承知したでござる」
その声に、華子が楽しげに笑った。
水滴が落ちる。
ぴちょん。
それが、勝負開始の合図のように響いた。




