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厠の華子さん―ネオ江戸魔導学園怪異録―  作者: 秋月キアラ
第3話 ― 稲葉家の鬼契り
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第一幕 ― 枯れる水田

 稲葉藩の水田は、春の終わりには青く輝いているはずだった。


 水面には空が映り、若い稲は風に揺れ、田の縁には魔導植物の白い花が咲く。霊水路を通って運ばれる清い水は、ただ作物を育てるだけではない。土地の霊脈を整え、病を遠ざけ、悪霊の侵入を防ぎ、藩の人々が日々を営むための見えない土台となっている。


 稲葉の土地は、昔から水で守られてきた。


 そう教えられて育った。


 だが今、その水は濁っていた。


 茜は、水田の畦に立ち尽くしていた。


 足元の土はぬかるんでいる。けれど、その泥には生きた匂いがない。湿っているのに、どこか乾いている。水を含んだ土ではなく、冷えた灰を練ったもののようだった。


 霊水路の水は、薄く赤茶けていた。


 本来なら透明に近く、光を受けると淡い金色に輝く水だ。稲葉藩の中心を流れるその水は、藩主家の霊力と土地の祭祀によって清められている。幼い頃、茜はその水を「光る小川」と呼んでいた。


 今は違う。


 水面に浮かぶのは、枯れた葉と、黒く変色した魔導苔。


 霊水路の縁に植えられた護符草は、葉先から白く枯れ、触れれば粉になりそうだった。田の水面には、見慣れない泡が浮かんでいる。泡ははじけるたびに、微かな鉄の匂いを漂わせた。


「……ひどい」


 茜の声は、風に流されるほど小さかった。


 隣にいた母、稲葉志乃は答えなかった。


 志乃は淡い灰桜色の着物に羽織を重ね、静かに霊水路を見ている。年齢より若く見える人だったが、この数週間で頬が痩せた。目元には疲労が滲み、結い上げた髪にも以前のような艶がない。


 それでも、稲葉家の奥方としての姿勢は崩していなかった。


 背筋は伸び、声は落ち着き、家臣たちの前では決して取り乱さない。


 それが、茜にはつらかった。


 母が母である前に、稲葉家の人間であろうとしていることが。


「昨日より、悪くなっているの?」


 茜が尋ねると、志乃はわずかに目を伏せた。


「南の水門から先は、まだ保っています」


「それって、ここはもう駄目ってことじゃない」


「駄目とは言っていません」


「母上は、いつもそう」


 茜は思わず声を強めた。


「大丈夫じゃないときに、大丈夫って顔をする」


 志乃は責めなかった。


 ただ、娘の横顔を見た。


「あなたも同じ顔をします」


 茜は言葉に詰まった。


 風が吹く。


 枯れかけた稲が、乾いた音を立てた。


 しゃらり、というはずの音ではない。


 紙をこすり合わせるような、軽く、死んだ音だった。


「父上は」


 茜は聞いた。


「今朝は、起きられたの?」


 志乃の表情が、ほんの少しだけ揺れた。


 それだけで答えは分かった。


 茜は胸元を掴む。


 制服の上から、稲葉家の家紋に触れた。


 三束の稲穂を、赤い縄で結んだ紋。


 鬼門の騒ぎ以来、その赤い縄が、ただの家紋には見えなくなっている。


 鬼の身体へ食い込んでいた無数の縄。


 稲葉の血を呼んだ声。


 名を返せ。


 我らを使うな。


 あれから、茜は何度も夢を見た。


 自分の手首から赤い縄が伸び、顔の見えない鬼たちとつながっている夢。


 縄を切ろうとしても切れない。


 引けば鬼が苦しみ、手放せば父が倒れる。


 その夢の中で、茜はいつも最後に目を覚ます。


 答えを選ぶ前に。


「父上に会わせて」


 茜が言うと、志乃はすぐには頷かなかった。


「お疲れです」


「会わせて」


「茜」


「お願い、母上」


 志乃は娘を見つめた。


 その目の奥にある迷いを、茜は初めて正面から見た気がした。


 母は何かを知っている。


 ずっと知っている。


 父の病のことも、鬼契りのことも、稲葉家が隠してきたものも。


 けれど、それを茜へ話さなかった。


 守るためだと言うのだろう。


 学園長の六道玄斎と同じように。


 茜はその言葉が嫌いになりかけていた。


 守るため。


 知らなくていい。


 いずれ話す。


 その言葉のせいで、どれだけのことが遅れたのか。


 どれだけの人が一人で抱え込んだのか。


 志乃は小さく息を吐いた。


「……長くは話せません」


「分かってる」


「お父上が、あなたを分からなくても」


 茜の胸が冷えた。


 志乃は静かに続ける。


「責めてはいけません」


「責めるわけないじゃない」


 声が少しだけ震えた。


「責めるわけ、ない」


     ◇


 稲葉家の屋敷は、古い武家屋敷を基にしながら、現代の魔導設備が組み込まれている。


 瓦屋根。


 長い廊下。


 手入れされた庭。


 障子の向こうに見える霊水の小池。


 そのすべてが、茜の知っている家だった。


 けれど今日は、屋敷全体が息を潜めているようだった。


 廊下の隅には、見慣れない護符が増えている。


 柱には赤い糸が巻かれ、床下からは低い祈祷の声が聞こえた。家臣たちは茜を見ると深く頭を下げるが、目を合わせようとしない。


 茜が近づくと、会話が止まる。


 まただ。


 また、自分だけが外側に置かれている。


 父の病室は、屋敷の奥にあった。


 庭に面した静かな部屋。


 かつて父が書状を書いたり、茜に召喚杖の握り方を教えたりした部屋だった。


 今は、窓に薄い結界布がかけられている。


 畳の中央には布団。


 その横には、霊水を入れた白磁の器と、薬湯の椀。


 空気には薬草と香の匂いが満ちていた。


 稲葉景継は、布団の上で上体を起こしていた。


 以前より痩せた。


 頬の線が鋭くなり、髪にも白いものが目立つ。


 だが、茜が入ってきたとき、彼は微笑んだ。


 優しい笑みだった。


 茜が小さい頃、転んで膝を擦りむいたときに向けてくれた笑みと同じ。


 茜は、その笑みを見ただけで泣きそうになった。


「父上」


 呼ぶと、景継は少し首を傾げた。


「……ああ」


 声は柔らかい。


 けれど、どこか遠い。


「来てくれたのか」


「はい。学園は今日は休みをいただきました」


「学園」


 景継はその言葉を、舌の上で確かめるように繰り返した。


「そうか。学園か。おまえは、もうそんな歳だったな」


 茜は笑おうとした。


「何を言っているんですか。入学したばかりです」


「入学……」


 景継は目を細める。


「そうだ。入学式へ、行けなかった」


「いいんです」


「よくない」


 その声だけは、少しだけはっきりしていた。


「父親が、娘の入学式へ行けないのは、よくない」


「父上」


「すまない」


「謝らないでください」


 茜は布団のそばへ座った。


 父の右手が布団の上に置かれている。


 以前なら、茜が近づくと自然に伸びてきた手だ。


 頭を撫で、肩を叩き、召喚杖の握り方を直してくれた手。


 今、その手はほとんど動かない。


 指先に霊力を通すための細い銀針が刺され、赤い糸で手首と霊水の器がつながれていた。


 まるで、父自身が何かの儀式具にされているようで、茜は息が苦しくなった。


「父上。水田を見てきました」


 景継の目が揺れる。


「水田……」


「霊水路が濁っています。護符草も枯れかけていました」


「そうか」


 景継は目を伏せた。


「早いな」


「早い?」


「……止めた、つもりだった」


 茜の胸が跳ねた。


「何をですか」


 志乃がわずかに身じろぎした。


 景継は、聞こえていないように続ける。


「もう、使うべきではない。そう言った。あの子たちを、これ以上……」


「あの子たち?」


 茜は身を乗り出した。


「父上、あの子たちって、鬼のことですか」


 景継の顔色が変わった。


 彼は何かを思い出そうとするように、左手で額を押さえる。


「鬼……」


 その言葉を口にした瞬間、部屋の隅の護符が一枚、ぱちりと音を立てて焦げた。


 志乃が鋭く顔を上げる。


「あなた」


「違う」


 景継は呟く。


「鬼ではない。あれらには、名があった」


 茜の喉が詰まる。


 名を返せ。


 あの声が蘇る。


「父上は、鬼契りを壊そうとしたんですか」


 志乃が息を呑んだ。


 景継は娘を見る。


 しかし、その目は茜の向こう側を見ていた。


「壊すのではない。返す。返さなければならない。稲葉は、守られすぎた。縛りすぎた。命じすぎた」


 声がだんだん不安定になる。


「水を守れ。田を守れ。疫を祓え。敵を殺せ。門を塞げ。稲葉を守れ。稲葉を、稲葉を、稲葉を――」


「父上!」


 景継の身体が震えた。


 白磁の器の水が赤く濁る。


 右手の銀針から、黒い煙のようなものが上がった。


 志乃がすぐに景継の肩へ手を置き、低く祝詞を唱える。


「稲の御名において、荒ぶるものを鎮め奉る。赤縄は内へ。霊水は外へ。名はまだ返らず、契りはまだ断たれず――」


「母上、それは」


「下がりなさい、茜」


「でも」


「下がりなさい!」


 母の声が、初めて強くなった。


 茜はびくりとして、半歩下がる。


 景継の呼吸が荒い。


 苦しそうに目を開けた彼は、茜を見た。


 今度は、そこに父の目が戻っていた。


 ほんの少しだけ。


「あかね」


 茜は泣きそうになった。


「はい。ここにいます」


「逃げなさい」


 景継はかすれた声で言った。


「家に、食われるな」


 志乃の祝詞が止まった。


 茜は動けなかった。


 父は、そのまま力尽きたように目を閉じる。


 呼吸はある。


 だが意識は薄れていく。


 茜は布団へ手を伸ばす。


「父上」


 返事はない。


「父上、あたしです。茜です」


 景継の唇が微かに動く。


「……あか」


 続きが出ない。


 名前が最後まで出てこない。


 茜は、伸ばした手を握りしめた。


 父が、自分の名を失い始めている。


 それは覚悟していたはずだった。


 母からも、医師からも、記憶が曖昧になることは聞かされていた。


 けれど、実際に目の前で名前が途切れると、胸の内側が裂けるようだった。


 茜。


 たった二文字。


 父が何度も呼んでくれた名前。


 それさえ、失われていく。


 志乃は景継の額へ手を当て、静かに目を閉じた。


 部屋の隅で焦げた護符から、細い煙が上がっている。


 茜は、その煙を見つめながら、父の言葉を何度も頭の中で繰り返した。


 家に、食われるな。


     ◇


 稲葉家の奥座敷には、家臣たちが集まっていた。


 茜は呼ばれていない。


 呼ばれていないが、廊下の向こうから声が聞こえた。


 今までなら、聞こえないふりをしたかもしれない。


 あるいは、あとで母へ尋ねて、また「まだ知らなくていい」と言われて終わったかもしれない。


 今は違う。


 茜は廊下の角で足を止め、障子の隙間から中の気配を探った。


 盗み聞き。


 藩主家の娘として褒められた行為ではない。


 だが、もう外側に置かれるのは嫌だった。


 座敷の中には、志乃のほか、数人の重臣がいた。


 筆頭家老格の室田宗房。


 稲葉家の祈祷役を務める老女、菊江。


 霊水路を管理する水役人。


 そして、契約蔵の鍵を預かる古参の家臣たち。


 皆、沈んだ顔をしている。


「霊水路の濁りは、東水門だけではありません」


 水役人が言う。


「北の霊脈井戸にも変色が出ています。このままでは、三日以内に外縁田から枯れが広がります」


「護符草の枯死は?」


「すでに二割。魔導稲は根に霊毒が入っています。通常の浄化では追いつきません」


 室田が低く唸る。


「景継様の容体は」


 志乃は少し間を置いて答えた。


「記憶の混濁が進んでいます。先ほど、茜の名を最後まで呼べませんでした」


 座敷に重い沈黙が落ちた。


 茜は障子の外で、胸元を掴む。


 中に入って叫びたくなった。


 勝手に父の病状を話すな。


 勝手に自分の名前を重たい事実にするな。


 しかし、足は動かなかった。


 老女の菊江が、しわがれた声で言う。


「もう猶予はございません」


「まだです」


 志乃の声は硬かった。


「まだ、茜には」


「奥方様」


 菊江は静かに遮った。


「景継様がああなられたのは、鬼契りを緩めようとした反動にございます。あの方は、契約を独りで背負い、なおかつ解こうとなされた。お優しい方です。されど、優しさだけでは契約は解けませぬ」


「分かっています」


「いいえ。お分かりではありますまい」


 菊江の声に、微かな厳しさが混じる。


「鬼どもは、一体ではございませぬ。稲葉が代々縛ってきた鬼霊、荒御霊、戦場の怨鬼、疫除けに使った影鬼、名を奪った門番鬼。すべてが赤縄で束ねられ、霊水路の底に沈められております」


 茜の背筋が冷えた。


 一体ではない。


 あのとき風彦が言ったことと同じだった。


 教室に現れた鬼。


 厠の外で唸っていた鬼。


 華子と風彦が送り返したあれは、稲葉家が縛ってきた鬼たちの一部にすぎない。


 菊江は続ける。


「それらへ命じるたび、当主は代償を払ってきました。寿命。記憶。感情。時に、名の一部。景継様は、その代償を止めようとされた。しかし契約を継ぐ者なくして縄だけを緩めれば、鬼どもは霊水路から噴き上がる」


「だから、茜に背負わせろと?」


 志乃の声は低い。


 母の声とは思えないほど冷たかった。


「背負わせるのではございませぬ」


 室田が口を挟む。


「姫様に、正式な契約者となっていただくのです」


「同じことです」


「違います。姫様が契約を継がれれば、景継様への反動は止まります。霊水路も安定する。藩の水田も救える」


「その代わり、茜の命と記憶が削られる」


 座敷の空気が固まる。


 廊下の外で、茜は息を止めた。


 分かっていた。


 そんな都合のよい方法が、ただで済むはずがない。


 それでも、実際に言葉として聞くと、身体の芯が冷えた。


 命。


 記憶。


 自分の未来。


 室田は苦しげに目を伏せる。


「すべてを一度に失うわけではありません。歴代当主も、代償を調整しながら契約を運用してこられた」


「運用」


 志乃がその言葉を繰り返した。


「娘の命を削ることを、運用と言いますか」


「奥方様」


「茜はまだ十五です」


「だからこそ、霊力の適応が早い」


「室田殿」


 志乃の声が震えた。


「次にそれを言えば、あなたでも許しません」


 沈黙。


 茜は障子の外で、初めて母の怒りを聞いた。


 志乃は、儀式に賛成していない。


 そのことに、胸が少しだけ揺れた。


 けれど同時に、志乃が止めきれていないことも分かった。


 稲葉家は、母一人の意思で止まるほど軽くない。


 家臣たちも、ただ悪意で言っているのではない。


 土地が枯れている。


 水田が死にかけている。


 父も壊れかけている。


 藩の人々の暮らしが、霊水路にかかっている。


 そのすべてを前にして、茜一人の未来を天秤にかけている。


 吐き気がした。


 自分が大切にされていないわけではない。


 むしろ、大切にされている。


 それでも家は、必要ならば娘を供物にする。


 やさしい顔で。


 涙を流しながら。


 立派な言葉を添えて。


「儀式の準備は」


 菊江が静かに言った。


「進めております」


 志乃が息を呑む。


「誰が許可しました」


「景継様が倒れられる前に、非常時の手順として」


「それは、茜の同意を得た後の話です」


「同意を得る時間が残されているかどうか」


「菊江!」


 志乃の声が鋭く響いた。


 茜の心臓が跳ねる。


 中の家臣たちも動揺したのが分かった。


 志乃は深く息を吸い、抑えた声で言った。


「茜を、知らないまま祭壇へ立たせることは許しません」


「もちろんでございます」


 菊江は頭を下げた。


「姫様には、すべてお伝えします。そのうえで、お選びいただく」


「選ぶ?」


 志乃の声が苦くなる。


「父を救うか、土地を枯らすか。そんなものを、選択とは呼びません」


 廊下の外で、茜は拳を握った。


 その通りだ。


 そんなものは選択ではない。


 でも、選ばなければならないのは自分なのだろう。


 父を救いたい。


 土地も救いたい。


 稲葉家がどうなってもいいとは言えない。


 家臣たちが憎いわけではない。


 母を責めたいわけでもない。


 ただ、怖い。


 命が削られる。


 記憶が削られる。


 いつか父のように、自分も誰かの名を呼べなくなるかもしれない。


 茜は、自分の手を見た。


 鬼とつないだときの傷は、もう薄くなっている。


 だが、痛みは覚えていた。


 鬼の怒り。


 苦しみ。


 名を返せという声。


 あれをもう一度、自分の中に入れることになるのか。


 ずっと。


 将来にわたって。


 足元が揺れるようだった。


「姫様」


 背後から声がした。


 茜は振り返る。


 若い家臣が立っていた。


 驚いた顔。


 見つかった。


 茜は反射的に逃げようとしたが、もう遅い。


 座敷の中が静まり返る。


 障子が開いた。


 母が立っていた。


 志乃の顔は、驚きと、悲しみと、覚悟で固まっている。


「茜」


 茜は、笑おうとした。


 笑えなかった。


「聞いたわ」


 声は、思ったより落ち着いていた。


「だいたい、聞いた」


 室田が慌てて頭を下げる。


「姫様、これは」


「言い訳は後で聞くわ」


 茜は座敷の中へ入った。


 家臣たちが一斉に頭を下げる。


 その光景が、ひどく嫌だった。


 皆が自分を敬っている。


 その同じ人たちが、自分を契約の祭壇へ立たせようとしている。


 敬意と犠牲は、両立してしまう。


 それが怖かった。


「父上を救えるの?」


 茜は真正面から尋ねた。


 誰もすぐには答えない。


 菊江が深く頭を下げたまま言った。


「景継様への反動は止められます」


「治るとは言わないのね」


「失われたものが戻るとは、申し上げられません」


 茜の胸が締めつけられる。


 父の記憶は戻らないかもしれない。


 名前も。


 感情も。


 それでも、これ以上失うのを止められる。


 霊水路も安定する。


 水田も救える。


 稲葉家も、藩も。


「あたしが契約を継いだら」


 茜は自分の声が遠く聞こえるのを感じた。


「何を失うの」


 菊江は答えた。


「最初に削られるのは寿命です。次に、鬼どもへ命じた内容に応じて、記憶、感情、名の一部が代償となります」


「どのくらい」


「命じ方次第です」


「便利な答えね」


 茜は笑った。


 笑えた。


 でも、その笑みは自分でもひどく冷たいと思った。


「じゃあ、命じなければいいの?」


「契約者は、霊水路を安定させるため、定期的に命じなければなりません」


「使役し続けるってことじゃない」


「土地を守るために必要です」


「鬼たちが苦しんでも?」


 菊江は黙った。


 室田が苦しげに言う。


「姫様。我々は、鬼を悪戯に苦しめたいわけではありません」


「知ってる」


 茜は即座に言った。


「知ってるから、余計に嫌なのよ」


 悪人はいない。


 少なくとも、この座敷には。


 父を救いたい人がいる。


 土地を守りたい人がいる。


 母を支えたい人がいる。


 藩の民を飢えさせたくない人がいる。


 だからこそ、茜一人の未来を少しずつ削る話が、真面目な顔で進んでいる。


 茜は母を見た。


 志乃は何も言わなかった。


 止めたいのだろう。


 しかし止める言葉がない。


 茜は、それも分かってしまった。


「儀式はいつ」


「茜」


 志乃が呼ぶ。


 茜は母を見ない。


 見たら、心が折れそうだった。


 菊江が静かに答える。


「三日後の夜。鬼門が開きやすい時刻に、契約蔵で」


「早いのね」


「水田が持ちません」


「そう」


 茜は頷いた。


 それから、座敷の中央へ進む。


 家臣たちは皆、頭を下げたまま動かない。


 茜は、その一人一人を見た。


 自分へ期待している。


 申し訳ないと思っている。


 けれど、期待している。


 父を救ってくれ。


 土地を守ってくれ。


 稲葉の娘として。


 次の契約者として。


 茜は、胸元の家紋を握りしめた。


「考える時間をちょうだい」


 声は震えなかった。


「三日後までに、答える」


 志乃が息を詰める。


 室田が頭を下げる。


「姫様」


「ただし」


 茜は続けた。


「あたしが知らないところで、儀式の準備を進めるのはやめて。次に隠したら、稲葉家の娘としてじゃなく、あたし個人として怒るわ」


 誰も返事をしなかった。


 茜はさらに声を強める。


「返事」


 室田が深く頭を下げる。


「承知いたしました」


 菊江も。


 他の家臣たちも。


 志乃だけが、娘を見ていた。


 茜はようやく母を見る。


 志乃の目には涙があった。


 けれど、こぼしてはいなかった。


 茜は小さく笑った。


「母上も、泣くなら厠で泣いたほうがいいわよ」


 志乃が目を見開く。


 こんな場で何を言っているのか、という顔だった。


 茜自身も、なぜそんな言葉が出たのか分からなかった。


 ただ、誰かを思い出した。


 北校舎三階の女子厠。


 三番目の個室。


 黒い着物の女。


 家を背負った子は、どうして皆、厠で泣くのかしら。


 あの声が、どこかで聞こえた気がした。


 茜は座敷を出た。


 廊下を歩く。


 足は震えていない。


 震えていないことにした。


 しかし、屋敷の角を曲がり、人の気配が消えた瞬間、膝から力が抜けた。


 壁に手をつく。


 息が乱れる。


 怖い。


 父を救いたい。


 でも怖い。


 記憶が削られる。


 寿命が削られる。


 いつか自分が誰かの名前を呼べなくなる。


 父のように。


 鬼のように。


 茜は唇を噛んだ。


 泣くな。


 ここでは泣くな。


 だが、涙は勝手に浮かんだ。


 そのとき、魔導端末が震えた。


 風彦からだった。


 ――本日、学園を休まれたとのこと。体調は大丈夫でござるか。


 続けて、茜の端末へアサミからも連絡が入る。


 ――記録上、稲葉藩の霊水路に異常値。共有可能な情報があれば教えて。無理なら返信不要。


 さらに、少し遅れて雅琥から短い文面。


 ――鏡の件で借りがある。何かあったら言え。


 茜は、端末を握りしめた。


 ひとりではない。


 そう思った瞬間、堪えていた涙が一粒落ちた。


 それでも、座り込まなかった。


 茜は深く息を吸い、返信画面を開いた。


 何と書けばいいか分からない。


 助けて。


 怖い。


 父を救いたい。


 家に食われそう。


 どれも重すぎる。


 どれも本当だった。


 しばらく迷って、茜は短く打った。


 ――話したいことがある。


 送信。


 すぐに風彦から返事が来た。


 ――聞くでござる。


 アサミからも。


 ――行く。


 雅琥からは、少し間を置いて。


 ――場所。


 茜は、ようやく少しだけ笑った。


 涙を拭う。


 その笑みは弱く、頼りなく、強がりだらけだった。


 それでも、さっき座敷で浮かべた冷たい笑みよりは、ずっと自分らしいと思えた。


 廊下の向こうで、霊水路の水が鈍く流れている。


 濁った水。


 枯れかけた水田。


 父の消えかけた記憶。


 稲葉家の赤い縄。


 そして、三日後の夜に準備される鬼契り継承の儀式。


 茜は端末を胸元へ押し当てた。


「家に食われるな、か」


 父の言葉を呟く。


 それから、ゆっくりと顔を上げた。


「じゃあ、食われる前に、噛み返してやるわよ」


 声は小さかった。


 だが、誰かに聞かせるためではなく、自分自身へ刻むには十分だった。

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