第四幕 ― 鏡界
鏡術研究棟へ向かう道は、すでに封鎖されていた。
本校舎から研究棟へ続く渡り廊下には、赤い封鎖札が三重に張られ、床には仮設の結界線が走っている。普段なら透明な硝子窓から中庭が見えるはずだったが、今はすべて白い布で覆われていた。
鏡面反射を避けるためだ。
だが、布で覆ったところで、反射は完全には消えない。
床に敷かれた黒い結界板の表面。
教師の腕章に縫い込まれた銀糸。
風彦の眼鏡の端。
茜の召喚杖の金具。
世界には、光を返すものが多すぎる。
風彦は腹を押さえながら歩いた。
痛みは、先ほどからずっと同じ場所にある。
胃の奥ではない。
下腹部でもない。
もっと薄く、もっと広い。
身体の表面から少し浮いたところを、冷たい指でなぞられているような痛みだった。
鏡の怪異は、こちらの肉体そのものを傷つける前に、名前や姿の輪郭へ触れてくる。
それが風彦には分かった。
分かるから、余計に嫌だった。
「蓮田くん、顔色」
茜が横から声をかける。
「いつもどおり悪いでござる」
「いつもより悪いわよ」
「比較対象が増えてしまっている」
「増やしたくなかったわよ」
茜はそう言いながらも、足を止めない。
手には召喚杖。
腰には、臨時で借りた赤い霊糸の束が結んである。茜縄を使うための補助具だ。
鬼門の騒ぎから、彼女は少し変わった。
怖がらないふりは、まだする。
怒ったように振る舞う癖も変わらない。
だが、恐怖そのものをなかったことにはしなくなった。
それは風彦にとって、見ていて少しだけ眩しい変化だった。
アサミはその隣を歩いている。
顔色はまだよくないが、歩調は安定していた。右手首の封印具には、鏡面干渉を抑えるための黒布が新しく巻かれている。
彼女は記録帳を持っていない。
茜が持たせなかった。
代わりに、小型の音声記録札を腰へ下げている。
「それ、使う気?」
茜が睨む。
「緊急時のみ」
「緊急時って、どこから?」
「全員が生還できそうで、記録価値が高いと判断したとき」
「判断基準が怖い!」
「生還優先」
「そこは少し安心」
雅琥は先頭を歩いていた。
銀白色の髪が揺れる。
肩は強張り、拳は握られている。
その背中は大きい。
けれど、風彦には分かる。
彼は怯えている。
渡り廊下の布の隙間に少しでも光が反射すると、肩がわずかに跳ねる。床の結界板に自分の影が滲むだけで、足取りが一瞬乱れる。
それでも止まらない。
九年前に母が消えた場所へ、自分の足で向かっている。
その背中へ、茜が声を投げた。
「雅琥」
「名前で呼ぶな」
「じゃあ六道くん」
「それも今さら変だろ」
「どっちなのよ」
「黙ってろ」
「黙ってると怖いんでしょ」
雅琥が足を止めかけた。
振り返らない。
「……うるせえ」
「うん。うるさくしてる」
茜の声は、意外なほど素直だった。
「黙ってると、鏡の音が聞こえそうだから」
雅琥は何も言わなかった。
だが、再び歩き出すまでの間が、ほんの少しだけ短くなった。
風彦はその後ろ姿を見て、息を吐く。
自分も何か声をかけるべきかと思ったが、よい言葉は出てこない。
腹痛と怪異と人間関係を同時に処理する能力は、自分にはまだない。
そのとき、渡り廊下の手洗い場から、水音がした。
蛇口は閉まっている。
誰もいない。
だが、排水口の奥から、ぴちょん、と水滴が落ちる音が響いた。
風彦は足を止める。
「……華子さん?」
「遅いわ」
声は、手洗い場の排水口から聞こえた。
次の瞬間、蛇口から黒い水が一筋流れた。
水は洗面台の底へ落ちる前に、空中で花弁の形に広がる。濡羽色の髪がそこからこぼれ、黒い着物の裾が水面のような揺らぎから現れた。
華子が、当然のように手洗い場の前へ立っていた。
黒い戦装束。
腰には胴太貫。
片手には、なぜかティーカップではなく、小さな手拭い。
茜が目を見開く。
「出た!」
「呼ばれたような気がしたもの」
華子は涼しい顔で言う。
風彦は頭を押さえた。
「呼んではいないでござる」
「あなた、水音でわたくしの名前を考えたでしょう?」
「考えただけで来られるのは困るでござる!」
「契約とは、そういうものよ」
「説明が雑!」
雅琥がうんざりしたように言う。
「また厠女かよ」
「白い虎さん、今日も毛並みが悪いわね」
「誰が虎だ」
「鏡の前で吠えるよりは、こちらのほうが似合っているわ」
雅琥の顔が険しくなる。
華子はそれ以上からかわず、研究棟のほうへ視線を向けた。
その表情が、すっと冷える。
「ずいぶん嫌な鏡ね」
アサミが反応した。
「見える?」
「見えるというより、聞こえるわ。水の向こうで、何かが同じ言葉を何度も言わせている」
「死に顔鏡の噂?」
「ええ。でも今は、噂だけではないわね」
華子は手拭いを指先でくるりと回し、腰へ挟む。
「誰かが鏡の中で泣いている」
その言葉とほぼ同時に、研究棟のほうから悲鳴が上がった。
◇
鏡術研究棟の入口前には、教師たちが集まっていた。
その中心に玄斎がいる。
煙色の封印眼鏡越しに研究棟を見つめ、片手で結界印を結んでいる。建物の扉は半開きで、内側から白い光が漏れていた。
玄斎の横には、担架を持った保健班の教師がいる。
担架の上には、意識を失った女子生徒が横たえられていた。
先日、洗面所の鏡の前で倒れた生徒だ。
顔色は青白く、目は閉じている。
しかし、その身体の上に、もう一つの影が重なっていた。
鏡像。
現実の身体から半透明の像が浮き上がり、研究棟の扉のほうへ引かれている。
まるで、見えない糸で引っ張られているように。
保健班の教師が叫ぶ。
「魂魄固定符が効きません!」
「名前を呼び続けろ!」
玄斎が命じる。
教師たちが女子生徒の名前を呼ぶ。
「三崎由衣!」
「三崎、戻りなさい!」
「三崎由衣、聞こえるか!」
名前が呼ばれるたび、半透明の像は一瞬だけ身体へ戻りかける。
だが次の瞬間、研究棟の奥から白い光が強まり、像を引き寄せる。
女子生徒の唇がわずかに動いた。
声は出ていない。
けれど風彦には、口の形が読めた。
帰れない。
帰れない。
帰れない。
「まずいでござる」
風彦が呟く。
雅琥はその場に立ち尽くした。
目の前で、また誰かが鏡へ引かれようとしている。
九年前の母。
昨年の生徒。
そして今、三崎由衣という名の少女。
身体が震える。
だが、足は動いた。
研究棟の扉へ向かって。
「雅琥!」
玄斎の声が飛ぶ。
「止まれ!」
雅琥は止まらない。
「近づくなと言ったはずだ!」
「誰かが引っ張られてんだろ!」
雅琥の声は荒い。
教師二人が彼を止めようとする。
雅琥は肩で押しのけた。
殴ってはいない。
だが力任せに道を開ける。
「六道、待て!」
「待てねえ!」
玄斎が前へ出る。
雅琥の前に立ちはだかった。
親と子の距離。
学園長と問題児の距離。
どちらでもある。
雅琥は玄斎を睨む。
「どけ」
「駄目だ」
「またそれかよ」
「ここから先は、返り鏡の封印区画だ。おまえが入れば、鏡界が反応する」
「だから何だ」
「おまえを狙っている可能性が高い」
「じゃあなおさら、俺が行く」
「雅琥!」
玄斎の声が初めて強くなった。
雅琥は一瞬だけ揺らいだ。
だが、そこで担架の上の由衣の身体が大きく震えた。
半透明の鏡像が、ついに身体から剥がれる。
女子生徒の魂魄像が、白い光の中へ引きずり込まれた。
「三崎!」
教師が叫ぶ。
像は研究棟の扉の内側へ消えた。
身体だけが担架の上に残る。
呼吸はある。
だが、その顔は人形のように静まり返っていた。
雅琥の顔から血の気が引いた。
次の瞬間、彼は玄斎の横をすり抜けた。
「雅琥!」
玄斎が腕を掴もうとする。
だが、雅琥は振り払った。
「俺はもう、見てるだけは嫌なんだよ!」
研究棟の扉へ飛び込む。
茜が即座に走った。
「雅琥!」
アサミも続く。
風彦は腹痛で一瞬遅れたが、すぐに足を動かした。
華子がその横を滑るように進む。
「風彦」
「はい」
「鏡を真正面から見てはいけないわ」
「了解でござる」
「それと、あの子が割りに行ったら止めなさい」
「あの子とは」
「白い虎さん」
「止められる自信がないでござる!」
「気合いで」
「華子さんまで雑!」
玄斎が叫ぶ。
「全員止まれ! 入るな!」
誰も止まらなかった。
玄斎の顔に、痛みのようなものが走る。
それでも彼は追いかける。
だが、研究棟の扉が内側から閉まった。
玄斎の手が扉に届くより早く、白い光が扉一面に広がる。
封印区画が、外側を拒んだ。
玄斎は扉へ手をつき、低く呟いた。
「……また、閉じたか」
◇
鏡術研究棟の内部は、外から見たよりもずっと広かった。
廊下の両側には、布で覆われた鏡が並んでいる。
卓上鏡。
姿見。
古い青銅鏡。
西洋式の楕円鏡。
水鏡用の浅い器。
鏡という鏡が封印布をかけられ、赤い紐で縛られていた。
だが、その布の下で、何かが動いている。
かさり。
こつん。
爪で硝子を叩くような音。
雅琥は先頭を走っている。
しかし、布で覆われた鏡の前を通るたびに肩が震える。
それでも止まらない。
彼の視線は、廊下の奥へ向けられていた。
白い光。
その中に、由衣の半透明の後ろ姿が見える。
ゆっくりと歩いている。
まるで、自分の意思で向かっているように。
「三崎さん!」
茜が叫ぶ。
由衣は振り返らない。
アサミが走りながら息を切らす。
「魂魄像が鏡界側へ誘導されている。本人の意識は薄い」
「どうやって止めるの!」
「名前を呼ぶ。現世側の身体へ固定する。鏡面を閉じる」
「どれから!」
「全部」
「簡単に言うな!」
風彦は白衣神咒を取り出そうとする。
だが、廊下の反射に手元が映った瞬間、指先がぶれた。
自分の手が、自分のものではないように見えた。
腹が痛む。
鏡がこちらを見ている。
風彦は眼鏡を外したくなる衝動を押さえ込んだ。
今、真視を使えば、見てはいけないものまで見てしまう。
華子は刀の柄に手を添え、布のかかった鏡を横目で見る。
「嫌な廊下ね。厠のほうがよほど品があるわ」
「比較対象が厠なの、どうかと思うでござる」
「厠を馬鹿にしているの?」
「しておりませぬ!」
言い合いながらも、全員は走り続ける。
廊下の突き当たりに、重い扉があった。
鏡術研究棟、封印区画。
扉の中央には、古い鏡を模した紋章。
白い光は、その隙間から漏れている。
由衣の魂魄像が、扉をすり抜けた。
雅琥が扉へ体当たりする。
「開け!」
開かない。
茜が召喚杖を構える。
「下がって!」
赤い縄を扉の取っ手へ絡め、引く。
アサミが封印式を読み取ろうとする。
「鍵は内側から閉じている。外部解除には学園長権限が必要」
「玄斎は外!」
雅琥が叫ぶ。
「だから壊す!」
「待て!」
風彦が止める前に、雅琥の蹴りが扉へ叩き込まれた。
通常なら壊れない。
学園長権限の封印がかかった扉だ。
だが、雅琥の足元から白い虎の紋のような霊光が走った。
現世を固定する力。
彼の蹴りは、扉そのものではなく、扉がそこに「閉じている」という状態を揺らした。
封印紋が軋む。
華子が目を細める。
「あら。乱暴だけれど、筋は悪くないわ」
「褒めてる場合でござるか!」
「もう一押しね」
華子は刀を抜かず、鞘の先で扉の縁を軽く叩いた。
花のような黒い霊気が、封印紋の隙間へ入る。
茜が茜縄を引く。
アサミが封印式の継ぎ目を指差す。
「そこ。右下の三番目、結界の戻りが弱い」
風彦が白衣神咒をその位置へ貼りつけた。
「開け!」
雅琥がもう一度蹴る。
扉が開いた。
中から、白い光が溢れ出す。
◇
返り鏡の間は、円形の部屋だった。
床は黒い石。
壁はすべて鏡。
天井にも鏡。
足元にも、薄く磨かれた石が反射を返している。
中央には、巨大な立鏡が置かれていた。
高さは三メートル近い。
枠は古い黒檀。
鏡面は水のように揺れている。
そこに、由衣の魂魄像が立っていた。
鏡の中へ、半分だけ沈んでいる。
顔はぼんやりとしていて、目を閉じている。
彼女の背後には、白い制服の人影が立っていた。
顔のない卒業生。
鏡の中にいるはずなのに、こちら側から見える。
黒い頭巾。
旧式制服。
顔のない白い楕円。
その手が、由衣の肩に置かれている。
アサミが息を呑む。
「第七怪……?」
その言葉を聞いた瞬間、鏡面が揺れた。
部屋の壁という壁が、光を返す。
自分たちの姿が無数に映る。
前。
後ろ。
右。
左。
足元。
天井。
どこを向いても、自分がいる。
そして、そのすべての背後に、顔のない卒業生が立っていた。
風彦は叫ぶ。
「鏡を見ないで!」
だが遅かった。
鏡面が一斉に白く光る。
床が消えた。
部屋が反転する。
重力がなくなる。
自分の名前を、誰かに内側から呼ばれる。
風彦は手を伸ばした。
茜が叫ぶ声。
アサミが何かを記録しようとする声。
雅琥の怒鳴り声。
華子の舌打ち。
すべてが水の中へ落ちるように遠くなった。
次の瞬間、全員が鏡の中へ呑み込まれた。
◇
茜は、稲葉家の契約蔵に立っていた。
地下の石室。
壁一面に赤い縄が張り巡らされ、天井からは古い札が無数に垂れ下がっている。
中央には、血判台。
その上に、短刀と朱肉と契約書が置かれている。
父がいた。
稲葉景継。
病に痩せ、右手を動かせず、椅子に座っている。
その横に母がいる。
家臣たちもいる。
全員が茜を見ている。
誰も責めない。
誰も命じない。
ただ、待っている。
茜が自分から選ぶのを。
契約書には、茜の名が書かれていた。
稲葉茜。
次代契約者。
鬼契り継承。
父が微笑む。
「茜。ありがとう」
その声を聞いた瞬間、茜の胸が締めつけられた。
父を救える。
自分が契約を継げば。
自分が命を差し出せば。
自分が記憶を削れば。
父の病は止まる。
稲葉家は守られる。
領民も守られる。
誰も茜を責めない。
むしろ褒める。
立派だ。
さすが稲葉の娘だ。
家を守った。
父を救った。
契約書の赤い縄が、茜の手首へ伸びる。
冷たい。
でも、どこか懐かしい。
「そうよ」
誰かの声がする。
「あなたが選べば、全部うまくいく」
茜は短刀へ手を伸ばしかけた。
そのとき、鬼の声が耳元で響く。
名を返せ。
我らを使うな。
茜は息を呑む。
父の顔が揺らいだ。
優しい笑みの後ろに、赤い縄が見えた。
父も縛られている。
母も。
家臣も。
自分も。
家そのものが、赤い縄でできた巨大な檻に見えた。
「……違う」
茜は短刀から手を引く。
「父上を助けたい。でも、これじゃない」
赤い縄が、怒ったようにざわめいた。
◇
アサミは、教室にいた。
床には赤い魔法陣。
写本。
青白い蝋燭。
前に見た光景だ。
しかし、今度は違う。
茜が床に倒れている。
胸元に、呪術用の短剣が刺さっている。
短剣を握っているのは、アサミ自身だった。
手が血で濡れている。
茜がこちらを見る。
「アサミ」
声が弱い。
「どうして?」
アサミは答えようとする。
だが口が動かない。
身体が自分のものではない。
背後に黒い影がいる。
鬼門の悪霊。
あの日、風彦に引き剥がされたはずのもの。
それが再びアサミの身体へ入り込み、彼女の手を動かしている。
「ワタシじゃない」
言いたいのに、声にならない。
茜の血が床へ広がる。
魔法陣の赤と混ざっていく。
「ワタシなら制御できると思った」
誰かがアサミの声で言う。
「だから、こうなった」
茜の顔が白くなっていく。
アサミは必死に自分の指を動かそうとする。
一本も動かない。
記録帳が机の上にある。
そこには、整った文字でこう書かれている。
――観測者は、対象に干渉した責任を負う。
アサミの視界が滲む。
「違う」
今度は声が出た。
小さい。
でも、自分の声だった。
「次は、一人でやらない」
血の匂いが揺らぐ。
茜の姿が、少しだけ遠のいた。
◇
風彦は、公儀の白い部屋にいた。
壁も床も天井も白い。
窓はない。
中央に椅子があり、自分はそこに座らされている。
腕には拘束具。
足にも。
胸元には霊的測定器。
周囲には公儀の職員がいる。
だが、誰も風彦の顔を見ていない。
記録板に書かれている名前は、蓮田風彦ではなかった。
ハスター系隔世個体。
監視対象。
使用条件付き人型霊具。
人間ではない。
名前ではない。
役割と分類だけが並んでいる。
茜が部屋に入ってくる。
アサミも。
雅琥も。
風彦はほっとして口を開く。
「茜殿、アサミ殿、六道殿」
三人は反応しない。
茜は首を傾げる。
「これ、誰?」
アサミが記録板を見る。
「人ではなく、分類上は危険霊具」
雅琥が眉をひそめる。
「知らねえ」
風彦は息が止まりそうになった。
「拙者でござる」
声が届かない。
「蓮田風彦でござる」
三人は振り返らない。
風彦の影が、人の形を失っていく。
腕が、黒い異相肢へ変わる。
背中から黄色い風が吹く。
自分の輪郭が、白い部屋に溶けていく。
誰も名前を呼ばない。
誰も見ない。
風彦は必死に叫んだ。
「僕は、ここに」
その声は、途中で途切れる。
どこかから、華子の声が聞こえた気がした。
風彦。
その名だけが、白い部屋の中で細い糸のように残った。
◇
華子は、石の下にいた。
暗い。
冷たい。
身体が動かない。
いや、身体などもうない。
骨だけが、学園の地下深くに埋められている。
その骨の上に、校舎の礎石が置かれている。
誰かが祝詞を唱えている。
華子の名ではない。
守護神。
厠守。
三番目の華子。
そう呼ばれるたび、骨に新しい鎖が巻きつく。
生前の名は、石の下で薄れていく。
榊原華。
その名を呼ぶ者はいない。
刀を握りたかった。
走りたかった。
笑いたかった。
怒りたかった。
小夜を逃がしたあの日、自分は確かに選んだはずだった。
誰かの代わりに死ぬことを、ただの犠牲ではなく、自分の剣として選んだはずだった。
なのに、死後に与えられた名は守護神だった。
綺麗な名。
都合のよい名。
命じられるための名。
学園を守れ。
生徒を守れ。
結界を支えろ。
契約を破るな。
勝手に斬るな。
勝手に出るな。
勝手に選ぶな。
石の上で、誰かが笑う。
「あなたは守護神でしょう?」
華子は、暗闇の中で目を開いた。
身体はない。
それでも、笑った。
「ええ」
声は、石の下から湧いた。
「でも、わたくしは命令されるのが嫌いなの」
遠くで、刀の鍔鳴りがした。
◇
雅琥は、鏡の部屋にいた。
七歳の身体だった。
手も足も小さい。
視線が低い。
目の前には、大きな鏡がある。
鏡の中に、母がいた。
白峰澪。
白衣の胸元に名札。
長い黒髪。
いつも雅琥を見るときの、少し困ったような優しい笑み。
その母が、鏡の中で立っている。
九年前と同じだ。
ただし、今は声が聞こえる。
「雅琥」
母が呼ぶ。
雅琥の胸が締めつけられた。
何度も聞きたかった声。
もう一度だけでいいから聞きたいと思っていた声。
なのに、その声は冷たかった。
「あなたが来なければ、私は帰れた」
雅琥の喉が動かなくなる。
「あなたが鏡の前へ来たから、私は閉じ込められた」
「違う」
幼い声が出る。
情けないほど小さい。
「違う。俺は、母さんを」
「助けに来た?」
鏡の中の澪は微笑む。
その笑みは、母のものではなかった。
「でも、助けられなかった」
雅琥は後ずさる。
背中に冷たい壁が当たる。
鏡の中の自分が現れた。
七歳の雅琥と同じ顔。
同じ髪。
同じ目。
それが、澪の隣で笑っている。
「おまえが来たから」
鏡の中の自分が言う。
「母親は帰れなくなった」
雅琥は耳を塞いだ。
聞きたくない。
もう聞きたくない。
九年間、ずっと聞いてきた。
鏡を見るたびに。
水面に自分が映るたびに。
窓硝子に影が映るたびに。
その言葉だけが、何度も何度も戻ってくる。
「違うって言えよ」
雅琥は母へ向かって叫んだ。
「母さんが言えよ! 違うって!」
鏡の中の澪は微笑む。
「あなたが来なければ、私は帰れた」
同じ言葉。
同じ声。
雅琥の膝が崩れそうになる。
そのとき。
どこかから、アサミの声が聞こえた。
「違う」
雅琥は顔を上げる。
鏡の部屋の端に、アサミが立っていた。
彼女は片手で頭を押さえ、苦しそうにしている。だが、澪を見ていた。
鏡の中の澪の口元を。
「聞こえている言葉と、口の動きが一致していない」
アサミの声は震えていた。
それでも、はっきりしている。
「音声だけが上書きされている。視覚記録と聴覚記録がずれている」
「何を……」
雅琥は呆然とする。
アサミは一歩前へ出た。
鏡の中の澪が同じ言葉を繰り返す。
「あなたが来なければ、私は帰れた」
しかし、アサミは首を振った。
「違う。唇はそう動いていない」
彼女は指で空中へ文字を書くように動かす。
読唇。
研究者らしい、冷静で、必死な観察。
「最初の言葉は――」
鏡の中の澪の口が動く。
音は違う言葉を響かせる。
あなたが来なければ、私は帰れた。
だが、口の動きは別だった。
アサミは読み取る。
「雅琥を、連れて逃げて」
雅琥の呼吸が止まった。
鏡の中の澪が、また口を動かす。
音声は冷たい呪いのまま。
あなたのせい。
あなたが来たから。
帰れなかった。
だが、唇は違う。
アサミが続ける。
「この鏡を閉じて」
鏡の部屋が揺れた。
母の顔が歪む。
鏡の中の雅琥が、アサミのほうを向いた。
顔が消えていく。
目も鼻も口もなくなり、白い旧式制服を着た人影へ変わる。
顔のない卒業生。
その影が、アサミへ手を伸ばす。
「余計な記録をしないでください」
声は穏やかだった。
学校の放送のように、丁寧で、冷たい。
アサミは後ずさる。
だが、目は逸らさない。
「あなたが編集している」
顔のない卒業生は首を傾げた。
「編集ではありません。補正です」
「本物の残留記憶を、別の意味へ変えている」
「子どもが外へ出れば、傷つくでしょう」
その声は、鏡の中のすべてから響いた。
母の顔。
雅琥の顔。
割れた鏡。
白い廊下。
「卒業しなければ、失わずに済む」
雅琥は震えながら立ち上がった。
目の前の母を見る。
鏡の中の澪は、今も冷たい言葉を発しているように聞こえる。
でも違う。
本当の口の動きは。
雅琥を連れて逃げて。
この鏡を閉じて。
母は、自分を責めていなかった。
責めていなかったのかもしれない。
九年間、聞こえていた声は。
誰かが上書きしたものだったのかもしれない。
雅琥の胸の奥で、何かが壊れた。
それは救いではなかった。
すぐに楽になれるわけではない。
九年間の恐怖が、一瞬で消えるはずもない。
だが、ずっと動かせなかった重い石に、初めて亀裂が入った。
「……ざけんな」
雅琥の声が低く響く。
顔のない卒業生が彼を見る。
「白峰雅琥。あなたはここにいれば、もう失わずに済みます」
「ふざけんな」
雅琥は拳を握った。
まだ怖い。
母の顔をした鏡を見るだけで、息が詰まる。
膝も震えている。
それでも、怒りが恐怖の上に乗った。
今度の怒りは、隠すための怒りではない。
目の前の嘘を殴るための怒りだった。
「母さんの声を」
雅琥は一歩踏み出す。
「勝手に使うんじゃねえ」
鏡界が、ひび割れるような音を立てた。
◇
その音で、散り散りになっていた意識が戻り始めた。
茜は赤い縄を引きちぎるように目を開けた。
アサミは血塗れの幻を振り払い、息を整える。
風彦は白い部屋の中で、自分の名を掴むように胸元へ手を当てる。
華子は石の下から、刀の気配を手繰る。
それぞれの恐怖は消えていない。
だが、全員が同じ方向の音を聞いた。
雅琥の怒り。
鏡を割るだけではない。
鏡の中の嘘を、初めて殴ろうとしている音。
風彦は、遠い鏡の中で呟いた。
「六道殿」
声はまだ届かない。
だが、名前は道になる。
風彦はもう一度呼んだ。
「雅琥殿!」
鏡界の白い闇に、細い亀裂が走った。




