第四幕 ― 稲葉家の契約蔵
茜は、水の底へ落ちた。
そう思った。
霊水路の黒い水が足元からせり上がり、視界を覆い、耳の中まで冷たく満たしていく。
けれど、息はできた。
水ではない。
これは水の形をした道だ。
稲葉家の霊水路を通り、屋敷の下を巡り、さらに深く、ずっと深く、代々の契約が沈められた場所へ続く道。
茜は落ちているのではなく、引かれているのだと気づいた。
赤い縄に。
自分の血に。
稲葉という家名に。
目の前に、いくつもの光景が浮かんでは消えた。
青々とした水田。
燃える村。
疫病で閉ざされた門。
夜の川辺に立つ角ある影。
赤い縄を手にした稲葉家の当主たち。
彼らは皆、同じ言葉を口にしていた。
守れ。
祓え。
塞げ。
殺せ。
稲葉を守れ。
そのたびに、鬼の影が動く。
そのたびに、当主たちの顔から何かが消える。
寿命。
記憶。
感情。
名前の一部。
茜は叫ぼうとした。
声は水の中に溶けた。
次の瞬間、足が硬い石を踏んだ。
冷たい空気が肺へ流れ込む。
茜は咳き込みながら膝をついた。
そこは、屋敷の地下だった。
◇
稲葉家の契約蔵。
その名を、茜は幼いころから聞いていた。
ただし、本当に入ったことはない。
屋敷の地下深くにある、古い蔵。
藩主家の契約文書や霊具を保管する場所。
子どもが近づいてはいけない場所。
茜はそう教えられてきた。
だが、目の前にあるそれは、蔵というより祭壇だった。
広い石室。
壁は黒い岩を削り出したように粗く、そこへ赤い縄が幾重にも張り巡らされている。縄には古い札が吊られ、札には人名とも、鬼名ともつかない文字が書かれていた。
天井からは青白い灯明が下がっている。
炎ではない。
霊水を燃やした光だ。
床の中央には丸い石壇があり、その上に古い契約書が置かれている。
契約書の周囲には、朱塗りの盃、短刀、血判用の石皿、そして稲葉家の家紋が刻まれた赤縄の輪。
すべてが、茜の到着を待っていたように整えられていた。
石室の奥には、志乃が立っていた。
灰桜色の着物の上に白い祭祀装束をまとい、髪をきつく結い上げている。顔は青ざめていたが、背筋は伸びている。
その横には、菊江と室田、数名の家臣。
そして、布団ごと移された父・景継がいた。
景継は半ば眠っているように目を閉じている。右手には銀針が刺され、その針から伸びた赤い糸が中央の契約書へつながっていた。
茜は、喉が詰まるのを感じた。
「……母上」
声を出した瞬間、志乃がこちらを見た。
驚きはなかった。
悲しみも。
少なくとも、表面には。
ただ、静かな覚悟だけがあった。
「来てしまったのね」
「呼んだんじゃないの?」
茜は立ち上がった。
膝が震える。
それでも、志乃を見た。
「霊水路が、あたしをここへ引いた。母上たちは儀式を始めていた。だったら、あたしが来るのも分かってたんじゃないの」
志乃は答えない。
菊江が一歩前へ出た。
「姫様。契約蔵はすでに開いております。どうか、こちらへ」
「菊江は黙ってて」
茜の声は鋭かった。
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
菊江が目を伏せる。
茜は母を睨む。
「母上。どういうこと」
「霊水路の濁りが進みました」
「だから?」
「今夜中に手を打たなければ、東水門が完全に枯れます。そうなれば、外縁田だけでは済まない。屋敷の霊脈まで腐ります」
「だから、儀式を進めたの?」
「そうです」
あまりに静かな答えだった。
茜の胸が冷えた。
「……あたしが考える時間をちょうだいって言ったのに」
「時間はありません」
「三日後って言ったじゃない!」
「三日は、ありませんでした」
志乃の声は変わらない。
その落ち着きが、茜をさらに傷つけた。
母は泣いていない。
取り乱していない。
止めようとしていたはずなのに、今は祭祀装束を着て、契約蔵に立っている。
藩を守るために。
家を守るために。
娘を祭壇へ立たせる覚悟を決めたように。
茜は唇を噛んだ。
「母上も、そうなんだ」
声が震えた。
「結局、あたしに継がせるんだ」
志乃の目がわずかに揺れる。
「茜」
「父上を救うため。霊水路を守るため。藩のため。家のため。そう言えば、あたしが頷くと思った?」
「違います」
「何が違うのよ!」
茜の声が石室に反響した。
壁の赤縄がざわめく。
札がかすかに鳴る。
「母上は止めてくれると思ってた。あたしを逃がしてくれるって、どこかで思ってた。でも違った。母上も、稲葉家の人だった」
言った瞬間、志乃の顔が痛みに歪んだ。
だが茜は止まれなかった。
「母上も、あたしより家を選んだんだ」
「違う!」
志乃の声が、初めて乱れた。
それは悲鳴に近かった。
茜は息を呑む。
志乃は唇を震わせ、手元の白い祭祀布を握りしめていた。
「違うの、茜」
「じゃあ、何が違うの」
「私は……」
志乃は言いかけて、言葉を失った。
その沈黙に、菊江が険しい顔をする。
「奥方様」
「黙りなさい」
志乃の声が低くなった。
菊江が口を閉じる。
志乃は、茜へ向き直った。
その目には、もう隠せない涙が浮かんでいた。
「私は、あなたに継がせるつもりはありませんでした」
「え?」
「契約が成立する寸前に、私の命を代償に差し出すつもりでした」
茜は、言葉の意味を理解できなかった。
いや、理解したくなかった。
「……何、言ってるの」
「次代の血が契約を受け入れる。その瞬間、契約は新しい器を求めます。そこへ、私が割り込む。稲葉の血ではありませんが、当主の妻として契約の外縁には触れられる」
「待って」
「景継様の反動を止め、あなたを契約から外す。その代わりに、私の命を――」
「待ってって言ってるでしょ!」
茜は叫んだ。
足が震える。
胸の奥が、怒りと恐怖でぐちゃぐちゃになっていく。
「何それ。何それ! 母上まで、勝手に死ぬ準備してたの!?」
志乃は答えない。
茜は笑った。
涙が出そうだった。
笑うしかなかった。
「馬鹿じゃないの」
「茜」
「馬鹿じゃないの!」
石室が震える。
赤縄が鳴る。
茜は母へ詰め寄った。
「父上は自分で契約を壊そうとして倒れた。あたしはあたしで勝手に継ごうとした。母上は母上で勝手に死のうとしてた。何なの、この家!」
誰も答えられなかった。
室田は顔を伏せる。
菊江も沈黙している。
志乃は涙を堪えたまま立っている。
茜は、震える声で続けた。
「みんな、誰にも相談しないで、自分だけ犠牲になればいいと思ってる。あたしもそうだった。母上も同じじゃない。そんなの、守るって言わない。勝手に残すって言うのよ!」
その言葉は、アサミに言われた言葉の裏返しだった。
残される者のことを考えない犠牲。
自分も、それをしようとしていた。
だからこそ、母を責める声が、自分にも刺さった。
志乃は泣きそうな顔で微笑んだ。
「あなたも、同じことをしようとしたでしょう」
「だから怒ってるの!」
「そうね」
「母上が納得するところじゃない!」
茜の声は涙で滲んだ。
そのとき、奥の布団で景継がかすかに動いた。
赤い糸が震える。
志乃が振り返る。
「あなた」
景継の目が、ゆっくり開いた。
焦点は合っていない。
だが、先ほどまでの混濁した目ではなかった。
ほんの短い時間だけ、意識が水面へ浮かび上がったように、光が戻っていた。
「……騒がしい、な」
かすれた声。
茜は息を止める。
「父上」
景継の目が茜を探す。
今度は、見つけた。
「あかね」
その名が、最後まで呼ばれた。
茜の目から涙が落ちた。
「はい。ここにいます」
「志乃」
景継は妻の名も呼んだ。
志乃が布団のそばへ膝をつく。
「はい」
「二人とも、同じ顔をしている」
景継は苦しげに笑った。
「まったく……稲葉の女は、どうしてこう頑固なのか」
「あなたに言われたくありません」
志乃が涙声で返す。
景継は、ほんの少しだけ笑った。
その笑みはすぐに苦痛で歪む。
それでも、彼は左手を動かし、赤い糸へ触れた。
「茜」
「はい」
「志乃」
「はい」
「私が壊そうとしたものを、おまえたちが継ぐ必要はない」
その言葉に、石室全体が震えた。
赤縄がざわめく。
札が一斉に鳴る。
菊江が青ざめた。
「景継様、それ以上は」
「黙れ、菊江」
景継の声は弱い。
それでも、当主の声だった。
菊江が口を閉じる。
「私は、間違えた。もっと早く話すべきだった。鬼たちの名を、契約書から探していた。返す方法を探していた。だが、時間が足りなかった」
「父上」
「解こうとして、壊しかけた。反動を受けた。水を濁らせた。おまえたちに、重荷を残した」
景継の呼吸が乱れる。
志乃が支えようとするが、彼は首を振った。
「だが、継ぐな」
短い言葉だった。
父が娘へ残す、命令ではなく願いだった。
「命じて守る時代は、終わらせなければならない。稲葉は、守られた。だが、縛りすぎた。鬼にも、人にも」
その瞬間、契約書の上に置かれた赤縄の輪が、ひとりでに締まった。
石壇が低く唸る。
床の亀裂から黒い水が染み出した。
風が吹くはずのない地下で、灯明が激しく揺れる。
菊江が叫んだ。
「鬼門境が開きます!」
室田が家臣たちへ指示を飛ばす。
「封印札を!」
だが遅かった。
中央の石壇に置かれていた契約書が、赤い炎を上げた。
燃えているのではない。
文字が、血のような光になって浮き上がっている。
壁の赤縄が一斉に引き絞られ、石室の奥に黒い裂け目が開いた。
そこから、冷たい風が吹いた。
鬼門境。
第1話で教室へつながったあの向こう側。
だが今度は、腕一本ではない。
裂け目の奥に、無数の影がいた。
角あるもの。
腕のないもの。
顔を縄で縛られたもの。
背中に札を打ち込まれたもの。
獣のような姿のもの。
人に近い姿のもの。
赤い縄で互いに結ばれ、長い年月ひとつの契約として束ねられてきた鬼たち。
その中に、茜は見覚えのある影を見つけた。
折れた角。
赤黒い腕。
黒い爪。
北校舎の女子厠の外で、茜を呼んだ鬼。
名を返せ、と訴えた鬼。
その鬼が、裂け目の向こうから茜を見ていた。
「いなば」
声が響く。
石室の全員が身をすくめた。
だが、茜は動かなかった。
怖い。
足がすくむ。
それでも、目を逸らさなかった。
「ちぎりを」
別の鬼の声。
「おわれ」
また別の声。
「名を」
「返せ」
「命じるな」
「使うな」
「縛るな」
無数の声が重なる。
それは怒号だった。
悲鳴でもあった。
だが、その中心にあるのは、稲葉家を滅ぼせという単純な憎悪ではなかった。
終わらせろ。
返せ。
もう命じるな。
その訴えだった。
茜は、胸元の家紋を握りしめる。
「あなたたちは……稲葉を滅ぼしたいんじゃないの?」
鬼たちが一斉に揺れた。
折れ角の鬼が、ゆっくりと口を開く。
「稲葉の血」
声は途切れ途切れだった。
だが以前より、はっきりしている。
「守った」
「守らされた」
「殺した」
「殺さされた」
「名を削られた」
「我らは、何者だった」
茜は息を呑む。
鬼たちは、自分たちが何だったのかを問うている。
悪鬼。
使役鬼。
契約霊。
稲葉の守護。
そう呼ばれ続けるうちに、本来の名を失った者たち。
「名を返せ」
折れ角の鬼が言う。
「契りを終われ」
「命じるな」
「次の血を、出すな」
茜の背筋が震えた。
次の血。
自分のことだ。
鬼たちは茜へ契約を継げと言っていた。
そう聞こえていた。
だが本当は違ったのかもしれない。
契りを継げ、ではなく、契りを告げろ。
終わらせろ。
次の血を出すな。
声が歪み、契約が翻訳をねじ曲げていただけなのかもしれない。
アサミがいたら、きっとそう分析しただろう。
茜は、ここにいない友人の声を思い出す。
聞こえている言葉と、口の動きが一致していない。
返り鏡のとき、アサミはそう見抜いた。
では、鬼契りでも同じことが起きていたのではないか。
契約に都合のよい言葉だけが、人間側へ届いていたのではないか。
「……あたし」
茜は震える声で言った。
「あたし、あなたたちの名前を知らない」
鬼たちが静まる。
「父上が探していたって言った。返す方法を探していたって。なら、あたしも探す」
菊江が悲鳴のように言った。
「姫様、鬼に約束してはなりません!」
「命令じゃない」
茜は振り返らずに言った。
「約束よ」
「鬼との約束は契約になります!」
「だったら、人間としての約束にする」
茜は鬼門境の裂け目へ向き直った。
足は震えている。
怖い。
圧倒的に怖い。
けれど、この恐怖を無視したら、また誰かが勝手に犠牲になる。
父が。
母が。
自分が。
鬼たちが。
「今すぐ全部は無理。でも、あたしは次の命令者にはならない」
茜は言った。
「あなたたちを使役する契約者にはならない」
赤縄が激しく震えた。
契約書の文字が赤く光る。
まるで、茜の言葉を拒むように。
そのとき、石室の入口側から大きな衝撃音がした。
どん。
古い扉が揺れる。
続けて、雅琥の声。
「開けろ!」
茜は振り返った。
石室の封印扉の向こうから、風彦の声も聞こえる。
「稲葉殿! 聞こえるでござるか!」
アサミの声。
「茜、返事をして!」
華子の声は、低く鋭かった。
「茜。まだ契約していないでしょうね」
茜の胸が熱くなる。
来た。
追ってきた。
こんな地下の契約蔵まで。
志乃が驚いたように扉を見る。
「茜、あなた」
「友達よ」
茜は涙をこらえながら笑った。
「外したのに、勝手に来るの」
景継がかすかに笑った。
「よい、友だ」
「はい」
扉がさらに揺れる。
白い虎の霊光が封印の継ぎ目を走った。
雅琥が蹴っている。
その横で風彦が白衣神咒を貼り、アサミが封印式を読み、華子が刀の鞘で結界の縁を叩いているのだろう。
茜には、見えなくても分かった。
赤縄が再び締まる。
鬼門境の裂け目が大きくなる。
鬼たちの影が、石室へ伸びてくる。
契約蔵が揺れる。
儀式は、もう止まらないところまで来ていた。
だが、茜はもう一人ではなかった。
母も、自分を犠牲にしようとしていた。
父も、契約を壊そうとしていた。
鬼たちも、終わらせろと叫んでいる。
友達も、扉の向こうから来ている。
なら。
「父上」
茜は景継を見る。
「母上」
志乃を見る。
「もう、誰か一人が勝手に犠牲になるのはやめよう」
志乃の目から涙がこぼれた。
景継は力なく頷く。
茜は鬼たちへ向き直った。
赤い縄が足元を這う。
契約書が、血判を求めて輝く。
鬼門境の向こうから、無数の名なき鬼たちが見ている。
茜は召喚杖を握った。
契約を受け入れるためではない。
命じるためでもない。
まず、聞くために。
「教えて」
茜は言った。
「あなたたちの名を、どうすれば返せるのか」
その瞬間、契約蔵の扉が内側へ向かって吹き飛んだ。
白い霊光。
黒い花弁。
白衣の経文。
赤い解析札。
そして、四人の足音。
風彦、アサミ、雅琥、華子が、契約蔵へ飛び込んできた。
華子は茜を見るなり、鋭く言った。
「生きているわね」
茜は涙目のまま笑った。
「まだね」
「よろしい」
華子は刀に手をかける。
「では、生きて責任を取る続きを始めましょうか」
鬼門境の裂け目が、さらに大きく開いた。
無数の鬼の影が、稲葉家の契約蔵へなだれ込もうとしていた。




