表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
厠の華子さん―ネオ江戸魔導学園怪異録―  作者: 秋月キアラ
第1話 ― 三番目の個室に華は咲く
PR
4/26

第三幕 ― 六道学園の白虎

 その頃、六道雅琥は指導室にいた。


 指導室という名前はついているが、実際には小さな取調室に近い。


 壁には学園の校則が掛けられ、隅には結界事故発生時の避難手順が貼られている。中央の机を挟んで、教師用の椅子と生徒用の椅子が一脚ずつ。


 窓には細い結界線が走り、外の景色が少しだけ歪んで見えた。


 雅琥は、生徒用の椅子へ座っていなかった。


 椅子を後ろへ押しやり、壁に背を預け、腕を組んで立っている。


 銀白色の髪は少し乱れ、制服の襟元は緩んでいた。


 右の頬には、うっすらと赤い跡がある。


 殴られた跡ではない。


 殴ろうとした相手の拳を避けたとき、近くの棚へ頬を掠っただけだ。


 だが正面の教師は、そこも含めて「問題行動」として記録しようとしているらしかった。


「六道。何度言えば分かる」


 中年の男性教師は、机の向こうで深いため息をついた。


 生活指導担当の教師で、名は貝塚という。


 額は広く、眼鏡の奥の目は常に疲れている。悪い教師ではない。少なくとも、理由もなく生徒を殴るような人間ではない。


 ただ、雅琥にとっては「何度も同じことを言う大人」の一人だった。


「何度言われても、言われる中身がくだらねえと覚える気にならねえ」


「そういう態度が問題だと言っている」


「ああ、じゃあ態度を記録しとけよ。紙がもったいねえけどな」


 貝塚は眉間を押さえた。


「上級生へ手を出した理由を聞いている」


「手は出してねえ」


「蹴っただろう」


「あいつが先に、二年の女子の式札を燃やした」


「それは事実か」


「見りゃ分かるだろ。廊下に燃えかすが落ちてる」


「証言だけでは処分できない」


「じゃあ、そいつらに聞け」


「本人たちは関わりたくないと言っている」


 雅琥は鼻で笑った。


「だろうな。面倒に巻き込まれたくねえもんな」


「だからといって、おまえが暴力で解決していいことにはならない」


「あいつらに優しく話しかければよかったか? 『先輩、弱い奴の札を燃やすのはよくないと思います』って?」


「そうだ」


「それでやめる奴らなら、最初から燃やさねえよ」


 貝塚の目元がわずかに険しくなった。


 雅琥はそれに気づきながら、言葉を引っ込めなかった。


 引っ込めるくらいなら、最初から言わない。


「おまえは、いつもそうやって自分だけで判断する」


「他に誰が判断してくれんだよ」


「教師がいる」


「来るのが遅え」


「……六道」


「それとも、学園長に聞くか? あの人ならきっと立派なこと言うぜ。状況を確認し、必要に応じて適切な処分を行う。生徒の安全を第一に考え――」


 雅琥はそこで言葉を止めた。


 自分で言って、腹が立った。


 学園長。


 六道玄斎。


 養父。


 保護者。


 自分を引き取った男。


 そして、必要なときに何も言わなかった男。


 貝塚は沈黙した。


 教師たちは皆、雅琥と学園長の関係に触れたがらない。


 血のつながらない養子。


 問題児。


 教師傷害事件。


 一年留年。


 学園長の息子でありながら、学園長に最も反抗している生徒。


 扱いにくいのだろう。


 雅琥はそれを分かっていたし、分かったうえで面倒な態度を取っていた。


「とにかく、今日は反省文を書いて帰れ」


「またかよ」


「まただ。題は『私はなぜ暴力に頼ってしまうのか』」


「前にも書いたぞ、それ」


「前回の内容は『相手が馬鹿だから』の一行だけだった」


「真理だろ」


「追加で二枚」


 雅琥は舌打ちした。


 椅子を引き寄せ、乱暴に座る。


 机の上に置かれた紙と筆ペンを睨みつける。


 反省文など、いくら書いても何も変わらない。


 自分が短気なのは分かっている。


 すぐ手が出るのも事実だ。


 けれど、見て見ぬふりをして、あとから綺麗な言葉だけ並べる大人よりはましだと思っている。


 雅琥は筆ペンを手に取り、一行目に大きく書いた。


 ――私はなぜ暴力に頼ってしまうのか。


 その下に、しばらく何も書けなかった。


 理由なら、いくらでもある。


 言葉を信じていないから。


 大人を信じていないから。


 誰かを待っている間に、取り返しのつかないことが起きると知っているから。


 助けを呼んでも、届かないことがあると知っているから。


 七歳のとき。


 鏡の向こうで母が叫んでいた。


 声は聞こえなかった。


 自分は何もできなかった。


 駆けつけた玄斎は、雅琥だけを抱えて逃げた。


 母は、鏡の向こうに残された。


 それが正しかったのだと、何度も説明された。


 閉じなければ全員が呑まれていた。


 澪は自分で閉じろと言った。


 玄斎はおまえを守った。


 そう聞かされた。


 聞かされたが、納得はできなかった。


 守られたという事実は、ときに刃物のように残る。


 自分だけが残った。


 母は帰らなかった。


 その理由を、誰もきちんと話してくれなかった。


「……くそ」


 雅琥は筆ペンを握り潰しそうになった。


 そのとき。


 どん、と遠くで音がした。


 最初は、扉でも乱暴に閉めたのかと思った。


 次の瞬間、床が揺れた。


 指導室の窓に、細い結界線が浮かび上がる。


 貝塚が顔を上げた。


「今のは……」


 再び、音。


 今度は明らかに破壊音だった。


 木材が割れ、机が倒れ、何か重いものが床を削るような音。


 雅琥は椅子を蹴るように立ち上がった。


「おい、どっちだ」


「待て、六道。勝手に出るな」


「今の聞こえなかったのかよ」


「教師が確認する。おまえはここにいろ」


「その教師が確認しに行くまでに、誰か死んだらどうすんだ」


 貝塚は言葉を詰まらせた。


 雅琥はその隙に扉へ向かう。


「六道!」


「反省文はあとで十枚でも百枚でも書いてやるよ」


「書いたためしがないだろう!」


「じゃあ期待すんな!」


 雅琥は指導室の扉を開け、廊下へ飛び出した。


     ◇


 北校舎の廊下は、夕暮れの赤に沈んでいた。


 破壊音は、普通教室のある方角から響いている。


 雅琥は迷わず走った。


 足音が古い床板を叩く。


 人間相手の喧嘩なら、身体は勝手に動く。


 距離を詰め、相手の重心を見て、肩の向きと膝の角度から次の動きを読む。


 迷うことはない。


 怖いと思う前に、拳が出る。


 だが、廊下を走るうちに、雅琥の胸の奥へ嫌な冷たさが滲んできた。


 何かがおかしい。


 校舎全体が、いつもより静かだ。


 放課後の北校舎とはいえ、完全に無音になることはない。どこかで教師の足音がするし、清掃式神の音もする。窓の外から部活動の声が聞こえる。


 今は何もない。


 自分の足音だけが響いている。


 廊下の先の窓硝子へ、雅琥の姿が映った。


 銀白色の髪。


 制服の乱れた襟。


 強気な目つき。


 いつもの自分。


 その背後に、何かが立っていた。


 雅琥は反射的に目を逸らした。


 見ない。


 見なければ、いない。


 窓硝子のほうへ顔を向けず、廊下を駆け抜ける。


 胸の奥で、七歳の自分が息を詰めている。


 鏡。


 硝子。


 反射。


 向こう側にいる母。


 自分と同じ顔をした影。


 ――おまえが来たから、母親は帰れなくなった。


「うるせえ」


 雅琥は低く吐き捨てた。


 今は違う。


 今は鏡じゃない。


 音がしただけだ。


 誰かが困っているかもしれない。


 なら行く。


 それだけでいい。


 前方の教室の扉が見えた。


 扉は半分外れかけている。


 教室の中から、赤黒い光が漏れていた。


 雅琥は速度を落とさず、肩から扉へ突っ込んだ。


「おい! 何やって――」


 言葉は、最後まで出なかった。


 教室の中に、巨大な腕があった。


 人間の腕ではない。


 赤黒い皮膚。


 黒い爪。


 節くれ立った指。


 そこに何重にも巻きついた古い縄。


 縄には、かすれた文字がびっしりと書かれている。


 腕は床の裂け目から生え、教室の天井を押し上げるほどの大きさだった。


 そして、その奥。


 空間の裂け目の向こうに、角の影が見えた。


 鬼。


 その言葉が頭に浮かんだ瞬間、雅琥の身体は動かなくなった。


 呼吸が止まる。


 喉が狭くなる。


 手足の感覚が遠のく。


 視界が狭まり、教室の赤い光が、昔見た鏡の奥の色へ変わっていく。


 母がいる。


 鏡の向こうで、母が何かを叫んでいる。


 声は聞こえない。


 手を伸ばしている。


 助けなきゃいけない。


 でも足が動かない。


 自分の隣に、自分と同じ顔をした影が立っている。


 影は笑っている。


 ――おまえが来たから。


「……っ」


 雅琥は息を吸おうとした。


 吸えなかった。


 肺が固まっている。


 鬼の腕が床を削る音が、耳の奥で水の中の音のように遠く響く。


「六道殿!」


 誰かが叫んだ。


 風彦だった。


 教室の中で、蓮田風彦が白い経文を構えて立っている。


 顔色はひどく悪い。


 額には汗。


 しかし目は鋭い。


 その背後に、茜がいる。


 茜は気を失いかけたアサミを抱えていた。


 アサミの顔は白く、右手から呪術用の短剣が落ちている。


 何が起きたのかは分からない。


 だが、危険なのは分かった。


 鬼の腕は、風彦ではなく茜へ向かっている。


 その視線のようなものが、茜の胸元にある稲葉家の紋へ吸い寄せられていた。


 三束の稲穂を赤い縄で結んだ紋。


 鬼の腕に巻きついた縄と、同じ赤。


「いなば」


 鬼の声が響いた。


 雅琥の身体が震えた。


 声が、形を持っているようだった。


 耳で聞くのではなく、骨の内側をこすられるように響く。


「ちの、におい」


「何なのよ、あれ……!」


 茜の声が震えている。


 それでも彼女はアサミを離さない。


 逃げたいはずだ。


 怖いはずだ。


 雅琥には分かった。


 分かるのに、身体が動かない。


 人間相手なら飛び込める。


 教師でも上級生でも、怪我をする覚悟くらいならできる。


 だが、これは違う。


 殴れるものではない。


 拳を当てた瞬間、自分の手のほうが消えてしまうような気がする。


 見れば見るほど、目の奥から昔の記憶が溢れ出す。


 母。


 鏡。


 自分のせい。


 帰れなくなった。


「六道!」


 風彦の声が再び飛ぶ。


 今度は「殿」も「ござる」もなかった。


 切迫した声。


「扉を!」


 雅琥は、その意味を理解できなかった。


「……は」


「扉! 蹴り飛ばせ!」


 ようやく見えた。


 教室の扉は、雅琥が肩から突っ込んだせいで半壊している。


 しかし扉枠が歪み、廊下側へ逃げる幅が狭い。


 鬼の腕が教室中央を塞ぎ、風彦たちは窓側へ追い詰められている。


 逃げ道がない。


 なら、作るしかない。


 鬼を殴れない。


 鬼へ向かって走れない。


 けれど、扉なら蹴れる。


 木の板なら壊せる。


 人間相手の喧嘩ではない。


 怪異へ立ち向かうわけでもない。


 ただ、壊れかけた扉を完全に壊すだけだ。


 それくらいなら。


 雅琥は、凍った足を無理やり動かした。


 一歩。


 膝が笑う。


 二歩。


 息が浅い。


 三歩目で、怒りを無理やり呼び起こした。


 怖い。


 怖いなら、怒れ。


 震えるくらいなら、吠えろ。


 雅琥は歯を食いしばり、扉へ向かって身体を回転させた。


「邪魔だ!」


 蹴りが扉枠へ叩き込まれる。


 木が裂けた。


 古い蝶番が悲鳴を上げ、半壊していた扉が廊下側へ吹き飛ぶ。


 結界線が一瞬だけ火花を散らし、教室と廊下を隔てていた歪みが破れた。


 空気が流れ込む。


 赤黒い光が揺らいだ。


「今!」


 風彦が叫ぶ。


 茜はアサミを抱え直し、出口へ向かって走ろうとした。


 しかしアサミは完全に意識を失いかけている。


 小柄とはいえ、茜一人で支えて走るには重い。


「くっ……アサミ、ちょっと起きなさいよ!」


「……記録……」


「寝言で記録とか言ってんじゃない!」


 茜が必死に引きずる。


 鬼の腕が伸びる。


 爪が床を裂き、茜の足元へ迫った。


 風彦が白衣神咒を飛ばす。


 白い経文が鬼の指へ巻きつき、一瞬だけ動きを止めた。


 しかし、鬼の力は桁違いだった。


 経文の文字が黒く染まり、端から焼け落ちる。


 風彦の顔が苦痛に歪んだ。


「長くは止められないでござる!」


「分かってるわよ!」


 茜は叫び返すが、足がもつれる。


 そのとき、雅琥が前に出た。


 鬼のほうは見ない。


 視線を床へ落としたまま、茜の腕からアサミを奪うように背負う。


「貸せ!」


「ちょ、乱暴!」


「丁寧に運んでる余裕あんのか!」


「ないけど!」


 雅琥の声は荒い。


 だが、その顔は青ざめていた。


 唇も震えている。


 茜はそれに気づいた。


 六道学園の白虎。


 喧嘩最強の問題児。


 そのはずの彼が、今にも倒れそうなほど怯えている。


 それなのに、アサミを背負った。


 鬼に背を向けるのも怖いはずなのに、逃げ道を作った。


 茜は一瞬、言葉を失う。


「何見てんだ!」


 雅琥が怒鳴る。


「走れ!」


「言われなくても!」


 茜は召喚杖を握り直し、廊下へ飛び出した。


 雅琥がアサミを背負って続く。


 最後に風彦が、白衣神咒を引き戻しながら後退した。


 鬼の腕が、経文を引きちぎる。


 白い紙片が教室中へ散った。


 風彦はそれを見て、小さく舌打ちした。


「高かったのでござるが……」


「今それ言う!?」


 茜の叫びに、風彦は苦笑しようとして失敗した。


「言わないと心が折れるのでござる!」


「折れる場所おかしいわよ!」


 その直後、鬼の腕が教室の壁を叩き壊した。


 破片が廊下へ飛び散る。


 四人は廊下を走り出した。


     ◇


 北校舎の廊下は、すでに普通の廊下ではなくなっていた。


 夕暮れの赤が濃くなり、窓の外が見えない。


 本来なら校庭が見えるはずの硝子の向こうに、黒い水面のようなものが広がっている。


 水面には、ときおり白い手が浮かび、すぐに沈んだ。


 廊下の端に掲げられた教室名札は、文字が滲んで読めない。


 階段へ向かう道は、妙に長く伸びている。


 雅琥はアサミを背負い、先頭近くを走っていた。


 身体能力だけなら、この中で最も高い。


 だが呼吸は乱れている。


 重いからではない。


 怖いからだ。


 背後から、鬼の腕が壁を砕きながら迫ってくる音がする。


 完全に実体化しているわけではないのだろう。


 腕はときどき壁の中へ沈み、また別の場所から現れる。


 校舎の構造を無視して、鬼門の向こうから手を伸ばしている。


 それが余計に気味悪かった。


 物理的な敵なら、距離を測れる。


 怪異は違う。


 どこから来るか分からない。


 いつ触れられるか分からない。


 雅琥は背後を見ないように走った。


 見たら足が止まる。


 それを自分で分かっていた。


「六道殿、右!」


 風彦の声。


 雅琥は反射的に右へ跳んだ。


 直後、左の壁から巨大な指が突き出し、さっきまで雅琥の頭があった場所を掠めた。


「言うのおせえ!」


「言ってから出たでござる!」


「ならもっと早く予知しろ!」


「無茶をおっしゃる!」


 風彦は走りながら、懐から紙形を取り出した。


 白鼠の紙形を三つ。


 息を吹きかけると、それらは床へ落ち、小さな白鼠となって廊下を駆けた。


 鼠たちは四方へ散り、壁や床へ鼻を寄せる。


 結界の流れを探るための偵察紙形だ。


 しかし、すぐに二匹が黒い水へ飲み込まれるように消えた。


 風彦の顔色がさらに悪くなる。


「まずいでござるな」


「それ、さっきからずっとまずいんだけど!」


 茜が叫ぶ。


「職員室はこっちで合ってるの!?」


「本来なら!」


「本来ならって何!」


「学園結界が歪んでいるでござる!」


「つまり迷子!?」


「大変遺憾ながら、専門的に言うとそうでござる!」


「専門的じゃなくても迷子じゃない!」


 茜は走りながら魔導端末を取り出した。


 画面は黒い。


 電源は入っているはずなのに、何も表示されない。


 数秒後、白い文字が浮かんだ。


 ――お名前を入力してください。


 茜はぞっとして、端末を取り落としそうになった。


「なにこれ!」


「返事しないで!」


 風彦が即座に叫ぶ。


「名前を入れちゃ駄目でござる!」


「入れるわけないでしょ!」


 茜は端末を制服の内側へ押し込んだ。


 指先が震えている。


 あれは何だったのか。


 学園のシステムではない。


 公儀の警告でもない。


 何かが、こちらの名前を求めている。


 風彦は走りながら、廊下の天井を見上げた。


 結界線が不自然に光っている。


 学園の防御結界は、本来なら外部からの侵入を防ぎ、生徒を避難経路へ誘導するはずだ。


 だが今は違う。


 結界そのものが、廊下の形を曲げている。


 階段を遠ざけ、窓を封じ、職員室への道を迷わせている。


 鬼の力だけではない。


 鬼は茜を狙っている。


 だが校舎そのものをここまで精密に歪めるには、学園内部の結界機構へ干渉する必要がある。


 風彦の腹痛は、鬼門の冷えとは別の痛みを伝えていた。


 鈍く、長く残った呪い。


 記録に染みついた怨念。


 そして、名前へ触れる気配。


「……誰かが、校内結界を使っている」


 風彦は呟いた。


 茜が聞き取る。


「誰かって、鬼じゃないの?」


「鬼は力任せでござる。これはもっと、校則を知っている者の曲げ方でござる」


「校則を知ってる怪異って何よ!」


「学校の怪異でござるかね」


「冗談に聞こえない!」


「冗談ではござらん!」


 走りながらの会話は、恐怖をごまかすためでもあった。


 言葉を止めると、背後の音だけが聞こえる。


 壁を砕く音。


 木が裂ける音。


 鬼が茜の名ではなく、稲葉という家名を呼ぶ声。


「いなば」


 遠く近く。


 廊下の前からも後ろからも聞こえる。


「ちぎりを」


「つげ」


「名を」


「返せ」


 茜の足が一瞬止まりかけた。


 自分を呼んでいるのではない。


 家を呼んでいる。


 血を呼んでいる。


 稲葉という名へ、何かが絡みついている。


 昼間の召喚実習で、最後の命令が言えなかった感覚が蘇る。


 従え。


 服せ。


 逆らうな。


 あの言葉を、自分の先祖は誰かに言い続けてきたのだろうか。


「稲葉殿!」


 風彦の声で我に返る。


 目の前の廊下が、黒い水のように波打っていた。


 茜は慌てて飛び越える。


 足元で、水面から細い手が伸びた。


 風彦が紙形を投げる。


 紙の鳥が手をかすめ、手は煙のように消えた。


「考え込むのはあとにするでござる!」


「分かってる!」


「分かってない人の顔でした!」


「見てる余裕あるなら前見なさい!」


 雅琥が短く笑った。


 笑ったというより、息が漏れただけかもしれない。


「おまえら、よくこんな状況で喋れるな」


「黙ると怖いのよ!」


 茜が言う。


「それは分かる」


 雅琥が小さく呟いた。


 茜は横を見た。


 雅琥の顔はまだ青い。


 だが、さっきより少しだけ呼吸が戻っている。


 背負われたアサミは、雅琥の肩口でぐったりしていた。


 目は閉じているが、呼吸はある。


 時折、うわごとのように何かを呟く。


「……座標……ずれて……」


「今は寝てなさい!」


 茜が叫ぶと、アサミは薄く目を開けた。


「……怒ってる?」


「怒ってるわよ!」


「よかった」


「何が!」


「茜が怒っていると……生きている感じがする」


「今その詩的表現いらない!」


 アサミは再び目を閉じた。


 雅琥がぼそりと言う。


「こいつ、結構面倒くせえな」


「そこがアサミなのよ」


「褒めてんのか?」


「褒めてる!」


「じゃあ友達って大変だな」


「大変よ!」


 茜の声は震えていたが、少しだけ力を取り戻していた。


     ◇


 四人は職員室へ向かっているはずだった。


 北校舎の二階から渡り廊下を抜け、本校舎へ戻れば職員室は近い。


 少なくとも、地図上ではそうだ。


 だが、何度曲がっても同じ廊下に出る。


 壁に掛かった古い時計。


 割れた鏡を紙で覆った掲示板。


 消火器の横に貼られた怪異避難標語。


 ――知らない名前へ返事をしない。


 ――存在しない階段を下りない。


 ――鏡の中の自分が笑っても、笑い返さない。


 同じ掲示物を三度見たとき、茜は足を止めた。


「待って」


 雅琥も止まる。


 風彦はすぐに後ろを確認した。


 鬼の気配は少し離れている。


 ただし完全に振り切ったわけではない。


「どうしたでござる」


「ここ、さっき通った」


「はい」


「はいじゃない! なんで普通に認めるの!」


「拙者も三周目で確信したのでござる」


「二周目で言いなさいよ!」


「希望を捨てたくなかったのでござる!」


 茜は頭を抱えた。


「最悪!」


 雅琥は壁を殴った。


 鈍い音。


 だが壁は壊れない。


 古い木造の壁のはずなのに、拳を受け止めた感触は石のように硬かった。


「ちっ」


 雅琥は痛む拳を振る。


「結界か」


 風彦が頷く。


「廊下が輪になっている。外へ向かう道が閉じられているでござる」


「窓は?」


 茜が近くの窓へ走る。


 鍵を外し、開けようとする。


 動かない。


 びくともしない。


 外は黒い水面のような闇。


 窓硝子の向こうで、何かがゆっくり浮かび上がる。


 顔のない人影。


 茜は反射的に後ずさった。


「何かいる!」


 風彦が即座に視線を向けた。


 人影はもう消えていた。


 だが硝子には、白い指でなぞったような跡が残っている。


 ――お名前を。


 風彦の顔が険しくなる。


「やはり、鬼だけではない」


「またそれかよ」


 雅琥が低く言う。


「だったら何だ。誰がやってる」


「分からない。ただ、学園の内側にいる何かでござる」


「教師か?」


「人間なら、ここまで校舎に馴染まない」


「怪異かよ」


 雅琥の声がかすれた。


 言った自分で、少し怯えている。


 風彦はそれに気づいたが、指摘しなかった。


 他人の恐怖を笑わない。


 それは風彦が自分に課している数少ない規則だった。


「学園の怪談。七不思議。あるいは、もっと古い何か」


 風彦は廊下の奥を見る。


 赤い夕暮れの中で、北校舎の木目がゆっくりと脈打っているように見えた。


「この校舎、たぶん生きているでござる」


「さらっと嫌なこと言うな」


 雅琥が吐き捨てる。


 茜は深呼吸した。


「職員室が駄目なら、他の避難場所は?」


「結界が強い場所なら、しばらくしのげるかもしれないでござる」


「どこ」


「この北校舎で、怪異が侵入しにくい場所」


 風彦は一瞬だけ迷った。


 昼間の出来事が脳裏をよぎる。


 男子厠。


 臨時休業中。


 紙がない。


 女の声。


 花の香り。


 あまり思い出したくない。


 しかし、あの場所は確かに変だった。


 単なる怪異の巣ではない。


 むしろ、何かを遮っていた。


 あの鬼の気配がここまで強くなっても、北校舎三階の厠周辺だけは、腹痛の質が少し違った。


 痛いには痛い。


 だが、危険信号というより、境界の厚みを感じる痛み。


「……三階」


 風彦が言う。


「三階の女子厠」


 茜と雅琥が同時に風彦を見た。


 アサミは背中で目を閉じたまま、かすかに呟く。


「……合理的」


 茜は叫んだ。


「合理的じゃないわよ! なんで女子厠!」


「男子厠は本日、臨時休業中でござる」


「そういう問題!?」


「あと、あそこはたぶん強い境界になっているでござる」


 風彦は真面目に言った。


「北校舎三階女子厠。特に三番目の個室。学園の噂にもあるはずでござる」


 茜の顔が引きつった。


「……華子さん?」


 その名を口にした瞬間、廊下の空気が変わった。


 水滴の音がした。


 ぴちょん。


 どこにも水などないのに。


 雅琥の肩がびくりと震えた。


「やめろ。その名前、今言うな」


「だって蓮田くんが」


「言ってねえ! そいつが勝手に言った!」


「そいつって誰よ!」


「おまえだよ!」


「怒鳴る元気あるなら走るでござる!」


 風彦が叫ぶ。


 廊下の奥から、再び鬼の腕が現れた。


 壁を突き破るのではなく、壁そのものを押し広げるようにして。


 空間が裂け、赤黒い指がこちらを探す。


「いなば」


 声が近い。


 茜の足がすくむ。


 雅琥がアサミを背負い直し、歯を食いしばった。


「三階だな」


「はい!」


「案内しろ、腹痛侍!」


「その呼び名、今後の定着は遠慮したいでござる!」


「生き残ったら考えてやる!」


 雅琥が走り出す。


 風彦が続き、茜も必死に足を動かした。


 職員室へ向かう道は閉じられた。


 窓も扉も、外へ通じない。


 校舎そのものが、四人をどこかへ追い込もうとしている。


 だが、その追い込み先を逆に利用するしかない。


 北校舎三階。


 女子厠。


 三番目の個室。


 そこに何がいるのか、風彦はまだ知らない。


 昼間に紙を投げてくれた声の主が、学園の古い怪談そのものだとは、思いたくなかった。


 だが今は、思いたくないものほど頼るしかない。


 背後で鬼が壁を砕く。


 前方の階段が、赤い夕暮れの中に浮かび上がる。


 階段の上から、かすかな花の香りが漂ってきた。


 茜は息を切らしながら呟く。


「ねえ、これ、助かる道なのよね?」


 風彦は一瞬だけ黙った。


「少なくとも、職員室よりは近いでござる」


「安心できる要素が距離しかない!」


「怪異事件では、近さも立派な利点でござる!」


「それっぽく言っても雑!」


 四人は階段を駆け上がった。


 その足音を追うように、北校舎のどこかで女の笑い声がした。


 うふふ。


 やわらかく、艶やかで、底知れない声。


 雅琥は青ざめた顔で前を見る。


「今の聞こえたか」


 茜は即答した。


「聞こえてない!」


「聞こえた奴の返事だろ、それ!」


 風彦は腹を押さえながら階段を上がる。


 痛みはひどい。


 だが、階段を上るにつれて、鬼門の冷たさとは違う気配が濃くなっていく。


 花の香り。


 水の音。


 古い刀の気配。


 そして、誰かがずっとこちらを見ている感覚。


 それは敵意ではなかった。


 だが、善意とも言い切れない。


 何かを試すような視線。


 風彦は唾を飲み込んだ。


 階段を上りきる。


 北校舎三階の廊下。


 その奥に、木札のかかった扉が見えた。


 女子厠。


 扉の前だけ、床が濡れたように光っていた。


 鬼の腕が、階下から迫る。


 もう迷っている暇はない。


「入るでござる!」


「ほんとに入るの!?」


「他に扉がない!」


「もうどうにでもなれ!」


 茜が扉を開け、四人は女子厠の中へ飛び込んだ。


 直後、背後で扉が勢いよく閉まった。


 がたん。


 外側から鬼の腕が叩きつけられる。


 扉が軋む。


 だが、壊れない。


 薄い木の扉のはずなのに、鬼はそれ以上入ってこられなかった。


 厠の中には、清潔な石鹸の匂いと、濃い花の香りが満ちていた。


 奥の三番目の個室だけが、静かに閉じている。


 風彦はその扉を見つめた。


 水滴が落ちる。


 ぴちょん。


 誰かが、内側で微笑んだ気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ