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第五幕 ― 怖い。でも、そこにいる

 白い闇に、亀裂が走った。


 それは鏡の割れる音に似ていた。


 けれど、ただの破壊音ではない。


 どこか遠くで、誰かが自分の名前を呼んだような音でもあった。


「雅琥殿!」


 風彦の声が、鏡界の奥から響く。


 その声は水の中を通ってくるように歪み、何度も反響した。


 雅琥。


 雅琥。


 雅琥。


 呼ばれるたび、白い鏡の部屋にひびが増えていく。


 七歳の姿だった雅琥は、鏡の前で膝をついていた。


 いや、七歳ではない。


 今の自分だ。


 高等部一年。


 六道学園の白虎。


 問題児。


 教師を殴った生徒。


 鏡を割って回る馬鹿。


 それらの呼び名が、頭の中でぐちゃぐちゃに重なっている。


 けれど、どれも自分の中心へ届かない。


 目の前には、母がいた。


 鏡の中の白峰澪。


 白衣姿の母。


 優しい顔。


 でも、口から聞こえる声は冷たい。


「あなたが来なければ、私は帰れた」


 その声を聞くたび、雅琥の身体は動かなくなる。


 息が吸えない。


 喉が狭くなり、胸の奥が固まる。


 全身の血が、指先から抜けていく。


「違う」


 雅琥は言った。


 言ったつもりだった。


 だが声はほとんど出ていない。


 目の前の鏡が揺れる。


 鏡の中の母が微笑む。


 その隣に、顔のない卒業生が立っている。


 白い旧式制服。


 黒い頭巾。


 顔のない、白い楕円。


 そいつは母の肩に手を置き、教師のような穏やかな声で告げる。


「怖がらなくていいのです」


 声だけは優しい。


 だから、余計に気持ち悪かった。


「怖いものは、ここへ置いていきましょう。鏡の向こうなら、失わずに済みます」


「……いねえ」


 雅琥は歯を食いしばった。


 胸が苦しい。


 呼吸が浅い。


 目の前にいるものを見たくない。


 母の顔も。


 顔のない卒業生も。


 鏡の中の自分も。


 見たくない。


 見なければ、いない。


 いないことにすれば、怖くない。


「いねえ」


 雅琥は繰り返した。


「こんなものはいねえ」


 言った瞬間、足元の床が薄くなった。


 白い鏡の床に、雅琥の足が少し沈む。


 自分の輪郭が曖昧になっていく。


 鏡界が、否定したものを飲み込もうとしている。


 顔のない卒業生が、ゆっくりと近づいた。


「そうです。いないことにしましょう」


 その声は、雅琥の内側へ染み込む。


「怖いものは、見なければいい。傷つく記憶は、なかったことにすればいい。あなたはここで、ずっと安全にいられます」


「うるせえ」


「母親の声も、あなたを責める記憶も、ここで閉じてしまいましょう」


「うるせえ!」


 雅琥は叫んだ。


 だが、叫んだ声が鏡に吸われる。


 足元の感覚が消えかける。


 自分が立っているのか、沈んでいるのか分からない。


 怖い。


 怖い。


 怖い。


 それを認めたくない。


 認めたら、また七歳の自分に戻ってしまう。


 鏡の前で泣くこともできず、母を助けられなかった子どもに。


「いねえ……こんなもの、いねえ……」


「雅琥」


 今度は、別の声がした。


 アサミだった。


 彼女は鏡の床に片膝をつきながら、白い闇の中から手を伸ばしている。


 顔色は悪い。


 額には汗が浮かび、右手首の封印具は黒く滲んでいた。


 鏡界に入ったことで、鬼門痕が疼いているのだろう。


 それでも、アサミは雅琥を見ていた。


 鏡ではなく。


 怪異ではなく。


 雅琥本人を。


「息をして」


「……うるせえ」


「吸って。吐いて」


「できねえんだよ」


「なら、言って」


「何を」


「今、見えるもの」


 雅琥は怒鳴ろうとした。


 そんなことをして何になる。


 目の前には母がいる。


 顔のない卒業生がいる。


 鏡の中の自分がいる。


 全部、見たくないものだ。


 だがアサミは、いつもの平坦な声で続けた。


「見えるものを三つ。聞こえる音を二つ。触れている感覚を一つ」


「は?」


「現世定位法。霊障パニック時の基礎対処」


「授業かよ……!」


「今は授業より重要」


 雅琥は笑いそうになった。


 笑えなかった。


 胸が苦しくて、喉が鳴る。


 アサミは手を伸ばしたまま、もう一度言った。


「見えるもの」


 雅琥は歯を食いしばる。


 鏡の中の母が言う。


「あなたが来なければ、私は帰れた」


 違う。


 本当は、そう言っていない。


 アサミが読んだ。


 母の口の動き。


 雅琥を連れて逃げて。


 この鏡を閉じて。


 それでも、声はまだ耳に残る。


 九年間、聞いてきた呪いは、そう簡単には消えない。


「……白い床」


 雅琥はかすれた声で言った。


 アサミが頷く。


「次」


「おまえ」


「次」


「……母さん」


 言った瞬間、胸が痛んだ。


 鏡の中の澪が微笑む。


 雅琥は目を逸らしかけた。


 アサミがすぐに言う。


「聞こえる音」


「……風彦の声」


 遠くで、まだ風彦が雅琥の名を呼んでいる。


 白い闇の向こうから、何度も。


 腹痛で情けない声のくせに、やけにしつこい。


「もう一つ」


「茜の声」


 遠くで、茜が何か怒鳴っている。


 内容までは聞き取れない。


 たぶん、また誰かに文句を言っている。


 こんな場所でも、彼女はうるさい。


 だから、少しだけ現実味があった。


「触れている感覚」


 アサミの声が近づく。


 雅琥は足元へ意識を向ける。


 最初は何も感じなかった。


 床が鏡なのか、水なのか、空なのか分からない。


 でも、足の裏に力を入れる。


 踏む。


 そこにあると決める。


 すると、ほんの少しだけ硬さが戻った。


「……足の裏」


「そこにいる?」


「分かんねえ」


「いる」


 アサミは即答した。


「雅琥は、そこにいる」


「勝手に決めんな」


「決める。本人が分からないなら、周囲が記録する」


 雅琥は顔を上げた。


 白い鏡の部屋に、茜の声が近づく。


「雅琥!」


 赤い縄が白い闇を裂いて伸びてきた。


 茜縄。


 それは雅琥の腕へ絡みついた。


 縛るのではなく、引き留めるために。


「勝手に沈むんじゃないわよ!」


 茜が鏡の割れ目から姿を現す。


 彼女の背後には、無数の赤い縄が揺れていた。


 だが、その縄は契約蔵で見たような檻ではなかった。


 細く、まっすぐで、誰かの手を取るための糸に見えた。


「おまえ、なんで」


「うるさい! こっちだって怖いのよ!」


 茜の声も震えている。


 だが、逃げていない。


「あんたが勝手に一人で鏡に沈みそうだから、引っ張りに来たの!」


「頼んでねえ」


「頼まれなくても来るのが友達でしょ!」


 雅琥は言葉を失った。


 友達。


 その言葉が、鏡界の白い空気の中で妙に浮いて聞こえた。


 アサミが真顔で補足する。


「戦友でも可」


「そこ、分類しなくていい!」


 茜が怒鳴る。


 その怒鳴り声に、雅琥はほんの少しだけ息を吸えた。


 顔のない卒業生が、静かに首を傾げる。


「名前を結ばないでください」


 白い影が手を上げる。


 鏡の床から、無数の手が伸びた。


 鏡の中の生徒たち。


 顔のない卒業生たち。


 彼らの手が、茜縄へ触れようとする。


 その瞬間、黒い花弁が舞った。


 華子が現れた。


 黒い戦装束を翻し、刀の鞘で鏡の手を打ち払う。


「まあ、ずいぶんと行儀の悪い手ね」


 華子は雅琥たちの前に立つ。


 鏡界の白い光の中でも、その黒い姿は滲まない。


 むしろ、夜桜の影のようにはっきりとそこにある。


「勝手に人の子を引っ張るものではないわ」


「華子さん!」


 風彦の声とともに、白衣神咒が空中へ広がった。


 風彦も遅れて現れる。


 顔色は悪く、眼鏡の奥の目は苦痛に歪んでいる。


 だが、手には白い経文。


 背後には、薄く黄色い風が揺れていた。


「皆様、ご無事でござるか」


「こっちの台詞よ!」


 茜が叫ぶ。


「蓮田くん、ふらふらじゃない!」


「鏡界の中で腹痛が悪化するとは思わなかったでござる」


「むしろ悪化しない理由がない!」


「正論でござる」


 華子は風彦を横目で見た。


「無理をする顔ね」


「無理をする場面なので」


「男の子はすぐそれを言う」


「華子さんも先ほど無茶しておられたのでは」


「わたくしはいいの」


「理不尽!」


 このやり取りを聞いて、雅琥は呆れた。


 呆れたら、少しだけ胸の苦しさが薄れた。


 何なんだ、こいつらは。


 鏡の中だぞ。


 母の記憶が歪められている。


 顔のない怪異がいる。


 怖くて、苦しくて、足元も曖昧で、息もまともに吸えない。


 なのに、いつもどおり言い合っている。


 怖くないわけではない。


 全員、怖いはずだ。


 茜の手は震えている。


 アサミの顔色は悪い。


 風彦は腹を押さえている。


 華子ですら、刀の柄を握る指に少し力が入っている。


 それでも、そこにいる。


 雅琥の隣に。


「雅琥」


 アサミが言った。


「次は、自分の名前」


「……」


「言って」


「嫌だ」


「名前を言わないと、鏡界に輪郭を奪われる」


「それっぽいこと言えば言うと思うな」


「事実」


 茜が雅琥の腕へ絡めた縄を少し引く。


「言いなさい」


「命令すんな」


「お願いよ」


「もっと嫌だ」


「わがまま!」


 風彦が静かに言う。


「六道殿。名前は、鏡に渡すためではござらん。自分へ返すために言うのでござる」


 雅琥は風彦を見る。


 風彦の目は真剣だった。


「怖いときほど、名前は足場になります」


「足場」


「はい。拙者も、よく失いかけますので」


 風彦の影が、ほんの一瞬だけ揺れた。


 人の形から外れかけ、また戻る。


 雅琥はそれを見た。


 風彦も怖いのだと、初めてはっきり分かった。


 自分が人間ではないものに見られること。


 名前を失うこと。


 仲間に忘れられること。


 それを怖がっている。


 なのに、立っている。


 雅琥は息を吸った。


 まだ苦しい。


 だが、さっきより少しだけ空気が入る。


 顔のない卒業生が、鏡の中の澪の肩に手を置いた。


「白峰雅琥」


 その声が、優しく名を呼ぶ。


「あなたはここで休んでいいのです。怖いものを認める必要はありません。母親の記憶も、外の世界も、全部こちらで保管します」


「いねえ」


 雅琥は反射的に言いかけた。


 だが、言葉を止めた。


 いないことにしても、消えなかった。


 九年間、消えなかった。


 鏡はある。


 怪異はいる。


 母は消えた。


 自分は怖い。


 それを否定している間、足元は沈むだけだった。


 雅琥は拳を握る。


 爪が手のひらへ食い込む。


 痛い。


 その痛みを、足場にする。


「怖い」


 声は小さかった。


 でも、確かに出た。


 茜が息を止める。


 アサミは頷く。


 風彦は黙って見ている。


 華子は、どこか満足げに目を細めた。


「怖い」


 雅琥はもう一度言った。


 今度は、さっきより少しだけ大きく。


「こいつは、いる」


 顔のない卒業生が動きを止めた。


「母さんの顔を使って、俺に嘘を聞かせたやつが、ここにいる」


 鏡の床が揺れる。


 白い闇がざわめく。


 雅琥は足元へ力を込めた。


「オレは六道雅琥だ」


 その名を言った瞬間、彼の足の裏に硬い感覚が戻った。


 床が鏡ではなく、地面になる。


 いや、鏡界そのものが、現世の法則を思い出し始めた。


「ここは」


 雅琥は息を吸う。


 怖い。


 まだ怖い。


 でも、そこにいる。


 自分も。


 怪異も。


 仲間も。


「ここは、六道学園だ」


 言葉が落ちた。


 その瞬間、雅琥の足元から白い紋が広がった。


 虎の爪痕。


 四肢で大地を踏みしめる獣の紋。


 白い霊光が鏡の床へ食い込み、反射を押さえつける。


 鏡面が波立ち、ひび割れる。


 白い虎の紋は、雅琥の足元から部屋全体へ広がっていく。


 現世をここに固定する力。


 名を持つ者が、立つ場所を決める力。


「《白虎踏地》」


 アサミが呟いた。


 記録したいという顔だった。


 茜が即座に睨む。


「今はあとで!」


「あとで記録する」


「よろしい!」


 鏡界が震えた。


 壁の鏡が次々と曇る。


 天井の鏡に映っていた無数の顔のない卒業生が歪み、輪郭を失っていく。


 顔のない卒業生が、初めて後退した。


「困ります」


 声はまだ穏やかだ。


 だが、そこに微かな揺らぎが混じっていた。


「現世を持ち込まないでください。ここは卒業できなかった者の保管場所です」


「知るか」


 雅琥は一歩踏み出した。


 足元の白虎紋が、その一歩に合わせて広がる。


「保管なんかされてたまるか」


 鏡の中の澪が、再び冷たい声を発した。


「あなたが来なければ、私は帰れた」


 雅琥の肩が震える。


 恐怖は消えない。


 だが、今度は止まらなかった。


「その声は母さんじゃねえ」


 雅琥は拳を構える。


 鏡の中の自分が現れる。


 七歳の顔。


 笑っている。


 おまえが来たから。


 母親は帰れなくなった。


 雅琥は歯を食いしばる。


「黙れ」


 拳が白く光る。


 実体のない怪異には、普通の拳は届かない。


 だが、今の雅琥の足元には現世がある。


 白虎踏地が、鏡界の一部を現世へ固定している。


 そこに立つものは、幻ではいられない。


 雅琥の拳が、鏡の中の自分の顔面を捉えた。


 ごん、と重い音がした。


 鏡の中の自分が吹き飛ぶ。


 顔のない卒業生の輪郭が大きく歪んだ。


 茜が叫ぶ。


「殴れた!」


 アサミが目を輝かせる。


「実体化ではなく、現世定着による接触判定の強制発生」


「今は解説短め!」


「すごい」


「それでいい!」


 雅琥は止まらない。


 鏡の床を踏み砕くように前へ出る。


 白い虎の紋が爪痕を刻む。


 顔のない卒業生は後ろへ滑るように下がり、鏡の中の澪を盾にするように立たせた。


 澪の顔が、雅琥を見る。


 優しい顔。


 母の顔。


 その口から、また偽りの声が出る。


「雅琥。あなたが――」


「言わせねえ」


 雅琥の拳が震えた。


 母の顔を殴ることはできない。


 たとえ偽物だと分かっていても。


 その迷いを、顔のない卒業生が見逃さない。


 鏡の壁から白い手が伸び、雅琥の腕を掴もうとする。


 その手を、黒い刃が切り払った。


 華子だった。


「母君のお顔を盾にするなんて、趣味が悪いわね」


 華子の声は冷えていた。


「風彦」


「はい!」


「水鏡を返すわ。道を作りなさい」


「承知!」


 華子は刀を鞘に納め、代わりに左手を鏡の床へ添えた。


 指先から黒い花弁が水のように広がる。


 厠の水。


 井戸の水。


 流すための水。


 映すための水ではなく、返すための水。


「《水鏡返し》」


 華子が唱える。


 鏡の床に映っていた澪の姿が揺れた。


 冷たい声が乱れ、本来の口の動きが一瞬だけはっきりする。


 雅琥を連れて逃げて。


 この鏡を閉じて。


 雅琥はそれを見た。


 今度は、自分の目で。


 母は自分を責めていなかった。


 助けようとしていた。


 逃がそうとしていた。


 その事実が、胸の奥で痛かった。


 救いではある。


 だが、同時に残酷でもある。


 九年間、自分は偽物の声に縛られていたのだ。


「……母さん」


 雅琥の声がかすれる。


 鏡の中の澪は、悲しそうに微笑んだ。


 もう声は聞こえない。


 ただ、唇だけが動く。


 逃げて。


 閉じて。


 雅琥は拳を握り直した。


「分かった」


 白虎紋がさらに広がる。


 顔のない卒業生が手を伸ばす。


「閉じてはいけません。閉じれば、また誰かが外で傷つきます。ここにいれば、永遠に失われません」


「失われてんだよ」


 雅琥は低く言った。


「ここに閉じ込めて、名前をいじって、声を上書きして、何が守るだ」


 顔のない卒業生は首を傾げる。


「卒業できない者を、忘れさせないためです」


「だったら、忘れないように外で覚えとけ」


 雅琥は一歩踏み込む。


「閉じ込めるな」


 拳を引く。


 白い虎の紋が右腕へ駆け上がる。


 母の顔をした偽物ではなく、その背後にいる顔のない影を狙う。


「《返鏡砕き》」


 雅琥の拳が、鏡の中の澪の背後へ突き刺さった。


 硝子を殴る音ではない。


 水面を打つ音でもない。


 嘘で貼り合わせられた記憶を砕く音だった。


 顔のない卒業生の輪郭が大きく裂ける。


 白い制服がひび割れ、黒い頭巾がほどけ、顔のない白い面に亀裂が走った。


 同時に、鏡の中の澪の姿が砕けた。


 破片になって散る。


 雅琥の拳が止まる。


 胸が痛む。


 分かっていても、母の姿が砕けるのは痛い。


 だが、砕けた破片の一つひとつに、別の映像が映っていた。


 九年前。


 鏡の向こうの澪が、玄斎へ叫んでいる。


 声は聞こえない。


 でも口の動きは分かる。


 雅琥を連れて逃げて。


 この鏡を閉じて。


 玄斎が幼い雅琥を抱き上げる。


 雅琥は泣き叫んでいる。


 母のほうへ手を伸ばしている。


 澪は笑う。


 泣きながら、笑う。


 そして、自分の手で鏡の内側から封印式を閉じる。


 雅琥は、それを見た。


 初めて、最後まで見た。


「……母さん」


 声は震えていた。


 でも、さっきまでとは違う震えだった。


 顔のない卒業生が後退する。


 華子の水鏡返しが、上書きされた声を押し返している。


 風彦はその隙に、白衣神咒を広げた。


「三崎由衣殿!」


 彼は由衣の魂魄像へ向かって呼びかける。


 由衣は返り鏡の中央に、まだ半分沈んだままだった。


 顔のない卒業生の手が、彼女を奥へ引こうとしている。


 風彦は眼鏡を外しかけ、途中で止めた。


 今は全部を見る必要はない。


 名前を呼べばいい。


 現世へ戻る道を作ればいい。


「三崎由衣殿。あなたの身体は、学園の外ではなく、現世にある。戻る場所は、こちらでござる」


 白衣神咒が由衣の足元へ届く。


 だが、鏡の奥から手が伸び、経文を絡め取ろうとする。


 茜が赤い縄を飛ばした。


「邪魔しないで!」


 茜縄が鏡の手を弾く。


 アサミが由衣の名前を繰り返す。


「三崎由衣。高等部一年。所属、召喚術基礎班。寮室、西棟二〇四」


「個人情報!」


 茜が叫ぶ。


「名前だけでは固定が弱い」


「それはそうかもしれないけど!」


「三崎由衣。現世側身体、保健班担架上。呼吸あり。脈拍あり。生存」


 アサミの声が、記録のように響く。


 由衣の魂魄像が少し揺れる。


 風彦の白衣神咒が、由衣の腰へ届いた。


「戻ってくるでござる!」


 風彦が経文を引く。


 腹が痛む。


 鏡界の奥から、無数の名前が風彦へ触れようとする。


 知らない名前。


 消えかけた名前。


 卒業できなかった名前。


 それらが一斉に、彼の手を掴もうとしてくる。


 風彦の影が揺らぐ。


 黄色い風が漏れかける。


 その背中を、華子が軽く叩いた。


「風彦」


 名前を呼ばれた。


 それだけで、風彦の影が戻る。


「はい」


「あなたまで鏡の奥へ行ったら、厠掃除を誰にさせるの」


「その理由で引き戻されるのは複雑でござる!」


「戻る理由は多いほうがよいでしょう」


「確かに!」


 風彦は歯を食いしばり、経文を引いた。


 茜が縄で支える。


 アサミが名前を記録する。


 華子が水鏡返しで呪いを押し返す。


 雅琥が足元で現世を固定する。


 五人の力が、鏡界の中で一本の道になった。


 由衣の魂魄像が、返り鏡から剥がれる。


 顔のない卒業生が手を伸ばす。


「まだ卒業ではありません」


 雅琥が振り返った。


「知るか」


 白虎紋が床を叩く。


 返鏡砕きの余波が、伸びてきた手を砕いた。


「帰りたい奴を帰せ」


 由衣の魂魄像が白い光となり、風彦の経文に導かれて現世側へ引き戻される。


 鏡の部屋が激しく揺れた。


 壁の鏡が次々とひび割れる。


 だが、完全には砕けない。


 顔のない卒業生の姿も、まだ消えない。


 亀裂の入った白い顔が、ゆっくりとこちらを向いた。


「確認しました」


 声は穏やかだった。


 傷ついたようにも、怒ったようにも聞こえない。


 だからこそ、不気味だった。


「白峰雅琥、現世定着能力、覚醒」


 アサミが目を見開く。


 茜も息を呑む。


 風彦の腹が、別の種類の痛みを訴える。


 これはただの鏡の怪異ではない。


 いま目の前にいるものは、由衣をさらうためだけに動いたのではない。


 雅琥の力を見た。


 確認した。


 その言葉が、あまりにも冷静だった。


「何を確認してんだよ」


 雅琥が低く言う。


 顔のない卒業生は答えない。


 白い光が強くなる。


 鏡界そのものが、五人を吐き出そうとしている。


 華子が刀の鞘を掴む。


「戻るわよ」


「逃げるのでござるか」


 風彦が聞く。


「違うわ。今回は、相手が退いたのよ」


 華子は顔のない卒業生を睨む。


「次はこちらから訪ねることになるかもしれないけれど」


 顔のない卒業生は、ゆっくりとお辞儀をした。


「また、卒業式で」


 その言葉を最後に、鏡界が割れた。


     ◇


 現実の返り鏡の間へ、全員が投げ出された。


 黒い石の床。


 巨大な立鏡。


 封印符の焦げた匂い。


 白い光は消えている。


 壁の鏡には、いくつもひびが入っていた。


 だが、完全には壊れていない。


 中央の返り鏡だけが、水面のように静まり返っている。


 風彦は床へ両手をついた。


 腹が痛い。


 かなり痛い。


 だが、生きている。


 茜は隣で尻餅をつき、すぐにアサミを確認した。


「アサミ、無事?」


「無事。たぶん」


「たぶん禁止」


「無事」


「よし」


 華子は何事もなかったように立ち上がり、着物の裾を整えた。


 ただし、少しだけ髪が乱れている。


 彼女はそれを不満そうに指で梳いた。


「鏡というのは嫌ね。髪の乱れまで見せてくる」


「そこを気にされるのでござるか」


「大事なことよ」


 風彦は笑おうとして腹を押さえた。


 雅琥は、返り鏡の前に立っていた。


 息が荒い。


 拳は震えている。


 目の前の鏡を見ている。


 見られている。


 逃げていない。


 鏡の中には、もう澪の姿はない。


 顔のない卒業生もいない。


 ただ、今の雅琥自身が映っている。


 青ざめた顔。


 乱れた髪。


 震える拳。


 怖がっている自分。


 雅琥は、その姿を見た。


 長い沈黙のあと、小さく呟く。


「……いる」


 茜が聞き返す。


「え?」


 雅琥は鏡から目を逸らさない。


「怖い。けど、いる」


 それが、鏡の怪異のことなのか。


 自分自身のことなのか。


 母の記憶のことなのか。


 誰にも分からなかった。


 けれど、風彦には、その全部なのだと思えた。


 返り鏡の間の扉が外側から開かれる。


 玄斎が飛び込んできた。


 その顔は、普段の冷静さを失っていた。


「雅琥!」


 雅琥は振り返る。


 玄斎は彼の無事を確認し、ほんの一瞬だけ安堵したように見えた。


 だが雅琥は、その表情にすぐには応えなかった。


 返り鏡の中で見たもの。


 母の本当の口の動き。


 そして、玄斎が何を知っていて何を隠したのか。


 聞かなければならないことがある。


 怒らなければならないこともある。


 許せないことも。


 それでも今、雅琥は鏡の前に立っていた。


 逃げずに。


 現世の床を、自分の足で踏んでいた。

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