第一幕 ― 枯れる水田
稲葉藩の水田は、春の終わりには青く輝いているはずだった。
水面には空が映り、若い稲は風に揺れ、田の縁には魔導植物の白い花が咲く。霊水路を通って運ばれる清い水は、ただ作物を育てるだけではない。土地の霊脈を整え、病を遠ざけ、悪霊の侵入を防ぎ、藩の人々が日々を営むための見えない土台となっている。
稲葉の土地は、昔から水で守られてきた。
そう教えられて育った。
だが今、その水は濁っていた。
茜は、水田の畦に立ち尽くしていた。
足元の土はぬかるんでいる。けれど、その泥には生きた匂いがない。湿っているのに、どこか乾いている。水を含んだ土ではなく、冷えた灰を練ったもののようだった。
霊水路の水は、薄く赤茶けていた。
本来なら透明に近く、光を受けると淡い金色に輝く水だ。稲葉藩の中心を流れるその水は、藩主家の霊力と土地の祭祀によって清められている。幼い頃、茜はその水を「光る小川」と呼んでいた。
今は違う。
水面に浮かぶのは、枯れた葉と、黒く変色した魔導苔。
霊水路の縁に植えられた護符草は、葉先から白く枯れ、触れれば粉になりそうだった。田の水面には、見慣れない泡が浮かんでいる。泡ははじけるたびに、微かな鉄の匂いを漂わせた。
「……ひどい」
茜の声は、風に流されるほど小さかった。
隣にいた母、稲葉志乃は答えなかった。
志乃は淡い灰桜色の着物に羽織を重ね、静かに霊水路を見ている。年齢より若く見える人だったが、この数週間で頬が痩せた。目元には疲労が滲み、結い上げた髪にも以前のような艶がない。
それでも、稲葉家の奥方としての姿勢は崩していなかった。
背筋は伸び、声は落ち着き、家臣たちの前では決して取り乱さない。
それが、茜にはつらかった。
母が母である前に、稲葉家の人間であろうとしていることが。
「昨日より、悪くなっているの?」
茜が尋ねると、志乃はわずかに目を伏せた。
「南の水門から先は、まだ保っています」
「それって、ここはもう駄目ってことじゃない」
「駄目とは言っていません」
「母上は、いつもそう」
茜は思わず声を強めた。
「大丈夫じゃないときに、大丈夫って顔をする」
志乃は責めなかった。
ただ、娘の横顔を見た。
「あなたも同じ顔をします」
茜は言葉に詰まった。
風が吹く。
枯れかけた稲が、乾いた音を立てた。
しゃらり、というはずの音ではない。
紙をこすり合わせるような、軽く、死んだ音だった。
「父上は」
茜は聞いた。
「今朝は、起きられたの?」
志乃の表情が、ほんの少しだけ揺れた。
それだけで答えは分かった。
茜は胸元を掴む。
制服の上から、稲葉家の家紋に触れた。
三束の稲穂を、赤い縄で結んだ紋。
鬼門の騒ぎ以来、その赤い縄が、ただの家紋には見えなくなっている。
鬼の身体へ食い込んでいた無数の縄。
稲葉の血を呼んだ声。
名を返せ。
我らを使うな。
あれから、茜は何度も夢を見た。
自分の手首から赤い縄が伸び、顔の見えない鬼たちとつながっている夢。
縄を切ろうとしても切れない。
引けば鬼が苦しみ、手放せば父が倒れる。
その夢の中で、茜はいつも最後に目を覚ます。
答えを選ぶ前に。
「父上に会わせて」
茜が言うと、志乃はすぐには頷かなかった。
「お疲れです」
「会わせて」
「茜」
「お願い、母上」
志乃は娘を見つめた。
その目の奥にある迷いを、茜は初めて正面から見た気がした。
母は何かを知っている。
ずっと知っている。
父の病のことも、鬼契りのことも、稲葉家が隠してきたものも。
けれど、それを茜へ話さなかった。
守るためだと言うのだろう。
学園長の六道玄斎と同じように。
茜はその言葉が嫌いになりかけていた。
守るため。
知らなくていい。
いずれ話す。
その言葉のせいで、どれだけのことが遅れたのか。
どれだけの人が一人で抱え込んだのか。
志乃は小さく息を吐いた。
「……長くは話せません」
「分かってる」
「お父上が、あなたを分からなくても」
茜の胸が冷えた。
志乃は静かに続ける。
「責めてはいけません」
「責めるわけないじゃない」
声が少しだけ震えた。
「責めるわけ、ない」
◇
稲葉家の屋敷は、古い武家屋敷を基にしながら、現代の魔導設備が組み込まれている。
瓦屋根。
長い廊下。
手入れされた庭。
障子の向こうに見える霊水の小池。
そのすべてが、茜の知っている家だった。
けれど今日は、屋敷全体が息を潜めているようだった。
廊下の隅には、見慣れない護符が増えている。
柱には赤い糸が巻かれ、床下からは低い祈祷の声が聞こえた。家臣たちは茜を見ると深く頭を下げるが、目を合わせようとしない。
茜が近づくと、会話が止まる。
まただ。
また、自分だけが外側に置かれている。
父の病室は、屋敷の奥にあった。
庭に面した静かな部屋。
かつて父が書状を書いたり、茜に召喚杖の握り方を教えたりした部屋だった。
今は、窓に薄い結界布がかけられている。
畳の中央には布団。
その横には、霊水を入れた白磁の器と、薬湯の椀。
空気には薬草と香の匂いが満ちていた。
稲葉景継は、布団の上で上体を起こしていた。
以前より痩せた。
頬の線が鋭くなり、髪にも白いものが目立つ。
だが、茜が入ってきたとき、彼は微笑んだ。
優しい笑みだった。
茜が小さい頃、転んで膝を擦りむいたときに向けてくれた笑みと同じ。
茜は、その笑みを見ただけで泣きそうになった。
「父上」
呼ぶと、景継は少し首を傾げた。
「……ああ」
声は柔らかい。
けれど、どこか遠い。
「来てくれたのか」
「はい。学園は今日は休みをいただきました」
「学園」
景継はその言葉を、舌の上で確かめるように繰り返した。
「そうか。学園か。おまえは、もうそんな歳だったな」
茜は笑おうとした。
「何を言っているんですか。入学したばかりです」
「入学……」
景継は目を細める。
「そうだ。入学式へ、行けなかった」
「いいんです」
「よくない」
その声だけは、少しだけはっきりしていた。
「父親が、娘の入学式へ行けないのは、よくない」
「父上」
「すまない」
「謝らないでください」
茜は布団のそばへ座った。
父の右手が布団の上に置かれている。
以前なら、茜が近づくと自然に伸びてきた手だ。
頭を撫で、肩を叩き、召喚杖の握り方を直してくれた手。
今、その手はほとんど動かない。
指先に霊力を通すための細い銀針が刺され、赤い糸で手首と霊水の器がつながれていた。
まるで、父自身が何かの儀式具にされているようで、茜は息が苦しくなった。
「父上。水田を見てきました」
景継の目が揺れる。
「水田……」
「霊水路が濁っています。護符草も枯れかけていました」
「そうか」
景継は目を伏せた。
「早いな」
「早い?」
「……止めた、つもりだった」
茜の胸が跳ねた。
「何をですか」
志乃がわずかに身じろぎした。
景継は、聞こえていないように続ける。
「もう、使うべきではない。そう言った。あの子たちを、これ以上……」
「あの子たち?」
茜は身を乗り出した。
「父上、あの子たちって、鬼のことですか」
景継の顔色が変わった。
彼は何かを思い出そうとするように、左手で額を押さえる。
「鬼……」
その言葉を口にした瞬間、部屋の隅の護符が一枚、ぱちりと音を立てて焦げた。
志乃が鋭く顔を上げる。
「あなた」
「違う」
景継は呟く。
「鬼ではない。あれらには、名があった」
茜の喉が詰まる。
名を返せ。
あの声が蘇る。
「父上は、鬼契りを壊そうとしたんですか」
志乃が息を呑んだ。
景継は娘を見る。
しかし、その目は茜の向こう側を見ていた。
「壊すのではない。返す。返さなければならない。稲葉は、守られすぎた。縛りすぎた。命じすぎた」
声がだんだん不安定になる。
「水を守れ。田を守れ。疫を祓え。敵を殺せ。門を塞げ。稲葉を守れ。稲葉を、稲葉を、稲葉を――」
「父上!」
景継の身体が震えた。
白磁の器の水が赤く濁る。
右手の銀針から、黒い煙のようなものが上がった。
志乃がすぐに景継の肩へ手を置き、低く祝詞を唱える。
「稲の御名において、荒ぶるものを鎮め奉る。赤縄は内へ。霊水は外へ。名はまだ返らず、契りはまだ断たれず――」
「母上、それは」
「下がりなさい、茜」
「でも」
「下がりなさい!」
母の声が、初めて強くなった。
茜はびくりとして、半歩下がる。
景継の呼吸が荒い。
苦しそうに目を開けた彼は、茜を見た。
今度は、そこに父の目が戻っていた。
ほんの少しだけ。
「あかね」
茜は泣きそうになった。
「はい。ここにいます」
「逃げなさい」
景継はかすれた声で言った。
「家に、食われるな」
志乃の祝詞が止まった。
茜は動けなかった。
父は、そのまま力尽きたように目を閉じる。
呼吸はある。
だが意識は薄れていく。
茜は布団へ手を伸ばす。
「父上」
返事はない。
「父上、あたしです。茜です」
景継の唇が微かに動く。
「……あか」
続きが出ない。
名前が最後まで出てこない。
茜は、伸ばした手を握りしめた。
父が、自分の名を失い始めている。
それは覚悟していたはずだった。
母からも、医師からも、記憶が曖昧になることは聞かされていた。
けれど、実際に目の前で名前が途切れると、胸の内側が裂けるようだった。
茜。
たった二文字。
父が何度も呼んでくれた名前。
それさえ、失われていく。
志乃は景継の額へ手を当て、静かに目を閉じた。
部屋の隅で焦げた護符から、細い煙が上がっている。
茜は、その煙を見つめながら、父の言葉を何度も頭の中で繰り返した。
家に、食われるな。
◇
稲葉家の奥座敷には、家臣たちが集まっていた。
茜は呼ばれていない。
呼ばれていないが、廊下の向こうから声が聞こえた。
今までなら、聞こえないふりをしたかもしれない。
あるいは、あとで母へ尋ねて、また「まだ知らなくていい」と言われて終わったかもしれない。
今は違う。
茜は廊下の角で足を止め、障子の隙間から中の気配を探った。
盗み聞き。
藩主家の娘として褒められた行為ではない。
だが、もう外側に置かれるのは嫌だった。
座敷の中には、志乃のほか、数人の重臣がいた。
筆頭家老格の室田宗房。
稲葉家の祈祷役を務める老女、菊江。
霊水路を管理する水役人。
そして、契約蔵の鍵を預かる古参の家臣たち。
皆、沈んだ顔をしている。
「霊水路の濁りは、東水門だけではありません」
水役人が言う。
「北の霊脈井戸にも変色が出ています。このままでは、三日以内に外縁田から枯れが広がります」
「護符草の枯死は?」
「すでに二割。魔導稲は根に霊毒が入っています。通常の浄化では追いつきません」
室田が低く唸る。
「景継様の容体は」
志乃は少し間を置いて答えた。
「記憶の混濁が進んでいます。先ほど、茜の名を最後まで呼べませんでした」
座敷に重い沈黙が落ちた。
茜は障子の外で、胸元を掴む。
中に入って叫びたくなった。
勝手に父の病状を話すな。
勝手に自分の名前を重たい事実にするな。
しかし、足は動かなかった。
老女の菊江が、しわがれた声で言う。
「もう猶予はございません」
「まだです」
志乃の声は硬かった。
「まだ、茜には」
「奥方様」
菊江は静かに遮った。
「景継様がああなられたのは、鬼契りを緩めようとした反動にございます。あの方は、契約を独りで背負い、なおかつ解こうとなされた。お優しい方です。されど、優しさだけでは契約は解けませぬ」
「分かっています」
「いいえ。お分かりではありますまい」
菊江の声に、微かな厳しさが混じる。
「鬼どもは、一体ではございませぬ。稲葉が代々縛ってきた鬼霊、荒御霊、戦場の怨鬼、疫除けに使った影鬼、名を奪った門番鬼。すべてが赤縄で束ねられ、霊水路の底に沈められております」
茜の背筋が冷えた。
一体ではない。
あのとき風彦が言ったことと同じだった。
教室に現れた鬼。
厠の外で唸っていた鬼。
華子と風彦が送り返したあれは、稲葉家が縛ってきた鬼たちの一部にすぎない。
菊江は続ける。
「それらへ命じるたび、当主は代償を払ってきました。寿命。記憶。感情。時に、名の一部。景継様は、その代償を止めようとされた。しかし契約を継ぐ者なくして縄だけを緩めれば、鬼どもは霊水路から噴き上がる」
「だから、茜に背負わせろと?」
志乃の声は低い。
母の声とは思えないほど冷たかった。
「背負わせるのではございませぬ」
室田が口を挟む。
「姫様に、正式な契約者となっていただくのです」
「同じことです」
「違います。姫様が契約を継がれれば、景継様への反動は止まります。霊水路も安定する。藩の水田も救える」
「その代わり、茜の命と記憶が削られる」
座敷の空気が固まる。
廊下の外で、茜は息を止めた。
分かっていた。
そんな都合のよい方法が、ただで済むはずがない。
それでも、実際に言葉として聞くと、身体の芯が冷えた。
命。
記憶。
自分の未来。
室田は苦しげに目を伏せる。
「すべてを一度に失うわけではありません。歴代当主も、代償を調整しながら契約を運用してこられた」
「運用」
志乃がその言葉を繰り返した。
「娘の命を削ることを、運用と言いますか」
「奥方様」
「茜はまだ十五です」
「だからこそ、霊力の適応が早い」
「室田殿」
志乃の声が震えた。
「次にそれを言えば、あなたでも許しません」
沈黙。
茜は障子の外で、初めて母の怒りを聞いた。
志乃は、儀式に賛成していない。
そのことに、胸が少しだけ揺れた。
けれど同時に、志乃が止めきれていないことも分かった。
稲葉家は、母一人の意思で止まるほど軽くない。
家臣たちも、ただ悪意で言っているのではない。
土地が枯れている。
水田が死にかけている。
父も壊れかけている。
藩の人々の暮らしが、霊水路にかかっている。
そのすべてを前にして、茜一人の未来を天秤にかけている。
吐き気がした。
自分が大切にされていないわけではない。
むしろ、大切にされている。
それでも家は、必要ならば娘を供物にする。
やさしい顔で。
涙を流しながら。
立派な言葉を添えて。
「儀式の準備は」
菊江が静かに言った。
「進めております」
志乃が息を呑む。
「誰が許可しました」
「景継様が倒れられる前に、非常時の手順として」
「それは、茜の同意を得た後の話です」
「同意を得る時間が残されているかどうか」
「菊江!」
志乃の声が鋭く響いた。
茜の心臓が跳ねる。
中の家臣たちも動揺したのが分かった。
志乃は深く息を吸い、抑えた声で言った。
「茜を、知らないまま祭壇へ立たせることは許しません」
「もちろんでございます」
菊江は頭を下げた。
「姫様には、すべてお伝えします。そのうえで、お選びいただく」
「選ぶ?」
志乃の声が苦くなる。
「父を救うか、土地を枯らすか。そんなものを、選択とは呼びません」
廊下の外で、茜は拳を握った。
その通りだ。
そんなものは選択ではない。
でも、選ばなければならないのは自分なのだろう。
父を救いたい。
土地も救いたい。
稲葉家がどうなってもいいとは言えない。
家臣たちが憎いわけではない。
母を責めたいわけでもない。
ただ、怖い。
命が削られる。
記憶が削られる。
いつか父のように、自分も誰かの名を呼べなくなるかもしれない。
茜は、自分の手を見た。
鬼とつないだときの傷は、もう薄くなっている。
だが、痛みは覚えていた。
鬼の怒り。
苦しみ。
名を返せという声。
あれをもう一度、自分の中に入れることになるのか。
ずっと。
将来にわたって。
足元が揺れるようだった。
「姫様」
背後から声がした。
茜は振り返る。
若い家臣が立っていた。
驚いた顔。
見つかった。
茜は反射的に逃げようとしたが、もう遅い。
座敷の中が静まり返る。
障子が開いた。
母が立っていた。
志乃の顔は、驚きと、悲しみと、覚悟で固まっている。
「茜」
茜は、笑おうとした。
笑えなかった。
「聞いたわ」
声は、思ったより落ち着いていた。
「だいたい、聞いた」
室田が慌てて頭を下げる。
「姫様、これは」
「言い訳は後で聞くわ」
茜は座敷の中へ入った。
家臣たちが一斉に頭を下げる。
その光景が、ひどく嫌だった。
皆が自分を敬っている。
その同じ人たちが、自分を契約の祭壇へ立たせようとしている。
敬意と犠牲は、両立してしまう。
それが怖かった。
「父上を救えるの?」
茜は真正面から尋ねた。
誰もすぐには答えない。
菊江が深く頭を下げたまま言った。
「景継様への反動は止められます」
「治るとは言わないのね」
「失われたものが戻るとは、申し上げられません」
茜の胸が締めつけられる。
父の記憶は戻らないかもしれない。
名前も。
感情も。
それでも、これ以上失うのを止められる。
霊水路も安定する。
水田も救える。
稲葉家も、藩も。
「あたしが契約を継いだら」
茜は自分の声が遠く聞こえるのを感じた。
「何を失うの」
菊江は答えた。
「最初に削られるのは寿命です。次に、鬼どもへ命じた内容に応じて、記憶、感情、名の一部が代償となります」
「どのくらい」
「命じ方次第です」
「便利な答えね」
茜は笑った。
笑えた。
でも、その笑みは自分でもひどく冷たいと思った。
「じゃあ、命じなければいいの?」
「契約者は、霊水路を安定させるため、定期的に命じなければなりません」
「使役し続けるってことじゃない」
「土地を守るために必要です」
「鬼たちが苦しんでも?」
菊江は黙った。
室田が苦しげに言う。
「姫様。我々は、鬼を悪戯に苦しめたいわけではありません」
「知ってる」
茜は即座に言った。
「知ってるから、余計に嫌なのよ」
悪人はいない。
少なくとも、この座敷には。
父を救いたい人がいる。
土地を守りたい人がいる。
母を支えたい人がいる。
藩の民を飢えさせたくない人がいる。
だからこそ、茜一人の未来を少しずつ削る話が、真面目な顔で進んでいる。
茜は母を見た。
志乃は何も言わなかった。
止めたいのだろう。
しかし止める言葉がない。
茜は、それも分かってしまった。
「儀式はいつ」
「茜」
志乃が呼ぶ。
茜は母を見ない。
見たら、心が折れそうだった。
菊江が静かに答える。
「三日後の夜。鬼門が開きやすい時刻に、契約蔵で」
「早いのね」
「水田が持ちません」
「そう」
茜は頷いた。
それから、座敷の中央へ進む。
家臣たちは皆、頭を下げたまま動かない。
茜は、その一人一人を見た。
自分へ期待している。
申し訳ないと思っている。
けれど、期待している。
父を救ってくれ。
土地を守ってくれ。
稲葉の娘として。
次の契約者として。
茜は、胸元の家紋を握りしめた。
「考える時間をちょうだい」
声は震えなかった。
「三日後までに、答える」
志乃が息を詰める。
室田が頭を下げる。
「姫様」
「ただし」
茜は続けた。
「あたしが知らないところで、儀式の準備を進めるのはやめて。次に隠したら、稲葉家の娘としてじゃなく、あたし個人として怒るわ」
誰も返事をしなかった。
茜はさらに声を強める。
「返事」
室田が深く頭を下げる。
「承知いたしました」
菊江も。
他の家臣たちも。
志乃だけが、娘を見ていた。
茜はようやく母を見る。
志乃の目には涙があった。
けれど、こぼしてはいなかった。
茜は小さく笑った。
「母上も、泣くなら厠で泣いたほうがいいわよ」
志乃が目を見開く。
こんな場で何を言っているのか、という顔だった。
茜自身も、なぜそんな言葉が出たのか分からなかった。
ただ、誰かを思い出した。
北校舎三階の女子厠。
三番目の個室。
黒い着物の女。
家を背負った子は、どうして皆、厠で泣くのかしら。
あの声が、どこかで聞こえた気がした。
茜は座敷を出た。
廊下を歩く。
足は震えていない。
震えていないことにした。
しかし、屋敷の角を曲がり、人の気配が消えた瞬間、膝から力が抜けた。
壁に手をつく。
息が乱れる。
怖い。
父を救いたい。
でも怖い。
記憶が削られる。
寿命が削られる。
いつか自分が誰かの名前を呼べなくなる。
父のように。
鬼のように。
茜は唇を噛んだ。
泣くな。
ここでは泣くな。
だが、涙は勝手に浮かんだ。
そのとき、魔導端末が震えた。
風彦からだった。
――本日、学園を休まれたとのこと。体調は大丈夫でござるか。
続けて、茜の端末へアサミからも連絡が入る。
――記録上、稲葉藩の霊水路に異常値。共有可能な情報があれば教えて。無理なら返信不要。
さらに、少し遅れて雅琥から短い文面。
――鏡の件で借りがある。何かあったら言え。
茜は、端末を握りしめた。
ひとりではない。
そう思った瞬間、堪えていた涙が一粒落ちた。
それでも、座り込まなかった。
茜は深く息を吸い、返信画面を開いた。
何と書けばいいか分からない。
助けて。
怖い。
父を救いたい。
家に食われそう。
どれも重すぎる。
どれも本当だった。
しばらく迷って、茜は短く打った。
――話したいことがある。
送信。
すぐに風彦から返事が来た。
――聞くでござる。
アサミからも。
――行く。
雅琥からは、少し間を置いて。
――場所。
茜は、ようやく少しだけ笑った。
涙を拭う。
その笑みは弱く、頼りなく、強がりだらけだった。
それでも、さっき座敷で浮かべた冷たい笑みよりは、ずっと自分らしいと思えた。
廊下の向こうで、霊水路の水が鈍く流れている。
濁った水。
枯れかけた水田。
父の消えかけた記憶。
稲葉家の赤い縄。
そして、三日後の夜に準備される鬼契り継承の儀式。
茜は端末を胸元へ押し当てた。
「家に食われるな、か」
父の言葉を呟く。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「じゃあ、食われる前に、噛み返してやるわよ」
声は小さかった。
だが、誰かに聞かせるためではなく、自分自身へ刻むには十分だった。




