第六幕 ― 親子の沈黙
返り鏡の間には、割れなかった鏡の匂いが残っていた。
硝子の匂いではない。
古い水。
乾いた銀。
忘れられた名前を擦り合わせたような、喉の奥に薄く残る匂い。
壁一面の鏡には、ひびが走っている。
だが、どの鏡も完全には砕けていなかった。表面は白く曇り、こちらを映すことを拒んでいる。まるで、今は眠っているだけだと言わんばかりだった。
中央の巨大な返り鏡は、黒い布で覆われた。
玄斎が自ら封印布をかけ、銀の釘で四隅を留めたのだ。
布の下からは、もう白い光は漏れていない。
それでも、誰もそこへ背を向けようとはしなかった。
生徒たちは、皆、床に座り込んでいる。
茜は壁際で、アサミの肩を支えていた。
アサミは「自力で座れる」と言い張ったが、茜は無視した。鬼門痕と鏡界の干渉で、彼女の顔色は紙のように白い。右手首の封印具も、まだ薄く黒ずんでいる。
風彦は少し離れた場所で、腹を押さえてうずくまっていた。
華子はその横に立ち、半ば呆れたように彼を見下ろしている。
「だから言ったでしょう。鏡を真正面から見るなと」
「見たくて見たわけではござらん……」
「あなた、見たくなくても見えるのでしょう?」
「それを言われると返す言葉がないでござる」
「では、次からはもっと慎重に」
「次がある前提なのが大変つらい」
華子は少し笑った。
その笑みにも疲れが見えた。
彼女もまた、無傷ではない。
黒い着物の袖口には、鏡界の白い光で焼けたような薄い跡が残っている。《水鏡返し》で呪いを押し返した反動だろう。
だが華子は、それを気にしている様子を見せなかった。
ただ、髪の乱れだけはしきりに直している。
雅琥は、返り鏡の前に立ったままだった。
もう鏡面は見えない。
黒い封印布に覆われている。
それでも、そこに母の影が残っているように見えるのか、彼は動かなかった。
拳は震えている。
右手の甲には、鏡を割ったときの細い切り傷が何本もある。
床を踏む足にも力が入りすぎている。
白虎踏地の霊光は消えていた。
だが、さっきまで鏡界を現世へ固定していた名残のように、彼の足元の石床には白い爪痕に似た光の筋が残っている。
玄斎は、その背中を見ていた。
学園長としてではなく。
封門施設の管理者としてでもなく。
ひとりの保護者として。
だが、その声が出るまでには、長い時間がかかった。
「雅琥」
雅琥は振り返らない。
「……何だよ」
声は荒い。
しかし、さきほどまでの怒鳴り声とは違っていた。
怒りだけではない。
その下に、疲労と、混乱と、まだ整理できない痛みがある。
玄斎は懐から細い封筒を取り出した。
古い和紙の封筒だった。
表には、赤い封印印が押されている。
鏡術研究棟事故記録。
白峰澪。
その二つの文字が、かすかに見えた。
雅琥の肩が揺れた。
「何だ、それ」
「九年前の事故記録の写しだ」
玄斎は言った。
「完全なものではない。封印された部分もある。鏡界側に失われた記録もある。だが、澪が最後に残した言葉は、ここに記されている」
雅琥は、ようやく振り返った。
目が赤い。
泣いたわけではない。
泣く前にずっと怒っていた顔だった。
「今さらかよ」
玄斎は否定しなかった。
「今さらだ」
「何で今なんだよ」
「おまえが、鏡の中で見たからだ」
「見なきゃ出さなかったのか」
「……そうだ」
茜が小さく息を呑んだ。
アサミも玄斎を見た。
風彦は何も言わなかった。
華子だけが、目を細めて玄斎を見つめている。
その顔は、何かを裁くようでもあり、昔の知人の愚かさを見ているようでもあった。
雅琥は笑った。
乾いた、痛い笑いだった。
「守るためか」
玄斎は封筒を持ったまま、短く息を吐いた。
「そう言ってきた」
「便利だな、その言葉」
「便利だ。だから、私は間違えた」
雅琥の表情が止まる。
玄斎は、初めて左目を覆う封印眼鏡へ触れた。
外しはしない。
ただ、その奥にあるものを隠すように、指先を添えた。
「おまえを信じなかったのではない」
声は低い。
けれど、わずかに震えていた。
「私が、失うことを恐れた」
返り鏡の間に、静かな時間が落ちた。
玄斎のような男が、恐れたと言う。
その言葉は、この部屋のどんな封印よりも重かった。
「澪を失った」
玄斎は続けた。
「鏡の向こうで、彼女が閉じていくのを見ていた。私はおまえを抱えて逃げた。澪は、そうしろと言った。雅琥を連れて逃げて。この鏡を閉じて。確かに、そう言った」
雅琥の喉が動いた。
言葉は出ない。
「だが、おまえは泣いていた。鏡へ戻ろうとしていた。私は、おまえを離せなかった。澪を戻せなかった。おまえも失うかもしれないと思った」
「だから、何も言わなかったのか」
「そうだ」
「母さんが何て言ったかも」
「そうだ」
「俺が悪くないって、言えたはずなのに」
玄斎は目を閉じた。
「言えた」
「言わなかった」
「言わなかった」
雅琥の拳が震える。
「なんでだよ」
その声は、怒鳴り声ではなかった。
七歳の子どもが、ずっと聞きたかった問いのようだった。
「なんで、言わなかったんだよ」
玄斎は、すぐには答えられなかった。
答えを探す沈黙ではない。
言い訳を選ばないための沈黙だった。
「言えば、おまえは鏡へ近づくと思った」
「近づいたよ」
「そうだ」
「隠しても、近づいた」
「そうだ」
「馬鹿じゃねえのか」
「馬鹿だった」
雅琥は、今度こそ言葉を失った。
玄斎は封筒を差し出した。
「許してほしいとは言わない」
「当たり前だ」
「今すぐ読めとも言わない」
「読ませるために持ってきたんじゃねえのか」
「いつ読むかは、おまえが決めろ」
雅琥は封筒を睨んだ。
手を伸ばさない。
玄斎も引っ込めない。
しばらく、二人はそのまま立っていた。
親子というには遠い。
他人というには、あまりに深く傷つき合っている。
沈黙の中で、封筒だけが二人の間にあった。
やがて、雅琥は乱暴に手を伸ばした。
封筒を奪うように取る。
くしゃり、と端が少し潰れた。
玄斎は何も言わなかった。
「読むかどうかは分かんねえ」
「ああ」
「許したわけじゃねえ」
「分かっている」
「母さんのこと、まだ聞くからな」
「答える」
「全部か」
「答えられることは」
雅琥の目が鋭くなる。
「またそれかよ」
玄斎は、苦く頷いた。
「答えられないことは、答えられない理由を言う」
雅琥は封筒を握りしめた。
今度は捨てなかった。
破りもしなかった。
ただ、制服の内側へ押し込む。
それだけだった。
だが茜には、それがどれほど大きなことか分かった。
アサミも、記録しなかった。
風彦も、何も言わなかった。
華子は小さく呟いた。
「親子とは、厄介ね」
玄斎が彼女を見る。
華子は涼しい顔で微笑んだ。
「何か?」
「いや」
「わたくしなら、隠し事をした大人にはもう少し嫌味を言うけれど」
「すでに十分言っている」
「あら。まだ序の口よ」
雅琥が低く言った。
「その女、黙らせろ」
風彦は即座に首を振った。
「拙者には無理でござる」
「契約してんだろ」
「契約しているからこそ無理なのでござる」
「使えねえ」
「面目ない」
張りつめた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
雅琥はまだ笑わなかった。
玄斎も。
それでも、その場にあった沈黙は、さきほどまでとは違っていた。
閉じるための沈黙ではない。
まだ言葉にできないものを、捨てずに置いておくための沈黙だった。
◇
返り鏡の間を出ると、廊下には教職員と保健班が待機していた。
三崎由衣の身体はすでに保健室へ運ばれている。
魂魄が戻った直後、彼女は一度だけ目を開け、自分の名前を呼ばれて小さく頷いたという。
まだ意識は朦朧としている。
だが、生きている。
名前も、現世に残っている。
それを聞いた茜は、壁にもたれたまま深く息を吐いた。
「よかった……」
「完全回復には観察が必要」
アサミが言う。
「でも、戻った」
「うん。戻った」
茜はそれだけで、少しだけ泣きそうな顔になった。
すぐに袖で目元を擦る。
「泣いてないから」
「まだ何も言ってない」
アサミが答える。
「言う前に言ったの」
「予防線」
「そう」
風彦はそのやり取りを聞きながら、壁に手をついていた。
鏡界から戻ったあとも、腹痛は治まっていない。
ただ、痛みの種類は少し変わっていた。
鏡に輪郭を撫でられる痛みではなく、力を使いすぎた反動の痛み。
現実の痛み。
それはそれでつらいが、少なくとも鏡の中に引かれている感覚ではなかった。
そこへ、端末が鳴った。
風彦の学園端末ではない。
黒い、公儀支給の端末。
懐の奥へ入れていたはずのそれが、鋭い振動を伝えてくる。
風彦は反射的に手で押さえた。
だが遅かった。
茜が気づく。
「蓮田くん?」
アサミも視線を向ける。
雅琥も、少し離れた場所からこちらを見る。
華子だけは、最初から知っていたような顔で微笑んでいた。
端末は、もう一度震えた。
表示された文字は、風彦だけに見えるはずだった。
しかし、返り鏡の間を出た直後で、周囲にはまだ鏡界の反射残滓が残っていた。
黒い端末の画面に浮かんだ文字が、廊下の封印布へ薄く反射する。
茜がそれを読んだ。
――公儀怪異対策局。
――六道校域監視任務者、蓮田風彦。
――返り鏡異常および学園長対応について、至急報告せよ。
沈黙。
茜の表情が変わった。
アサミは瞬きをしない。
雅琥は、ゆっくりと風彦のほうへ歩いてきた。
「公儀?」
声が低い。
風彦は端末を握りしめた。
「それは」
「監視任務者って何だ」
雅琥の目が、さきほど玄斎へ向けたものとは別の鋭さを持っていた。
裏切られた、というほど単純ではない。
しかし、また隠されていたものが出てきた。
そのことが、彼の神経へ触れている。
茜が一歩前に出る。
「蓮田くん。説明して」
アサミは静かに言った。
「以前から、公儀関係者の可能性はあった。白衣神咒、封印具、端末の反応、学園情報へのアクセス。けれど、本人から聞いていない」
「推理してたなら言いなさいよ」
「確証がなかった」
「今あるわね」
「うん」
風彦は、何度か口を開こうとした。
だが声が出ない。
言わなければならない。
けれど、何をどう言えばいいのか分からない。
自分は公儀から送り込まれた。
学園内の結界異常を監視するため。
必要であれば報告するため。
六道玄斎も、学園の怪異も、生徒たちも。
観察対象だった。
それは事実だ。
だが、鬼門のときに茜たちを助けたのも事実だ。
鏡界で雅琥の名を呼んだのも。
三崎由衣の魂魄を引き戻そうとしたのも。
公儀の命令ではない。
自分の判断だった。
でも、だからといって監視役である事実が消えるわけではない。
「おまえ」
雅琥が言った。
「最初から知ってたのか」
「全部ではござらん」
「何を知ってた」
「学園地下に異界門があること。結界異常が起きている可能性があること。公儀が六道学園を注視していること」
「俺たちは?」
風彦は息を呑んだ。
雅琥の声は、さらに低くなる。
「俺たちも、監視対象か」
答えられなかった。
公儀の任務書には、生徒個人の監視とは書かれていない。
だが、異常に関わった生徒は報告対象になる。
茜。
アサミ。
雅琥。
そして、華子。
今日の出来事を報告すれば、全員の名前が公儀へ上がる。
上がらないように書くこともできるかもしれない。
だが、それは任務違反になる。
公儀は、風彦自身を見ている。
ハスターの血を持つ監視対象として。
風彦は腹を押さえる。
痛い。
だが、今の痛みは怪異ではない。
答えられない自分への痛みだった。
「おまえは誰の味方なんだ」
雅琥が問う。
その言葉は、まっすぐ風彦の胸へ刺さった。
誰の味方。
公儀。
学園。
玄斎。
華子。
茜。
アサミ。
雅琥。
自分自身。
どれか一つを選べるほど、風彦は強くなかった。
「……拙者は」
声が掠れる。
いつもの「ござる」でごまかそうとしている自分が嫌になった。
風彦は言い直そうとする。
だが、それでも答えは出ない。
「僕は」
茜が、少しだけ目を見開いた。
風彦が「僕」と言った。
それは、彼が本当に困っているときの声だった。
「分かりません」
風彦は、ようやく言った。
「今は、答えられない」
雅琥の目が冷える。
「最悪の答えだな」
「はい」
「否定しろよ」
「できませぬ」
「できねえのかよ」
「はい」
茜が唇を噛む。
アサミは風彦をじっと見ている。
責めるでもなく、許すでもなく。
記録するように。
けれど、今回は記録帳を出さなかった。
華子が静かに口を開く。
「人は、すぐには自分の味方も決められないものよ」
雅琥は彼女を睨む。
「怪異に聞いてねえ」
「でしょうね。でも、聞こえてしまったもの」
「黙ってろ」
「嫌よ」
華子は微笑む。
「風彦は嘘をつかなかった。それで許されるとは言わないけれど、少なくとも、上手な裏切り者ではないわね」
「下手ならいいって話じゃねえ」
「ええ。その通り」
華子は、今度は風彦を見た。
「だから、決めなさい。いつかではなく、近いうちに」
風彦は答えられなかった。
ただ、黒い端末を握りしめた。
画面には、報告要求の文字がまだ浮かんでいる。
彼はそれを閉じた。
すぐに返信はしなかった。
その小さな行動が、誰かへの答えになるとは思えない。
だが、今すぐ仲間の名を報告欄へ打ち込むことだけは、できなかった。
雅琥はそれを見ていた。
何も言わず、背を向ける。
「雅琥」
茜が呼ぶ。
「頭冷やす」
彼は歩き出した。
今度は逃げるというより、本当に距離を置くための足取りだった。
風彦は追えなかった。
追う資格があるのか分からなかった。
◇
その夜。
アサミは図書塔の記録閲覧室にいた。
本来なら、保健室で休んでいなければならない。
茜には「今日は絶対に調べない」と言った。
正確には、「一人で危険なことはしない」と言った。
だから、危険度の低い記録照会だけをしている。
本人の中では、そういう整理だった。
ただし、茜が知れば怒る。
それは分かっていた。
だからアサミは、怒られることを前提に、必要な範囲だけ調べることにした。
机の上には、返り鏡の封印記録の写しがある。
鏡界から戻ったあと、玄斎が一部開示したものだ。
完全な記録ではない。
だが、封印の更新履歴は確認できた。
返り鏡は九年前に使用停止。
以後、年に一度、学園長権限で封印確認。
昨年度、教師傷害事件のあとに臨時確認。
そして、今回の異常発生直前。
奇妙な更新履歴が一つあった。
――封印状態、確認済。
――権限者:卒業生。
アサミは画面を拡大する。
権限者名がない。
職員番号もない。
卒業年度もない。
ただ、権限者区分だけが「卒業生」となっている。
そんな権限は存在しない。
卒業生が封印記録へアクセスできるはずがない。
まして、返り鏡の封印状態を確認済みにするなど不可能だ。
アサミは端末を叩く指を止めた。
「存在しない卒業生権限……」
声に出して記録する。
その瞬間、閲覧室の照明が一瞬だけ明滅した。
アサミは顔を上げる。
室内には誰もいない。
鏡はない。
窓にも布がかかっている。
だが、書棚の奥から紙が落ちる音がした。
ぱさり。
アサミは立ち上がる。
危険。
分かっている。
一人で近づくべきではない。
それでも、目の前の紙から視線を離せなかった。
床に落ちていたのは、古い卒業写真だった。
白黒に近い、色あせた写真。
いつの時代のものか分からない。
校舎の前に、生徒たちが並んでいる。
中央には教師。
背後には桜。
普通の卒業写真に見える。
しかし、その一番後ろに、見覚えのある五人が写っていた。
蓮田風彦。
稲葉茜。
新垣アサミ。
六道雅琥。
そして、黒い着物姿の華子。
ありえない。
この写真は古い。
自分たちはまだ卒業していない。
華子に至っては、生徒ですらない。
それなのに、五人は写真の端に立っている。
表情は硬い。
何かを見ているようだった。
さらに、その背後。
五人の後ろに、顔のない生徒が立っていた。
白い旧式制服。
黒い頭巾。
顔のない卒業生。
アサミの呼吸が止まる。
写真の中の顔のない生徒は、こちらを見ている。
目はない。
それでも、確かに。
アサミは写真を裏返した。
裏には何も書かれていなかった。
最初は。
だが、紙の繊維の奥から、黒い文字がゆっくりと浮かび上がる。
整った、学校の記録文書のような文字。
――第二の錠前、確認。
アサミは、すぐに写真から手を離した。
床へ落とす。
自分の呼吸を確認する。
名前。
現在地。
足の裏の感覚。
さきほど雅琥へ言わせた方法を、自分にも使う。
「新垣アサミ。六道魔導学園、図書塔三階記録閲覧室。床は硬い。照明はついている。手は自分のもの」
声は震えていない。
震えていないと判断する。
それから端末を取り出し、茜へ連絡を送った。
――ごめん。怒られることをした。
すぐに返信が来た。
――どこ。
アサミは短く打つ。
――図書塔。危険物を発見。写真。
次の返信は、さらに早かった。
――動かないで。今行く。説教はあと。
アサミは、ほんの少しだけ息を吐いた。
次に風彦へ送る。
雅琥へも。
迷ったあと、玄斎にも。
最後に、写真を見る。
床に落ちた古い卒業写真。
そこに写る五人と、顔のない生徒。
第一の錠前は、鬼契りだったのか。
第二の錠前は、返り鏡なのか。
なら、残りはいくつあるのか。
卒業に必要な者、五名。
その言葉が、アサミの記録帳に残っていたことを思い出す。
彼らは、選ばれたのではない。
確認された。
何かが、学園の古い錠前を一つずつ開けるために。
あるいは、確かめるために。
アサミは写真から目を逸らさず、茜たちを待った。
今度は、一人で触れない。
今度は、一人で続きを読まない。
それでも、記録する。
恐怖はある。
だが、見なかったことにはしない。
図書塔の窓の外で、夜の学園が沈黙していた。
どこか遠くで、卒業式の鐘のような音が一度だけ鳴った。




