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第三幕 ― 白峰澪

 学園長室を出たあと、六道雅琥の姿はどこにも見当たらなかった。


 廊下にもいない。


 階段にもいない。


 指導室へ連れていかれたわけでもない。


 教師に尋ねると、「六道なら授業へ戻るよう指示した」と返ってきたが、その授業にも出ていなかった。


 要するに、逃げたのだ。


 ただし、風彦にはそれを責める気にはなれなかった。


 鏡を割って回っている姿。


 教師に取り押さえられたときの怒鳴り声。


 玄斎に向けた言葉。


 ――あんたはいつも、オレを守るって言って何も話さねえ。


 あれは、今日突然出てきた怒りではない。


 ずっと胸の奥へ押し込められていたものが、《返り鏡》という言葉で亀裂を入れられたのだ。


 茜は本校舎の廊下を歩きながら、苛立たしげに腕を組んでいた。


「隠しすぎなのよ」


 声は抑えていたが、怒っているのは明らかだった。


「学園長先生、何も知らないわけじゃない。あの言い方は絶対、何か知ってる」


「玄斎先生は、すべてを知っているわけではないと思うでござる」


 風彦が言うと、茜はすぐに振り返った。


「なんで庇うの?」


「庇っているわけではござらん。知らないこともある顔でした。ただ、知っていることを言わない顔でもあった」


「なお悪いわよ」


「否定できないでござる」


 アサミは歩きながら端末へ何かを入力している。


 彼女は鏡を直接見ないよう、画面の輝度を落とし、反射防止の黒布を端末の縁にかけていた。


 慎重になっている。


 それだけでも、鬼門の騒ぎを経た変化だった。


「《返り鏡》で学内記録を検索した」


 アサミが言う。


「結果は?」


 茜が即座に聞く。


「一般検索では、授業資料の表層説明だけ。『鏡界へ迷い込んだ魂魄の回収に用いられた旧式霊具』。詳細は封印資料扱い」


「つまり、隠してるってことね」


「機密区分としては中程度。危険度は高いけれど、完全秘匿ではない」


「何が違うの」


「見る方法がある」


 茜の目が光った。


「どうやって?」


「鏡術研究棟の事故記録そのものは見られない。でも、事故後の人事異動、研究者名簿、学籍変更、処分記録は別系統に残る」


「なるほど」


 風彦は少しだけ不安になった。


「新垣殿。その調べ方は、合法でござるか?」


「境界線上」


「やめたほうがよい言葉が出ました」


「今回は一人でやらない」


 アサミはまっすぐ風彦を見た。


「だから、二人に確認している」


 茜は一瞬だけ黙った。


 それから、小さく笑う。


「進歩ね」


「うん」


「でも、やることは結局グレーなのよね」


「白に近い灰色」


「灰色は灰色よ」


「必要?」


 アサミが尋ねる。


 茜は即答しなかった。


 廊下の窓には封印符が貼られ、外の光が少し曇って見えている。


 硝子に自分たちの姿が映り込まないように、窓の下半分には白布がかかっていた。


 学園中が鏡を避けている。


 それなのに、誰も本当の理由を教えない。


 茜は拳を握った。


「必要よ」


 それから、少し声を落とす。


「今度は、勝手に一人で突っ込まない。三人で見る。危なかったら止める。それでいい?」


「賛成」


 アサミが言う。


 風彦はため息をついた。


「拙者としては、教師に相談する案も残したいのでござるが」


「教師に相談した結果が、学園長先生の『近づくな』でしょ」


「それはそうでござるが」


「蓮田くん」


 茜は真っ直ぐ風彦を見る。


「雅琥のあの顔を見て、放っておける?」


 風彦は答えられなかった。


 鬼を見たときの雅琥。


 鏡を割ったときの雅琥。


 玄斎へ怒鳴ったときの雅琥。


 すべて同じ根から出ている。


 恐怖。


 怒り。


 置いていかれた子どもの顔。


 風彦は腹を押さえ、静かに頷いた。


「分かりました。調べるでござる」


「決まりね」


「ただし」


 風彦はアサミを見る。


「危険を感じたら止めます」


「分かった」


「『分かった』と言いながら止めない場合は、茜殿が止めてくだされ」


「任せて」


「信頼が薄い」


 アサミが少し不満そうに言う。


 茜は彼女の肩を軽く叩いた。


「積み重ねよ、積み重ね」


     ◇


 図書塔の三階には、学内記録閲覧室がある。


 生徒が閲覧できるのは、授業記録、部活動資料、公開研究誌、過去の学園新聞、卒業生名簿の一部に限られる。


 だが、六道魔導学園は長い歴史を持つ学校だ。


 古い記録ほど、分類が曖昧になる。


 研究記録としては封印されていても、人事記録や式典記録、学園新聞の記事には断片が残ることがある。


 アサミはそれを狙った。


 閲覧室の奥、反射防止加工された黒い卓の上に、三人分の端末を並べる。


 鏡面反射を避けるため、端末の表面には学園支給の曇り札を貼っている。見づらいが、安全には代えられない。


 茜は最初から堂々と受付へ行き、稲葉家の家名を使って閲覧範囲の拡張申請を出した。


 受付担当の司書教員は、露骨に困った顔をした。


 だが茜は引かなかった。


「稲葉家の関係者が、学園内の霊障事故に巻き込まれました。さらに現在、学園内で鏡に関する霊障が発生しています。返り鏡に関する公開可能な範囲の過去記録を確認します」


 声が震えなかった。


 少なくとも、風彦にはそう聞こえた。


 司書教員は学園長室へ確認を取るか迷ったようだったが、最終的に一部の閲覧許可を出した。


 茜が席へ戻ると、アサミが小さく言った。


「強かった」


「強がったの」


「有効」


「その言い方、やっぱり褒めてるように聞こえない」


「褒めてる」


「なら、もうちょっと顔に出して」


 アサミは真顔のまま、親指を立てた。


「違う。そうじゃない」


 風彦は思わず笑いそうになり、腹に響いて顔をしかめた。


「笑っている場合ではござらんね」


「笑ったほうがよい場合もある」


 アサミは端末へ検索語を入力した。


 返り鏡。


 鏡術研究棟。


 九年前。


 事故。


 白峰。


 六道雅琥。


 検索結果は少なかった。


 少なすぎるほどだった。


 だが、完全に消えてはいない。


 最初に出てきたのは、九年前の学園広報誌だった。


 見出しは、何気ないものだ。


 ――鏡術研究班、新任主任紹介。


 写真には、白衣の女性が写っていた。


 長い黒髪を後ろで束ね、柔らかな笑みを浮かべている。


 研究者というより、優しい教師のように見える人だった。


 その横には、小さな男の子が写り込んでいる。


 銀白色の髪。


 不機嫌そうな目。


 母親らしき女性の白衣の裾を、片手で掴んでいる。


 茜が息を呑んだ。


「これ……」


 アサミが名前を読み上げる。


「白峰澪。鏡術研究者。返還鏡面術式、鏡界転落者回収術、魂魄反射補正を専門とする」


 風彦は写真の男の子を見る。


 今よりも幼く、表情も少し違う。


 だが間違いない。


 六道雅琥だ。


「白峰……」


 茜が呟く。


「六道じゃないの?」


 アサミは次の記録を開いた。


 それは、学籍変更に関する古い通知だった。


 ――白峰雅琥。


 ――保護者変更。


 ――六道玄斎による特別後見登録。


 ――以後、学園内呼称を六道雅琥とする。


 茜の顔が強張る。


「血が繋がってないって、そういうこと……」


 風彦は黙って画面を見つめた。


 雅琥は玄斎の実子ではない。


 それ自体は、悪いことではない。


 だが、玄斎がどのように雅琥を引き取ったのか。


 なぜ、母の姓を変えたのか。


 なぜ、本人があれほど玄斎へ怒りを向けるのか。


 そこには、九年前の事故がある。


 アサミはさらに記録を辿る。


 今度は検索結果に赤い閲覧制限がかかった。


 完全な事故報告書は開けない。


 だが、広報誌の追記と人事異動記録は表示された。


 ――鏡術研究棟にて、局所的鏡界接続事故。


 ――研究主任、白峰澪、行方不明。


 ――当時同棟にいた幼児一名を保護。


 ――返り鏡、使用停止および封印管理へ移行。


 ――研究班解散。


 部屋の空気が重くなった。


 茜が、ゆっくりと椅子へ座る。


「行方不明……」


「死亡ではなく、行方不明」


 アサミが言う。


「鏡界へ消えた可能性が高い」


「鏡界って、鏡の中の世界?」


「正確には、鏡面を介して発生する反射領域。現世の像、記憶、名前、魂魄の一部が重なった異界。普通の空間ではない」


 茜は眉を寄せる。


「そこへ落ちたら?」


「戻るためには、名前と姿を現世側から固定する必要がある。返り鏡は、そのための装置」


「その返り鏡で事故が起きた」


「うん」


 アサミは短く答えた。


 風彦は写真の白峰澪を見ていた。


 優しそうな笑み。


 白衣の裾を掴む小さな雅琥。


 このあと、何が起きたのか。


 風彦の腹が、薄く痛む。


 鏡の怪異に近い痛みではない。


 古い記録に触れたときの痛み。


 誰かが隠したものが、まだ腐らず残っている感覚。


「もう一つ、見つけた」


 アサミが言った。


 画面に表示されたのは、昨年度の処分記録だった。


 六道雅琥。


 高等部一年。


 教師への暴行。


 重傷。


 長期停学。


 進級判定保留。


 後に留年。


 茜は顔をしかめた。


「これが、噂になってる教師傷害事件?」


「そう」


「でも、これだけじゃ何も分からないわよ。相手の教師が何をしたのか、書いてない」


「表の記録にはない」


 アサミは別の資料を開く。


 保健室の救護記録。


 こちらも一部黒塗りだが、暴行事件と同日の記録が残っていた。


 ――一年女子生徒、急性霊障ショック。


 ――鏡面接触痕あり。


 ――右手首に強い牽引痕。


 ――本人証言、混乱のため不明瞭。


 ――担当教員、水島、顔面および肋骨損傷。


「同じ日、別の生徒が鏡面接触痕で保健室に運ばれてる」


 アサミの声が低くなる。


「偶然ではない」


 茜が立ち上がりかける。


「つまり、雅琥はその子を助けたの?」


「可能性が高い」


「でも処分記録には、教師への暴行しか書いてない」


「うん」


「なんでよ」


 茜の声が震えた。


 怒りで。


「なんで、そんな大事なこと書いてないのよ」


 風彦は何も言えなかった。


 処分記録に書かれていないということは、誰かが書かなかったのだ。


 鏡界異常を認めれば、返り鏡の封印不備を認めることになる。


 教師が憑依され、生徒を鏡へ引き込もうとした事実を公表すれば、学園の管理責任が問われる。


 そして、白峰澪の事故まで掘り返される。


 だから、雅琥だけが暴力を振るった問題児として処理された。


 そんな構図が、嫌でも見えてくる。


「これ、玄斎先生は」


 茜が言う。


 アサミは処分記録の署名欄を拡大した。


 そこには、学園長承認の印があった。


 六道玄斎。


 茜は奥歯を噛んだ。


「……最悪」


 風彦は、その印を見つめる。


 玄斎は本当に何も知らなかったのか。


 いや、知らなかったとは思えない。


 では、なぜ承認したのか。


 隠蔽のためか。


 雅琥を守るためか。


 あるいは、その両方か。


 守るという言葉は、便利だから間違えやすい。


 玄斎自身がそう言っていた。


 風彦は胸の奥が重くなるのを感じた。


     ◇


 雅琥は、旧武道場の裏にいた。


 学園の敷地の西側、今はほとんど使われていない小さな道場である。


 木造の壁は古く、屋根瓦には苔が生えている。正面の扉には封印札が貼られているが、封鎖されているわけではない。


 ただ、生徒が好んで来る場所ではなかった。


 窓が少ない。


 鏡がない。


 だから、今の雅琥には都合がよかった。


 彼は道場裏の縁石に腰を下ろし、血の滲んだ右手を見つめていた。


 鏡を割ったときに切った傷。


 深くはない。


 だが、細い痛みがずっと残っている。


 痛みは嫌いではない。


 痛ければ、今ここにいると分かる。


 鏡の中ではないと分かる。


 雅琥は拳を握る。


 その瞬間、頭の中にまた昔の声が戻った。


 白い部屋。


 大きな鏡。


 母の白衣。


 自分は七歳だった。


 母の仕事場へ行ってはいけないと言われていた。


 だが、その日は母が約束を破ったと思った。


 授業が終わったら迎えに来ると言ったのに、来なかった。


 だから探しに行った。


 鏡術研究棟の奥。


 廊下の灯りは消えていた。


 でも、鏡の部屋だけが明るかった。


 そこに母がいた。


 いや、母は鏡の中にいた。


 現実の部屋には誰もいない。


 鏡の向こうで、母が必死に何かを叫んでいた。


 声は聞こえない。


 ガラス一枚隔てているだけなのに、どれだけ叩いても届かない。


 幼い雅琥は、鏡へ駆け寄った。


 そのとき、鏡の中の自分が笑った。


 自分と同じ銀白色の髪。


 同じ顔。


 同じ目。


 だが、笑い方が違う。


 自分ではない。


 鏡の中の雅琥が、こちらへ顔を近づけて言った。


 声は聞こえた。


 母の声は聞こえないのに、それだけははっきりと。


 ――おまえが来たから、母親は帰れなくなった。


 その言葉を、雅琥は九年間忘れられない。


 忘れろと言われた。


 事故だったと言われた。


 澪は最後までおまえを守ろうとしたと言われた。


 玄斎はおまえを助けたのだと言われた。


 だが、鏡の中の自分の声だけが、ずっと耳に残っている。


 おまえが来たから。


 おまえのせいで。


 母親は帰れなくなった。


「……うるせえ」


 雅琥は拳を地面へ叩きつけた。


 土が跳ねる。


「うるせえよ」


「何がうるさいの」


 声がして、雅琥は顔を上げた。


 茜が立っていた。


 その後ろにアサミ。


 さらに少し離れて、風彦。


 雅琥は露骨に顔をしかめた。


「なんで来る」


「探したから」


 茜が答える。


「探すな」


「無理。あんな顔で出ていかれたら気になるでしょ」


「気にすんな」


「できない」


「できろ」


「できないものはできない」


 茜は一歩近づいた。


 雅琥は反射的に立ち上がる。


 逃げるような動きだった。


 それに気づいて、茜は足を止める。


 アサミも動かない。


 風彦は、さらに距離を取ったまま立っていた。


「こっちへ来ないのかよ」


 雅琥が風彦へ言う。


「近づかれるのが嫌そうでしたので」


「気遣いが腹立つ」


「不本意ながら、よく言われます」


「言われるのかよ」


 少しだけ、空気が緩んだ。


 すぐに雅琥は顔を背ける。


「何しに来た」


 茜は、まっすぐに言った。


「調べた」


「何を」


「白峰澪さんのこと」


 雅琥の顔から表情が消えた。


 風が止まったように感じた。


 アサミが小さく息を吸う。


 茜は言葉を続ける。


「鏡術研究者だった。返り鏡の事故で行方不明になった。あなたは白峰雅琥として記録されていて、そのあと六道玄斎先生の後見に入った」


「……誰が見る許可を出した」


「一部は公開記録。一部は稲葉家の権限で見た」


「余計なことを」


「そうね」


 茜は頷いた。


「余計なことかもしれない。でも、知らないままにしたくなかった」


「おまえに関係ねえ」


「あるわよ」


「ねえよ!」


 雅琥の怒鳴り声が道場裏に響いた。


 鳥が一羽、木の枝から飛び立つ。


 茜は少しだけ肩を揺らしたが、逃げなかった。


「ある。昨日も今日も、あたしたちは同じ怪異に巻き込まれてる。あなたが鏡を怖がってるのも、鏡を割ってるのも、ただの問題行動じゃない。なら、関係ある」


「分かったような口を利くな」


「分かってないわよ」


 茜は即答した。


 雅琥が言葉を詰まらせる。


「分かってないから聞きに来たの。知ってるふりなんかしない」


 アサミが静かに続ける。


「教師傷害事件の記録も見た」


 雅琥の目が鋭くなる。


「……それ以上言うな」


「表の記録には、教師への暴行しかない。でも同じ日、鏡面接触痕の生徒が保健室に運ばれている」


「言うなって言ってんだろ」


「その教師は、返り鏡の怪異に憑依されていた?」


 雅琥が動いた。


 一瞬で距離を詰める。


 茜が身構えるより早く、雅琥はアサミの胸ぐらを掴みかけた。


 だが、その手は途中で止まった。


 震えていた。


 掴む寸前で、雅琥は自分の手を引いた。


 拳を握り、歯を食いしばる。


「……あいつの目が、鏡だった」


 低い声だった。


 怒鳴るよりもずっと痛い声だった。


「先生の目が?」


 茜が聞く。


 雅琥は地面を睨む。


「目ん中に、別の廊下が映ってた。そいつが一年の女子を手首掴んで、鏡の前に立たせてた。女子は泣いてた。嫌だって言ってた。でも、先生は笑ってた」


 風彦の腹が重く痛む。


 鏡面接触痕。


 右手首に強い牽引痕。


 保健記録とつながる。


「俺は止めろって言った」


 雅琥は続ける。


「でも、先生はこっち見て言った。『この子は向こうへ帰りたいんだ』って。声が変だった。口は笑ってるのに、鏡の中の顔だけ泣いてた」


 茜は何も言えなかった。


「殴った。そしたら、鏡のほうから手が出てきた。女子を引っ張ってた。俺は先生を蹴って、鏡を割った。何回も殴った。止めなきゃ駄目だった。止めなきゃ、その子が――」


 雅琥の声が途切れた。


 右手が震えている。


「そのあと、教師傷害になった」


 アサミが言う。


 雅琥は笑った。


 乾いた笑いだった。


「そうだよ。俺は問題児で、暴力馬鹿で、教師を半殺しにした白虎様だ」


「助けた生徒は?」


 茜が聞く。


「覚えてねえ」


「え?」


「忘れたんだよ」


 雅琥の声がかすれる。


「名前も顔も、ぼやけてる。助かったはずなのに、そいつのことをちゃんと思い出せねえ。記録にも残ってねえ。保健室の記録に黒塗りで残ってるだけだ」


 アサミが顔を伏せる。


 鏡に引かれた者は、名前や姿の一部を失う。


 それが記録からも人の記憶からも薄れていくなら、恐ろしいことだった。


「だから言っただろ」


 雅琥は吐き捨てる。


「鏡なんか見るなって」


 風彦は静かに尋ねた。


「白峰澪殿の事故も、同じようなものだったのでござるか」


 雅琥の目が風彦へ向く。


 怒鳴られるかと思った。


 だが雅琥は、怒鳴らなかった。


 ただ、ひどく疲れたように言った。


「母さんは、鏡の中にいた」


 その場にいる全員が黙る。


「声が聞こえなかった。助けてって言ってたのか、逃げろって言ってたのかも分からねえ。俺は鏡を叩いた。でも、鏡の中の俺が笑ってた」


 雅琥は、自分の顔に触れるように手を上げた。


 すぐに下ろす。


「そいつが言ったんだ」


 声が低くなる。


「おまえが来たから、母親は帰れなくなったって」


 茜の表情が歪んだ。


 アサミは唇を引き結ぶ。


 風彦は何も言えなかった。


 七歳の子どもへ、そんな言葉を刻みつけるものがいる。


 そして、九年間それを抱えたまま生きてきた。


 鏡を見るたびに、自分と同じ顔をした何かを思い出す。


 母が帰れなかった理由を、自分に押しつける声を聞く。


 風彦は、雅琥が鏡を割る理由をようやく理解した。


 それは乱暴だからではない。


 怖いから。


 自分の中に残る声を黙らせたいから。


 そして、もう誰も鏡の向こうへ連れていかれないようにしたいから。


「それは」


 茜が言う。


 声が震えている。


「雅琥のせいじゃない」


 雅琥の顔が険しくなる。


「分かったように言うな」


「分かんないわよ。でも、七歳の子どものせいなわけないでしょ!」


「そういう綺麗な言葉は聞き飽きた」


「綺麗じゃないわよ。当たり前のこと言ってるだけよ!」


「当たり前で済むなら、九年も鏡が見られねえわけねえだろ!」


 茜は言葉を失った。


 雅琥の叫びには、反論できない痛みがあった。


 アサミが静かに口を開く。


「当たり前のことでも、本人が受け取れるとは限らない」


「アサミ」


 茜が小さく呼ぶ。


 アサミは雅琥を見ていた。


「だから、何度も言う必要がある。記録も、言葉も、一回では定着しない」


 雅琥は眉を寄せる。


「何が言いたい」


「雅琥のせいではない」


「……」


「今は受け取れなくても、記録しておく」


「勝手に記録すんな」


「する。本人が消そうとする記録ほど、誰かが残す必要がある」


 雅琥は怒ろうとした。


 だが、うまく怒れなかった。


 アサミの言い方は、慰めとしては下手だった。


 あまりにも下手だった。


 それでも、嘘ではないと思ってしまった。


 風彦は少しだけ前へ出た。


「六道殿」


「今度は何だ」


「鏡術研究棟へ行くつもりでござるか」


 雅琥は答えない。


 それが答えだった。


 茜がため息をつく。


「やっぱり」


「行くなって言っても行く顔ね」


 アサミが言う。


「行くな」


 風彦も言った。


 雅琥が睨む。


「おまえまで玄斎と同じこと言うのか」


「違います」


 風彦は即答した。


「一人で行くな、でござる」


 雅琥が目を細める。


「……は?」


「行くなら、全員で。少なくとも、誰かに行き先を伝えてから。鏡の怪異相手に単独行動は危険でござる」


 茜が頷く。


「そうね。一人で行ったら怒るわ」


「怒られても痛くねえ」


「じゃあ殴る」


「おまえが?」


「茜縄で縛って説教する」


「それは地味に嫌だな」


 アサミが言う。


「ワタシも同行する」


「おまえは来るな。まだふらついてるだろ」


「だから一人で行くなと言っている」


「会話になってねえ」


「なっている。結論は同行」


 雅琥は三人を見た。


 茜。


 アサミ。


 風彦。


 全員、勝手に決めたような顔をしている。


 迷惑だ。


 本当に迷惑だ。


 自分の過去を勝手に調べて、勝手に踏み込んで、勝手に心配してくる。


 怒ればいい。


 怒鳴ればいい。


 いつものように突き放せばいい。


 だが、なぜか喉の奥で言葉が詰まった。


 鏡の中の自分は、母が帰れなくなったのはおまえのせいだと言った。


 玄斎は、守るためだと言って何も話さなかった。


 教師たちは、暴力事件として記録した。


 誰も、雅琥が何を見たのかを聞こうとしなかった。


 今、目の前の三人は聞いている。


 分からないと言いながら、聞いている。


 それが腹立たしくて、少しだけ救いのようで、さらに腹が立った。


「勝手にしろ」


 雅琥は低く言った。


「おまえらが来ても、俺は守らねえぞ」


「それは嘘でござるね」


 風彦が即答した。


「何でだよ」


「鬼のとき、守ったので」


「あれは成り行きだ」


「今回も成り行きになるかもしれませぬ」


「うぜえ」


 雅琥は顔を背けた。


 だが、もう逃げ出そうとはしなかった。


 そのとき、全員の端末が同時に震えた。


 学園緊急通知。


 ――鏡術研究棟、封印区画にて異常振動を検知。


 ――周辺生徒は直ちに退避。


 ――教職員は封鎖対応へ移行。


 続けて、もう一つ。


 ――本校舎保健室にて、意識消失中の生徒に再反応。


 ――鏡像側に移動兆候あり。


 アサミが端末を握りしめる。


「鏡像が動いている」


 茜が顔を上げる。


「つまり、あの子がまた引っ張られてるってこと?」


 風彦の腹が強く痛んだ。


 鏡術研究棟の方角から、冷たいものが走ってくる。


 雅琥は端末を見たまま、顔色を失っていた。


 しかし、今度は震える手を握りしめている。


「……行く」


 誰も止めなかった。


 風彦は頷く。


「はい」


 茜が召喚杖を握る。


「今度は、ちゃんと全員で行くわよ」


 アサミは記録帳を出しかけ、茜に睨まれて一度しまった。


「あとで記録する」


「そうしなさい」


 雅琥は旧武道場の裏から、鏡術研究棟の方角へ歩き出した。


 足取りは重い。


 それでも、止まらない。


 九年前に母を失った場所。


 昨年、誰かを救った代わりに問題児として記録された場所。


 そして今、また誰かが鏡の向こうへ引き込まれようとしている場所。


 雅琥は息を吐いた。


 怖い。


 それは消えない。


 だが、三人分の足音が後ろに続いている。


 ひとりではない。


 その事実が、腹立たしいほど頼もしかった。

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