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厠の華子さん―ネオ江戸魔導学園怪異録―  作者: 秋月キアラ
第1話 ― 三番目の個室に華は咲く
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3/26

第二幕 ― 下痢止めを取りに戻った少年

 同じ日の放課後。


 蓮田風彦は、学園の正門前でしばらく動けずにいた。


 夕暮れの光が、六道門の朱塗りを血のような色に染めている。門柱には結界札が何重にも貼られ、上部の銅鈴が風もないのに微かに鳴っていた。


 新入生の多くは、もう帰宅するか、寮へ向かうか、部活動見学へ散っている。


 門前町へ下りれば甘味処もあるし、魔導具屋もある。入学直後の浮ついた空気の中、校門付近にはまだ何人かの生徒が残っていた。


 その中で、風彦だけが明らかに浮いていた。


 顔色が悪い。


 それはいつものことだった。


 猫背で、前髪が長く、眼鏡の奥の目元も隠れている。


 春の夕方だというのに、両手は冷えている。


 そして何より、彼は腹を押さえていた。


「……これは、まずいでござるな」


 小さく呟く。


 言葉の最後が、情けなく震えた。


 風彦の腹は、朝からずっと嫌な調子だった。


 入学式のときから痛んでいた。


 学園長の訓示を聞いている最中、講堂の床下から何かが応えたような気配を感じたときには、胃の奥を氷の爪で掴まれたような痛みが走った。


 だが、それはまだ耐えられる程度だった。


 問題は今である。


 下腹部のあたりに、じわじわと冷たい重みが集まっている。


 普通の腹痛なら、痛いだけだ。


 しかし風彦の腹痛は、ただの体調不良ではない。


 怪異、呪い、異界の裂け目、あるいは強い悪意。


 そうしたものが近くにあるとき、風彦の身体は腹部を通じて警告を発する。


 公儀怪異対策局の医師は、それを霊障性内臓過敏症と呼んだ。


 華々しい名前ではない。


 むしろ、自分の人生で聞いた診断名の中でも、かなり情けない部類に入る。


 だが精度だけは高い。


 刺すような痛みは攻撃性の高い怪異。


 鈍い痛みは長く残った呪い。


 吐き気は憑依や精神干渉。


 冷える感覚は異界門の開放。


 焼ける痛みは、自分の血に近いもの。


 風彦は、その痛みの種類を嫌というほど知っていた。


 今の痛みは、冷えに近い。


 それも、ただ冷たいだけではない。


 井戸の底に手を突っ込んだような、湿った冷たさ。


 現世ではない場所の空気が、すぐ近くへ滲んできている感覚だった。


 風彦は門の外へ出ようと一歩踏み出し、それから動きを止めた。


 腰に提げた小型の魔導端末が震えている。


 公儀支給品の黒い端末。


 学園用の一般端末とは違い、外装に紋はない。


 画面を開くと、暗号化された短い文面が表示された。


 ――六道校域、結界値微細変動。


 ――北校舎方面、霊圧偏差あり。


 ――学園監視任務者は、通常生徒行動の範囲内で確認せよ。


 風彦は顔をしかめた。


「通常生徒行動の範囲内、でござるか」


 便利な言葉である。


 つまり、目立つな。


 教師に知られるな。


 友人を作るな。


 怪異が出たら調べろ。


 危険なら報告しろ。


 ただし、正式な公儀隠密として動いた痕跡は残すな。


 風彦は端末を閉じた。


 胸の奥に、小さなため息が溜まる。


 公儀の命令には慣れている。


 物心ついたときから、蓮田家の人間はそういうものだと教えられてきた。


 危険な血を持つ者は、社会の役に立つことで存在を許される。


 そういう言葉は、直接は言われなかった。


 だが、施設の白い壁も、定期検査の冷たい器具も、監督官の穏やかな笑顔も、すべて同じ意味を持っていた。


 おまえは普通ではない。


 だから普通のふりをしなければならない。


 おまえは危険だ。


 だから役に立たなければならない。


 風彦は、門の外へ視線を向けた。


 帰りたい。


 正直なところ、任務どころではなかった。


 公儀が何と言おうと、今の自分に最も必要なのは調査ではなく休息であり、できれば温かい白湯と布団であり、さらに言うなら整腸剤である。


 そのとき、風彦ははっとした。


「……薬包」


 制服の内側を探る。


 腰の小袋。


 懐。


 袖口。


 ない。


 朝、講堂で飲もうと思って一包だけ持ち出した。


 そのあと、召喚術基礎の教室で配布資料を片づけたとき、机の中へ入れた覚えがある。


 そしてそのまま、持って帰るのを忘れた。


 風彦は遠い目をした。


「これは、人生最大級の失策でござる」


 大げさに聞こえるが、本人にとってはかなり切実だった。


 腹の具合が悪いとき、薬があるかないかは命運を分ける。


 少なくとも、風彦の精神的安定度を大きく左右する。


 しかも、北校舎方面に霊圧偏差。


 教室に戻れば薬を回収できる。


 ついでに、通常生徒行動の範囲内で結界異常も確認できる。


 帰宅しようとしていた自分が、忘れ物を取りに戻るだけ。


 不自然ではない。


 実に自然だ。


 ただし腹は痛い。


 とても痛い。


「……拙者、今日の自分が嫌いでござる」


 誰にともなく呟き、風彦は校門から踵を返した。


     ◇


 北校舎へ近づくにつれ、学園の空気は少しずつ変わっていった。


 本校舎の廊下は明るい。


 魔導照明が均一に光り、掲示板には部活動見学の案内や、霊籍登録説明会の日程が表示されている。廊下を行き交う生徒たちの声も多く、まだ新学期特有の賑やかさが残っていた。


 だが渡り廊下を越えた先、北校舎へ入ると、音が急に遠のく。


 床板は古い。


 歩くたびに、きし、と軋む。


 壁の木目は黒く、窓硝子はわずかに歪んでいる。


 どれほど手入れされていても、ここには新しい建物にはない匂いがあった。


 古い紙。


 湿った木。


 消毒液。


 そして、どこかから漂う花の香り。


 風彦は足を止めた。


「……またでござるか」


 花の香りには、覚えがあった。


 今日の昼前。


 腹痛に耐えかねて、使用中止になっていた男子厠を前に絶望し、やむにやまれず女子厠へ逃げ込んだとき。


 もちろん、誰もいないことは確認した。


 人として、そこだけは譲れない。


 いや、そもそも女子厠へ入った時点で譲れていないのだが、あのときの自分には選択肢がなかった。


 そのうえ紙がなかった。


 人生には、怪異より恐ろしい瞬間がある。


 風彦はそのとき、天から差し出された救いの紙を受け取った。


 いや、正確には個室の上から投げ込まれた。


 白いトイレットペーパー。


 そして、女の声。


 お使いなさって。


 思い出しただけで、風彦は耳まで熱くなった。


「あれは夢。あれは幻。あれは極限状態で見た白昼夢でござる」


 自分に言い聞かせる。


 しかし、あの花の香りは今も廊下に漂っている。


 椿のような。


 夜桜のような。


 ほんの少しだけ、血の匂いにも似ている。


 風彦の腹が、きゅう、と縮んだ。


 これは恥ずかしさによるものではない。


 霊障だ。


 間違いなく、北校舎に何かがいる。


「通常生徒行動の範囲内で確認、通常生徒行動の範囲内で確認……」


 呪文のように繰り返しながら、風彦は廊下を進んだ。


 教室へ戻るだけ。


 忘れ物を取るだけ。


 結界異常は、見なかったことにできるならしたい。


 だがそうもいかない。


 廊下の先にある一年基礎科の普通教室。


 そこが、風彦の目指す場所だった。


 だが近づくほど、腹痛が強くなる。


 最初は鈍痛だった。


 次に冷え。


 さらに、吐き気が混ざった。


 憑依系の反応。


 誰かが何かに触られている。


 あるいは、誰かが何かを呼び込もうとしている。


 風彦は歩く速度を上げた。


 それでも走らない。


 走ると腹に響く。


 廊下の窓から夕暮れの赤い光が差し込み、床板へ長い影を落としている。


 その影の中に、一瞬だけ、黒い手のようなものが見えた。


 風彦は足を止める。


 影はもう何もなかった。


 ただの自分の影だ。


 細く、頼りなく、猫背の影。


 だが風彦には分かる。


 自分の影は、ときどき自分だけのものではなくなる。


 公儀の施設で初めてそれを見たとき、大人たちは優しく笑いながら記録を取った。


 大丈夫。


 怖くない。


 君は人間だ。


 そう言いながら、拘束具を用意していた。


 風彦は眼鏡の位置を直した。


 この眼鏡は、ただの視力矯正具ではない。


 風彦の目が余計なものを見ないようにするための封印具でもある。


 外せば、もっとよく見える。


 だが、見えるということは、見られるということでもある。


「……嫌な感じでござる」


 教室の前まで来たとき、風彦は確信した。


 中で、誰かが門を開こうとしている。


 それも、正規の召喚実習ではない。


 術式の線が歪んでいる。


 呼ぼうとしているものの気配よりも先に、門の周辺へ群がるものの臭いがする。


 腐った水。


 古い血。


 名前を失った霊。


 風彦は扉へ手をかけた。


 開けたくない。


 心の底からそう思った。


 ここで引き返して職員室へ行くべきだ。


 教師を呼ぶ。


 公儀へ連絡する。


 自分一人で何かする必要はない。


 そう思った瞬間、教室の中から声が聞こえた。


「接続を開始する」


 聞き覚えのある、淡々とした少女の声。


 新垣アサミ。


 その直後、もう一人の少女の息を呑む気配。


 稲葉茜。


 風彦は目を閉じた。


「……どうして、拙者が戻ってきた教室でやるのでござるか」


 誰も答えない。


 腹が痛い。


 とても痛い。


 だが、中にいるのが同級生だと分かってしまった。


 そうなると、もう引き返せない。


 風彦は扉を開けた。


     ◇


 教室の中は、赤かった。


 夕焼けの赤だけではない。


 床に描かれた魔法陣が、朱蝋の線を薄く発光させている。


 机は後ろへ寄せられ、中央に空間が作られていた。


 四隅には青白い蝋燭。


 黒板には、授業で使った古い英単語の名残が残っている。


 その日常的なものの前で、床の魔法陣だけが異様に生々しかった。


 まるで教室の床に、赤い傷口が開いているようだった。


 中央に立つ茜は、召喚杖を構えている。


 顔は強張っているが、逃げるつもりはなさそうだった。


 その向こうで、アサミが写本へ指を置いている。


 彼女の灰紫色の瞳は、魔法陣の光を反射して、普段よりも暗く見えた。


 二人が風彦を見る。


「蓮田くん!?」


 茜の声が跳ねた。


「なんでここに」


「忘れ物を取りに来ただけでござる。いや、本当に、拙者としても大変不本意ながら、極めて個人的かつ切実な忘れ物を――」


 風彦はそこまで言いかけ、床の魔法陣を見た。


 息が止まる。


 普段の頼りなさが、顔から消えた。


 茜はその変化に気づいた。


 さっきまで腹を押さえて情けない顔をしていた少年が、急に別人のような目をした。


 風彦は一歩、教室へ入る。


 足元の朱蝋の線を踏まないように、正確に避けた。


 そして魔法陣の北東、鬼門の位置に置かれた写本を見た。


「新垣殿」


 声はまだ、いつもの調子を保とうとしていた。


 だが硬い。


「その一節、読み上げたでござるか」


 アサミは答えなかった。


 視線が、ほんの少しだけ揺れる。


「最後の固定式なら、今から」


「読むな」


 風彦の声が変わった。


 短く、低い。


 茜が瞬きをする。


「蓮田くん?」


 風彦は眼鏡の奥で、魔法陣を睨んでいた。


「それは召喚陣ではない。依代を差し出すための門だ」


 教室の空気が凍った。


 アサミの指先が、写本の上で止まる。


「……依代?」


「対象を呼んで固定する式ではない。術者を開いた門へ固定する式に書き換わっている。対象へ通路を作るのではなく、こちら側の身体を向こうへ差し出す構造だ」


 風彦は、今度ははっきりとアサミを見る。


「誰がこれを用意した」


「ワタシ」


「違う。原本ではない。最後の一節だけ、意味がずらされている」


 アサミの表情は変わらない。


 だが、唇から血の気が引いていく。


「気づいていたのか」


「違和感はあった。でも、修正できると思った」


「できない」


 風彦は即答した。


 その言い方に、アサミの眉がわずかに動く。


「見ただけで断定できるの?」


「できる。これは門を閉じる術者のための文法ではない。門の向こう側が、こちらへ手を伸ばすための文法だ」


 茜は二人の間で視線を行き来させた。


 何を言っているのか、全部は分からない。


 ただ、風彦の顔が本気だということだけは分かった。


 いつもの陰気で頼りない同級生ではない。


 ふざけた「ござる」口調の奥に隠していたものが、今だけ外へ出ている。


「アサミ、止めるわよ」


 茜が言う。


 アサミは魔法陣を見下ろした。


「でも、もう陣は起動している」


「止めるって言ってるでしょ」


「急停止すると、逆流が」


「逆流より依代のほうがまずいんじゃないの!?」


「二人とも、陣から出るでござる」


 風彦が言った。


 口調は戻った。


 しかし声の緊張は消えていない。


 茜はすぐに一歩引こうとした。


 だが、足が床に貼りついていた。


「え?」


 足元を見る。


 朱蝋の線から、細い赤い糸のような光が伸びている。


 それが茜の足首へ絡みついていた。


「何これ」


「固定されている」


 アサミが呟く。


 自分の足元にも、同じ赤い糸が絡んでいた。


「対象識別が術者側へ反転している……? そんな、まだ最後の一節は」


「読んでいなくても、門は聞いている」


 風彦は懐へ手を入れた。


 白い紙片を取り出す。


 ただの紙ではない。


 細かい文字がびっしりと書き込まれた、蛇腹状の経文。


「言葉は声だけではない。読もうとした意思、置かれた名前、描かれた座標。門はそれを食う」


 茜は足首の糸を召喚杖で払おうとした。


 赤い糸は一瞬薄くなるが、すぐに戻る。


「ちょっと、何これ。気持ち悪い!」


「暴れないでください、稲葉殿。切るなら、結び目を見つけてからでござる」


「見えないわよ、そんなの!」


「でしょうね」


「冷静に返さないで!」


 茜の声は怒っている。


 だが本当は怖い。


 風彦には分かった。


 彼女は怖がるほど、怒ったように声が大きくなる。


 だから、笑わないことにした。


 風彦は経文を咥え、両手で印を結ぶ。


 普段なら、人前で術を使うことは避ける。


 公儀の任務者だと知られる危険がある。


 自分の術式は、普通の学園生徒が使うものよりもずっと実戦寄りだ。


 だが、今はそんなことを言っている場合ではない。


「新垣殿。写本から手を離すでござる」


 アサミは頷こうとした。


 その瞬間だった。


 写本の文字が、黒く滲んだ。


 紙面の上を墨が這う。


 文字が組み替わる。


 アサミの指先に、黒い染みが移った。


「……っ」


 アサミの身体が硬直した。


 目が見開かれる。


 灰紫色の瞳の奥に、一瞬だけ赤い光が走った。


「アサミ?」


 茜が呼ぶ。


 返事はない。


 アサミは写本に指を置いたまま、微動だにしない。


 やがて、彼女の唇が動いた。


 知らない声が出た。


「……いなば」


 低く、湿った声。


 少女の喉から出ているのに、少女の声ではなかった。


 茜の背筋が凍る。


「アサミ?」


「いなば」


 アサミの首が、不自然な角度で動いた。


 視線が茜へ向く。


 その顔に表情はない。


 ただ、唇の端だけが吊り上がっていた。


「ちの、におい」


 風彦の腹部に鋭い痛みが走った。


 刺す痛み。


 憑依。


 しかも、鬼そのものではない。


 門の周辺を漂っていた悪霊が、開きかけた通路から先に入り込んだ。


 鬼門境の端にまとわりつく、名も形も失ったもの。


 鬼の怒りに引き寄せられ、稲葉の血に反応し、人間の身体へ入る隙を探していたもの。


 それが、アサミを依代にした。


「その身体から離れろ」


 風彦の声から、「ござる」が完全に消えた。


 茜は息を呑んだ。


 蓮田風彦が、別人のように見えた。


 背筋が伸びている。


 目が鋭い。


 情けなく腹を押さえていた手は、今は白い経文を握っている。


 アサミの身体が、ゆらりと揺れた。


 右手が術具鞄へ伸びる。


「アサミ、何して――」


「近づくな!」


 風彦が叫んだ。


 次の瞬間、アサミは鞄から小さな短剣を引き抜いた。


 呪術用の儀礼短剣。


 普段は写本の封を切ったり、術式の線を刻んだりするための道具だ。


 戦闘用ではない。


 だが、人間を傷つけるには十分だった。


 アサミは無表情のまま、茜へ踏み出した。


 足に絡んでいた赤い糸が、彼女だけを許すようにほどける。


「稲葉の血」


 アサミの口が動く。


 声は濁っている。


「門を、ひらけ」


「アサミ、やめなさい!」


 茜は召喚杖を構えた。


 だが振れない。


 相手はアサミだ。


 親友だ。


 自分のために、危険な資料まで調べてくれた子だ。


 その身体へ攻撃するなど、できるはずがなかった。


 アサミは迷わない。


 短剣を握り、茜の胸元へ突き出す。


 風彦が動いた。


 彼は紙片を指で弾いた。


 白い経文が空中でほどける。


 蛇腹状に伸び、帯のように広がり、文字が光った。


 黒い墨で書かれたはずの経文が、内側から白く燃える。


「白衣神咒」


 風彦は低く唱えた。


 経文がアサミの手首へ絡みつく。


 短剣の刃が、茜の胸元から指二本分のところで止まった。


「ひっ……」


 茜は息を吸うことも忘れた。


 遅れて、心臓が暴れ出す。


「その身体から出ろ。次は警告しない」


 風彦の声は冷たかった。


 教室にいた誰よりも、怪異に対してだけ冷たい声。


 アサミの首がぎしりと鳴る。


 目が風彦へ向く。


「はすた」


 悪霊が、その名を呼んだ。


 風彦の背中に冷たい汗が流れる。


 蓮田。


 はすた。


 漢字は違う。


 けれど音が近い。


 この名は、風彦にとっていつも安全ではない。


 人間の名として呼ばれるときはいい。


 だが《向こう側》のものがその音を拾うとき、そこには別の意味が混ざる。


 外つ神。


 黄色い風。


 名状しがたいものの残響。


 風彦は奥歯を噛んだ。


「僕の名を、おまえが呼ぶな」


 その声を聞いた茜は、ぞくりとした。


 僕。


 風彦が自分をそう呼んだ。


 今まで一度も聞いたことがない。


 頼りない「拙者」ではない。


 おどけた「ござる」でもない。


 そこにいたのは、臆病な同級生ではなかった。


 怪異と向き合うことを、最初から知っている人間だった。


 いや。


 人間、と言っていいのかどうか。


 茜は一瞬だけ、風彦の影を見た。


 夕暮れの床に落ちた影。


 それが、人の形からわずかに外れていた。


 袖口から、鞭のような細い黒い影が伸びているように見えた。


 目を瞬かせると、元に戻る。


 見間違いかもしれない。


 見間違いだと思いたかった。


「蓮田くん……?」


「稲葉殿、後ろへ」


 風彦は言った。


 口調は戻っている。


 だが、声の底にある鋭さは消えていない。


「でも、アサミが」


「新垣殿はまだ中にいる。だから、身体を傷つけずに引き剥がす」


「できるの?」


「やるでござる」


「できるって言いなさいよ!」


「できる」


 短い返事。


 その言い方が、妙に頼もしかった。


 アサミの身体が、経文に抵抗して震える。


 悪霊は短剣を手放さない。


 白い経文へ黒い染みが広がっていく。


 風彦は左手で経文を操りながら、右手を懐へ入れた。


 次に取り出したのは、小さな紙形。


 鼠の形に折られた紙だった。


「走れ」


 紙鼠が床へ落ちた瞬間、白い小動物となって駆け出す。


 魔法陣の外周を回り、赤い糸が集まる箇所へ噛みついた。


 朱蝋の線が火花を散らす。


 茜の足首を縛っていた糸が、少し緩んだ。


「動ける?」


「たぶん!」


「たぶんは嫌でござる!」


「さっきあんたも似たようなこと言ってたでしょ!」


 茜は渾身の力で足を引いた。


 赤い糸が千切れる。


 彼女は後ろへ倒れ込みそうになりながら、机に手をついて踏みとどまった。


 その間にも、風彦はアサミへ近づいていく。


 白衣神咒が二本、三本と増え、アサミの両腕、肩、胴を拘束した。


 普通の人間相手なら、完全に動けない。


 だが悪霊は、人間の筋肉の限界を無視する。


 アサミの腕が不自然に曲がり、経文が軋んだ。


「やめて!」


 茜が叫ぶ。


 その声に、一瞬だけアサミの瞳が揺れた。


 灰紫色の奥に、ほんのわずかに本人の意識が戻る。


「……あか、ね」


 かすれた声。


 アサミの声だった。


 茜は駆け寄りそうになる。


 風彦が手で制した。


「呼びかけ続けて。新垣殿の名前を」


「名前?」


「憑依は、身体の主を押しのける。呼ばれた名は、本人を現世へ引き戻す」


 風彦は経文を握る手に力を込めた。


「稲葉殿の声なら、届く」


 茜は息を吸った。


 喉が震えている。


 でも、言わなければならない。


「アサミ!」


 茜の声が教室に響いた。


「新垣アサミ! 聞こえてるなら返事しなさい!」


 アサミの身体がびくりと跳ねる。


 悪霊が低く唸った。


「よぶな」


「呼ぶわよ! 友達の名前なんだから!」


「いなばの、血を」


「アサミ! あんた、言ったでしょ! 一緒に怒られるって!」


 アサミの唇が震える。


「……いっしょ」


「そうよ! あんただけ責任取るとか、勝手なこと言わないで!」


「……茜」


 本人の声が戻る。


 風彦はその一瞬を逃さなかった。


 眼鏡へ手をかける。


 外すべきではない。


 こんな場所で、同級生の前で。


 それでも、憑依霊の結び目を正確に見るには足りない。


 風彦は眼鏡を外した。


 世界が変わる。


 教室の輪郭が薄くなり、代わりに霊的な線が見えた。


 魔法陣から伸びる赤い糸。


 写本に染み込んだ黒い墨の跡。


 アサミの背後へ張りつく、顔のない黒い影。


 それは人の形をしていない。


 無数の口と、爪と、破れた札の束のようなものが絡み合っている。


 鬼ではない。


 鬼門境の周囲に堆積した、名前になれなかった悪意の塊。


 それがアサミの背にしがみつき、彼女の首筋から内側へ入り込んでいる。


 風彦は目を細めた。


 見たくないものまで見える。


 アサミの恐怖。


 茜の焦り。


 床下に開きかけている門。


 そのさらに奥で、こちらを見ている巨大な何か。


 風彦の腹が焼けるように痛んだ。


「……時間がない」


 茜がこちらを見る。


 風彦は経文を構え直した。


「新垣アサミ」


 彼は名を呼ぶ。


 低く、はっきりと。


「君の身体は君のものだ。戻ってこい」


 悪霊が風彦へ向かって口を開く。


 叫び声は聞こえなかった。


 代わりに、教室の窓が一斉に曇る。


 曇った硝子の表面に、無数の手形が浮かんだ。


 茜は悲鳴を上げかけて、唇を噛んで堪えた。


 風彦は動かない。


「白衣神咒、離魂」


 経文の文字が白く光る。


 アサミを拘束していた帯が、今度は身体の表面ではなく、背後の黒い影へ絡みついた。


 悪霊が引き剥がされる。


 アサミの身体が弓なりに反った。


「アサミ!」


「呼んで!」


「新垣アサミ! 戻ってきなさい!」


 茜の声と同時に、風彦が経文を引いた。


 黒い影が、アサミの背中から剥がれた。


 粘ついた音がした。


 実際に音があったわけではない。


 だが、そこにいた全員が、何かが引き剥がされる感覚を聞いた。


 アサミの身体から力が抜ける。


 短剣が床へ落ちた。


 茜が駆け寄り、倒れかけたアサミを抱き止める。


「アサミ!」


「……茜」


 アサミは薄く目を開けた。


 顔色は紙のように白い。


「ごめん」


「謝るの早い! あとでまとめて聞く!」


「記録……」


「今は記録とかどうでもいい!」


「どうでもよくは……ない」


「そういうとこ、本当にアサミね!」


 茜の声が震えていた。


 怒っているのか、泣きそうなのか、自分でも分からない。


 風彦は、二人を背に庇うように立った。


 引き剥がされた黒い影は、床の上で蠢いている。


 白衣神咒に絡め取られてなお、完全には消えていない。


 それどころか、魔法陣の中央へ吸い寄せられていく。


 朱蝋の線が、黒く染まり始めた。


「蓮田くん、終わったんじゃないの?」


 茜が問う。


 風彦は眼鏡をかけ直した。


 世界の輪郭が、少しだけ人間向けに戻る。


 それでも、床下から来る圧力は消えない。


「憑依は剥がしたでござる」


「じゃあ」


「でも、儀式は止まっていない」


 教室の床が震えた。


 机ががたがたと揺れる。


 黒板のチョークが床へ落ち、白い粉を散らした。


 青白い蝋燭の炎が、一斉に横へ倒れる。


 風はない。


 それなのに、教室の空気が一点へ吸い込まれている。


 魔法陣の中央。


 そこに、黒い裂け目が生まれていた。


 細い。


 最初は髪の毛ほどの線。


 それが、ゆっくりと広がっていく。


 木の床板が裂けているわけではない。


 空間そのものが、そこだけ破れている。


 裂け目の向こうに、荒れた赤黒い空が見えた。


 乾いた大地。


 折れた鳥居のような影。


 無数の縄。


 そして、何かの呼吸。


 茜は、アサミを抱えたまま後ずさった。


「なに……あれ」


「鬼門境」


 風彦が答える。


 声が低い。


「稲葉家の契約がつながっている場所でござる」


「うちの……?」


 裂け目の奥から、巨大な指が現れた。


 人間のものではない。


 太く、節くれ立ち、爪は黒い。


 指一本だけで、子どもの腕ほどもある。


 それが裂け目の縁を掴んだ。


 教室の床が、悲鳴を上げる。


 次に、もう一本。


 さらに三本。


 巨大な手が、空間の裂け目を内側からこじ開けようとしていた。


 風彦の腹に、焼けるような痛みが走る。


 思わず膝が折れそうになる。


 だが倒れなかった。


 ここで倒れれば、後ろの二人が終わる。


「稲葉殿」


「な、なによ」


「新垣殿を連れて、扉へ」


「蓮田くんは?」


「時間を稼ぐ」


「一人で?」


「一人でやりたいわけではござらんよ。でも、今ここで話し合っている時間はなさそうでござる」


 巨大な手が、裂け目をさらに押し広げた。


 そこから、角の影が見えた。


 低い唸り声。


 教室の壁に貼られていた安全標語の札が、一枚ずつ燃え落ちる。


 茜はアサミを支えながら、歯を食いしばった。


「……あんた、本当に何者なのよ」


 風彦は一瞬だけ振り返った。


 いつもの頼りない笑みを作ろうとして、失敗したような顔だった。


「忘れ物を取りに来ただけの、善良な同級生でござる」


「善良な同級生は、そんな術使わない!」


「では、腹の弱い同級生ということで」


「そこは否定しないのね!」


 その掛け合いの直後、裂け目の向こうから巨大な鬼の腕が現れた。


 赤黒い皮膚。


 絡みついた古い縄。


 縄には、かすれた人名が無数に書かれている。


 手は教室の天井へ届くほど大きかった。


 それが、ゆっくりと茜のほうへ向く。


 鬼は、まだ顔を見せていない。


 だが、声だけが教室へ響いた。


「いなば」


 空気が震える。


 茜の身体が硬直した。


「ちの、におい」


 風彦は白衣神咒を構え直す。


 しかし、彼の手は微かに震えていた。


 アサミを救うために、すでに術を使いすぎた。


 腹痛も限界に近い。


 それでも、後ろへは下がらない。


 鬼の腕が、教室の床を砕きながら伸びてくる。


 狙いは、茜だった。


 風彦は息を吸った。


 眼鏡の奥で、瞳が一瞬だけ黄色く揺らぐ。


「来るなら、僕を越えていけ」


 その声は、もう「ござる」ではなかった。


 次の瞬間、鬼の腕が教室を薙ぎ払った。

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