第二幕 ― 下痢止めを取りに戻った少年
同じ日の放課後。
蓮田風彦は、学園の正門前でしばらく動けずにいた。
夕暮れの光が、六道門の朱塗りを血のような色に染めている。門柱には結界札が何重にも貼られ、上部の銅鈴が風もないのに微かに鳴っていた。
新入生の多くは、もう帰宅するか、寮へ向かうか、部活動見学へ散っている。
門前町へ下りれば甘味処もあるし、魔導具屋もある。入学直後の浮ついた空気の中、校門付近にはまだ何人かの生徒が残っていた。
その中で、風彦だけが明らかに浮いていた。
顔色が悪い。
それはいつものことだった。
猫背で、前髪が長く、眼鏡の奥の目元も隠れている。
春の夕方だというのに、両手は冷えている。
そして何より、彼は腹を押さえていた。
「……これは、まずいでござるな」
小さく呟く。
言葉の最後が、情けなく震えた。
風彦の腹は、朝からずっと嫌な調子だった。
入学式のときから痛んでいた。
学園長の訓示を聞いている最中、講堂の床下から何かが応えたような気配を感じたときには、胃の奥を氷の爪で掴まれたような痛みが走った。
だが、それはまだ耐えられる程度だった。
問題は今である。
下腹部のあたりに、じわじわと冷たい重みが集まっている。
普通の腹痛なら、痛いだけだ。
しかし風彦の腹痛は、ただの体調不良ではない。
怪異、呪い、異界の裂け目、あるいは強い悪意。
そうしたものが近くにあるとき、風彦の身体は腹部を通じて警告を発する。
公儀怪異対策局の医師は、それを霊障性内臓過敏症と呼んだ。
華々しい名前ではない。
むしろ、自分の人生で聞いた診断名の中でも、かなり情けない部類に入る。
だが精度だけは高い。
刺すような痛みは攻撃性の高い怪異。
鈍い痛みは長く残った呪い。
吐き気は憑依や精神干渉。
冷える感覚は異界門の開放。
焼ける痛みは、自分の血に近いもの。
風彦は、その痛みの種類を嫌というほど知っていた。
今の痛みは、冷えに近い。
それも、ただ冷たいだけではない。
井戸の底に手を突っ込んだような、湿った冷たさ。
現世ではない場所の空気が、すぐ近くへ滲んできている感覚だった。
風彦は門の外へ出ようと一歩踏み出し、それから動きを止めた。
腰に提げた小型の魔導端末が震えている。
公儀支給品の黒い端末。
学園用の一般端末とは違い、外装に紋はない。
画面を開くと、暗号化された短い文面が表示された。
――六道校域、結界値微細変動。
――北校舎方面、霊圧偏差あり。
――学園監視任務者は、通常生徒行動の範囲内で確認せよ。
風彦は顔をしかめた。
「通常生徒行動の範囲内、でござるか」
便利な言葉である。
つまり、目立つな。
教師に知られるな。
友人を作るな。
怪異が出たら調べろ。
危険なら報告しろ。
ただし、正式な公儀隠密として動いた痕跡は残すな。
風彦は端末を閉じた。
胸の奥に、小さなため息が溜まる。
公儀の命令には慣れている。
物心ついたときから、蓮田家の人間はそういうものだと教えられてきた。
危険な血を持つ者は、社会の役に立つことで存在を許される。
そういう言葉は、直接は言われなかった。
だが、施設の白い壁も、定期検査の冷たい器具も、監督官の穏やかな笑顔も、すべて同じ意味を持っていた。
おまえは普通ではない。
だから普通のふりをしなければならない。
おまえは危険だ。
だから役に立たなければならない。
風彦は、門の外へ視線を向けた。
帰りたい。
正直なところ、任務どころではなかった。
公儀が何と言おうと、今の自分に最も必要なのは調査ではなく休息であり、できれば温かい白湯と布団であり、さらに言うなら整腸剤である。
そのとき、風彦ははっとした。
「……薬包」
制服の内側を探る。
腰の小袋。
懐。
袖口。
ない。
朝、講堂で飲もうと思って一包だけ持ち出した。
そのあと、召喚術基礎の教室で配布資料を片づけたとき、机の中へ入れた覚えがある。
そしてそのまま、持って帰るのを忘れた。
風彦は遠い目をした。
「これは、人生最大級の失策でござる」
大げさに聞こえるが、本人にとってはかなり切実だった。
腹の具合が悪いとき、薬があるかないかは命運を分ける。
少なくとも、風彦の精神的安定度を大きく左右する。
しかも、北校舎方面に霊圧偏差。
教室に戻れば薬を回収できる。
ついでに、通常生徒行動の範囲内で結界異常も確認できる。
帰宅しようとしていた自分が、忘れ物を取りに戻るだけ。
不自然ではない。
実に自然だ。
ただし腹は痛い。
とても痛い。
「……拙者、今日の自分が嫌いでござる」
誰にともなく呟き、風彦は校門から踵を返した。
◇
北校舎へ近づくにつれ、学園の空気は少しずつ変わっていった。
本校舎の廊下は明るい。
魔導照明が均一に光り、掲示板には部活動見学の案内や、霊籍登録説明会の日程が表示されている。廊下を行き交う生徒たちの声も多く、まだ新学期特有の賑やかさが残っていた。
だが渡り廊下を越えた先、北校舎へ入ると、音が急に遠のく。
床板は古い。
歩くたびに、きし、と軋む。
壁の木目は黒く、窓硝子はわずかに歪んでいる。
どれほど手入れされていても、ここには新しい建物にはない匂いがあった。
古い紙。
湿った木。
消毒液。
そして、どこかから漂う花の香り。
風彦は足を止めた。
「……またでござるか」
花の香りには、覚えがあった。
今日の昼前。
腹痛に耐えかねて、使用中止になっていた男子厠を前に絶望し、やむにやまれず女子厠へ逃げ込んだとき。
もちろん、誰もいないことは確認した。
人として、そこだけは譲れない。
いや、そもそも女子厠へ入った時点で譲れていないのだが、あのときの自分には選択肢がなかった。
そのうえ紙がなかった。
人生には、怪異より恐ろしい瞬間がある。
風彦はそのとき、天から差し出された救いの紙を受け取った。
いや、正確には個室の上から投げ込まれた。
白いトイレットペーパー。
そして、女の声。
お使いなさって。
思い出しただけで、風彦は耳まで熱くなった。
「あれは夢。あれは幻。あれは極限状態で見た白昼夢でござる」
自分に言い聞かせる。
しかし、あの花の香りは今も廊下に漂っている。
椿のような。
夜桜のような。
ほんの少しだけ、血の匂いにも似ている。
風彦の腹が、きゅう、と縮んだ。
これは恥ずかしさによるものではない。
霊障だ。
間違いなく、北校舎に何かがいる。
「通常生徒行動の範囲内で確認、通常生徒行動の範囲内で確認……」
呪文のように繰り返しながら、風彦は廊下を進んだ。
教室へ戻るだけ。
忘れ物を取るだけ。
結界異常は、見なかったことにできるならしたい。
だがそうもいかない。
廊下の先にある一年基礎科の普通教室。
そこが、風彦の目指す場所だった。
だが近づくほど、腹痛が強くなる。
最初は鈍痛だった。
次に冷え。
さらに、吐き気が混ざった。
憑依系の反応。
誰かが何かに触られている。
あるいは、誰かが何かを呼び込もうとしている。
風彦は歩く速度を上げた。
それでも走らない。
走ると腹に響く。
廊下の窓から夕暮れの赤い光が差し込み、床板へ長い影を落としている。
その影の中に、一瞬だけ、黒い手のようなものが見えた。
風彦は足を止める。
影はもう何もなかった。
ただの自分の影だ。
細く、頼りなく、猫背の影。
だが風彦には分かる。
自分の影は、ときどき自分だけのものではなくなる。
公儀の施設で初めてそれを見たとき、大人たちは優しく笑いながら記録を取った。
大丈夫。
怖くない。
君は人間だ。
そう言いながら、拘束具を用意していた。
風彦は眼鏡の位置を直した。
この眼鏡は、ただの視力矯正具ではない。
風彦の目が余計なものを見ないようにするための封印具でもある。
外せば、もっとよく見える。
だが、見えるということは、見られるということでもある。
「……嫌な感じでござる」
教室の前まで来たとき、風彦は確信した。
中で、誰かが門を開こうとしている。
それも、正規の召喚実習ではない。
術式の線が歪んでいる。
呼ぼうとしているものの気配よりも先に、門の周辺へ群がるものの臭いがする。
腐った水。
古い血。
名前を失った霊。
風彦は扉へ手をかけた。
開けたくない。
心の底からそう思った。
ここで引き返して職員室へ行くべきだ。
教師を呼ぶ。
公儀へ連絡する。
自分一人で何かする必要はない。
そう思った瞬間、教室の中から声が聞こえた。
「接続を開始する」
聞き覚えのある、淡々とした少女の声。
新垣アサミ。
その直後、もう一人の少女の息を呑む気配。
稲葉茜。
風彦は目を閉じた。
「……どうして、拙者が戻ってきた教室でやるのでござるか」
誰も答えない。
腹が痛い。
とても痛い。
だが、中にいるのが同級生だと分かってしまった。
そうなると、もう引き返せない。
風彦は扉を開けた。
◇
教室の中は、赤かった。
夕焼けの赤だけではない。
床に描かれた魔法陣が、朱蝋の線を薄く発光させている。
机は後ろへ寄せられ、中央に空間が作られていた。
四隅には青白い蝋燭。
黒板には、授業で使った古い英単語の名残が残っている。
その日常的なものの前で、床の魔法陣だけが異様に生々しかった。
まるで教室の床に、赤い傷口が開いているようだった。
中央に立つ茜は、召喚杖を構えている。
顔は強張っているが、逃げるつもりはなさそうだった。
その向こうで、アサミが写本へ指を置いている。
彼女の灰紫色の瞳は、魔法陣の光を反射して、普段よりも暗く見えた。
二人が風彦を見る。
「蓮田くん!?」
茜の声が跳ねた。
「なんでここに」
「忘れ物を取りに来ただけでござる。いや、本当に、拙者としても大変不本意ながら、極めて個人的かつ切実な忘れ物を――」
風彦はそこまで言いかけ、床の魔法陣を見た。
息が止まる。
普段の頼りなさが、顔から消えた。
茜はその変化に気づいた。
さっきまで腹を押さえて情けない顔をしていた少年が、急に別人のような目をした。
風彦は一歩、教室へ入る。
足元の朱蝋の線を踏まないように、正確に避けた。
そして魔法陣の北東、鬼門の位置に置かれた写本を見た。
「新垣殿」
声はまだ、いつもの調子を保とうとしていた。
だが硬い。
「その一節、読み上げたでござるか」
アサミは答えなかった。
視線が、ほんの少しだけ揺れる。
「最後の固定式なら、今から」
「読むな」
風彦の声が変わった。
短く、低い。
茜が瞬きをする。
「蓮田くん?」
風彦は眼鏡の奥で、魔法陣を睨んでいた。
「それは召喚陣ではない。依代を差し出すための門だ」
教室の空気が凍った。
アサミの指先が、写本の上で止まる。
「……依代?」
「対象を呼んで固定する式ではない。術者を開いた門へ固定する式に書き換わっている。対象へ通路を作るのではなく、こちら側の身体を向こうへ差し出す構造だ」
風彦は、今度ははっきりとアサミを見る。
「誰がこれを用意した」
「ワタシ」
「違う。原本ではない。最後の一節だけ、意味がずらされている」
アサミの表情は変わらない。
だが、唇から血の気が引いていく。
「気づいていたのか」
「違和感はあった。でも、修正できると思った」
「できない」
風彦は即答した。
その言い方に、アサミの眉がわずかに動く。
「見ただけで断定できるの?」
「できる。これは門を閉じる術者のための文法ではない。門の向こう側が、こちらへ手を伸ばすための文法だ」
茜は二人の間で視線を行き来させた。
何を言っているのか、全部は分からない。
ただ、風彦の顔が本気だということだけは分かった。
いつもの陰気で頼りない同級生ではない。
ふざけた「ござる」口調の奥に隠していたものが、今だけ外へ出ている。
「アサミ、止めるわよ」
茜が言う。
アサミは魔法陣を見下ろした。
「でも、もう陣は起動している」
「止めるって言ってるでしょ」
「急停止すると、逆流が」
「逆流より依代のほうがまずいんじゃないの!?」
「二人とも、陣から出るでござる」
風彦が言った。
口調は戻った。
しかし声の緊張は消えていない。
茜はすぐに一歩引こうとした。
だが、足が床に貼りついていた。
「え?」
足元を見る。
朱蝋の線から、細い赤い糸のような光が伸びている。
それが茜の足首へ絡みついていた。
「何これ」
「固定されている」
アサミが呟く。
自分の足元にも、同じ赤い糸が絡んでいた。
「対象識別が術者側へ反転している……? そんな、まだ最後の一節は」
「読んでいなくても、門は聞いている」
風彦は懐へ手を入れた。
白い紙片を取り出す。
ただの紙ではない。
細かい文字がびっしりと書き込まれた、蛇腹状の経文。
「言葉は声だけではない。読もうとした意思、置かれた名前、描かれた座標。門はそれを食う」
茜は足首の糸を召喚杖で払おうとした。
赤い糸は一瞬薄くなるが、すぐに戻る。
「ちょっと、何これ。気持ち悪い!」
「暴れないでください、稲葉殿。切るなら、結び目を見つけてからでござる」
「見えないわよ、そんなの!」
「でしょうね」
「冷静に返さないで!」
茜の声は怒っている。
だが本当は怖い。
風彦には分かった。
彼女は怖がるほど、怒ったように声が大きくなる。
だから、笑わないことにした。
風彦は経文を咥え、両手で印を結ぶ。
普段なら、人前で術を使うことは避ける。
公儀の任務者だと知られる危険がある。
自分の術式は、普通の学園生徒が使うものよりもずっと実戦寄りだ。
だが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「新垣殿。写本から手を離すでござる」
アサミは頷こうとした。
その瞬間だった。
写本の文字が、黒く滲んだ。
紙面の上を墨が這う。
文字が組み替わる。
アサミの指先に、黒い染みが移った。
「……っ」
アサミの身体が硬直した。
目が見開かれる。
灰紫色の瞳の奥に、一瞬だけ赤い光が走った。
「アサミ?」
茜が呼ぶ。
返事はない。
アサミは写本に指を置いたまま、微動だにしない。
やがて、彼女の唇が動いた。
知らない声が出た。
「……いなば」
低く、湿った声。
少女の喉から出ているのに、少女の声ではなかった。
茜の背筋が凍る。
「アサミ?」
「いなば」
アサミの首が、不自然な角度で動いた。
視線が茜へ向く。
その顔に表情はない。
ただ、唇の端だけが吊り上がっていた。
「ちの、におい」
風彦の腹部に鋭い痛みが走った。
刺す痛み。
憑依。
しかも、鬼そのものではない。
門の周辺を漂っていた悪霊が、開きかけた通路から先に入り込んだ。
鬼門境の端にまとわりつく、名も形も失ったもの。
鬼の怒りに引き寄せられ、稲葉の血に反応し、人間の身体へ入る隙を探していたもの。
それが、アサミを依代にした。
「その身体から離れろ」
風彦の声から、「ござる」が完全に消えた。
茜は息を呑んだ。
蓮田風彦が、別人のように見えた。
背筋が伸びている。
目が鋭い。
情けなく腹を押さえていた手は、今は白い経文を握っている。
アサミの身体が、ゆらりと揺れた。
右手が術具鞄へ伸びる。
「アサミ、何して――」
「近づくな!」
風彦が叫んだ。
次の瞬間、アサミは鞄から小さな短剣を引き抜いた。
呪術用の儀礼短剣。
普段は写本の封を切ったり、術式の線を刻んだりするための道具だ。
戦闘用ではない。
だが、人間を傷つけるには十分だった。
アサミは無表情のまま、茜へ踏み出した。
足に絡んでいた赤い糸が、彼女だけを許すようにほどける。
「稲葉の血」
アサミの口が動く。
声は濁っている。
「門を、ひらけ」
「アサミ、やめなさい!」
茜は召喚杖を構えた。
だが振れない。
相手はアサミだ。
親友だ。
自分のために、危険な資料まで調べてくれた子だ。
その身体へ攻撃するなど、できるはずがなかった。
アサミは迷わない。
短剣を握り、茜の胸元へ突き出す。
風彦が動いた。
彼は紙片を指で弾いた。
白い経文が空中でほどける。
蛇腹状に伸び、帯のように広がり、文字が光った。
黒い墨で書かれたはずの経文が、内側から白く燃える。
「白衣神咒」
風彦は低く唱えた。
経文がアサミの手首へ絡みつく。
短剣の刃が、茜の胸元から指二本分のところで止まった。
「ひっ……」
茜は息を吸うことも忘れた。
遅れて、心臓が暴れ出す。
「その身体から出ろ。次は警告しない」
風彦の声は冷たかった。
教室にいた誰よりも、怪異に対してだけ冷たい声。
アサミの首がぎしりと鳴る。
目が風彦へ向く。
「はすた」
悪霊が、その名を呼んだ。
風彦の背中に冷たい汗が流れる。
蓮田。
はすた。
漢字は違う。
けれど音が近い。
この名は、風彦にとっていつも安全ではない。
人間の名として呼ばれるときはいい。
だが《向こう側》のものがその音を拾うとき、そこには別の意味が混ざる。
外つ神。
黄色い風。
名状しがたいものの残響。
風彦は奥歯を噛んだ。
「僕の名を、おまえが呼ぶな」
その声を聞いた茜は、ぞくりとした。
僕。
風彦が自分をそう呼んだ。
今まで一度も聞いたことがない。
頼りない「拙者」ではない。
おどけた「ござる」でもない。
そこにいたのは、臆病な同級生ではなかった。
怪異と向き合うことを、最初から知っている人間だった。
いや。
人間、と言っていいのかどうか。
茜は一瞬だけ、風彦の影を見た。
夕暮れの床に落ちた影。
それが、人の形からわずかに外れていた。
袖口から、鞭のような細い黒い影が伸びているように見えた。
目を瞬かせると、元に戻る。
見間違いかもしれない。
見間違いだと思いたかった。
「蓮田くん……?」
「稲葉殿、後ろへ」
風彦は言った。
口調は戻っている。
だが、声の底にある鋭さは消えていない。
「でも、アサミが」
「新垣殿はまだ中にいる。だから、身体を傷つけずに引き剥がす」
「できるの?」
「やるでござる」
「できるって言いなさいよ!」
「できる」
短い返事。
その言い方が、妙に頼もしかった。
アサミの身体が、経文に抵抗して震える。
悪霊は短剣を手放さない。
白い経文へ黒い染みが広がっていく。
風彦は左手で経文を操りながら、右手を懐へ入れた。
次に取り出したのは、小さな紙形。
鼠の形に折られた紙だった。
「走れ」
紙鼠が床へ落ちた瞬間、白い小動物となって駆け出す。
魔法陣の外周を回り、赤い糸が集まる箇所へ噛みついた。
朱蝋の線が火花を散らす。
茜の足首を縛っていた糸が、少し緩んだ。
「動ける?」
「たぶん!」
「たぶんは嫌でござる!」
「さっきあんたも似たようなこと言ってたでしょ!」
茜は渾身の力で足を引いた。
赤い糸が千切れる。
彼女は後ろへ倒れ込みそうになりながら、机に手をついて踏みとどまった。
その間にも、風彦はアサミへ近づいていく。
白衣神咒が二本、三本と増え、アサミの両腕、肩、胴を拘束した。
普通の人間相手なら、完全に動けない。
だが悪霊は、人間の筋肉の限界を無視する。
アサミの腕が不自然に曲がり、経文が軋んだ。
「やめて!」
茜が叫ぶ。
その声に、一瞬だけアサミの瞳が揺れた。
灰紫色の奥に、ほんのわずかに本人の意識が戻る。
「……あか、ね」
かすれた声。
アサミの声だった。
茜は駆け寄りそうになる。
風彦が手で制した。
「呼びかけ続けて。新垣殿の名前を」
「名前?」
「憑依は、身体の主を押しのける。呼ばれた名は、本人を現世へ引き戻す」
風彦は経文を握る手に力を込めた。
「稲葉殿の声なら、届く」
茜は息を吸った。
喉が震えている。
でも、言わなければならない。
「アサミ!」
茜の声が教室に響いた。
「新垣アサミ! 聞こえてるなら返事しなさい!」
アサミの身体がびくりと跳ねる。
悪霊が低く唸った。
「よぶな」
「呼ぶわよ! 友達の名前なんだから!」
「いなばの、血を」
「アサミ! あんた、言ったでしょ! 一緒に怒られるって!」
アサミの唇が震える。
「……いっしょ」
「そうよ! あんただけ責任取るとか、勝手なこと言わないで!」
「……茜」
本人の声が戻る。
風彦はその一瞬を逃さなかった。
眼鏡へ手をかける。
外すべきではない。
こんな場所で、同級生の前で。
それでも、憑依霊の結び目を正確に見るには足りない。
風彦は眼鏡を外した。
世界が変わる。
教室の輪郭が薄くなり、代わりに霊的な線が見えた。
魔法陣から伸びる赤い糸。
写本に染み込んだ黒い墨の跡。
アサミの背後へ張りつく、顔のない黒い影。
それは人の形をしていない。
無数の口と、爪と、破れた札の束のようなものが絡み合っている。
鬼ではない。
鬼門境の周囲に堆積した、名前になれなかった悪意の塊。
それがアサミの背にしがみつき、彼女の首筋から内側へ入り込んでいる。
風彦は目を細めた。
見たくないものまで見える。
アサミの恐怖。
茜の焦り。
床下に開きかけている門。
そのさらに奥で、こちらを見ている巨大な何か。
風彦の腹が焼けるように痛んだ。
「……時間がない」
茜がこちらを見る。
風彦は経文を構え直した。
「新垣アサミ」
彼は名を呼ぶ。
低く、はっきりと。
「君の身体は君のものだ。戻ってこい」
悪霊が風彦へ向かって口を開く。
叫び声は聞こえなかった。
代わりに、教室の窓が一斉に曇る。
曇った硝子の表面に、無数の手形が浮かんだ。
茜は悲鳴を上げかけて、唇を噛んで堪えた。
風彦は動かない。
「白衣神咒、離魂」
経文の文字が白く光る。
アサミを拘束していた帯が、今度は身体の表面ではなく、背後の黒い影へ絡みついた。
悪霊が引き剥がされる。
アサミの身体が弓なりに反った。
「アサミ!」
「呼んで!」
「新垣アサミ! 戻ってきなさい!」
茜の声と同時に、風彦が経文を引いた。
黒い影が、アサミの背中から剥がれた。
粘ついた音がした。
実際に音があったわけではない。
だが、そこにいた全員が、何かが引き剥がされる感覚を聞いた。
アサミの身体から力が抜ける。
短剣が床へ落ちた。
茜が駆け寄り、倒れかけたアサミを抱き止める。
「アサミ!」
「……茜」
アサミは薄く目を開けた。
顔色は紙のように白い。
「ごめん」
「謝るの早い! あとでまとめて聞く!」
「記録……」
「今は記録とかどうでもいい!」
「どうでもよくは……ない」
「そういうとこ、本当にアサミね!」
茜の声が震えていた。
怒っているのか、泣きそうなのか、自分でも分からない。
風彦は、二人を背に庇うように立った。
引き剥がされた黒い影は、床の上で蠢いている。
白衣神咒に絡め取られてなお、完全には消えていない。
それどころか、魔法陣の中央へ吸い寄せられていく。
朱蝋の線が、黒く染まり始めた。
「蓮田くん、終わったんじゃないの?」
茜が問う。
風彦は眼鏡をかけ直した。
世界の輪郭が、少しだけ人間向けに戻る。
それでも、床下から来る圧力は消えない。
「憑依は剥がしたでござる」
「じゃあ」
「でも、儀式は止まっていない」
教室の床が震えた。
机ががたがたと揺れる。
黒板のチョークが床へ落ち、白い粉を散らした。
青白い蝋燭の炎が、一斉に横へ倒れる。
風はない。
それなのに、教室の空気が一点へ吸い込まれている。
魔法陣の中央。
そこに、黒い裂け目が生まれていた。
細い。
最初は髪の毛ほどの線。
それが、ゆっくりと広がっていく。
木の床板が裂けているわけではない。
空間そのものが、そこだけ破れている。
裂け目の向こうに、荒れた赤黒い空が見えた。
乾いた大地。
折れた鳥居のような影。
無数の縄。
そして、何かの呼吸。
茜は、アサミを抱えたまま後ずさった。
「なに……あれ」
「鬼門境」
風彦が答える。
声が低い。
「稲葉家の契約がつながっている場所でござる」
「うちの……?」
裂け目の奥から、巨大な指が現れた。
人間のものではない。
太く、節くれ立ち、爪は黒い。
指一本だけで、子どもの腕ほどもある。
それが裂け目の縁を掴んだ。
教室の床が、悲鳴を上げる。
次に、もう一本。
さらに三本。
巨大な手が、空間の裂け目を内側からこじ開けようとしていた。
風彦の腹に、焼けるような痛みが走る。
思わず膝が折れそうになる。
だが倒れなかった。
ここで倒れれば、後ろの二人が終わる。
「稲葉殿」
「な、なによ」
「新垣殿を連れて、扉へ」
「蓮田くんは?」
「時間を稼ぐ」
「一人で?」
「一人でやりたいわけではござらんよ。でも、今ここで話し合っている時間はなさそうでござる」
巨大な手が、裂け目をさらに押し広げた。
そこから、角の影が見えた。
低い唸り声。
教室の壁に貼られていた安全標語の札が、一枚ずつ燃え落ちる。
茜はアサミを支えながら、歯を食いしばった。
「……あんた、本当に何者なのよ」
風彦は一瞬だけ振り返った。
いつもの頼りない笑みを作ろうとして、失敗したような顔だった。
「忘れ物を取りに来ただけの、善良な同級生でござる」
「善良な同級生は、そんな術使わない!」
「では、腹の弱い同級生ということで」
「そこは否定しないのね!」
その掛け合いの直後、裂け目の向こうから巨大な鬼の腕が現れた。
赤黒い皮膚。
絡みついた古い縄。
縄には、かすれた人名が無数に書かれている。
手は教室の天井へ届くほど大きかった。
それが、ゆっくりと茜のほうへ向く。
鬼は、まだ顔を見せていない。
だが、声だけが教室へ響いた。
「いなば」
空気が震える。
茜の身体が硬直した。
「ちの、におい」
風彦は白衣神咒を構え直す。
しかし、彼の手は微かに震えていた。
アサミを救うために、すでに術を使いすぎた。
腹痛も限界に近い。
それでも、後ろへは下がらない。
鬼の腕が、教室の床を砕きながら伸びてくる。
狙いは、茜だった。
風彦は息を吸った。
眼鏡の奥で、瞳が一瞬だけ黄色く揺らぐ。
「来るなら、僕を越えていけ」
その声は、もう「ござる」ではなかった。
次の瞬間、鬼の腕が教室を薙ぎ払った。




