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第四幕 ― 鏡界

 鏡術研究棟へ向かう道は、すでに封鎖されていた。


 本校舎から研究棟へ続く渡り廊下には、赤い封鎖札が三重に張られ、床には仮設の結界線が走っている。普段なら透明な硝子窓から中庭が見えるはずだったが、今はすべて白い布で覆われていた。


 鏡面反射を避けるためだ。


 だが、布で覆ったところで、反射は完全には消えない。


 床に敷かれた黒い結界板の表面。


 教師の腕章に縫い込まれた銀糸。


 風彦の眼鏡の端。


 茜の召喚杖の金具。


 世界には、光を返すものが多すぎる。


 風彦は腹を押さえながら歩いた。


 痛みは、先ほどからずっと同じ場所にある。


 胃の奥ではない。


 下腹部でもない。


 もっと薄く、もっと広い。


 身体の表面から少し浮いたところを、冷たい指でなぞられているような痛みだった。


 鏡の怪異は、こちらの肉体そのものを傷つける前に、名前や姿の輪郭へ触れてくる。


 それが風彦には分かった。


 分かるから、余計に嫌だった。


「蓮田くん、顔色」


 茜が横から声をかける。


「いつもどおり悪いでござる」


「いつもより悪いわよ」


「比較対象が増えてしまっている」


「増やしたくなかったわよ」


 茜はそう言いながらも、足を止めない。


 手には召喚杖。


 腰には、臨時で借りた赤い霊糸の束が結んである。茜縄を使うための補助具だ。


 鬼門の騒ぎから、彼女は少し変わった。


 怖がらないふりは、まだする。


 怒ったように振る舞う癖も変わらない。


 だが、恐怖そのものをなかったことにはしなくなった。


 それは風彦にとって、見ていて少しだけ眩しい変化だった。


 アサミはその隣を歩いている。


 顔色はまだよくないが、歩調は安定していた。右手首の封印具には、鏡面干渉を抑えるための黒布が新しく巻かれている。


 彼女は記録帳を持っていない。


 茜が持たせなかった。


 代わりに、小型の音声記録札を腰へ下げている。


「それ、使う気?」


 茜が睨む。


「緊急時のみ」


「緊急時って、どこから?」


「全員が生還できそうで、記録価値が高いと判断したとき」


「判断基準が怖い!」


「生還優先」


「そこは少し安心」


 雅琥は先頭を歩いていた。


 銀白色の髪が揺れる。


 肩は強張り、拳は握られている。


 その背中は大きい。


 けれど、風彦には分かる。


 彼は怯えている。


 渡り廊下の布の隙間に少しでも光が反射すると、肩がわずかに跳ねる。床の結界板に自分の影が滲むだけで、足取りが一瞬乱れる。


 それでも止まらない。


 九年前に母が消えた場所へ、自分の足で向かっている。


 その背中へ、茜が声を投げた。


「雅琥」


「名前で呼ぶな」


「じゃあ六道くん」


「それも今さら変だろ」


「どっちなのよ」


「黙ってろ」


「黙ってると怖いんでしょ」


 雅琥が足を止めかけた。


 振り返らない。


「……うるせえ」


「うん。うるさくしてる」


 茜の声は、意外なほど素直だった。


「黙ってると、鏡の音が聞こえそうだから」


 雅琥は何も言わなかった。


 だが、再び歩き出すまでの間が、ほんの少しだけ短くなった。


 風彦はその後ろ姿を見て、息を吐く。


 自分も何か声をかけるべきかと思ったが、よい言葉は出てこない。


 腹痛と怪異と人間関係を同時に処理する能力は、自分にはまだない。


 そのとき、渡り廊下の手洗い場から、水音がした。


 蛇口は閉まっている。


 誰もいない。


 だが、排水口の奥から、ぴちょん、と水滴が落ちる音が響いた。


 風彦は足を止める。


「……華子さん?」


「遅いわ」


 声は、手洗い場の排水口から聞こえた。


 次の瞬間、蛇口から黒い水が一筋流れた。


 水は洗面台の底へ落ちる前に、空中で花弁の形に広がる。濡羽色の髪がそこからこぼれ、黒い着物の裾が水面のような揺らぎから現れた。


 華子が、当然のように手洗い場の前へ立っていた。


 黒い戦装束。


 腰には胴太貫。


 片手には、なぜかティーカップではなく、小さな手拭い。


 茜が目を見開く。


「出た!」


「呼ばれたような気がしたもの」


 華子は涼しい顔で言う。


 風彦は頭を押さえた。


「呼んではいないでござる」


「あなた、水音でわたくしの名前を考えたでしょう?」


「考えただけで来られるのは困るでござる!」


「契約とは、そういうものよ」


「説明が雑!」


 雅琥がうんざりしたように言う。


「また厠女かよ」


「白い虎さん、今日も毛並みが悪いわね」


「誰が虎だ」


「鏡の前で吠えるよりは、こちらのほうが似合っているわ」


 雅琥の顔が険しくなる。


 華子はそれ以上からかわず、研究棟のほうへ視線を向けた。


 その表情が、すっと冷える。


「ずいぶん嫌な鏡ね」


 アサミが反応した。


「見える?」


「見えるというより、聞こえるわ。水の向こうで、何かが同じ言葉を何度も言わせている」


「死に顔鏡の噂?」


「ええ。でも今は、噂だけではないわね」


 華子は手拭いを指先でくるりと回し、腰へ挟む。


「誰かが鏡の中で泣いている」


 その言葉とほぼ同時に、研究棟のほうから悲鳴が上がった。


     ◇


 鏡術研究棟の入口前には、教師たちが集まっていた。


 その中心に玄斎がいる。


 煙色の封印眼鏡越しに研究棟を見つめ、片手で結界印を結んでいる。建物の扉は半開きで、内側から白い光が漏れていた。


 玄斎の横には、担架を持った保健班の教師がいる。


 担架の上には、意識を失った女子生徒が横たえられていた。


 先日、洗面所の鏡の前で倒れた生徒だ。


 顔色は青白く、目は閉じている。


 しかし、その身体の上に、もう一つの影が重なっていた。


 鏡像。


 現実の身体から半透明の像が浮き上がり、研究棟の扉のほうへ引かれている。


 まるで、見えない糸で引っ張られているように。


 保健班の教師が叫ぶ。


「魂魄固定符が効きません!」


「名前を呼び続けろ!」


 玄斎が命じる。


 教師たちが女子生徒の名前を呼ぶ。


「三崎由衣!」


「三崎、戻りなさい!」


「三崎由衣、聞こえるか!」


 名前が呼ばれるたび、半透明の像は一瞬だけ身体へ戻りかける。


 だが次の瞬間、研究棟の奥から白い光が強まり、像を引き寄せる。


 女子生徒の唇がわずかに動いた。


 声は出ていない。


 けれど風彦には、口の形が読めた。


 帰れない。


 帰れない。


 帰れない。


「まずいでござる」


 風彦が呟く。


 雅琥はその場に立ち尽くした。


 目の前で、また誰かが鏡へ引かれようとしている。


 九年前の母。


 昨年の生徒。


 そして今、三崎由衣という名の少女。


 身体が震える。


 だが、足は動いた。


 研究棟の扉へ向かって。


「雅琥!」


 玄斎の声が飛ぶ。


「止まれ!」


 雅琥は止まらない。


「近づくなと言ったはずだ!」


「誰かが引っ張られてんだろ!」


 雅琥の声は荒い。


 教師二人が彼を止めようとする。


 雅琥は肩で押しのけた。


 殴ってはいない。


 だが力任せに道を開ける。


「六道、待て!」


「待てねえ!」


 玄斎が前へ出る。


 雅琥の前に立ちはだかった。


 親と子の距離。


 学園長と問題児の距離。


 どちらでもある。


 雅琥は玄斎を睨む。


「どけ」


「駄目だ」


「またそれかよ」


「ここから先は、返り鏡の封印区画だ。おまえが入れば、鏡界が反応する」


「だから何だ」


「おまえを狙っている可能性が高い」


「じゃあなおさら、俺が行く」


「雅琥!」


 玄斎の声が初めて強くなった。


 雅琥は一瞬だけ揺らいだ。


 だが、そこで担架の上の由衣の身体が大きく震えた。


 半透明の鏡像が、ついに身体から剥がれる。


 女子生徒の魂魄像が、白い光の中へ引きずり込まれた。


「三崎!」


 教師が叫ぶ。


 像は研究棟の扉の内側へ消えた。


 身体だけが担架の上に残る。


 呼吸はある。


 だが、その顔は人形のように静まり返っていた。


 雅琥の顔から血の気が引いた。


 次の瞬間、彼は玄斎の横をすり抜けた。


「雅琥!」


 玄斎が腕を掴もうとする。


 だが、雅琥は振り払った。


「俺はもう、見てるだけは嫌なんだよ!」


 研究棟の扉へ飛び込む。


 茜が即座に走った。


「雅琥!」


 アサミも続く。


 風彦は腹痛で一瞬遅れたが、すぐに足を動かした。


 華子がその横を滑るように進む。


「風彦」


「はい」


「鏡を真正面から見てはいけないわ」


「了解でござる」


「それと、あの子が割りに行ったら止めなさい」


「あの子とは」


「白い虎さん」


「止められる自信がないでござる!」


「気合いで」


「華子さんまで雑!」


 玄斎が叫ぶ。


「全員止まれ! 入るな!」


 誰も止まらなかった。


 玄斎の顔に、痛みのようなものが走る。


 それでも彼は追いかける。


 だが、研究棟の扉が内側から閉まった。


 玄斎の手が扉に届くより早く、白い光が扉一面に広がる。


 封印区画が、外側を拒んだ。


 玄斎は扉へ手をつき、低く呟いた。


「……また、閉じたか」


     ◇


 鏡術研究棟の内部は、外から見たよりもずっと広かった。


 廊下の両側には、布で覆われた鏡が並んでいる。


 卓上鏡。


 姿見。


 古い青銅鏡。


 西洋式の楕円鏡。


 水鏡用の浅い器。


 鏡という鏡が封印布をかけられ、赤い紐で縛られていた。


 だが、その布の下で、何かが動いている。


 かさり。


 こつん。


 爪で硝子を叩くような音。


 雅琥は先頭を走っている。


 しかし、布で覆われた鏡の前を通るたびに肩が震える。


 それでも止まらない。


 彼の視線は、廊下の奥へ向けられていた。


 白い光。


 その中に、由衣の半透明の後ろ姿が見える。


 ゆっくりと歩いている。


 まるで、自分の意思で向かっているように。


「三崎さん!」


 茜が叫ぶ。


 由衣は振り返らない。


 アサミが走りながら息を切らす。


「魂魄像が鏡界側へ誘導されている。本人の意識は薄い」


「どうやって止めるの!」


「名前を呼ぶ。現世側の身体へ固定する。鏡面を閉じる」


「どれから!」


「全部」


「簡単に言うな!」


 風彦は白衣神咒を取り出そうとする。


 だが、廊下の反射に手元が映った瞬間、指先がぶれた。


 自分の手が、自分のものではないように見えた。


 腹が痛む。


 鏡がこちらを見ている。


 風彦は眼鏡を外したくなる衝動を押さえ込んだ。


 今、真視を使えば、見てはいけないものまで見てしまう。


 華子は刀の柄に手を添え、布のかかった鏡を横目で見る。


「嫌な廊下ね。厠のほうがよほど品があるわ」


「比較対象が厠なの、どうかと思うでござる」


「厠を馬鹿にしているの?」


「しておりませぬ!」


 言い合いながらも、全員は走り続ける。


 廊下の突き当たりに、重い扉があった。


 鏡術研究棟、封印区画。


 扉の中央には、古い鏡を模した紋章。


 白い光は、その隙間から漏れている。


 由衣の魂魄像が、扉をすり抜けた。


 雅琥が扉へ体当たりする。


「開け!」


 開かない。


 茜が召喚杖を構える。


「下がって!」


 赤い縄を扉の取っ手へ絡め、引く。


 アサミが封印式を読み取ろうとする。


「鍵は内側から閉じている。外部解除には学園長権限が必要」


「玄斎は外!」


 雅琥が叫ぶ。


「だから壊す!」


「待て!」


 風彦が止める前に、雅琥の蹴りが扉へ叩き込まれた。


 通常なら壊れない。


 学園長権限の封印がかかった扉だ。


 だが、雅琥の足元から白い虎の紋のような霊光が走った。


 現世を固定する力。


 彼の蹴りは、扉そのものではなく、扉がそこに「閉じている」という状態を揺らした。


 封印紋が軋む。


 華子が目を細める。


「あら。乱暴だけれど、筋は悪くないわ」


「褒めてる場合でござるか!」


「もう一押しね」


 華子は刀を抜かず、鞘の先で扉の縁を軽く叩いた。


 花のような黒い霊気が、封印紋の隙間へ入る。


 茜が茜縄を引く。


 アサミが封印式の継ぎ目を指差す。


「そこ。右下の三番目、結界の戻りが弱い」


 風彦が白衣神咒をその位置へ貼りつけた。


「開け!」


 雅琥がもう一度蹴る。


 扉が開いた。


 中から、白い光が溢れ出す。


     ◇


 返り鏡の間は、円形の部屋だった。


 床は黒い石。


 壁はすべて鏡。


 天井にも鏡。


 足元にも、薄く磨かれた石が反射を返している。


 中央には、巨大な立鏡が置かれていた。


 高さは三メートル近い。


 枠は古い黒檀。


 鏡面は水のように揺れている。


 そこに、由衣の魂魄像が立っていた。


 鏡の中へ、半分だけ沈んでいる。


 顔はぼんやりとしていて、目を閉じている。


 彼女の背後には、白い制服の人影が立っていた。


 顔のない卒業生。


 鏡の中にいるはずなのに、こちら側から見える。


 黒い頭巾。


 旧式制服。


 顔のない白い楕円。


 その手が、由衣の肩に置かれている。


 アサミが息を呑む。


「第七怪……?」


 その言葉を聞いた瞬間、鏡面が揺れた。


 部屋の壁という壁が、光を返す。


 自分たちの姿が無数に映る。


 前。


 後ろ。


 右。


 左。


 足元。


 天井。


 どこを向いても、自分がいる。


 そして、そのすべての背後に、顔のない卒業生が立っていた。


 風彦は叫ぶ。


「鏡を見ないで!」


 だが遅かった。


 鏡面が一斉に白く光る。


 床が消えた。


 部屋が反転する。


 重力がなくなる。


 自分の名前を、誰かに内側から呼ばれる。


 風彦は手を伸ばした。


 茜が叫ぶ声。


 アサミが何かを記録しようとする声。


 雅琥の怒鳴り声。


 華子の舌打ち。


 すべてが水の中へ落ちるように遠くなった。


 次の瞬間、全員が鏡の中へ呑み込まれた。


     ◇


 茜は、稲葉家の契約蔵に立っていた。


 地下の石室。


 壁一面に赤い縄が張り巡らされ、天井からは古い札が無数に垂れ下がっている。


 中央には、血判台。


 その上に、短刀と朱肉と契約書が置かれている。


 父がいた。


 稲葉景継。


 病に痩せ、右手を動かせず、椅子に座っている。


 その横に母がいる。


 家臣たちもいる。


 全員が茜を見ている。


 誰も責めない。


 誰も命じない。


 ただ、待っている。


 茜が自分から選ぶのを。


 契約書には、茜の名が書かれていた。


 稲葉茜。


 次代契約者。


 鬼契り継承。


 父が微笑む。


「茜。ありがとう」


 その声を聞いた瞬間、茜の胸が締めつけられた。


 父を救える。


 自分が契約を継げば。


 自分が命を差し出せば。


 自分が記憶を削れば。


 父の病は止まる。


 稲葉家は守られる。


 領民も守られる。


 誰も茜を責めない。


 むしろ褒める。


 立派だ。


 さすが稲葉の娘だ。


 家を守った。


 父を救った。


 契約書の赤い縄が、茜の手首へ伸びる。


 冷たい。


 でも、どこか懐かしい。


「そうよ」


 誰かの声がする。


「あなたが選べば、全部うまくいく」


 茜は短刀へ手を伸ばしかけた。


 そのとき、鬼の声が耳元で響く。


 名を返せ。


 我らを使うな。


 茜は息を呑む。


 父の顔が揺らいだ。


 優しい笑みの後ろに、赤い縄が見えた。


 父も縛られている。


 母も。


 家臣も。


 自分も。


 家そのものが、赤い縄でできた巨大な檻に見えた。


「……違う」


 茜は短刀から手を引く。


「父上を助けたい。でも、これじゃない」


 赤い縄が、怒ったようにざわめいた。


     ◇


 アサミは、教室にいた。


 床には赤い魔法陣。


 写本。


 青白い蝋燭。


 前に見た光景だ。


 しかし、今度は違う。


 茜が床に倒れている。


 胸元に、呪術用の短剣が刺さっている。


 短剣を握っているのは、アサミ自身だった。


 手が血で濡れている。


 茜がこちらを見る。


「アサミ」


 声が弱い。


「どうして?」


 アサミは答えようとする。


 だが口が動かない。


 身体が自分のものではない。


 背後に黒い影がいる。


 鬼門の悪霊。


 あの日、風彦に引き剥がされたはずのもの。


 それが再びアサミの身体へ入り込み、彼女の手を動かしている。


「ワタシじゃない」


 言いたいのに、声にならない。


 茜の血が床へ広がる。


 魔法陣の赤と混ざっていく。


「ワタシなら制御できると思った」


 誰かがアサミの声で言う。


「だから、こうなった」


 茜の顔が白くなっていく。


 アサミは必死に自分の指を動かそうとする。


 一本も動かない。


 記録帳が机の上にある。


 そこには、整った文字でこう書かれている。


 ――観測者は、対象に干渉した責任を負う。


 アサミの視界が滲む。


「違う」


 今度は声が出た。


 小さい。


 でも、自分の声だった。


「次は、一人でやらない」


 血の匂いが揺らぐ。


 茜の姿が、少しだけ遠のいた。


     ◇


 風彦は、公儀の白い部屋にいた。


 壁も床も天井も白い。


 窓はない。


 中央に椅子があり、自分はそこに座らされている。


 腕には拘束具。


 足にも。


 胸元には霊的測定器。


 周囲には公儀の職員がいる。


 だが、誰も風彦の顔を見ていない。


 記録板に書かれている名前は、蓮田風彦ではなかった。


 ハスター系隔世個体。


 監視対象。


 使用条件付き人型霊具。


 人間ではない。


 名前ではない。


 役割と分類だけが並んでいる。


 茜が部屋に入ってくる。


 アサミも。


 雅琥も。


 風彦はほっとして口を開く。


「茜殿、アサミ殿、六道殿」


 三人は反応しない。


 茜は首を傾げる。


「これ、誰?」


 アサミが記録板を見る。


「人ではなく、分類上は危険霊具」


 雅琥が眉をひそめる。


「知らねえ」


 風彦は息が止まりそうになった。


「拙者でござる」


 声が届かない。


「蓮田風彦でござる」


 三人は振り返らない。


 風彦の影が、人の形を失っていく。


 腕が、黒い異相肢へ変わる。


 背中から黄色い風が吹く。


 自分の輪郭が、白い部屋に溶けていく。


 誰も名前を呼ばない。


 誰も見ない。


 風彦は必死に叫んだ。


「僕は、ここに」


 その声は、途中で途切れる。


 どこかから、華子の声が聞こえた気がした。


 風彦。


 その名だけが、白い部屋の中で細い糸のように残った。


     ◇


 華子は、石の下にいた。


 暗い。


 冷たい。


 身体が動かない。


 いや、身体などもうない。


 骨だけが、学園の地下深くに埋められている。


 その骨の上に、校舎の礎石が置かれている。


 誰かが祝詞を唱えている。


 華子の名ではない。


 守護神。


 厠守。


 三番目の華子。


 そう呼ばれるたび、骨に新しい鎖が巻きつく。


 生前の名は、石の下で薄れていく。


 榊原華。


 その名を呼ぶ者はいない。


 刀を握りたかった。


 走りたかった。


 笑いたかった。


 怒りたかった。


 小夜を逃がしたあの日、自分は確かに選んだはずだった。


 誰かの代わりに死ぬことを、ただの犠牲ではなく、自分の剣として選んだはずだった。


 なのに、死後に与えられた名は守護神だった。


 綺麗な名。


 都合のよい名。


 命じられるための名。


 学園を守れ。


 生徒を守れ。


 結界を支えろ。


 契約を破るな。


 勝手に斬るな。


 勝手に出るな。


 勝手に選ぶな。


 石の上で、誰かが笑う。


「あなたは守護神でしょう?」


 華子は、暗闇の中で目を開いた。


 身体はない。


 それでも、笑った。


「ええ」


 声は、石の下から湧いた。


「でも、わたくしは命令されるのが嫌いなの」


 遠くで、刀の鍔鳴りがした。


     ◇


 雅琥は、鏡の部屋にいた。


 七歳の身体だった。


 手も足も小さい。


 視線が低い。


 目の前には、大きな鏡がある。


 鏡の中に、母がいた。


 白峰澪。


 白衣の胸元に名札。


 長い黒髪。


 いつも雅琥を見るときの、少し困ったような優しい笑み。


 その母が、鏡の中で立っている。


 九年前と同じだ。


 ただし、今は声が聞こえる。


「雅琥」


 母が呼ぶ。


 雅琥の胸が締めつけられた。


 何度も聞きたかった声。


 もう一度だけでいいから聞きたいと思っていた声。


 なのに、その声は冷たかった。


「あなたが来なければ、私は帰れた」


 雅琥の喉が動かなくなる。


「あなたが鏡の前へ来たから、私は閉じ込められた」


「違う」


 幼い声が出る。


 情けないほど小さい。


「違う。俺は、母さんを」


「助けに来た?」


 鏡の中の澪は微笑む。


 その笑みは、母のものではなかった。


「でも、助けられなかった」


 雅琥は後ずさる。


 背中に冷たい壁が当たる。


 鏡の中の自分が現れた。


 七歳の雅琥と同じ顔。


 同じ髪。


 同じ目。


 それが、澪の隣で笑っている。


「おまえが来たから」


 鏡の中の自分が言う。


「母親は帰れなくなった」


 雅琥は耳を塞いだ。


 聞きたくない。


 もう聞きたくない。


 九年間、ずっと聞いてきた。


 鏡を見るたびに。


 水面に自分が映るたびに。


 窓硝子に影が映るたびに。


 その言葉だけが、何度も何度も戻ってくる。


「違うって言えよ」


 雅琥は母へ向かって叫んだ。


「母さんが言えよ! 違うって!」


 鏡の中の澪は微笑む。


「あなたが来なければ、私は帰れた」


 同じ言葉。


 同じ声。


 雅琥の膝が崩れそうになる。


 そのとき。


 どこかから、アサミの声が聞こえた。


「違う」


 雅琥は顔を上げる。


 鏡の部屋の端に、アサミが立っていた。


 彼女は片手で頭を押さえ、苦しそうにしている。だが、澪を見ていた。


 鏡の中の澪の口元を。


「聞こえている言葉と、口の動きが一致していない」


 アサミの声は震えていた。


 それでも、はっきりしている。


「音声だけが上書きされている。視覚記録と聴覚記録がずれている」


「何を……」


 雅琥は呆然とする。


 アサミは一歩前へ出た。


 鏡の中の澪が同じ言葉を繰り返す。


「あなたが来なければ、私は帰れた」


 しかし、アサミは首を振った。


「違う。唇はそう動いていない」


 彼女は指で空中へ文字を書くように動かす。


 読唇。


 研究者らしい、冷静で、必死な観察。


「最初の言葉は――」


 鏡の中の澪の口が動く。


 音は違う言葉を響かせる。


 あなたが来なければ、私は帰れた。


 だが、口の動きは別だった。


 アサミは読み取る。


「雅琥を、連れて逃げて」


 雅琥の呼吸が止まった。


 鏡の中の澪が、また口を動かす。


 音声は冷たい呪いのまま。


 あなたのせい。


 あなたが来たから。


 帰れなかった。


 だが、唇は違う。


 アサミが続ける。


「この鏡を閉じて」


 鏡の部屋が揺れた。


 母の顔が歪む。


 鏡の中の雅琥が、アサミのほうを向いた。


 顔が消えていく。


 目も鼻も口もなくなり、白い旧式制服を着た人影へ変わる。


 顔のない卒業生。


 その影が、アサミへ手を伸ばす。


「余計な記録をしないでください」


 声は穏やかだった。


 学校の放送のように、丁寧で、冷たい。


 アサミは後ずさる。


 だが、目は逸らさない。


「あなたが編集している」


 顔のない卒業生は首を傾げた。


「編集ではありません。補正です」


「本物の残留記憶を、別の意味へ変えている」


「子どもが外へ出れば、傷つくでしょう」


 その声は、鏡の中のすべてから響いた。


 母の顔。


 雅琥の顔。


 割れた鏡。


 白い廊下。


「卒業しなければ、失わずに済む」


 雅琥は震えながら立ち上がった。


 目の前の母を見る。


 鏡の中の澪は、今も冷たい言葉を発しているように聞こえる。


 でも違う。


 本当の口の動きは。


 雅琥を連れて逃げて。


 この鏡を閉じて。


 母は、自分を責めていなかった。


 責めていなかったのかもしれない。


 九年間、聞こえていた声は。


 誰かが上書きしたものだったのかもしれない。


 雅琥の胸の奥で、何かが壊れた。


 それは救いではなかった。


 すぐに楽になれるわけではない。


 九年間の恐怖が、一瞬で消えるはずもない。


 だが、ずっと動かせなかった重い石に、初めて亀裂が入った。


「……ざけんな」


 雅琥の声が低く響く。


 顔のない卒業生が彼を見る。


「白峰雅琥。あなたはここにいれば、もう失わずに済みます」


「ふざけんな」


 雅琥は拳を握った。


 まだ怖い。


 母の顔をした鏡を見るだけで、息が詰まる。


 膝も震えている。


 それでも、怒りが恐怖の上に乗った。


 今度の怒りは、隠すための怒りではない。


 目の前の嘘を殴るための怒りだった。


「母さんの声を」


 雅琥は一歩踏み出す。


「勝手に使うんじゃねえ」


 鏡界が、ひび割れるような音を立てた。


     ◇


 その音で、散り散りになっていた意識が戻り始めた。


 茜は赤い縄を引きちぎるように目を開けた。


 アサミは血塗れの幻を振り払い、息を整える。


 風彦は白い部屋の中で、自分の名を掴むように胸元へ手を当てる。


 華子は石の下から、刀の気配を手繰る。


 それぞれの恐怖は消えていない。


 だが、全員が同じ方向の音を聞いた。


 雅琥の怒り。


 鏡を割るだけではない。


 鏡の中の嘘を、初めて殴ろうとしている音。


 風彦は、遠い鏡の中で呟いた。


「六道殿」


 声はまだ届かない。


 だが、名前は道になる。


 風彦はもう一度呼んだ。


「雅琥殿!」


 鏡界の白い闇に、細い亀裂が走った。

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