第五幕 ― 呼び直し
契約蔵の奥で、鬼門境が口を開けていた。
黒い裂け目の向こうには、無数の鬼の影が揺れている。
赤い縄に縛られたもの。
札を打ち込まれたもの。
角を折られたもの。
顔を塗り潰されたもの。
人の形を失ったもの。
獣の形を強いられたもの。
そのすべてが、稲葉家の契約に束ねられていた。
叫びは、怒号になって石室を満たしている。
名を返せ。
命じるな。
使うな。
契りを終われ。
赤縄は、壁から床へ、床から石壇へ、石壇から景継の右手へ、そして茜の足元へ伸びていた。
契約書は赤く光っている。
血判を求めるように。
次代の血を求めるように。
茜は召喚杖を握りしめ、鬼門境の前に立っていた。
怖い。
怖くて当然だった。
目の前にいるのは、ただの怨霊ではない。
稲葉家が長い年月をかけて縛り、使い、名を削ってきた存在たちだ。
怒っている。
苦しんでいる。
けれど、滅ぼせとは言っていない。
契約を終われ。
名を返せ。
それが、彼らの訴えだった。
石室の入口では、風彦、アサミ、雅琥、華子が体勢を立て直している。
扉を破って飛び込んだ衝撃で、封印札の破片が床に散っていた。風彦は白衣神咒を手にし、腹を押さえながらも茜の前へ出ようとしている。
アサミは息を切らしながら端末を開き、契約書の文面を必死に読み取っていた。目の下には疲労の影がある。だが、手は止まらない。
雅琥は石床を踏みしめていた。白い虎の紋が足元で薄く光っている。鬼門境の裂け目が広がるたび、彼の足元がそれを現世へ押し戻すように軋んだ。
華子は刀の柄へ手を添えている。
まだ抜いていない。
鬼たちを斬るためではないと、彼女自身が分かっているからだ。
「茜」
アサミが呼んだ。
茜は振り返らない。
振り返ったら、泣いてしまいそうだった。
「聞くって言ったわ」
「うん」
「命令しないって言った」
「うん」
「だから、今は止めないで」
アサミは唇を引き結んだ。
止めたい。
今すぐ茜の袖を掴んで引き戻したい。
だが、茜は契約を継ぐために立っているのではない。
鬼の声を聞くために立っている。
それを止めることは、また茜の選択を奪うことになる。
アサミは震える息を吐き、端末へ視線を戻した。
「分かった。でも、契約書に触れる前に、必ずワタシを見ること」
「命令?」
「お願い」
茜の肩が少し揺れた。
「分かった」
そのとき、契約蔵全体に別の結界音が響いた。
低く、重い鐘のような音。
石室の壁に、六道学園の校章が浮かび上がる。
円環。
六つの道。
中央に封じられた門。
風彦が顔を上げた。
「これは……学園結界?」
黒い裂け目の反対側、石室の隅に青白い門が開いた。
そこから、六道玄斎が現れた。
黒に近い長羽織。
煙色の封印眼鏡。
右手には、六道学園長印を刻んだ古い木札。
その背後に、数名の教職員が見える。だが玄斎は片手を上げ、彼らを制した。
「ここから先は入るな」
教職員たちは戸惑いながらも、門の向こうで止まった。
玄斎だけが契約蔵へ足を踏み入れる。
雅琥が顔をしかめた。
「また出てきやがった」
「ここは学園結界にも接続している」
玄斎は石室を見渡し、鬼門境の裂け目へ視線を向けた。
その表情がわずかに険しくなる。
「想定より深いところまで開いているな」
「知ってたのかよ」
雅琥の声が低くなる。
「稲葉家の鬼契りが、学園東側の結界を支えていることを」
玄斎は短く答えた。
「知っていた」
石室の空気が、一段冷えた。
茜はゆっくり振り返る。
「学園東側の結界?」
「六道魔導学園は、単独の封門施設ではない。周辺旧藩の土着契約、神社仏閣の霊脈、地下水路、古い結界杭を接続して成立している。稲葉家の鬼契りは、その一部だ」
風彦が息を呑む。
「では、単純に鬼契りを破棄すれば」
「学園東側の封門網が崩れる」
玄斎の声は重い。
「鬼門境との接続がここだけで済まない。学園内の異界門も連動して開く可能性がある」
茜の手が震えた。
契約を終わらせたい。
でも、斬れば学園が危ない。
まただ。
また、誰かを守るために誰かを縛る理由が積み上がる。
志乃が青ざめた顔で玄斎を見る。
「六道殿、それでは」
「契約を斬るだけでは駄目です」
アサミが言った。
彼女は端末から顔を上げない。
「支えを失えば崩れる。だから、支え方を変える必要がある」
「契約を、書き換える気か」
玄斎が問う。
「正確には、既存契約の命令権条項を停止し、相互同意型の協定へ移行する」
アサミの声は硬い。
だが、震えていない。
「所有、命令、代償、拘束、真名封鎖。その五つを外す。代わりに、土地防衛協力をその都度の合意制にする」
室田が声を上げた。
「そんなことが可能なのですか!」
「分からない」
アサミは即答した。
「でも、現契約を継ぐより可能性はある」
菊江が青ざめる。
「鬼に合意を求めるなど、契約として成立しませぬ。鬼は縛らねば」
「黙って」
茜が言った。
菊江は息を呑む。
茜は鬼門境から目を逸らさずに続けた。
「もう、その言い方をやめて」
風彦の懐で、黒い端末が震えた。
鋭い振動。
公儀支給の端末。
風彦は一瞬、動けなかった。
だが端末は何度も震える。
玄斎も気づいた。
華子も。
雅琥も。
「出ろ」
雅琥が言った。
風彦は彼を見る。
「聞こえてんだよ。公儀だろ」
茜も風彦を見た。
アサミも。
逃げ場はなかった。
風彦は黒い端末を取り出す。
画面には、冷たい文面が表示されていた。
――公儀怪異対策局より緊急命令。
――稲葉鬼契りの不安定化を確認。
――霊的鎖国維持のため、次代契約者・稲葉茜による継承を優先せよ。
――現場監視任務者、蓮田風彦は学園長および稲葉家へ協力し、契約継承を成立させること。
――命令不履行の場合、監視任務者自身の封印措置を検討する。
誰も、すぐには言葉を出せなかった。
鬼門境の風だけが、石室を吹き抜ける。
茜の目が風彦へ向く。
「契約を継がせろってこと?」
風彦は答えられなかった。
端末を握る手が冷たくなっている。
命令。
公儀の命令だ。
霊的鎖国を維持するため。
封門網を守るため。
鬼契りを安定させるため。
茜に契約を継がせろ。
それが正しい。
制度としては。
国家としては。
多くの人命を守るためには。
おそらく、そうなのだろう。
だが。
風彦は茜の顔を見た。
父を救いたくて、家に食われかけて、それでも鬼の声を聞こうとしている少女。
アサミの顔を見る。
友達を残すなと泣いた少女。
雅琥を見る。
母の声を奪われ、それでも鏡の前に立った少年。
華子を見る。
守護神という名で死後まで縛られた女。
そして、自分の手を見る。
公儀の端末を持つ手。
「蓮田」
玄斎が静かに言った。
「君は、どうする」
雅琥の目が鋭くなる。
「またそれかよ」
風彦は、息を吸った。
腹が痛む。
強く、深く。
それは鬼門境の痛みでもあり、公儀の命令を前にした痛みでもあった。
「話すでござる」
声が震えた。
それでも続けた。
「拙者は、蓮田家の人間ですが、純粋な人間ではござらん」
茜が眉を寄せる。
「蓮田くん?」
「拙者の血には、《向こう側》の風が混じっております。公儀は、それをハスターの血と呼んでいる」
石室の灯明が揺れた。
アサミの目がわずかに開く。
雅琥は黙ったまま聞いている。
「黄風。境界を削る風。鬼門や鏡界のような境界に干渉できる力です。便利な力でござる。だから、公儀は拙者を管理してきた」
風彦は笑おうとした。
笑えなかった。
「幼いころから、使い方を教えられました。使うなとも教えられました。必要なときだけ使え。命令されたときだけ使え。人前で出すな。戻れなくなるな。怪物になるな。人間でいたいなら、従えと」
華子の表情が冷える。
玄斎は何も言わない。
「学園へ来たのも、公儀の任務です。六道学園の結界異常を監視するため。必要なら報告するため。皆様の名前も、すでに報告対象に入っている」
茜の顔が少し青ざめた。
風彦は目を伏せる。
「公儀の命令へ逆らえば、拙者自身も封印対象になります。今回の文面は脅しではござらん。彼らは、本当にやる」
雅琥が低く言う。
「じゃあ、おまえは茜に継がせるのか」
風彦は答えなかった。
雅琥の拳が鳴る。
「答えろ」
茜が、風彦を見た。
怒りもある。
怖さもある。
だが、何より悲しそうだった。
「蓮田くん」
彼女は言った。
「守るって、何も知らせないことじゃないでしょ」
風彦の胸に刺さった。
玄斎が、わずかに目を伏せる。
茜はさらに一歩近づく。
「あたしに契約を継がせれば、学園も公儀も稲葉家も、一時的には安心するのかもしれない。鬼たちはまた縛られて、父上の反動は止まって、封門網も保てるのかもしれない」
声は震えていた。
けれど、逃げてはいなかった。
「でも、それって誰のため? あんたまで、あたしたちに勝手な役割を押しつけるの?」
風彦は端末を握りしめた。
勝手な役割。
稲葉の娘。
次代契約者。
守護神。
問題児。
監視任務者。
ハスターの血。
みんな、誰かがつけた役割だ。
風彦はずっと、その中にいた。
そこから出ることを怖がっていた。
命令に従えば、自分は封印されない。
公儀に管理される人型霊具として、まだ人間のふりをしていられる。
でも、ここで従えば。
茜を、自分と同じ場所へ押し込むことになる。
役割に閉じ込める側へ回ることになる。
風彦は端末を見た。
画面には命令文が表示されている。
それを閉じる。
返信欄を開く。
指が震える。
風彦は短く打った。
――現場判断により、契約継承を保留。相互同意型協定への移行を試行する。
送信。
すぐに警告表示が出た。
――命令不履行。
――再考せよ。
風彦は端末の電源を切った。
石室に、機械的な通知音だけが虚しく消えた。
風彦は顔を上げる。
「拙者は、公儀の命令には従いませぬ」
初めて、声が震えなかった。
「僕の判断で、茜殿に契約を継がせない」
茜の目が大きくなる。
アサミが小さく息を吐く。
雅琥は鼻を鳴らした。
「遅えよ」
「面目ない」
「でも、言ったな」
「言いました」
「なら、やれ」
風彦は頷く。
華子が微笑んだ。
その笑みは、からかいではなかった。
「やっと、自分の厠から出たような顔ね」
「たとえが独特でござる」
「褒めているのよ」
「そう受け取っておきます」
玄斎が一歩前へ出た。
「ならば、短時間だけ契約を止める」
志乃が顔を上げる。
「できるのですか」
「完全停止は不可能だ。だが、六道学園長印と東側封門の管理権限を使えば、鬼契りが学園結界へ供給している霊的負荷を一時的に肩代わりできる」
「時間は?」
アサミが問う。
「百八息」
「短い」
「それ以上は、学園側の門が開く」
玄斎は校印を両手で構えた。
「その間に、契約を書き換えろ」
アサミは頷いた。
「やる」
「雅琥」
玄斎が呼ぶ。
雅琥は顔をしかめる。
「何だよ」
「鬼門境と契約蔵を現世へ固定しろ。裂け目が揺れれば、交渉の言葉が歪む」
「命令か」
「依頼だ」
雅琥は少しだけ黙った。
それから舌打ちする。
「最初からそう言え」
玄斎は目を伏せた。
「ああ」
雅琥は石室の中央へ進み、鬼門境の裂け目の前に立った。
怖いものは鏡だけではない。
鬼門境の裂け目も、正直かなり怖い。
無数の鬼の影がこちらを見ている。
それでも、雅琥は足を開き、拳を握った。
「ここは稲葉家の契約蔵だ」
足元に白い虎の紋が広がる。
「ここは六道学園とつながってる。けど、今ここで話すのは、こいつらだ」
白虎踏地。
石床が低く鳴る。
鬼門境の裂け目が、揺れながらも形を保った。
風彦は黄風を使うため、眼鏡に手をかけた。
華子がその手を軽く止める。
「全部見る必要はないわ」
「しかし」
「あなたは道を開く。覗き込むのではなく、境界を整えるだけ」
風彦は華子を見る。
「できるでござろうか」
「できるわ」
「根拠は」
「わたくしがそう言ったから」
「強い」
「でしょう?」
風彦は少し笑った。
眼鏡は外さない。
そのまま白衣神咒を広げる。
黄風を細く、薄く、糸のように流す。
鬼門境と現世の間に、安全な対話のための境界を作る。
こちらへ出過ぎないように。
向こうへ落ちないように。
声だけが、意味だけが通れる道を。
玄斎が校印を押した。
空中に六道学園の校章が浮かび、鬼契りの赤縄へ重なる。
「古契約、百八息の間、効力停止」
赤縄が一斉に緩んだ。
契約書の赤い光が弱まる。
同時に、鬼たちの影が大きくざわめいた。
命じられていない。
縛られていない。
ほんの短い時間だけ。
それでも、彼らにとっては何百年ぶりの空白だった。
アサミが石壇へ駆け寄る。
端末と紙札を同時に展開し、契約書の上に書き換え用の薄い札を重ねた。
「原契約の命令権条項を停止。所有権条項を無効化。代償条項を削除。離脱権を新設。双方同意による一時協力契約へ移行」
彼女は早口で唱えながら、指で文字を組み替える。
契約文は生き物のように暴れた。
古い文字が、削除されまいとして赤く滲む。
アサミの指先に血が滲んだ。
茜が叫ぶ。
「アサミ!」
「平気」
「平気じゃない!」
「平気ではない。でも続ける」
「言い直しても駄目!」
アサミは少しだけ笑った。
「茜が止める番じゃない。茜は聞く番」
茜は息を呑む。
華子が刀を抜いた。
花切の刃が、赤縄の光を受けて黒く光る。
「わたくしは、真名を縛る縄だけを斬る」
「鬼たちは斬らないでござるよ」
風彦が念を押す。
華子は横目で彼を見る。
「分かっているわ。何度も言わなくても」
「念のため」
「心配性ね」
「華子さんが刀を持つと、どうしても」
「信用がないのね」
「信用はありますが、前科もあります」
「言うようになったじゃない」
華子は笑い、刃を低く構えた。
茜は鬼門境の前へ進む。
鬼たちの声が、先ほどよりもはっきり聞こえた。
怒り。
悲しみ。
疲労。
そして、かすかな期待。
茜は震える息を吸う。
「聞かせて」
彼女は言った。
「あなたたちは、どう呼ばれたいの?」
その問いに、石室が静まった。
人間側も、鬼側も。
菊江も、室田も、志乃も、景継も。
誰も息をしないような沈黙。
鬼に名を与える。
それは、支配の始まりでもある。
名を問う。
それは、契約の始まりでもある。
だから茜は、名を与えなかった。
命じなかった。
ただ、尋ねた。
「稲葉家が呼んできた名前じゃなくて。契約書に書かれた役目でもなくて。あなたたちは、どう呼ばれたいの?」
折れ角の鬼が、前へ出た。
赤黒い巨体。
黒い爪。
稲葉家に何度も命じられ、何度も戦わされ、名を削られてきた鬼。
かつて北校舎で茜を追った鬼。
その目は、以前より少しだけ澄んでいた。
「名は」
声は低く、重い。
「まだない」
茜は黙って聞く。
「奪われた。削られた。混ぜられた。忘れた。忘れさせられた」
鬼の背後で、無数の影が揺れる。
名を失った者たち。
名を取り戻せていない者たち。
「名を取り戻すまで」
折れ角の鬼は言った。
「我らを所有するな」
茜は頷いた。
勝手に新しい名前をつけない。
それは、名を返すことではなく、また別の所有になるかもしれないから。
「分かった」
茜は言った。
「じゃあ、今は名なしのままでいい。あなたたちが自分で取り戻すまで、あたしたちは勝手に呼ばない」
菊江が震える声で言う。
「姫様、それでは契約対象が定まりませぬ」
「定めない」
茜は振り返らずに答えた。
「所有しない契約にするって、そういうことでしょう」
アサミが頷く。
「新条項へ記載する」
彼女は札へ文字を書き込んだ。
――鬼霊群は稲葉家の所有物ではない。
赤い契約書が激しく震えた。
華子の刀が閃く。
古い赤縄の一本が、ぱん、と音を立てて切れた。
鬼たちの影がざわめく。
悲鳴ではない。
驚きだった。
アサミは続ける。
――土地を守るか否かは、その都度、双方の対話と同意により定める。
――稲葉家側に命令権は存在しない。
華子が二本目の縄を斬る。
茜の足元から、締めつけるような圧が消えた。
アサミの声がさらに強くなる。
――人命、記憶、感情、寿命、名片を代償として要求しない。
赤い契約書が、拒絶するように燃え上がった。
玄斎の校印が軋む。
「残り、六十息」
「十分」
アサミが答える。
雅琥が石床を踏みしめる。
「揺れんじゃねえ!」
白虎の紋が裂け目を押さえる。
風彦が黄風の境界を補強する。
「声は通す。縄は通さない。名は奪わせない」
華子が三本目、四本目の縄を斬る。
刃は鬼たちには触れない。
真名を縛っていた古い契約縄だけを、正確に切っていく。
アサミは次の条項を読み上げた。
――鬼霊群は、いかなる時も協定を離脱できる。
――稲葉家は、離脱を妨げてはならない。
折れ角の鬼が目を見開いた。
離れられる。
その言葉は、彼らにとってあまりに長く奪われていたものだった。
茜は自分の胸元に手を当てた。
「それから」
アサミが顔を上げる。
「茜?」
「これも入れて」
茜は言った。
「稲葉家の者も、役目を降りる権利を持つ」
室田が息を呑む。
「姫様!」
「黙って」
茜の声は静かだった。
「藩主家に生まれたからって、家に食われる義務はない。あたしも、母上も、父上も、これから生まれる誰かも。降りる権利がある」
志乃が口元を押さえた。
景継は目を閉じ、かすかに笑った。
アサミは短く頷き、条項を書き込む。
――稲葉家の継承者は、藩主家の立場および協定代表者の地位を辞退できる。
――辞退をもって罪としない。
契約書の赤い光が大きく乱れた。
古い契約が抵抗している。
代々の当主の血判。
家臣たちの祈祷。
土地の恐怖。
守られた記憶。
すべてが、新しい文面を拒もうとしている。
玄斎の校印がひび割れた。
「残り三十息!」
風彦の腹が焼けるように痛んだ。
黄風が暴れそうになる。
だが、彼は眼鏡を外さない。
仲間を見る。
茜が鬼と向き合っている。
アサミが契約を書いている。
雅琥が現世を踏みしめている。
華子が古縄を斬っている。
なら、自分は道を保つ。
公儀の命令ではなく、自分の判断で。
「通すでござる……!」
風彦は歯を食いしばる。
「言葉だけを、通す!」
華子が最後の大縄の前に立った。
その縄は他のものより太い。
稲葉家の家紋と、鬼たちの真名の残滓が絡み合っている。
これを斬れば、古い所有権は断たれる。
だが、斬り方を誤れば、鬼たちの名の残滓ごと切り裂いてしまう。
華子は深く息を吸った。
花切の刃が、黒く静まる。
「茜」
「何」
「あなたが決めなさい。斬ってよいのね」
茜は折れ角の鬼を見た。
「あなたたちは?」
鬼は答えた。
「斬れ」
背後の無数の鬼たちも声を重ねる。
「斬れ」
「縛る縄を」
「名を奪う縄を」
「契りの縄を」
茜は頷いた。
「華子さん。お願い」
「承ったわ」
華子の姿が、黒い花弁のように揺れた。
刃が走る。
「華月流――花切」
ただ一閃。
太い赤縄が、音もなく断たれた。
次の瞬間、契約蔵に溜まっていた赤い光が一斉に弾けた。
鬼たちの影から、無数の札が剥がれ落ちる。
真名を隠していた黒い靄が薄れ、しかし新しい名が勝手に浮かぶことはなかった。
名は、まだない。
それは欠落ではなく、彼ら自身が選んだ保留だった。
アサミが最後の一文を読み上げる。
――本協定は、稲葉家および名未復帰鬼霊群の双方同意により成立する。
――これは所有契約ではなく、呼び直しである。
茜は鬼門境へ向かって言った。
「稲葉茜は、この呼び直しに同意する」
志乃が続く。
「稲葉志乃も、同意します」
景継は弱く、しかしはっきりと言った。
「稲葉景継も、同意する」
折れ角の鬼が、一歩前へ出た。
「名は、まだない」
声が響く。
「だが、同意する」
背後から、無数の鬼たちが応じた。
「同意する」
「命令ではなく」
「所有ではなく」
「名を取り戻すまで」
「同意する」
契約書の赤い光が、白く変わった。
霊水路の底から、どこか遠くの水音が響く。
濁った水が流れを変える音だった。
玄斎の校印が砕ける直前、アサミが新しい札を契約書へ貼りつけた。
「《呼び直し》、成立」
その瞬間、鬼門境の裂け目が大きく揺れた。
だが、崩壊ではなかった。
雅琥の白虎踏地が裂け目を現世へ固定し、風彦の黄風が境界を整え、華子の花切が古縄の残骸を流し、茜の言葉が鬼たちを命令ではなく対話の場へ留めた。
裂け目の向こうで、折れ角の鬼が茜を見た。
「稲葉の血」
茜は少しだけ顔をしかめた。
「できれば名前で呼んで」
鬼は黙った。
少し考えるように。
それから、低く言った。
「茜」
たった二文字。
だが、命令関係ではない声だった。
茜の胸が詰まる。
「何」
「次に呼ぶときは、話す」
「うん」
「命じるな」
「命じない」
「忘れるな」
「忘れない」
鬼は頷いたように見えた。
そして、鬼たちの影はゆっくりと鬼門境の奥へ退いていく。
消滅ではない。
封印でもない。
自分たちの場所へ、自分たちの意思で戻っていく。
裂け目が少しずつ閉じ始めた。
最後に折れ角の鬼がもう一度だけ言った。
「名を、探す」
茜は頷いた。
「あたしも、探す」
鬼門境が閉じた。
契約蔵に残ったのは、白く変わった契約書と、切り落とされた赤い縄の残骸。
そして、誰も犠牲にならずに終わった儀式の静けさだった。
◇
最初に座り込んだのは風彦だった。
「……もう無理でござる」
石床に膝をつき、そのまま横へ倒れそうになる。
華子が片手で襟首を掴んだ。
「倒れるなら、床を選びなさい。契約書の上はやめて」
「気遣いの方向が独特……」
「あなたもよくやったわ」
その言葉に、風彦は少しだけ目を開けた。
「華子さんが素直に褒めた……これは霊障では」
「取り消すわよ」
「受け取ります」
アサミは契約書の前に座り込んでいた。
手が震えている。
指先には血が滲んでいた。
茜が駆け寄る。
「アサミ!」
「無事」
「無事じゃないでしょ、手!」
「軽傷」
「軽傷でも怪我!」
「茜も泣いている」
「それは今関係ない!」
茜はアサミの手を取った。
アサミは少しだけ目を細める。
「契約を継がなかった」
「うん」
「一人で死ぬ準備をしなかった」
「……うん」
「よかった」
アサミの声は小さかった。
茜は涙を拭おうとして、もう諦めた。
「ありがとう」
「記録した」
「何を」
「茜が、ありがとうと言った」
「それは記録しなくていい!」
雅琥は石室の隅で大きく息を吐いた。
足元の白虎紋が消えていく。
玄斎が近づく。
「雅琥」
「説教か」
「礼だ」
雅琥は顔をしかめる。
「気持ち悪い」
「……助かった」
「やめろ。本当に気持ち悪い」
「では一度だけにする」
「最初から言うな」
それでも、雅琥は逃げなかった。
玄斎もそれ以上は踏み込まなかった。
志乃は景継のそばへ駆け寄っていた。
景継の呼吸は荒いが、先ほどまで右手から伸びていた赤い糸は切れている。
銀針も、もう黒い煙を上げていない。
志乃が震える手で夫の額へ触れる。
「あなた」
景継は薄く目を開けた。
「……志乃」
志乃は泣いた。
声を殺すこともできず、ただ泣いた。
景継は弱く笑い、茜を探すように視線を動かした。
茜はアサミの手を握ったまま、父へ顔を向ける。
「父上」
「茜」
今度も、名は最後まで呼ばれた。
それだけで、茜はまた泣いた。
戻ったわけではない。
失った記憶も、寿命も、すべてが元通りになったわけではない。
だが、これ以上削られる契約は止まった。
少なくとも今、この瞬間は。
景継はかすれた声で言った。
「よく、命じなかった」
茜は涙を拭きながら答えた。
「命じるの、苦手だから」
景継が笑う。
その笑みは、病の中でも確かに父のものだった。
契約蔵の奥で、白い契約書が静かに光っている。
古い鬼契りは終わった。
だが、すべてが解決したわけではない。
鬼たちの名は、まだ戻っていない。
稲葉家の霊水路も、すぐ完全には澄まないだろう。
学園東側の結界も、新しい協定に馴染むまで不安定になる。
公儀は風彦の命令不履行を見逃さない。
第七怪も、どこかで見ている。
それでも、茜は思った。
今日は、誰か一人が勝手に犠牲になって終わる日ではなかった。
呼び直したのだ。
鬼を。
家を。
自分自身を。
そのとき、切り落とされた赤縄の残骸の一部が、黒く変色した。
アサミが気づく。
「待って」
全員の視線が集まる。
黒くなった縄の断面に、文字が浮かんでいた。
整った、学校の記録文書のような文字。
――第一の錠前、再定義。
茜の背筋が冷えた。
華子の目が細くなる。
風彦の腹が、また嫌な痛みを訴える。
雅琥が低く唸る。
「見てやがったな」
アサミは端末を構えた。
「第七怪は、破棄ではなく再定義として記録した」
玄斎が険しい顔になる。
「ならば、まだ終わっていない」
茜は黒い文字を見つめた。
怖い。
けれど、もうひとりで背負う気はなかった。
「上等よ」
彼女は涙の残る顔で笑った。
「次も、勝手に決めさせない」
白い契約書が、静かに光を落とした。




