第二幕 ― 友達を外すということ
稲葉家の屋敷を出たころには、夕方の空が薄く朱に染まり始めていた。
茜は門前で足を止めた。
古い石畳の先に、霊水路が流れている。屋敷の外周に沿って巡らされたその水路は、本来なら清らかな音を立てているはずだった。
今は違う。
水音が鈍い。
さらさら、ではなく、どろり、と耳に残る。
濁った水が小さな泡を浮かべながら流れ、石垣の隙間に生えた護符草の葉先を黒く染めていた。
茜は、その水音を聞いていた。
父の声が、頭から離れない。
家に、食われるな。
逃げなさい。
あれは、本当に父の言葉だった。
稲葉景継が、まだ稲葉景継として残っているわずかな時間に、娘へ渡した言葉だった。
なのに自分は、その言葉に背を向けようとしている。
父を救うために。
土地を救うために。
家に食われないためには、家を見捨てなければならないのか。
家を見捨てないためには、自分が食われるしかないのか。
そんな選択を、十五歳の自分が本当に選べるのか。
魔導端末が震えた。
風彦からだった。
――今どちらでござるか。迎えに行ったほうがよろしいでござるか。
続けて、アサミ。
――場所を教えて。資料を持って行く。
少し遅れて、雅琥。
――一人で抱えるな。
三つの文面を見て、茜は胸の奥が熱くなるのを感じた。
自分は、話したいことがある、と送った。
助けてとは言えなかった。
怖いとも言えなかった。
でも、三人はそれぞれの言い方で返してきた。
聞く。
行く。
一人で抱えるな。
茜は端末を握りしめた。
泣きそうだった。
だからこそ、怖くなった。
もし話したら、アサミは調べる。
必ず調べる。
危険だと分かっていても、契約の抜け道を探す。
茜が止めても、記録媒体を袖や包帯の裏に隠してでも調べる。
風彦は腹を押さえながら巻き込まれる。
雅琥は「借りがある」と言って、怖いものでも殴りに来る。
華子も、きっと笑いながら口を出す。
その光景が簡単に想像できた。
嬉しい。
でも、駄目だ。
鬼契りは稲葉家の問題だ。
父の病も、霊水路も、家の罪も、自分の家が長く積み上げてきたものだ。
アサミは関係ない。
鬼門の騒ぎで、アサミは一度身体を奪われかけた。
自分のせいで。
茜の父を助けたいという願いに付き合わせたせいで。
あのとき、アサミは短剣を握らされ、茜へ襲いかかった。
アサミ自身の意思ではない。
でも、アサミは今でもそれを気にしている。
茜は知っていた。
彼女は平気な顔をする。
記録だ、検証だ、可能性だ、と淡々と言う。
でも鏡界で見た恐怖は、アサミの中にまだ残っている。
再び怪異へ身体を奪われ、友人を傷つけること。
それが、彼女の恐怖だった。
なら、これ以上は巻き込めない。
茜は端末の返信欄を開いた。
指が止まる。
風彦へは、どう書けばいい。
アサミへは。
雅琥へは。
少し考えて、茜は三人へ同じ文面を送った。
――ごめん。やっぱり大丈夫。稲葉家の話だから、こちらで何とかする。
送信してすぐ、胸が痛くなった。
大丈夫ではない。
何とかできる自信もない。
嘘だ。
それでも送った。
すぐに風彦から返信が来た。
――大丈夫ではなさそうでござる。
茜は唇を噛む。
返信しない。
アサミからも来る。
――それは報告の撤回? それとも、ワタシたちを外すという意味?
茜の指が震えた。
アサミは、こういうところで正確だった。
痛いところを、正確に言葉へする。
雅琥からは短い。
――ふざけんな。
茜は端末の画面を消した。
見ていたら、返信してしまう。
助けて、と送ってしまう。
それでは駄目だ。
自分で決めなければならない。
これは、稲葉茜の家の問題なのだから。
「……ごめん」
誰もいない門前で、茜は小さく呟いた。
それが誰へ向けた謝罪なのか、自分でも分からなかった。
◇
その夜、六道魔導学園の寮の自習室で、アサミは茜からの文面を何度も見返していた。
――ごめん。やっぱり大丈夫。稲葉家の話だから、こちらで何とかする。
短い文章。
表面上は、心配をかけまいとする文面だ。
だがアサミには、そこに含まれる切断線が見えた。
ここから先には来ないで。
あなたは関係ない。
巻き込みたくない。
優しい言葉で包めば、そういう意味になる。
アサミは端末を机に置いた。
自習室には他の生徒も何人かいたが、誰もこちらを見ていない。鏡の騒動以降、学園内では反射するものへの警戒が続いている。自習室の窓にも布がかけられ、壁の装飾ガラスも外されていた。
机の上には、稲葉家に関する公開資料が並んでいる。
霊水路。
鬼契り。
藩政記録。
近代以降の封門施設協力文書。
アサミはすでに調べ始めていた。
茜から止められる前から。
これは悪癖だと、自分でも分かっている。
危険なものを見ると、構造を知りたくなる。
不明なものを、不明なまま置いておけない。
そのせいで、茜を危険に晒した。
鬼門のとき、自分は「制御できる」と思った。
できなかった。
風彦がいなければ、茜を傷つけていた。
その記憶は、アサミの身体にまだ残っている。
呪術用の短剣を握った手の感触。
自分の意思ではないのに、茜へ向かって動く腕。
茜の声。
アサミ、と呼ぶ声。
あの声が、何度も夢に出る。
だから、茜が自分を遠ざける理由は分かった。
分かってしまう。
自分は危険だった。
巻き込まないほうがいい。
そう判断されても仕方ない。
けれど。
アサミは机の下で拳を握った。
仕方ないと納得するには、胸の奥が痛すぎた。
自習室の扉が開いた。
風彦が入ってくる。
顔色が悪い。
いつも悪いが、今日はさらに悪い。
そして、その後ろに雅琥もいた。
こちらも機嫌が悪そうだった。
「新垣殿」
風彦は控えめに声をかける。
「茜殿から返信は」
「ない」
「拙者にもないでござる」
「俺にもねえ」
雅琥はアサミの向かいに乱暴に座った。
椅子が軋む。
「絶対ろくでもねえこと考えてる」
「同意」
アサミが言うと、雅琥は眉を寄せた。
「おまえ、もっと淡々と言うと思った」
「淡々と言う余裕が少ない」
風彦がアサミを見る。
「新垣殿」
「何」
「怒っておられる?」
アサミは少し考えた。
怒っている。
悲しい。
怖い。
置いていかれた気がする。
信用されていない気がする。
でも、茜がこちらを守ろうとしていることも分かる。
それらをどう分類すればよいのか、すぐには分からなかった。
「たぶん、怒っている」
アサミは答えた。
「でも、それだけではない」
雅琥は腕を組んだ。
「分かるように言え」
「茜は、ワタシを巻き込みたくない。でも、それはワタシを外すことでもある」
「だな」
「ワタシは、前の件で茜を危険にした。だから外される理由はある」
「ねえよ」
雅琥の返事は早かった。
アサミは目を上げる。
雅琥は少し不機嫌そうに顔を逸らした。
「前の件は、おまえだけのせいじゃねえだろ」
「でも、写本を持ち込んだのはワタシ」
「茜も乗った。風彦も勝手に巻き込まれた。俺も扉蹴った。華子も出てきた。全員馬鹿だ」
「分類が雑」
「雑でいいんだよ」
風彦が苦笑した。
「六道殿の雑さに救われる日が来るとは」
「褒めんな」
「褒めているのでござるが」
「だから嫌なんだよ」
アサミは二人のやり取りを見て、少しだけ息を吐いた。
胸の奥の痛みが消えたわけではない。
でも、言葉にしても壊れない感情なのだと分かった。
「茜は、ひとりで鬼契りを継ぐつもりかもしれない」
アサミが言うと、風彦の表情が変わった。
「根拠は?」
「稲葉藩の霊水路異常。父親の病状悪化。家臣団の動き。鬼契りにおける次代契約者の記述。状況が揃いすぎている」
「儀式が近いのでござるか」
「可能性が高い」
雅琥が舌打ちする。
「あいつ、絶対一人で行く気だ」
「だから止める」
アサミは即答した。
それから、自分の声が思ったより強かったことに気づいた。
風彦も雅琥も、少し驚いたようにこちらを見る。
アサミは視線を落とさなかった。
「止める。そのために、契約の全文を探す」
「全文?」
風彦が尋ねる。
「稲葉家から外へ出ている記録は、断片ばかり。都合のよい部分だけ引用されている可能性がある。契約は必ず全文で読む必要がある」
「確かに、契約書の一文だけを信じるのは危険でござる」
「前に、ワタシがそれをした」
アサミの声が低くなる。
「写本の最後の一節を、違和感があるのに読み進めた。もう同じことはしない」
風彦は静かに頷いた。
雅琥は机に肘をつく。
「で、どう探す」
「まず稲葉家の公開記録。次に藩政文書。さらに学園側の封門協力資料。鬼契りは日本全体の霊的鎖国にも接続している可能性があるから、公儀や学園にも写しが残っているはず」
風彦の顔が少し曇った。
公儀。
その単語が出ると、場の空気がまだ少し固くなる。
返り鏡の騒ぎのあと、風彦が公儀の監視任務者であることは皆に知られた。
完全に許されたわけではない。
風彦自身も、まだ何も答えを出せていない。
雅琥は風彦を横目で見た。
「使えるのか」
「何をでござるか」
「公儀の端末」
風彦は一瞬黙った。
「勝手に使えば、記録が残るでござる」
「残したくねえのか」
「残したくない」
「誰の名前を」
雅琥の問いは鋭い。
風彦は端末へ視線を落とした。
答えは明白だった。
茜の名を。
アサミの名を。
雅琥の名を。
華子の名を。
公儀の監視記録へ、これ以上軽々しく差し出したくない。
「……できる範囲で、学園側の公開資料を当たるでござる」
「逃げたな」
「はい」
風彦は認めた。
「今は、逃げました」
雅琥は少し目を細めたが、それ以上は追及しなかった。
アサミは端末を開く。
「では、分担する。風彦は学園封門協力資料。雅琥は稲葉藩と六道学園の古い交流記録。茜が稲葉家の内部資料を持っていないかは、後で確認」
「俺、調べ物向いてねえぞ」
「分かってる」
「分かってて振るな」
「人名と事件名だけ拾って。細かい読解はワタシがする」
「最初からそう言え」
雅琥は文句を言いながらも端末を起動した。
風彦も席につく。
アサミは、茜からの文面をもう一度見た。
――稲葉家の話だから、こちらで何とかする。
「茜」
小さく呟く。
「それは、違う」
◇
茜の端末へ、差出人不明の資料が届いたのは、その夜遅くだった。
屋敷の自室。
畳の上に座り、灯りを落とした部屋で、茜は父の病室から戻ってきたばかりだった。
景継は眠っている。
眠っているというより、意識の底へ沈んでいるようだった。
ときどき、誰かの名前を呼ぶ。
それは茜の名ではない。
古い家臣の名。
亡くなった祖父の名。
あるいは、鬼の名らしき響き。
父の中で、過去と現在が混ざり始めている。
茜はその声を聞きながら、自分の手を握っていた。
三日後。
鬼契り継承の儀式。
考える時間をもらった。
だが、何を考えればよいのか分からない。
父を救いたい。
その答えだけは変わらない。
端末が震えた。
表示には、差出人名がなかった。
通常なら、迷惑霊信として弾かれるはずだ。
だが、その文面は稲葉家の古い公式書式で表示されていた。
――稲葉鬼契り古記録。
――次代契約者条項抜粋。
茜は息を呑んだ。
画面に古い契約文が映し出される。
漢文混じりの古い文体。
赤い印。
稲葉家の家紋。
その中の一文だけが、淡く光っていた。
――次代の血が契約を受け入れれば、現当主は解放される。
茜の心臓が強く鳴った。
現当主は解放される。
父が解放される。
何度も画面を読む。
同じ一文だけが、強調されている。
次代の血。
契約を受け入れる。
現当主は解放される。
父の負担は止まる。
霊水路も安定する。
水田も救える。
自分が受け入れれば。
自分が継げば。
茜は端末を握りしめた。
これが答えなのではないか。
怖くても、やるべきことなのではないか。
命や記憶が削られるとしても、父がこれ以上壊れずに済むのなら。
自分の未来を差し出す意味はあるのではないか。
部屋の外で、水音がした。
霊水路の濁った流れ。
いや。
それに混じって、別の音が聞こえた気がした。
学校の鐘のような音。
卒業式で鳴るような、遠い鐘。
茜は顔を上げた。
部屋の片隅に、誰かが立っている気がした。
白い旧式制服。
黒い頭巾。
顔のない生徒。
瞬きをすると、何もいない。
端末の画面には、強調された一文だけが残っている。
――次代の血が契約を受け入れれば、現当主は解放される。
茜は、それを保存した。
誰にも送らなかった。
アサミにも。
風彦にも。
雅琥にも。
送れば、止められる。
止められたら、自分は揺らぐ。
茜は端末を胸に抱きしめる。
「父上を救えるなら」
声が震えた。
「それで、いいじゃない」
自分に言い聞かせるような声だった。
◇
同じころ、学園の自習室では、アサミが稲葉鬼契りの別系統資料へ辿り着いていた。
それは学園の封門協力記録ではなかった。
古い地方霊脈調査報告書。
霊的鎖国が宣言されるより前、各地の藩や旧家が持つ土着契約を調査した記録の一部だ。
稲葉家の項目は、ほとんど黒塗りされている。
だが、契約条項の写しが断片的に残っていた。
アサミは複数の資料を並べ、欠けた部分を照合していく。
風彦が横で目を細める。
「これは、復元できるのでござるか」
「完全ではない。でも、重要部分はつながる」
雅琥はすでに眠そうな顔をしていたが、画面だけは見ている。
「で、どうなんだ」
アサミは返事をせず、最後の欠落箇所を埋めた。
端末上に、契約条項の復元文が表示される。
――次代の血が契約を受け入れれば、現当主は契約重荷より解放される。
そこまでは、茜に送られた文と同じだった。
だが続きがあった。
――ただし、既に支払われた寿命、記憶、感情、名片は返還されず。
――未払いの反動および今後の命令代償は、次代契約者へ移る。
――鬼霊の名は、契約満了または契約破棄まで稲葉赤縄に属す。
アサミの指が止まった。
風彦が息を呑む。
雅琥の顔から眠気が消えた。
「……つまり」
風彦の声が低くなる。
「茜殿が契約を継いでも、景継殿の失った記憶や寿命が完全に戻る保証はない」
「うん」
アサミの声が、いつもより硬かった。
「ただ、これ以上失う負担が、茜へ移るだけ」
「父親が治るわけじゃねえのか」
雅琥が低く言う。
「契約重荷からは解放される。でも、既に削られたものは戻らない可能性が高い」
「じゃあ、あいつが継いだら」
「茜が、次に削られる」
自習室の空気が冷たくなった。
アサミは端末画面を見つめる。
胸の奥で、何かがゆっくり熱くなる。
怒りだった。
恐怖もある。
悲しみもある。
でも、それ以上に怒りがあった。
一文だけを強調すれば、希望に見える。
父を救えると見える。
けれど全文を読めば、それは犠牲の引き継ぎだった。
父の鎖を外して、娘の首へかけるだけ。
しかも、父の失ったものが戻るとは限らない。
茜がその一文だけを見たら。
必ず、受け入れようとする。
父を救えるなら、と。
自分の命や記憶を軽く見積もって。
アサミは立ち上がった。
椅子が音を立てる。
風彦が驚いて顔を上げた。
「新垣殿?」
「茜のところへ行く」
「今からでござるか」
「今から」
雅琥も立ち上がる。
「行くぞ」
風彦は端末を掴む。
「稲葉家の屋敷へ連絡を」
「直接行ったほうが早い」
アサミは言った。
「茜は、たぶんもう資料を見ている」
「なぜ分かるのでござる」
「勘」
風彦は目を瞬かせた。
アサミが勘と言うのは珍しい。
彼女自身も、それが珍しいことを分かっているようだった。
「違う。推測と感情の混合」
「それを人は勘と言うのでござる」
「そう」
アサミは端末を握りしめた。
「でも、今はそれでいい」
◇
稲葉家の屋敷へ三人が着いたのは、夜が深くなる少し前だった。
正式な訪問時間ではない。
だが茜が学園で緊急時の連絡先として三人の名を登録していたため、門番は渋々通した。
茜は屋敷の奥庭にいた。
霊水路のそば。
濁った水が流れる石畳の上に立ち、端末を見つめている。
その背中を見た瞬間、アサミは歩く速度を上げた。
「茜」
呼ぶと、茜の肩が震えた。
彼女はゆっくり振り返る。
「……来ちゃったの」
「来た」
「返信しなかったのに」
「返信がないから来た」
茜は困ったように笑った。
いつもの強気な笑みではない。
泣く寸前に作る笑顔だった。
「アサミ、あたし言ったでしょ。これは稲葉家の問題だって」
「聞いた」
「だったら」
「でも、納得していない」
アサミは茜の前で立ち止まった。
風彦と雅琥は少し後ろにいる。
茜は二人を見て、さらに顔を歪めた。
「蓮田くんも、雅琥も。どうして来るのよ」
「話したいことがある、と言われたので」
風彦が言う。
「取り消したわよ」
「取り消しを受理しておりませぬ」
「何それ」
「勝手に外された側にも、異議申し立ての権利があるかと」
雅琥は腕を組む。
「俺は、ふざけんなって言いに来た」
「言い方」
「ふざけんな」
「本当に言った!」
茜は怒ろうとして、うまく怒れなかった。
アサミは端末を差し出す。
「契約の全文を復元した」
茜の顔が固まる。
「……何で」
「調べた」
「そうじゃなくて」
「茜が一文だけ見せられている可能性が高いと思った」
茜は手元の端末を握りしめた。
図星だった。
アサミは続ける。
「次代の血が契約を受け入れれば、現当主は解放される」
茜の目が揺れる。
「それ、どこで」
「同じ文が別資料にもある。でも、続きがある」
「やめて」
茜の声が小さくなった。
「アサミ、今はやめて」
「やめない」
「やめてって言ってるでしょ!」
茜の声が霊水路の上に響いた。
水面がびくりと揺れる。
風彦が一歩前へ出かけたが、雅琥が手で止めた。
アサミは動かなかった。
「続きがある」
声は淡々としていなかった。
震えていた。
怒っていた。
茜はそれに気づいて、息を呑む。
「既に支払われた寿命、記憶、感情、名片は返還されない。未払いの反動と今後の命令代償は、次代契約者へ移る」
茜は目を見開いた。
「……嘘」
「嘘ではない」
「だって、現当主は解放されるって」
「契約重荷からは解放される。でも、失ったものが戻る保証はない」
「でも、父上の負担は止まる」
「止まる。代わりに茜へ移る」
「それでも」
「それでも、ではない」
アサミの声が強くなった。
茜が黙る。
アサミがこんな声を出すのを、茜はほとんど聞いたことがなかった。
「茜は、ワタシを巻き込みたくないと言った」
「言ってない」
「文面はそういう意味」
「アサミを危険な目に遭わせたくなかっただけよ!」
「同じ」
「同じじゃない!」
「同じ。茜はワタシを外した」
茜は息を詰めた。
アサミの目が、まっすぐこちらを見ている。
いつもの分析する目ではない。
痛みを隠せていない目だった。
「信用を失ったと思った」
「違う」
「鬼門のとき、ワタシは茜を傷つけかけた。だから、もう危ないことには関わらせない。そう思った?」
「違うって言ってるでしょ!」
「でも、そう聞こえた」
アサミの声が、さらに震えた。
「ワタシを巻き込みたくないと言いながら、ワタシが残されることは考えないの?」
茜の顔から血の気が引いた。
アサミは一歩近づく。
目には、薄く涙が浮かんでいた。
本人は気づいていないのかもしれない。
それでも、確かに。
「茜が契約を継いで、寿命や記憶を削られて、いつかワタシの名前を忘れたら」
アサミの声が詰まる。
「そのとき、残されるワタシはどうすればいいの」
「アサミ……」
「勝手にひとりで死ぬ準備をしないで」
静かな言葉だった。
だからこそ、深く刺さった。
茜は何も言えなかった。
霊水路の濁った水が、足元で重く流れている。
父を救いたい。
土地を救いたい。
家を守りたい。
その気持ちは本当だ。
でも、そのために自分が削られていくことを、友達が見ている。
アサミが残される。
風彦も。
雅琥も。
華子も。
自分を大切に思う人間が、その犠牲を「仕方ない」と受け入れられるはずがない。
それを、茜は考えていなかった。
いや。
考えないようにしていた。
考えたら、決意が揺らぐから。
「だって」
茜の声が、情けなく震えた。
「父上が、もうあたしの名前を呼べないのよ」
アサミの表情が揺れる。
茜は堰を切ったように続けた。
「霊水路も濁ってる。水田も枯れてる。家臣たちはあたしを見てる。母上は止めたいのに止められない。父上は逃げろって言った。でも、逃げたら父上はどうなるの。稲葉の土地はどうなるの。鬼たちはどうなるの!」
声が大きくなる。
泣き声に近くなる。
「怖いわよ! 命が削られるのも、記憶がなくなるのも怖い! でも、何もしないほうがもっと怖いのよ!」
誰も、すぐには言えなかった。
風彦も。
雅琥も。
アサミも。
茜は両手で顔を覆った。
「アサミを巻き込みたくなかったのは、本当よ。信用してないわけじゃない。信用してるから、来たら絶対止めるって分かってた。止められたら、あたし、たぶん逃げたくなる。だから……」
言葉が途切れる。
アサミはゆっくり手を伸ばした。
茜の袖を掴む。
強くはない。
でも、離さない。
「逃げたいなら、逃げたいと言って」
「言えない」
「言って」
「言ったら、父上を見捨てるみたいじゃない」
「違う」
「違わない!」
「違う」
アサミの声は、今度は静かだった。
「逃げたいと言うことと、見捨てることは違う。怖いと言うことと、弱いことは違う。助けてと言うことと、責任を捨てることは違う」
茜は顔を上げた。
アサミは袖を掴んだまま続ける。
「前に、ワタシは一人でできると思って失敗した。だから、今言う。茜も一人でできると思わないで」
風彦が静かに頷いた。
「拙者も同意でござる」
雅琥は短く言う。
「一人で死にに行く奴は馬鹿だ」
「言い方」
茜が涙声で突っ込む。
「馬鹿に馬鹿って言って何が悪い」
「今それ言う?」
「今言うんだよ」
風彦は少しだけ笑った。
「六道殿なりの励ましでござる」
「違う」
「違うのでござるか」
「半分くらいだ」
「半分は励ましなのでござるな」
「うるせえ」
そのやり取りに、茜は少しだけ笑ってしまった。
涙が頬を伝う。
笑っているのか泣いているのか、自分でも分からない。
アサミは袖を握る手に少しだけ力を込めた。
「茜。契約を継ぐ以外の方法を探す」
「あるの?」
「分からない」
「そこは、あるって言いなさいよ」
「嘘は言わない」
「アサミらしい」
「でも、全文を読めば抜け道は見つかるかもしれない。鬼の名を返す方法。契約を次代へ移さず、反動だけを止める方法。霊水路を別の方式で安定させる方法。調べる価値はある」
風彦が言う。
「華子さんにも聞いてみるでござる。稲葉家の家紋を見たとき、何か知っている様子でした」
雅琥が続ける。
「玄斎にも吐かせる」
「吐かせるって」
茜が目をこする。
「学園長先生でしょ」
「隠し事してる大人には、それくらいでちょうどいい」
「説得力あるような、ないような」
「あるだろ」
「あるわね」
茜は小さく息を吐いた。
胸の奥で、張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。
問題は何も解決していない。
父の病は進んでいる。
霊水路は濁っている。
鬼契り継承の儀式は三日後。
契約を継げば、父の負担は止まるかもしれない。
でも、自分が削られる。
そして、それは父の失ったものを取り戻す方法ではない。
茜は、アサミの手に自分の手を重ねた。
「ごめん」
アサミは少しだけ目を伏せる。
「何に対して?」
「外したこと。ひとりで決めようとしたこと。あと、たぶん、信用してるって言わなかったこと」
「記録した」
「そこは、許すって言ってよ」
「まだ怒っている」
「……うん」
「でも、一緒に考える」
茜は頷いた。
「ありがとう」
アサミの目から、ようやく涙が一粒落ちた。
彼女は驚いたように自分の頬へ触れる。
「涙」
「自分で驚くの?」
「予想外」
「こっちもよ」
茜は笑いながら泣いた。
それから、アサミを抱きしめた。
アサミは最初、少し固まった。
どうすればよいか分からないようだった。
だが、やがてゆっくりと茜の背中に手を回した。
風彦は視線を逸らし、雅琥は気まずそうに頭をかいた。
「……帰っていいか」
雅琥が呟く。
茜は泣きながら言った。
「駄目。まだ話し合いする」
「泣きながら命令すんな」
「命令じゃないわよ。お願い」
「もっと面倒くせえ」
風彦が腹を押さえながら笑った。
「まずは情報整理でござるな。契約全文、霊水路、景継殿の病状、稲葉家の儀式手順、第七怪の干渉」
「第七怪?」
茜が顔を上げる。
アサミが頷く。
「茜に送られた契約記録。一文だけ強調されていた。情報の切り取り方が、返り鏡の記憶編集と似ている」
茜の顔が青ざめる。
「じゃあ、あれは」
「顔のない卒業生が送った可能性がある」
霊水路の水音が、急に遠く聞こえた。
茜は自分の端末を見る。
あの一文を見たとき、部屋の片隅に誰かが立っている気がした。
白い旧式制服。
黒い頭巾。
顔のない生徒。
あれは見間違いではなかったのかもしれない。
「なんで、あいつが稲葉家の契約に」
雅琥が低く言う。
「関わってるんだよ」
「錠前」
アサミが答えた。
「第一の錠前が鬼契り。第二の錠前が返り鏡。第七怪は、古い契約や封印を確認している」
風彦の腹が鈍く痛んだ。
「つまり、茜殿が契約を継ぐこと自体も、第七怪にとって都合がよい可能性があるでござる」
茜は唇を噛む。
自分が父を救うために見た希望。
それが、誰かに差し出された餌だったかもしれない。
怒りが湧いた。
怖さの奥から、熱いものが戻ってくる。
「……いいわ」
茜は袖で涙を拭った。
「だったら、なおさら勝手に継いでやらない」
アサミが頷く。
「うん」
「父上は助ける。霊水路も止める。鬼の名も調べる。でも、あいつの思い通りにはならない」
「方針としては強欲でござるね」
風彦が言う。
「悪い?」
「いいえ。大変よろしいかと」
雅琥が鼻を鳴らす。
「最初からそう言え」
「うるさい。さっきまで泣いてたのよ」
「知ってる」
「知ってるなら優しくしなさいよ」
「無理だ」
「即答!」
アサミが静かに言う。
「優しさの形式は人による」
「アサミ、今それでフォローしてる?」
「している」
「できてるような、できてないような」
茜はまた少し笑った。
霊水路の濁りは消えない。
父の病も治らない。
鬼契りの儀式は迫っている。
けれど、ひとりで祭壇へ向かう道は、今ここで一度折れた。
代わりに、別の道ができた。
頼りなくて、危なっかしくて、すぐ喧嘩になりそうな道。
それでも、ひとりではない道。
茜は端末を開き、送られてきた古い契約記録を三人へ共有した。
もう隠さない。
もう、友達を外さない。
その瞬間、画面の端にノイズが走った。
黒い文字が一瞬だけ浮かぶ。
――次代契約者、協力者三名を確認。
茜が息を呑む。
アサミが端末を覗き込む。
風彦が腹を押さえ、雅琥が舌打ちした。
文字はすぐに消えた。
だが、全員が見ていた。
茜は端末を握りしめる。
「見てるなら、聞きなさいよ」
濁った霊水路へ向かって、茜は言った。
「こっちはもう、ひとりで契約なんかしない」
水面が、かすかに揺れた。
遠くで、卒業式の鐘のような音が鳴った気がした。




