第三幕 ― 家に食われる娘
稲葉家の霊水路は、夜になるとさらに濁って見えた。
昼間の赤茶けた水とは違う。
灯籠の明かりを受けた夜の水は、黒い。
その黒の底で、何かがゆっくりとうごめいているように見える。
水路のそばには、簡易の結界灯が立てられていた。青白い光が石畳を照らし、ところどころに貼られた封印札を浮かび上がらせている。
しかし、封印札の端はもう湿気で波打っていた。
霊水路から上がる瘴気が、紙を内側から腐らせている。
茜は、濁った水を見下ろしていた。
さっきまで泣いていた目は、もう乾いている。
アサミとぶつかった。
風彦と雅琥にも見られた。
ひとりで契約を継がないと決めた。
そう決めたはずなのに、胸の奥ではまだ同じ問いがぐるぐる回っている。
父を救えるなら。
父の負担が止まるなら。
それだけでも、意味はあるのではないか。
たとえ記憶が戻らなくても。
寿命が戻らなくても。
これ以上、父が壊れずに済むのなら。
茜は、自分の手を見る。
この手で契約を受け入れれば、何かが止まる。
水田の枯れも。
父の苦しみも。
家臣たちの不安も。
母の涙も。
全部ではなくても、少しは止まる。
そう思ってしまう自分がいた。
「その顔は、ろくなことを考えていない顔ね」
背後から声がした。
風彦ではない。
アサミでも、雅琥でもない。
艶やかで、少し意地悪で、刃物のように澄んだ女の声。
茜は振り返った。
霊水路の脇にある小さな手洗い場。
その蛇口から、黒い水が一筋落ちた。
水は地面に落ちる前に花弁のように広がり、そこから黒い着物の裾が現れた。
濡羽色の髪。
白い肌。
朱の唇。
腰には刀。
厠の華子さんは、まるで稲葉家の水路など自分の庭であるかのように、静かに石畳へ降り立った。
茜は目を細める。
「……どうしてここにいるのよ」
「水のあるところへは、少しだけ顔を出せるの」
「少しだけって便利ね」
「ええ。便利に使っているわ」
華子は微笑んだ。
その後ろから、風彦が息を切らして現れた。
顔色が悪い。
片手で腹を押さえ、もう片手で壁を支えている。
「華子さん……急に水路へ出るのは、おやめいただきたいのでござる……」
「あら。あなたも来たかったのでしょう?」
「来たかったというより、置いていくと何をされるか不安だったのでござる」
「心配性ね」
「華子さん限定で、心配性にもなるでござる」
さらに、少し遅れてアサミと雅琥が来た。
アサミは端末を抱え、雅琥は不機嫌そうに腕を組んでいる。
「厠女、ほんとにどこでも出るんだな」
雅琥が言う。
華子は涼しい顔で返す。
「あなたも白い虎なら、もう少し足音を静かにしたらどうかしら」
「誰が虎だ」
「では、白い猫?」
「殴るぞ」
「できるならどうぞ。水路へ落ちないようにね」
「この女、本当に腹立つな」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
茜は、そんなやり取りを聞いても笑えなかった。
華子はすぐにそれに気づいた。
黒い瞳が、茜へ向く。
からかうような色が消えた。
「契約を継ぐつもりね」
茜は答えなかった。
答えなかったことが、答えだった。
アサミが一歩前へ出ようとする。
茜は手で制した。
「今は、アサミじゃなくて華子さんが言ったんでしょ」
「茜」
「大丈夫。逃げないから」
茜は華子を見た。
正面から。
「継ぐつもりじゃないわ。まだ決めてない」
「では、半分は決めているのね」
「言い方」
「間違っている?」
茜は唇を噛んだ。
華子は一歩近づく。
石畳の上に草履の音が小さく響く。
「茜。あの契約は、あなたが思っているよりずっと悪いものよ」
「知ってるわよ」
「いいえ。知らない」
華子の声は静かだった。
静かだからこそ、茜の胸を逆撫でする。
「命が削られる。記憶が削られる。父上の失ったものが戻るわけじゃない。アサミが調べてくれた。そこまでは知ってる」
「それでも、父君の負担が止まるなら、と考えている」
「悪い?」
茜の声が尖った。
「父上なのよ。あたしの父上なの。霊水路が枯れたら、土地の人たちだって困る。水田も死ぬ。稲葉家が今まで鬼を縛ってきたのが悪いのは分かってる。でも、その罪を今すぐ全部なかったことにはできない!」
言葉が止まらない。
自分でも、怒りがどこへ向かっているのか分からなかった。
華子へ向けているようで、家臣たちへ向けているようで、自分自身へ向けているようでもあった。
「あたしが逃げたら、父上はどうなるの。母上はどうなるの。稲葉の水田はどうなるの。鬼たちだって、霊水路の底で暴れるんでしょ。だったら、誰かがやるしかないじゃない!」
「その誰かが、あなたである必要はないわ」
「じゃあ誰がやるのよ!」
茜は叫んだ。
水路の黒い水が震える。
封印札が一枚、端から焦げた。
風彦が身構え、アサミが端末を握る。
だが華子は動かなかった。
ただ、茜を見ていた。
「華子さんに何が分かるのよ」
茜の声は、もう抑えられなかった。
「家も、父も、領民も、稲葉の土地も知らないくせに。あたしが逃げたら誰が困るのか、知らないくせに。厠に住んで、好き勝手言って、刀振って、外から見てるだけのあなたに、何が分かるの!」
言った瞬間、周囲の空気が凍った。
アサミが小さく息を呑む。
風彦が「稲葉殿」と呼びかけようとして、止まる。
雅琥でさえ、何も言わなかった。
華子は怒らなかった。
微笑みもしなかった。
ただ、ほんの少しだけ目を伏せた。
「そうね」
静かな声だった。
「稲葉家のことは、知らないわ」
茜は肩で息をしていた。
言いすぎた。
そう思った。
だが、謝れなかった。
今謝ったら、自分が崩れてしまう気がした。
華子は水路へ視線を向けた。
黒い水が、鈍く流れている。
「でも、家というものなら知っている」
茜の眉が動く。
「わたくしも、武家の娘だったもの」
その場に、別の静けさが落ちた。
華子の過去。
それは、これまで誰も深く聞けなかったものだった。
風彦も、華子が生前に榊原華という名だったことは薄く知っている。
だが、本人の口から語られるのは初めてだった。
「榊原の家に生まれたわ」
華子は言った。
「女に剣は要らぬ。家を守るためには、嫁ぎ先を間違えるな。そう言われて育った。けれど、わたくしは刀が好きだった。父の道場に忍び込んで、兄たちが寝静まったあとに木刀を振った」
華子の声には、懐かしむような響きがあった。
だが、それは穏やかな思い出だけではなかった。
「強くなったわ。男たちよりも。だから、余計に嫌がられた」
「どうして」
茜は思わず尋ねていた。
「強いなら、家の役に立つじゃない」
「強い娘は、家の都合に合わないことがあるのよ」
華子は微笑む。
その笑みは、ひどく薄かった。
「榊原家に必要だったのは、剣を持つ娘ではなく、黙って嫁ぐ娘だった。家のために剣を捨てろ。女として生きろ。家の名を汚すな。何度も言われたわ」
茜は何も言えなかった。
華子は続ける。
「ある年、土地の結界が崩れかけた。原因は、古い井戸に沈められていた怪異だった。井戸を鎮めるには、若い娘をひとり捧げる必要があると、家の祈祷役は言った」
風彦の表情が変わる。
アサミも端末を握る手を止めた。
華子は、二人を見ずに語る。
「選ばれたのは、小夜という子だった。わたくしより年下で、よく泣く子だったわ。家の者たちは言った。名誉なことだと。土地を守る尊い役目だと。榊原の恩を受けた家の娘なのだから当然だと」
茜の胸が冷えた。
その言葉は、どこかで聞いたものに似ていた。
家を守るため。
土地を守るため。
皆のため。
だから、ひとりが犠牲になる。
華子の目が、茜へ戻る。
「わたくしは、その子を逃がした」
短い言葉だった。
しかし、その背後にあるものが大きすぎて、誰もすぐには反応できなかった。
「そして、自分が代わりに井戸へ入った」
「……どうして」
茜は声を絞り出した。
華子は少しだけ首を傾げた。
「小夜が泣いていたから」
「それだけ?」
「それだけよ」
「それだけで、死んだの?」
「ええ」
華子は当たり前のように答えた。
茜は、その当たり前さに息を呑んだ。
「ただし、勘違いしないで」
華子の声が少し鋭くなる。
「わたくしは、家のために死んだのではないわ。土地のためでもない。榊原の名誉のためでもない。小夜を逃がすと決めたのは、わたくし自身よ」
茜は、華子を見た。
黒い着物の女。
厠の怪異。
刀を持つ幽霊。
けれど今、そこにいるのは、ただの怪談ではなかった。
家に剣を捨てろと言われた娘。
別の少女を逃がすために、自分で死を選んだ人。
「でも、死んだあとも自由ではなかった」
華子は自分の手を見る。
白い指。
その指が、刀の柄へ触れる。
「わたくしの骨は、学園の礎へ埋められた。井戸の怪異を鎮め、校舎の結界を支えるために。守護神という綺麗な名をつけられてね」
華子の声に、初めてはっきりと怒りが混じった。
「守護神。便利な言葉でしょう? 死んだ娘を礎にしておきながら、そう呼べば皆が安心する。本人の意思など、死後には都合よく書き換えられる」
茜は、何か言おうとした。
言葉が出なかった。
「わたくしは、死ぬ覚悟なら見せたわ」
華子は言う。
「でも、生きて責任を取ることはできなかった。小夜がその後どう生きたのか、わたくしは見届けられなかった。榊原の家がどうなったのかも知らない。わたくしの名がどう扱われたのかも、長い間知らなかった。ただ、三番目の個室で、守れ、留まれ、斬るな、出るなと命じられ続けた」
水路の音が、重く響く。
茜は、胸の奥が痛くなった。
華子が自分へ強く反対する理由が、ようやく分かり始めた。
それは、安全な場所から言っている言葉ではない。
死んでなお縛られている者の言葉だった。
「茜」
華子が名を呼ぶ。
茜は顔を上げた。
「家を守ることと、家に食われることは違うわ」
その言葉は、父の言葉と重なった。
家に、食われるな。
茜の喉が震える。
「でも、あたしが継がなかったら」
「継ぐなとは言っていない」
華子は即座に言った。
茜は目を見開く。
「え?」
「あなたが本当にすべてを知り、他の道も探し尽くし、それでも自分の意思で契約を選ぶなら、わたくしは止めないわ」
「だったら」
「でも今のあなたは違う」
華子の声が鋭くなる。
「父を救いたいという痛みと、家臣たちの期待と、第七怪が切り取った一文と、稲葉の娘であるという役目に追い立てられているだけ」
「違う!」
「違わない」
「違うわよ! あたしは自分で考えて」
「死ぬ覚悟を見せて満足するんじゃないよ」
華子の声が、初めて荒くなった。
それは、いつもの雅やかな口調ではなかった。
生前の榊原華が、刀を握って怒鳴っているような声だった。
茜は息を呑む。
華子は一歩踏み込んだ。
「生きて責任を取る覚悟をお見せ」
その言葉が、茜の胸を打った。
「死ねば、美しく終われると思ったら大間違いよ。あなたが契約を継いで、記憶を削られて、命を削られて、いつか誰の名も呼べなくなって。それで父君が少し長く生きたとして、残された者たちはどうするの」
アサミの言葉が蘇る。
ワタシが残されることは考えないの?
勝手にひとりで死ぬ準備をしないで。
華子は続ける。
「父君を救いたいなら、生きて救いなさい。土地を守りたいなら、生きて守りなさい。鬼に名を返したいなら、生きてその名を探しなさい。自分を削ることだけを責任と呼ぶな」
茜の目に涙が浮かんだ。
今度は怒りではない。
悔しさでもない。
痛いところを、真正面から斬られた。
そんな涙だった。
「じゃあ、どうすればいいのよ」
声が震える。
「生きて責任を取るって、どうすればいいの。父上は今も壊れていってる。水田は枯れてる。儀式はもう準備されてる。三日後なのよ。三日で、何をどうすればいいの!」
華子はすぐには答えなかった。
風彦も、アサミも、雅琥も。
誰も簡単な答えを持っていない。
その沈黙に、茜は笑った。
涙を浮かべたまま、笑った。
「ほら。誰にも分からないじゃない」
「茜殿」
風彦が声をかける。
茜は首を振った。
「ごめん。みんなが来てくれたのは分かってる。アサミが怒ってくれたのも、華子さんが本気で止めてくれてるのも分かってる」
茜は一歩後ろへ下がる。
「でも、あたしは父上を見捨てられない」
「見捨てろとは言っていない」
華子が言う。
「分かってる。でも、時間がないの」
茜は端末を握った。
画面には、鬼契り継承儀式の案内が表示されている。
契約蔵。
三日後の夜。
だが、家臣団はすでに準備を始めている。
茜が行けば、儀式は前倒しできる。
水路の濁りが進めば、そうせざるを得ない。
自分が決めれば。
「茜」
アサミが呼ぶ。
茜はアサミを見た。
さっき仲直りしたばかりなのに。
もうまた、裏切るようなことをしようとしている。
胸が痛い。
でも、足は止まらなかった。
「ごめん。今度は、隠れて行かない」
茜は言った。
「ちゃんと言う。あたし、契約蔵へ行く」
アサミの顔が青ざめる。
風彦が身構える。
雅琥が舌打ちする。
華子の目が細くなる。
「契約を受け入れるのではなく、まず契約蔵へ行く。自分の目で見る。鬼たちの声を聞く。父上が何を背負っていたのか、知らないまま逃げることはできない」
「それを口実に、祭壇へ立つつもりではないでしょうね」
華子が問う。
茜はすぐには答えられなかった。
それが答えだった。
華子の表情が硬くなる。
「茜」
「止めるなら止めて」
茜は袖で涙を拭った。
「でも、あたしは行く」
「行かせると思う?」
華子の声が低くなる。
茜は召喚杖を握った。
その瞬間、霊水路の水が大きく波打った。
赤い縄のような霊光が、水面から立ち上がる。
稲葉家の血に反応している。
あるいは、契約蔵が茜を呼んでいる。
風彦の腹が強く痛んだ。
「これは……」
アサミが端末を見る。
「鬼契り側からの接続反応。茜の霊力に呼応している」
雅琥が低く言う。
「向こうから招待状出してきたってことか」
茜は水面を見た。
水の中に、赤い鳥居のような影が映っている。
その奥に、契約蔵へ続く石段。
屋敷の地下にあるはずの場所が、水面に映っている。
茜は震える息を吐いた。
「……行く」
華子が刀の柄へ手をかける。
風彦が白衣神咒を取り出す。
アサミが茜の袖を掴もうとする。
だが、赤い水の光が茜の足元を包んだ。
「茜!」
アサミが叫ぶ。
茜は振り返った。
泣きそうな顔で、笑った。
「ごめん。アサミ」
「謝るなら行かないで!」
「すぐ戻る」
「それ、戻らない人の言葉!」
アサミの声が裂けた。
茜の表情が歪む。
それでも、光は止まらない。
華子が一歩踏み出す。
「茜!」
茜は華子を見た。
「華子さん」
「何」
「家に食われるなって、父上にも言われた」
華子の目が揺れる。
「でも、食われるかどうかは、ちゃんと家の口の中を見てから決める」
「馬鹿な子」
「知ってる」
茜は小さく答えた。
次の瞬間、赤い水の光が彼女を包み込み、霊水路の中へ引き込んだ。
水しぶきは上がらなかった。
ただ、そこにいた茜の姿だけが消えた。
濁った水面には、赤い縄の波紋が残っている。
アサミが膝をつき、手を伸ばした。
何も掴めない。
「茜……!」
風彦は腹を押さえ、歯を食いしばる。
「契約蔵へ引かれたのでござる」
雅琥は拳を鳴らした。
「追うぞ」
華子は水面を睨んでいた。
その顔に、いつもの余裕はなかった。
黒い瞳の奥で、怒りと後悔が燃えている。
「ええ」
華子は低く言った。
「今度は、生きたまま引きずり戻すわ」
霊水路の水が、重く流れる。
その底から、無数の鬼の声がかすかに響いた。
稲葉の血。
契りを。
継げ。
そして遠くで、また卒業式の鐘のような音が鳴った。




