第六幕 ― 三つ目の誤算
夜明け前の稲葉藩は、静かだった。
静かすぎて、かえって不安になるほどだった。
契約蔵の扉は開かれたまま、封印札と赤縄の残骸が石床に散っている。灯明の火はすでに小さくなり、白く変わった契約書だけが、石壇の上で淡く光を帯びていた。
それはもう、血判を求める赤ではなかった。
命を削れと迫る色でもない。
白い。
夜明け前の水のような色。
不安定で、頼りなく、それでも確かに古い赤から変わった色だった。
茜は、契約蔵の石段に腰を下ろしていた。
膝の上には、アサミが巻いてくれた包帯がある。契約書に触れたわけではないのに、両手には細かな擦り傷ができていた。赤縄が解ける瞬間、霊的な反動が皮膚を走ったのだ。
痛みはある。
けれど、その痛みは不思議と嫌ではなかった。
命を削られた痛みではない。
契約に食われた痛みでもない。
自分で立ち、自分で聞き、自分で言葉を返したあとに残った痛みだった。
石段の下では、志乃が景継のそばに座っている。
景継は意識を失っていた。
だが、呼吸は安定している。
これまでのように、眠っていても何かに削られていくような気配はない。右手に刺されていた銀針は外され、赤い糸も切られていた。
父がすぐに治ったわけではない。
失われた記憶が一夜で戻るわけでもない。
削られた寿命が、帳簿の数字のように戻ってくるわけでもない。
その現実は重かった。
だが、これ以上削られる流れは止まった。
少なくとも、今は。
志乃は景継の手を握りしめたまま、何度も彼の名を呼んでいる。
「景継様」
景継は返事をしない。
それでも志乃は呼ぶ。
呼び続ける。
まるで、失われた記憶がどこか遠くから帰ってくるための道を、水面に一本ずつ引いているようだった。
茜はその姿を見て、胸の奥が痛くなった。
「すぐには、戻らないんだね」
隣でアサミが言った。
声は静かだった。
けれど冷たくはなかった。
「うん」
茜は頷いた。
「分かってたつもりだったけど、やっぱり少しだけ期待してた」
「期待するのは自然」
「そう?」
「うん。人は、助けたい相手については、都合のよい可能性を捨てきれない」
「それ、慰め?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
茜は少し笑った。
その笑いは弱かったが、泣き顔ではなかった。
アサミは包帯の端を結び直しながら言う。
「でも、回復の可能性は生まれた。命を削る進行は止まっている。記憶についても、自然回復、外部記録による補助、霊水路浄化後の再接続で戻る部分があるかもしれない」
「また調べる気ね」
「調べる」
「無茶は?」
「相談する」
「本当に?」
「茜に怒られる前に」
「よろしい」
茜は、アサミの横顔を見た。
薄い光の中で、彼女の顔にも疲労が浮かんでいる。指先には、契約文を書き換えたときの傷がある。
アサミも無傷ではない。
風彦も、雅琥も、華子も。
皆が何かを削らずに済んだわけではない。
それでも、誰か一人がすべてを背負って終わるよりは、ずっとよかった。
茜は小さく言った。
「ありがとう」
アサミは瞬きをした。
「また記録する?」
「今度は、しなくていい」
「分かった」
少し間を置いて、アサミは付け加えた。
「でも、覚えておく」
茜は頷いた。
「それなら、いい」
◇
地上へ出ると、霊水路の水はまだ濁っていた。
だが、流れが変わっていた。
昨夜までは、底で何かが腐っているような重さがあった。水音も鈍く、泡が浮かぶたびに鉄の匂いがした。
今は、少しだけ違う。
完全に澄んだわけではない。
赤茶けた色も残っている。
護符草の葉先は白く枯れたままだ。
水田の稲も、一夜で青さを取り戻すわけではなかった。
けれど、水が動いている。
どろりと沈むのではなく、ゆっくりと流れている。
遠くの東水門では、霊水管理の家臣たちが慌ただしく走り回っていた。水門の底から、わずかに透明な流れが戻り始めているという報告が入っている。
室田は何度も頭を下げた。
茜にも。
志乃にも。
玄斎にも。
そして、鬼門境が閉じた場所へも。
「稲葉家は、鬼霊群との協定を新たに記録し直します」
室田は掠れた声で言った。
「所有ではなく、協力として。命令ではなく、対話として」
茜は水路を見ていた。
「家臣の皆が、すぐ納得するとは思ってないわ」
「承知しております」
「鬼たちだって、稲葉家を許したわけじゃない」
「はい」
「これから、何度も揉めると思う。水路を守るかどうかも、そのたび話し合わなきゃいけない。今までみたいに、命令一つで済むわけじゃない」
室田は深く頭を下げた。
「それでも、命じ続けるよりは、正しい道であると」
「正しいかどうかは、まだ分からない」
茜は言った。
室田が顔を上げる。
茜は、少しだけ苦笑した。
「でも、間違えたら話し直す。そういう契約にしたんでしょ」
「……はい」
「じゃあ、ここから始めるしかないわ」
霊水路の底で、小さな泡が浮いた。
泡ははじけ、鉄の匂いではなく、かすかな土の匂いを残した。
水田が戻るには時間がかかる。
父も。
稲葉家も。
鬼たちも。
何もかも、ここから始め直しだった。
それでも茜は、昨日より少しだけ水音が軽くなったように感じた。
◇
風彦は屋敷の縁側で倒れていた。
正確には、倒れかけたところを華子に座布団へ転がされた。
雅琥はその横で腕を組み、呆れた顔をしている。
「おまえ、ほんと毎回倒れるな」
「好きで倒れているわけではござらん……」
「腹痛持ちが鬼門に首突っ込むからだろ」
「正論が痛い」
「腹も痛いんだろ」
「はい」
風彦は弱々しく答えた。
華子は縁側の柱に寄りかかり、手拭いで花切の鞘を拭いていた。
刃は抜いていない。
古い契約縄だけを斬ったとはいえ、刀には赤い霊気の残りがまとわりついていた。華子はそれを丁寧に拭いながら、低く言った。
「鬼を斬るより、縄だけ斬るほうが気を遣ったわ」
「そういうこともあるのでござるな」
「ええ。相手を殺すつもりで斬るほうが、ずっと簡単なこともあるの」
雅琥が顔をしかめる。
「物騒なことをさらっと言うな」
「剣とはそういうものよ」
「だから厠に住む剣士って何なんだよ」
「何度も言わせないで。厠の華子さんよ」
「自信満々に言うな」
風彦は小さく笑い、腹に響いて顔を歪めた。
華子が横目で見る。
「笑うなら腹を押さえなさい」
「笑っても怒られ、押さえても痛い。世は無常でござる」
「大げさね」
「大げさではないのでござる」
そのとき、アサミが縁側へやって来た。
手には古い紙束と端末がある。
茜も後ろにいる。
茜は少し不思議そうな顔をしていた。
「アサミが、華子さんに見せたいものがあるって」
華子は手を止めた。
「わたくしに?」
「はい」
アサミは華子の前で立ち止まる。
いつものように淡々としている。
だが、どこか慎重だった。
「稲葉家の契約蔵にあった資料と、六道学園の古い結界記録を照合した」
「あなた、また休まずに調べていたの?」
茜がすぐに睨む。
「短時間」
「短時間でも駄目って言ったわよね」
「重要だった」
「その言い訳、強すぎるのよ」
アサミは茜へ少しだけ頭を下げた。
「あとで休む」
「今すぐ休むのが普通」
「これだけ先」
茜は文句を言いかけたが、アサミの表情を見て黙った。
華子も、それに気づいた。
アサミは紙束の一枚を取り出す。
古い結界台帳の写しだった。
そこには、学園の礎に関わる供養名と、封印対象名が並んでいる。
多くは黒塗りだった。
だが、一か所だけ、かすれた文字が残っていた。
アサミはその名を声に出さなかった。
代わりに、別の白紙へ筆で写していた。
その紙を、両手で華子へ差し出す。
「見つけた」
華子は紙を見た。
表情が止まる。
紙には、三文字が書かれていた。
榊原華。
風彦は息を呑んだ。
雅琥は、何の名かすぐには分からず、二人の表情を見比べる。
茜は、先ほど華子が語った過去を思い出し、顔を伏せた。
華子はしばらく、紙を受け取らなかった。
白い指が、わずかに動いた。
それでも触れない。
アサミは静かに言う。
「この名は、結界台帳の深層に残っていた。学園の守護契約と接続している。声に出して読めば、華子を契約名で拘束できる可能性がある」
風彦が表情を変える。
「新垣殿」
「読まない」
アサミは即答した。
「声には出していない。端末にも読み上げさせていない。紙へ書いたのは、本人へ渡すため」
華子の目が、ゆっくりアサミへ向く。
アサミはその視線を受け止めた。
「見つけた。でも、この名を使っていいか決めるのは、あなた」
沈黙が落ちた。
水路の音だけが遠く響く。
華子は、ようやく紙を受け取った。
その手は、ほんの少し震えていた。
榊原華。
その名を、彼女は声に出さなかった。
ただ、指先で文字をなぞる。
守護神。
三番目の華子。
厠の主。
学園七不思議。
それらの名の下に押し込められた、生前の名。
それは力だった。
弱点でもある。
誰かに握られれば、また縛られる名。
だが、本人の手に戻れば、別の意味を持つ。
華子は長く紙を見つめてから、小さく笑った。
「あなたは、読めたのね」
「読めた」
「読んでしまえば、わたくしを縛れるかもしれなかった」
「可能性はある」
「研究者としては、試したくならなかったの?」
アサミは少し考えた。
「なった」
茜がぎょっとする。
「アサミ!」
「でも、しなかった」
アサミは華子から目を逸らさない。
「知ることと、使うことは違う。記録することと、所有することも違う。今日、学んだ」
華子は、しばらくアサミを見ていた。
そして、ふっと笑う。
いつものからかう笑みではない。
どこか眩しそうで、少しだけ悔しそうな笑みだった。
「新垣アサミ」
「はい」
「あなたを、好奇心の強すぎる危険な子だと思っていたわ」
「事実」
「ええ。事実よ」
華子は紙を大切に折りたたみ、懐へしまった。
「けれど、訂正するわ」
アサミが瞬きをする。
「あなたは、危険なものを危険だと知ったうえで、扱い方を選べる研究者になろうとしている」
アサミの目がわずかに揺れた。
華子は続ける。
「まだ未熟だけれど」
「そこも言うのね」
茜が小声で突っ込む。
「未熟なのは事実でしょう?」
「まあ、そうだけど」
アサミは少しだけ目を伏せた。
「認められた?」
「対等な研究者として、話す価値はあると認めたわ」
華子はそう言い、朱唇に指を添えて微笑んだ。
「ただし、わたくしを研究対象にするときは、毎回許可を取りなさい」
「分かった」
「無断観察も禁止」
「努力する」
「約束」
「……約束する」
茜が満足げに頷いた。
「よろしい」
雅琥はぼそりと言った。
「厠女と研究馬鹿で、変な同盟ができたな」
華子が目を細める。
「白い虎さんも、研究対象にされたいの?」
「絶対嫌だ」
アサミが静かに言う。
「すでに観察している」
「やめろ」
「白虎踏地の再現条件」
「やめろって言ってんだろ!」
茜は久しぶりに声を出して笑った。
笑ったあと、少しだけ泣きそうになった。
こんなふうに笑えるのが、ひどくありがたかった。
霊水路はまだ濁っている。
父もまだ眠っている。
公儀の追及も来る。
第七怪も消えていない。
それでも、今この瞬間だけは、皆が同じ縁側にいた。
それだけで、昨日よりは少しだけ前へ進んだ気がした。
◇
その日の夜。
六道魔導学園は、静かに沈んでいた。
北校舎の修繕区画。
鏡術研究棟の封印区画。
そして、稲葉家の鬼契りが支えていた東側結界。
それぞれの場所で、古い契約が揺らぎ、新しい形へ変わりつつある。
学園長室では、玄斎がひとり、結界図を見下ろしていた。
東側の赤い線は、完全には消えていない。
ただし、以前のように稲葉鬼契りから強制的に力を吸い上げる線ではなくなっていた。
白い細線。
必要時にのみ開く、合意型の接続路。
不安定だ。
効率も悪い。
古い封門網の設計から見れば、欠陥だらけの接続方式だった。
だが、命を削らない。
記憶を奪わない。
命令しない。
それは、旧来の封門施設がほとんど想定していない形だった。
「三つ目の誤算か」
玄斎は呟いた。
彼の机の上には、三つの記録が並んでいる。
北校舎三番厠の華子、一時的契約領域離脱。
返り鏡、現世定着能力による干渉失敗。
稲葉鬼契り、所有契約から協力協定へ再定義。
いずれも、本来なら古い錠前として機能し続けるはずだったものだ。
それが、生徒たちの介入によって変わった。
壊れたのではない。
完全に解放されたのでもない。
再定義された。
それが、第七怪にとって何を意味するのか。
玄斎は、まだ測りきれていなかった。
そのとき、学園長室の端末が鳴った。
同時に、校内放送用の霊灯が勝手に灯る。
玄斎は顔を上げた。
端末画面に、見慣れない通知が表示されている。
学園長権限ではない。
教務部でもない。
公儀でもない。
権限者欄には、ただ一語。
――卒業生。
玄斎の目が鋭くなる。
通知は、全校生徒の魔導端末へ一斉配信されていた。
◇
蓮田家の厠でも、風彦の端末が震えた。
彼はちょうど、華子に厠掃除の再指導を受けているところだった。
「床の隅」
「磨いたでござる」
「磨いたつもりになっているだけね。水垢は気配で残るの」
「水垢の気配とは」
「感じなさい」
「修行の段階が高すぎる」
そのとき、端末が震えた。
風彦は手袋を外し、画面を見る。
表示された文面に、顔色が変わった。
華子も覗き込む。
朱唇の笑みが消えた。
◇
稲葉家の客間では、茜とアサミが同じ通知を見ていた。
雅琥も、渋い顔で端末を睨んでいる。
茜の手には、まだ包帯が巻かれている。
アサミの端末には、さきほどまで契約書の復元データが開かれていた。
その画面が勝手に切り替わり、白い通知文が浮かんだ。
文面は、あまりに整っていた。
学校からの正式なお知らせのように。
けれど、その内容は異様だった。
――臨時卒業式のお知らせ。
――対象者――全校生徒。
茜は眉をひそめる。
「何、これ」
アサミの顔色が変わる。
「卒業生権限」
雅琥が舌打ちした。
「またあいつか」
通知は続いていた。
――日時、本日零時。
――会場、六道魔導学園全域。
――在校生は、各自の名札、学生証、所属記録を確認のうえ、式に臨むこと。
――卒業できない者は、学園に残されます。
茜の背筋が冷えた。
アサミが小さく呟く。
「全校生徒を対象に、卒業式を発動するつもり……?」
「卒業式って何だよ」
雅琥が低く言う。
「普通の卒業式じゃないのは分かる」
アサミは端末を握りしめた。
「第七怪は、卒業できなかった存在。顔のない卒業生。もし『卒業』を霊的処理として使うなら、在校生の名を学園記録から移動、削除、または固定する儀式になる可能性がある」
「分かりやすく」
「全校生徒を、学園の記録に閉じ込めるかもしれない」
茜は息を呑んだ。
その瞬間、遠くから鐘の音が鳴った。
一度目。
ごおん。
季節外れの卒業式の鐘。
時計を見ると、夜の十一時五十九分だった。
誰も、まだ日付が変わる前に鐘が鳴るとは思っていなかった。
だが、二度目の鐘が続く。
ごおん。
学園の方向からだ。
離れている稲葉家の屋敷にも聞こえる。
霊的な鐘。
水路を通り、鏡を通り、厠の配管を通り、契約書の白い文字を通って、全員の耳に届く鐘。
茜は立ち上がった。
「行くわよ」
「まだ体力が戻っていない」
アサミが言う。
「アサミもね」
「だから全員で行く」
「そうね」
雅琥はすでに立っていた。
「今度は何を殴ればいい」
「分からない」
アサミが答える。
「でも、殴れるようにする方法は考える」
「頼むわ」
茜は端末を握りしめた。
通知の最後に、新しい文字が浮かぶ。
――三つ目の誤算を確認。
――在校生五名、計画阻害要因として再分類。
――臨時卒業式を開始します。
茜は奥歯を噛んだ。
「勝手に分類するなっての」
◇
蓮田家の厠で、華子は静かに刀を手に取った。
風彦は端末を閉じる。
顔色は悪い。
腹も痛い。
公儀からの警告は、まだ端末の奥で未読のまま積み上がっている。
それでも、彼は立ち上がった。
「行くでござる」
「ええ」
華子は短く答えた。
「今度は全校生徒が相手の怪異に巻き込まれるわね」
「規模が大きすぎて、腹痛も追いつかないでござる」
「それでも行くのでしょう?」
「はい」
華子は、少しだけ笑った。
「では、風彦」
「はい」
「紙は補充してある?」
「この状況で確認するのでござるか!」
「大事でしょう」
「大事ではありますが!」
華子は刀を腰に差し、厠の扉へ向かう。
その背中を見て、風彦は一瞬だけ思った。
榊原華。
その名を、彼女はまだ口にしていない。
華子として行くのか。
榊原華として行くのか。
それを決めるのは、彼女自身だ。
だから風彦は、何も言わなかった。
ただ、いつもの名で呼ぶ。
「華子さん」
「何かしら」
「行きましょう」
華子は振り返り、朱唇に笑みを浮かべた。
「ええ。卒業式には、少し派手な花を添えてあげましょう」
零時の鐘が鳴った。
ごおん。
六道魔導学園の夜空に、季節外れの卒業式を告げる音が広がっていく。
その鐘の下で、顔のない卒業生は、誰にも見えない名簿を開いていた。
五つの名に、黒い印がついている。
蓮田風彦。
稲葉茜。
新垣アサミ。
六道雅琥。
そして、三番目の華子。
顔のない卒業生は、ペンを止めた。
北校舎の厠。
返り鏡。
稲葉鬼契り。
三つの錠前は、壊されなかった。
だが、命令に従う古い錠前ではなくなった。
それは誤算だった。
計画に対する脅威だった。
だから、卒業式を始める。
全校生徒を巻き込み、学園そのものを閉じるために。
名簿の最後のページで、黒い文字が滲む。
――卒業できない者は、学園に残されます。
鐘が、もう一度鳴った。




