第三幕 ― 六道学園の白虎
その頃、六道雅琥は指導室にいた。
指導室という名前はついているが、実際には小さな取調室に近い。
壁には学園の校則が掛けられ、隅には結界事故発生時の避難手順が貼られている。中央の机を挟んで、教師用の椅子と生徒用の椅子が一脚ずつ。
窓には細い結界線が走り、外の景色が少しだけ歪んで見えた。
雅琥は、生徒用の椅子へ座っていなかった。
椅子を後ろへ押しやり、壁に背を預け、腕を組んで立っている。
銀白色の髪は少し乱れ、制服の襟元は緩んでいた。
右の頬には、うっすらと赤い跡がある。
殴られた跡ではない。
殴ろうとした相手の拳を避けたとき、近くの棚へ頬を掠っただけだ。
だが正面の教師は、そこも含めて「問題行動」として記録しようとしているらしかった。
「六道。何度言えば分かる」
中年の男性教師は、机の向こうで深いため息をついた。
生活指導担当の教師で、名は貝塚という。
額は広く、眼鏡の奥の目は常に疲れている。悪い教師ではない。少なくとも、理由もなく生徒を殴るような人間ではない。
ただ、雅琥にとっては「何度も同じことを言う大人」の一人だった。
「何度言われても、言われる中身がくだらねえと覚える気にならねえ」
「そういう態度が問題だと言っている」
「ああ、じゃあ態度を記録しとけよ。紙がもったいねえけどな」
貝塚は眉間を押さえた。
「上級生へ手を出した理由を聞いている」
「手は出してねえ」
「蹴っただろう」
「あいつが先に、二年の女子の式札を燃やした」
「それは事実か」
「見りゃ分かるだろ。廊下に燃えかすが落ちてる」
「証言だけでは処分できない」
「じゃあ、そいつらに聞け」
「本人たちは関わりたくないと言っている」
雅琥は鼻で笑った。
「だろうな。面倒に巻き込まれたくねえもんな」
「だからといって、おまえが暴力で解決していいことにはならない」
「あいつらに優しく話しかければよかったか? 『先輩、弱い奴の札を燃やすのはよくないと思います』って?」
「そうだ」
「それでやめる奴らなら、最初から燃やさねえよ」
貝塚の目元がわずかに険しくなった。
雅琥はそれに気づきながら、言葉を引っ込めなかった。
引っ込めるくらいなら、最初から言わない。
「おまえは、いつもそうやって自分だけで判断する」
「他に誰が判断してくれんだよ」
「教師がいる」
「来るのが遅え」
「……六道」
「それとも、学園長に聞くか? あの人ならきっと立派なこと言うぜ。状況を確認し、必要に応じて適切な処分を行う。生徒の安全を第一に考え――」
雅琥はそこで言葉を止めた。
自分で言って、腹が立った。
学園長。
六道玄斎。
養父。
保護者。
自分を引き取った男。
そして、必要なときに何も言わなかった男。
貝塚は沈黙した。
教師たちは皆、雅琥と学園長の関係に触れたがらない。
血のつながらない養子。
問題児。
教師傷害事件。
一年留年。
学園長の息子でありながら、学園長に最も反抗している生徒。
扱いにくいのだろう。
雅琥はそれを分かっていたし、分かったうえで面倒な態度を取っていた。
「とにかく、今日は反省文を書いて帰れ」
「またかよ」
「まただ。題は『私はなぜ暴力に頼ってしまうのか』」
「前にも書いたぞ、それ」
「前回の内容は『相手が馬鹿だから』の一行だけだった」
「真理だろ」
「追加で二枚」
雅琥は舌打ちした。
椅子を引き寄せ、乱暴に座る。
机の上に置かれた紙と筆ペンを睨みつける。
反省文など、いくら書いても何も変わらない。
自分が短気なのは分かっている。
すぐ手が出るのも事実だ。
けれど、見て見ぬふりをして、あとから綺麗な言葉だけ並べる大人よりはましだと思っている。
雅琥は筆ペンを手に取り、一行目に大きく書いた。
――私はなぜ暴力に頼ってしまうのか。
その下に、しばらく何も書けなかった。
理由なら、いくらでもある。
言葉を信じていないから。
大人を信じていないから。
誰かを待っている間に、取り返しのつかないことが起きると知っているから。
助けを呼んでも、届かないことがあると知っているから。
七歳のとき。
鏡の向こうで母が叫んでいた。
声は聞こえなかった。
自分は何もできなかった。
駆けつけた玄斎は、雅琥だけを抱えて逃げた。
母は、鏡の向こうに残された。
それが正しかったのだと、何度も説明された。
閉じなければ全員が呑まれていた。
澪は自分で閉じろと言った。
玄斎はおまえを守った。
そう聞かされた。
聞かされたが、納得はできなかった。
守られたという事実は、ときに刃物のように残る。
自分だけが残った。
母は帰らなかった。
その理由を、誰もきちんと話してくれなかった。
「……くそ」
雅琥は筆ペンを握り潰しそうになった。
そのとき。
どん、と遠くで音がした。
最初は、扉でも乱暴に閉めたのかと思った。
次の瞬間、床が揺れた。
指導室の窓に、細い結界線が浮かび上がる。
貝塚が顔を上げた。
「今のは……」
再び、音。
今度は明らかに破壊音だった。
木材が割れ、机が倒れ、何か重いものが床を削るような音。
雅琥は椅子を蹴るように立ち上がった。
「おい、どっちだ」
「待て、六道。勝手に出るな」
「今の聞こえなかったのかよ」
「教師が確認する。おまえはここにいろ」
「その教師が確認しに行くまでに、誰か死んだらどうすんだ」
貝塚は言葉を詰まらせた。
雅琥はその隙に扉へ向かう。
「六道!」
「反省文はあとで十枚でも百枚でも書いてやるよ」
「書いたためしがないだろう!」
「じゃあ期待すんな!」
雅琥は指導室の扉を開け、廊下へ飛び出した。
◇
北校舎の廊下は、夕暮れの赤に沈んでいた。
破壊音は、普通教室のある方角から響いている。
雅琥は迷わず走った。
足音が古い床板を叩く。
人間相手の喧嘩なら、身体は勝手に動く。
距離を詰め、相手の重心を見て、肩の向きと膝の角度から次の動きを読む。
迷うことはない。
怖いと思う前に、拳が出る。
だが、廊下を走るうちに、雅琥の胸の奥へ嫌な冷たさが滲んできた。
何かがおかしい。
校舎全体が、いつもより静かだ。
放課後の北校舎とはいえ、完全に無音になることはない。どこかで教師の足音がするし、清掃式神の音もする。窓の外から部活動の声が聞こえる。
今は何もない。
自分の足音だけが響いている。
廊下の先の窓硝子へ、雅琥の姿が映った。
銀白色の髪。
制服の乱れた襟。
強気な目つき。
いつもの自分。
その背後に、何かが立っていた。
雅琥は反射的に目を逸らした。
見ない。
見なければ、いない。
窓硝子のほうへ顔を向けず、廊下を駆け抜ける。
胸の奥で、七歳の自分が息を詰めている。
鏡。
硝子。
反射。
向こう側にいる母。
自分と同じ顔をした影。
――おまえが来たから、母親は帰れなくなった。
「うるせえ」
雅琥は低く吐き捨てた。
今は違う。
今は鏡じゃない。
音がしただけだ。
誰かが困っているかもしれない。
なら行く。
それだけでいい。
前方の教室の扉が見えた。
扉は半分外れかけている。
教室の中から、赤黒い光が漏れていた。
雅琥は速度を落とさず、肩から扉へ突っ込んだ。
「おい! 何やって――」
言葉は、最後まで出なかった。
教室の中に、巨大な腕があった。
人間の腕ではない。
赤黒い皮膚。
黒い爪。
節くれ立った指。
そこに何重にも巻きついた古い縄。
縄には、かすれた文字がびっしりと書かれている。
腕は床の裂け目から生え、教室の天井を押し上げるほどの大きさだった。
そして、その奥。
空間の裂け目の向こうに、角の影が見えた。
鬼。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、雅琥の身体は動かなくなった。
呼吸が止まる。
喉が狭くなる。
手足の感覚が遠のく。
視界が狭まり、教室の赤い光が、昔見た鏡の奥の色へ変わっていく。
母がいる。
鏡の向こうで、母が何かを叫んでいる。
声は聞こえない。
手を伸ばしている。
助けなきゃいけない。
でも足が動かない。
自分の隣に、自分と同じ顔をした影が立っている。
影は笑っている。
――おまえが来たから。
「……っ」
雅琥は息を吸おうとした。
吸えなかった。
肺が固まっている。
鬼の腕が床を削る音が、耳の奥で水の中の音のように遠く響く。
「六道殿!」
誰かが叫んだ。
風彦だった。
教室の中で、蓮田風彦が白い経文を構えて立っている。
顔色はひどく悪い。
額には汗。
しかし目は鋭い。
その背後に、茜がいる。
茜は気を失いかけたアサミを抱えていた。
アサミの顔は白く、右手から呪術用の短剣が落ちている。
何が起きたのかは分からない。
だが、危険なのは分かった。
鬼の腕は、風彦ではなく茜へ向かっている。
その視線のようなものが、茜の胸元にある稲葉家の紋へ吸い寄せられていた。
三束の稲穂を赤い縄で結んだ紋。
鬼の腕に巻きついた縄と、同じ赤。
「いなば」
鬼の声が響いた。
雅琥の身体が震えた。
声が、形を持っているようだった。
耳で聞くのではなく、骨の内側をこすられるように響く。
「ちの、におい」
「何なのよ、あれ……!」
茜の声が震えている。
それでも彼女はアサミを離さない。
逃げたいはずだ。
怖いはずだ。
雅琥には分かった。
分かるのに、身体が動かない。
人間相手なら飛び込める。
教師でも上級生でも、怪我をする覚悟くらいならできる。
だが、これは違う。
殴れるものではない。
拳を当てた瞬間、自分の手のほうが消えてしまうような気がする。
見れば見るほど、目の奥から昔の記憶が溢れ出す。
母。
鏡。
自分のせい。
帰れなくなった。
「六道!」
風彦の声が再び飛ぶ。
今度は「殿」も「ござる」もなかった。
切迫した声。
「扉を!」
雅琥は、その意味を理解できなかった。
「……は」
「扉! 蹴り飛ばせ!」
ようやく見えた。
教室の扉は、雅琥が肩から突っ込んだせいで半壊している。
しかし扉枠が歪み、廊下側へ逃げる幅が狭い。
鬼の腕が教室中央を塞ぎ、風彦たちは窓側へ追い詰められている。
逃げ道がない。
なら、作るしかない。
鬼を殴れない。
鬼へ向かって走れない。
けれど、扉なら蹴れる。
木の板なら壊せる。
人間相手の喧嘩ではない。
怪異へ立ち向かうわけでもない。
ただ、壊れかけた扉を完全に壊すだけだ。
それくらいなら。
雅琥は、凍った足を無理やり動かした。
一歩。
膝が笑う。
二歩。
息が浅い。
三歩目で、怒りを無理やり呼び起こした。
怖い。
怖いなら、怒れ。
震えるくらいなら、吠えろ。
雅琥は歯を食いしばり、扉へ向かって身体を回転させた。
「邪魔だ!」
蹴りが扉枠へ叩き込まれる。
木が裂けた。
古い蝶番が悲鳴を上げ、半壊していた扉が廊下側へ吹き飛ぶ。
結界線が一瞬だけ火花を散らし、教室と廊下を隔てていた歪みが破れた。
空気が流れ込む。
赤黒い光が揺らいだ。
「今!」
風彦が叫ぶ。
茜はアサミを抱え直し、出口へ向かって走ろうとした。
しかしアサミは完全に意識を失いかけている。
小柄とはいえ、茜一人で支えて走るには重い。
「くっ……アサミ、ちょっと起きなさいよ!」
「……記録……」
「寝言で記録とか言ってんじゃない!」
茜が必死に引きずる。
鬼の腕が伸びる。
爪が床を裂き、茜の足元へ迫った。
風彦が白衣神咒を飛ばす。
白い経文が鬼の指へ巻きつき、一瞬だけ動きを止めた。
しかし、鬼の力は桁違いだった。
経文の文字が黒く染まり、端から焼け落ちる。
風彦の顔が苦痛に歪んだ。
「長くは止められないでござる!」
「分かってるわよ!」
茜は叫び返すが、足がもつれる。
そのとき、雅琥が前に出た。
鬼のほうは見ない。
視線を床へ落としたまま、茜の腕からアサミを奪うように背負う。
「貸せ!」
「ちょ、乱暴!」
「丁寧に運んでる余裕あんのか!」
「ないけど!」
雅琥の声は荒い。
だが、その顔は青ざめていた。
唇も震えている。
茜はそれに気づいた。
六道学園の白虎。
喧嘩最強の問題児。
そのはずの彼が、今にも倒れそうなほど怯えている。
それなのに、アサミを背負った。
鬼に背を向けるのも怖いはずなのに、逃げ道を作った。
茜は一瞬、言葉を失う。
「何見てんだ!」
雅琥が怒鳴る。
「走れ!」
「言われなくても!」
茜は召喚杖を握り直し、廊下へ飛び出した。
雅琥がアサミを背負って続く。
最後に風彦が、白衣神咒を引き戻しながら後退した。
鬼の腕が、経文を引きちぎる。
白い紙片が教室中へ散った。
風彦はそれを見て、小さく舌打ちした。
「高かったのでござるが……」
「今それ言う!?」
茜の叫びに、風彦は苦笑しようとして失敗した。
「言わないと心が折れるのでござる!」
「折れる場所おかしいわよ!」
その直後、鬼の腕が教室の壁を叩き壊した。
破片が廊下へ飛び散る。
四人は廊下を走り出した。
◇
北校舎の廊下は、すでに普通の廊下ではなくなっていた。
夕暮れの赤が濃くなり、窓の外が見えない。
本来なら校庭が見えるはずの硝子の向こうに、黒い水面のようなものが広がっている。
水面には、ときおり白い手が浮かび、すぐに沈んだ。
廊下の端に掲げられた教室名札は、文字が滲んで読めない。
階段へ向かう道は、妙に長く伸びている。
雅琥はアサミを背負い、先頭近くを走っていた。
身体能力だけなら、この中で最も高い。
だが呼吸は乱れている。
重いからではない。
怖いからだ。
背後から、鬼の腕が壁を砕きながら迫ってくる音がする。
完全に実体化しているわけではないのだろう。
腕はときどき壁の中へ沈み、また別の場所から現れる。
校舎の構造を無視して、鬼門の向こうから手を伸ばしている。
それが余計に気味悪かった。
物理的な敵なら、距離を測れる。
怪異は違う。
どこから来るか分からない。
いつ触れられるか分からない。
雅琥は背後を見ないように走った。
見たら足が止まる。
それを自分で分かっていた。
「六道殿、右!」
風彦の声。
雅琥は反射的に右へ跳んだ。
直後、左の壁から巨大な指が突き出し、さっきまで雅琥の頭があった場所を掠めた。
「言うのおせえ!」
「言ってから出たでござる!」
「ならもっと早く予知しろ!」
「無茶をおっしゃる!」
風彦は走りながら、懐から紙形を取り出した。
白鼠の紙形を三つ。
息を吹きかけると、それらは床へ落ち、小さな白鼠となって廊下を駆けた。
鼠たちは四方へ散り、壁や床へ鼻を寄せる。
結界の流れを探るための偵察紙形だ。
しかし、すぐに二匹が黒い水へ飲み込まれるように消えた。
風彦の顔色がさらに悪くなる。
「まずいでござるな」
「それ、さっきからずっとまずいんだけど!」
茜が叫ぶ。
「職員室はこっちで合ってるの!?」
「本来なら!」
「本来ならって何!」
「学園結界が歪んでいるでござる!」
「つまり迷子!?」
「大変遺憾ながら、専門的に言うとそうでござる!」
「専門的じゃなくても迷子じゃない!」
茜は走りながら魔導端末を取り出した。
画面は黒い。
電源は入っているはずなのに、何も表示されない。
数秒後、白い文字が浮かんだ。
――お名前を入力してください。
茜はぞっとして、端末を取り落としそうになった。
「なにこれ!」
「返事しないで!」
風彦が即座に叫ぶ。
「名前を入れちゃ駄目でござる!」
「入れるわけないでしょ!」
茜は端末を制服の内側へ押し込んだ。
指先が震えている。
あれは何だったのか。
学園のシステムではない。
公儀の警告でもない。
何かが、こちらの名前を求めている。
風彦は走りながら、廊下の天井を見上げた。
結界線が不自然に光っている。
学園の防御結界は、本来なら外部からの侵入を防ぎ、生徒を避難経路へ誘導するはずだ。
だが今は違う。
結界そのものが、廊下の形を曲げている。
階段を遠ざけ、窓を封じ、職員室への道を迷わせている。
鬼の力だけではない。
鬼は茜を狙っている。
だが校舎そのものをここまで精密に歪めるには、学園内部の結界機構へ干渉する必要がある。
風彦の腹痛は、鬼門の冷えとは別の痛みを伝えていた。
鈍く、長く残った呪い。
記録に染みついた怨念。
そして、名前へ触れる気配。
「……誰かが、校内結界を使っている」
風彦は呟いた。
茜が聞き取る。
「誰かって、鬼じゃないの?」
「鬼は力任せでござる。これはもっと、校則を知っている者の曲げ方でござる」
「校則を知ってる怪異って何よ!」
「学校の怪異でござるかね」
「冗談に聞こえない!」
「冗談ではござらん!」
走りながらの会話は、恐怖をごまかすためでもあった。
言葉を止めると、背後の音だけが聞こえる。
壁を砕く音。
木が裂ける音。
鬼が茜の名ではなく、稲葉という家名を呼ぶ声。
「いなば」
遠く近く。
廊下の前からも後ろからも聞こえる。
「ちぎりを」
「つげ」
「名を」
「返せ」
茜の足が一瞬止まりかけた。
自分を呼んでいるのではない。
家を呼んでいる。
血を呼んでいる。
稲葉という名へ、何かが絡みついている。
昼間の召喚実習で、最後の命令が言えなかった感覚が蘇る。
従え。
服せ。
逆らうな。
あの言葉を、自分の先祖は誰かに言い続けてきたのだろうか。
「稲葉殿!」
風彦の声で我に返る。
目の前の廊下が、黒い水のように波打っていた。
茜は慌てて飛び越える。
足元で、水面から細い手が伸びた。
風彦が紙形を投げる。
紙の鳥が手をかすめ、手は煙のように消えた。
「考え込むのはあとにするでござる!」
「分かってる!」
「分かってない人の顔でした!」
「見てる余裕あるなら前見なさい!」
雅琥が短く笑った。
笑ったというより、息が漏れただけかもしれない。
「おまえら、よくこんな状況で喋れるな」
「黙ると怖いのよ!」
茜が言う。
「それは分かる」
雅琥が小さく呟いた。
茜は横を見た。
雅琥の顔はまだ青い。
だが、さっきより少しだけ呼吸が戻っている。
背負われたアサミは、雅琥の肩口でぐったりしていた。
目は閉じているが、呼吸はある。
時折、うわごとのように何かを呟く。
「……座標……ずれて……」
「今は寝てなさい!」
茜が叫ぶと、アサミは薄く目を開けた。
「……怒ってる?」
「怒ってるわよ!」
「よかった」
「何が!」
「茜が怒っていると……生きている感じがする」
「今その詩的表現いらない!」
アサミは再び目を閉じた。
雅琥がぼそりと言う。
「こいつ、結構面倒くせえな」
「そこがアサミなのよ」
「褒めてんのか?」
「褒めてる!」
「じゃあ友達って大変だな」
「大変よ!」
茜の声は震えていたが、少しだけ力を取り戻していた。
◇
四人は職員室へ向かっているはずだった。
北校舎の二階から渡り廊下を抜け、本校舎へ戻れば職員室は近い。
少なくとも、地図上ではそうだ。
だが、何度曲がっても同じ廊下に出る。
壁に掛かった古い時計。
割れた鏡を紙で覆った掲示板。
消火器の横に貼られた怪異避難標語。
――知らない名前へ返事をしない。
――存在しない階段を下りない。
――鏡の中の自分が笑っても、笑い返さない。
同じ掲示物を三度見たとき、茜は足を止めた。
「待って」
雅琥も止まる。
風彦はすぐに後ろを確認した。
鬼の気配は少し離れている。
ただし完全に振り切ったわけではない。
「どうしたでござる」
「ここ、さっき通った」
「はい」
「はいじゃない! なんで普通に認めるの!」
「拙者も三周目で確信したのでござる」
「二周目で言いなさいよ!」
「希望を捨てたくなかったのでござる!」
茜は頭を抱えた。
「最悪!」
雅琥は壁を殴った。
鈍い音。
だが壁は壊れない。
古い木造の壁のはずなのに、拳を受け止めた感触は石のように硬かった。
「ちっ」
雅琥は痛む拳を振る。
「結界か」
風彦が頷く。
「廊下が輪になっている。外へ向かう道が閉じられているでござる」
「窓は?」
茜が近くの窓へ走る。
鍵を外し、開けようとする。
動かない。
びくともしない。
外は黒い水面のような闇。
窓硝子の向こうで、何かがゆっくり浮かび上がる。
顔のない人影。
茜は反射的に後ずさった。
「何かいる!」
風彦が即座に視線を向けた。
人影はもう消えていた。
だが硝子には、白い指でなぞったような跡が残っている。
――お名前を。
風彦の顔が険しくなる。
「やはり、鬼だけではない」
「またそれかよ」
雅琥が低く言う。
「だったら何だ。誰がやってる」
「分からない。ただ、学園の内側にいる何かでござる」
「教師か?」
「人間なら、ここまで校舎に馴染まない」
「怪異かよ」
雅琥の声がかすれた。
言った自分で、少し怯えている。
風彦はそれに気づいたが、指摘しなかった。
他人の恐怖を笑わない。
それは風彦が自分に課している数少ない規則だった。
「学園の怪談。七不思議。あるいは、もっと古い何か」
風彦は廊下の奥を見る。
赤い夕暮れの中で、北校舎の木目がゆっくりと脈打っているように見えた。
「この校舎、たぶん生きているでござる」
「さらっと嫌なこと言うな」
雅琥が吐き捨てる。
茜は深呼吸した。
「職員室が駄目なら、他の避難場所は?」
「結界が強い場所なら、しばらくしのげるかもしれないでござる」
「どこ」
「この北校舎で、怪異が侵入しにくい場所」
風彦は一瞬だけ迷った。
昼間の出来事が脳裏をよぎる。
男子厠。
臨時休業中。
紙がない。
女の声。
花の香り。
あまり思い出したくない。
しかし、あの場所は確かに変だった。
単なる怪異の巣ではない。
むしろ、何かを遮っていた。
あの鬼の気配がここまで強くなっても、北校舎三階の厠周辺だけは、腹痛の質が少し違った。
痛いには痛い。
だが、危険信号というより、境界の厚みを感じる痛み。
「……三階」
風彦が言う。
「三階の女子厠」
茜と雅琥が同時に風彦を見た。
アサミは背中で目を閉じたまま、かすかに呟く。
「……合理的」
茜は叫んだ。
「合理的じゃないわよ! なんで女子厠!」
「男子厠は本日、臨時休業中でござる」
「そういう問題!?」
「あと、あそこはたぶん強い境界になっているでござる」
風彦は真面目に言った。
「北校舎三階女子厠。特に三番目の個室。学園の噂にもあるはずでござる」
茜の顔が引きつった。
「……華子さん?」
その名を口にした瞬間、廊下の空気が変わった。
水滴の音がした。
ぴちょん。
どこにも水などないのに。
雅琥の肩がびくりと震えた。
「やめろ。その名前、今言うな」
「だって蓮田くんが」
「言ってねえ! そいつが勝手に言った!」
「そいつって誰よ!」
「おまえだよ!」
「怒鳴る元気あるなら走るでござる!」
風彦が叫ぶ。
廊下の奥から、再び鬼の腕が現れた。
壁を突き破るのではなく、壁そのものを押し広げるようにして。
空間が裂け、赤黒い指がこちらを探す。
「いなば」
声が近い。
茜の足がすくむ。
雅琥がアサミを背負い直し、歯を食いしばった。
「三階だな」
「はい!」
「案内しろ、腹痛侍!」
「その呼び名、今後の定着は遠慮したいでござる!」
「生き残ったら考えてやる!」
雅琥が走り出す。
風彦が続き、茜も必死に足を動かした。
職員室へ向かう道は閉じられた。
窓も扉も、外へ通じない。
校舎そのものが、四人をどこかへ追い込もうとしている。
だが、その追い込み先を逆に利用するしかない。
北校舎三階。
女子厠。
三番目の個室。
そこに何がいるのか、風彦はまだ知らない。
昼間に紙を投げてくれた声の主が、学園の古い怪談そのものだとは、思いたくなかった。
だが今は、思いたくないものほど頼るしかない。
背後で鬼が壁を砕く。
前方の階段が、赤い夕暮れの中に浮かび上がる。
階段の上から、かすかな花の香りが漂ってきた。
茜は息を切らしながら呟く。
「ねえ、これ、助かる道なのよね?」
風彦は一瞬だけ黙った。
「少なくとも、職員室よりは近いでござる」
「安心できる要素が距離しかない!」
「怪異事件では、近さも立派な利点でござる!」
「それっぽく言っても雑!」
四人は階段を駆け上がった。
その足音を追うように、北校舎のどこかで女の笑い声がした。
うふふ。
やわらかく、艶やかで、底知れない声。
雅琥は青ざめた顔で前を見る。
「今の聞こえたか」
茜は即答した。
「聞こえてない!」
「聞こえた奴の返事だろ、それ!」
風彦は腹を押さえながら階段を上がる。
痛みはひどい。
だが、階段を上るにつれて、鬼門の冷たさとは違う気配が濃くなっていく。
花の香り。
水の音。
古い刀の気配。
そして、誰かがずっとこちらを見ている感覚。
それは敵意ではなかった。
だが、善意とも言い切れない。
何かを試すような視線。
風彦は唾を飲み込んだ。
階段を上りきる。
北校舎三階の廊下。
その奥に、木札のかかった扉が見えた。
女子厠。
扉の前だけ、床が濡れたように光っていた。
鬼の腕が、階下から迫る。
もう迷っている暇はない。
「入るでござる!」
「ほんとに入るの!?」
「他に扉がない!」
「もうどうにでもなれ!」
茜が扉を開け、四人は女子厠の中へ飛び込んだ。
直後、背後で扉が勢いよく閉まった。
がたん。
外側から鬼の腕が叩きつけられる。
扉が軋む。
だが、壊れない。
薄い木の扉のはずなのに、鬼はそれ以上入ってこられなかった。
厠の中には、清潔な石鹸の匂いと、濃い花の香りが満ちていた。
奥の三番目の個室だけが、静かに閉じている。
風彦はその扉を見つめた。
水滴が落ちる。
ぴちょん。
誰かが、内側で微笑んだ気がした。




