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厠の華子さん―ネオ江戸魔導学園怪異録―  作者: 秋月キアラ
第4話 ― 華子さん、遊びましょう
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20/26

第一幕 ― 零時の臨時卒業式

 最初の鐘は、稲葉家の霊水路から聞こえた。


 ごおん。


 夜の底を、重い音が揺らした。


 茜は、包帯を巻かれた手で魔導端末を握ったまま、思わず顔を上げた。


 ここは六道魔導学園ではない。


 稲葉家の屋敷だ。


 深夜の奥座敷には、薬草と香の匂いが残っている。少し離れた病室では、父・景継が眠っている。母・志乃はその傍らに座り、何度も夫の名を呼んでいた。


 契約蔵から地上へ戻ってきてから、まだ長い時間は経っていない。


 鬼契りは消滅しなかった。


 命令と所有の古い契約から、対話と同意の協力協定へ変わった。


 霊水路も、少しずつ流れを取り戻し始めている。


 だが、すべてが終わったわけではなかった。


 父の失われた記憶は、すぐには戻らない。


 稲葉家と鬼たちの間に積み重なった傷も、簡単には癒えない。


 公儀も、このまま黙ってはいない。


 第七怪も――。


 そう考えた瞬間、二度目の鐘が鳴った。


 ごおん。


 霊水路の水面が震えた。


 今度は、茜だけではない。


 アサミも顔を上げた。


 雅琥も、縁側に片膝を立てたまま、低く舌打ちした。


「何だ、今の」


 雅琥の声は荒かったが、いつもの苛立ちだけではなかった。


 警戒が混じっている。


 彼の足元には、白虎踏地を使ったあとの薄い霊痕がまだ残っている。契約蔵で鬼門境を固定した反動で、脚はかなり痛むはずだった。それでも彼は、いつでも立てるように片手を床へついている。


 アサミはすぐに端末を開いた。


「学園方面からの霊的鐘音。でも、音の経路がおかしい」


「経路?」


 茜が聞くと、アサミは画面を凝視したまま答えた。


「空気振動ではなく、水路、契約書、鏡面、端末通信、複数の反射媒体を通っている。通常の校内放送ではない」


「分かりやすく言って」


「学園が、外にいるワタシたちへ直接鳴らしている」


 茜の背筋が冷えた。


 屋敷の外で、霊水路の水が重く波打つ。


 さきほどまで白く光っていた新しい契約書の写しが、机の上でかすかに震えていた。


 白い文字の奥から、黒い影が滲む。


 その直後、三人の端末が同時に震えた。


 茜は画面を見る。


 通知欄に、見慣れない白い封筒の印が浮かんでいた。


 差出人はない。


 いや、正確には、差出人欄に一語だけ表示されている。


 ――卒業生。


「また、これ……」


 茜は唇を噛んだ。


 端末の画面が勝手に開く。


 淡々とした学校文書の書式で、文章が表示された。


> 臨時卒業式のお知らせ

> 対象者――全校生徒

> 開式時刻――零時

> 卒業できない者は、学園に残されます


 その文面を見た瞬間、アサミの顔色が変わった。


「全校生徒?」


 雅琥が立ち上がった。


「卒業式って何だよ。こんな時間に」


 茜は画面を握り潰しそうな力で端末を掴んだ。


 その指先に、契約蔵で受けた細かな傷が痛む。


「第七怪よ」


 言葉にすると、嫌なほどはっきりした。


「鬼契りを結び直したのが、気に入らなかったんだわ」


 アサミは端末の解析画面を開く。


 通知文の裏にある権限情報を引き出そうとしているが、すぐに白いノイズが走った。


 それでも彼女は指を止めなかった。


「権限者は卒業生。通常の学園システムでは存在しない権限」


「つまり、不正アクセスか?」


 雅琥が言う。


「不正というより、存在しない正規権限」


「余計悪いだろ、それ」


「うん」


 アサミは端末を閉じた。


 その動きが、いつもより少し速い。


「学園全体が動いている。通知だけではない」


 茜は立ち上がった。


 身体が重い。


 契約蔵での疲労がまだ残っている。


 指先も痛い。


 足元も少しふらつく。


 だが、座っているわけにはいかなかった。


「行くわよ」


 アサミが顔を上げる。


「茜、体力が戻っていない」


「アサミだって指から血を出したままじゃない」


「処置済み」


「なら、あたしも平気」


「平気ではない」


「平気じゃなくても行くの」


 茜は端末を帯へ差し込んだ。


 雅琥はすでに歩き出している。


「急げ。あの学園、また閉じ込める気だ」


 その一言に、茜もアサミも反応した。


 また。


 雅琥にとって、その言葉は軽くない。


 鏡界に閉じ込められた母。


 隠された記録。


 守ると言われて知らされなかった過去。


 彼の中では、閉じ込めることと、守ることがもう同じ意味ではなくなっている。


 茜は深く息を吸った。


「今度は、全校生徒を勝手に契約へ入れる気ってことね」


 言いながら、胸の奥が熱くなった。


 怒りだった。


 恐怖もある。


 疲れもある。


 でも、それより強い怒り。


 自分の知らないところで、名前を使われること。


 守るという名で、誰かの未来を決められること。


 もう、たくさんだった。


     ◇


 蓮田家の厠では、三度目の鐘が便器の水面を震わせていた。


 ごおん。


 風彦は便座の前で腹を押さえ、真剣に悩んでいた。


 腹痛である。


 ただし、いつもの腹痛ではない。


 鬼門のときとも違う。


 返り鏡のときのような、顔と名前の間へ薄紙を差し込まれる痛みとも違う。


 今夜の痛みは、もっと広い。


 学園全体が腹の中で軋んでいるような、途方もなく理不尽な痛みだった。


「……これは、さすがに規模が大きいでござる」


 風彦がうめくと、便器の蓋へ腰掛けていた華子が、優雅に紅茶を置いた。


 彼女の姿は、いつもと変わらない。


 黒い着物。


 濡羽色の髪。


 朱の唇。


 腰には刀。


 ただし、その表情には、いつものからかうような余裕が少しだけ薄い。


 華子は、手元に小さく折りたたんだ紙を持っていた。


 榊原華。


 アサミが見つけ、声に出さず、本人へ渡した名前。


 華子は、その紙を懐へしまった。


 名を取り戻したからといって、急に何かが変わるわけではない。


 だが、今夜の鐘は、その名にも触れてきている。


 学園の守護神として縛られていた、古い契約の奥を叩いている。


「来たわね」


 華子は低く言った。


「第七怪でござるか」


「ええ。顔のない卒業生。あの子、ずいぶん焦っているわ」


「焦っている怪異が全校生徒へ臨時卒業式を通知するのでござるか」


「人間も焦ると式典を開くでしょう?」


「そういうものなのでござるか?」


「知らないわ。わたくしは死んでから式典に呼ばれることが少なくて」


「それは何よりでござる」


 風彦の端末が震えた。


 学園端末ではない。


 黒い、公儀支給の端末。


 通知を見る前から、嫌な予感がした。


 開かなくても分かる。


 開けばもっと痛くなる。


 しかし、開かないわけにもいかない。


 風彦は腹を押さえながら画面を見る。


 黒い背景に、白い文字が浮かんでいる。


> 命令不履行者・蓮田風彦へ通告。

> 六道魔導学園における大規模異界化を確認。

> 監視任務者権限を停止。

> 封印対象移行審査を開始。

> 以後、公儀の指示なく異界門へ干渉した場合、強制封印を実行する。


 風彦は、しばらく画面を見つめた。


 予想はしていた。


 稲葉家の契約蔵で、公儀命令に逆らった。


 茜に鬼契りを継がせるよう命じられ、それを拒んだ。


 当然、処分は来る。


 だが、封印対象という文字を実際に見ると、腹の底が冷えた。


 封印。


 それは逮捕や停学とは違う。


 人間として扱われるかどうかの境目だ。


 風彦は端末を閉じた。


 華子は、その画面を横から見ていた。


「怖い?」


「怖いでござる」


 風彦は正直に答えた。


「封印されるのは、さすがに怖い」


「では、行かない?」


 華子の声は静かだった。


 試す声ではない。


 風彦が本当に行きたくないと言えば、彼女は笑わない。


 おそらく怒りもしない。


 ただ、どうするかを聞いている。


 だから風彦は、少しだけ困った。


「行かない理由は、たくさんあるのでござる」


「ええ」


「公儀からは封印対象にされかけている。学園は異界化中。第七怪は全校生徒を巻き込んでいる。拙者は腹が痛い。非常に痛い」


「最後の理由、いつも入るのね」


「切実なので」


「分かっているわ」


「でも」


 風彦は、厠の鏡にかけられた布を見た。


 布の向こうで、何かが揺れている。


 鏡面ではなく、その奥。


 学園へつながる薄い水の気配。


 北校舎三階の女子厠。


 返り鏡。


 稲葉家の霊水路。


 学園の地下。


 それらが、今夜は一つの大きな腹痛のようにつながっている。


「行かないと、もっと痛い気がするでござる」


 華子は、ほんの少し笑った。


「あなたらしい理由ね」


「褒めておられる?」


「ええ。たぶん」


「たぶん」


 風彦は苦笑し、立ち上がった。


 黒い端末を懐へしまう。


 学園端末には、同じ臨時卒業式の通知が出ている。


 対象者、全校生徒。


 卒業できない者は、学園に残されます。


 その文面を見て、風彦は思った。


 残される。


 記録から消える。


 名前を失う。


 自分には、他人事ではない言葉ばかりだった。


 華子は刀を取る。


「臨時卒業式なんて、ずいぶん乱暴なお誘いね」


 朱の唇に、いつもの笑みが戻った。


 ただし、目は笑っていない。


「では、こちらもお行儀よく参列して差し上げましょう」


「服装はそれでよろしいので?」


「あら。黒は礼装にもなるのよ」


「刀は?」


「花束の代わり」


「物騒な卒業式でござるな」


 華子は厠の扉へ向かい、ふと振り返った。


「風彦」


「はい」


「紙は?」


「補充済みでござる」


「よろしい」


「今、本当にそれを確認するのでござるか」


「出先で困るでしょう」


「困るのは確かですが、緊迫感が」


「緊迫しているからこそ確認するの」


 風彦は一瞬だけ笑った。


 腹痛はひどい。


 封印通知は怖い。


 学園へ行けば、何が待っているか分からない。


 それでも、華子とこんな会話をしていると、ほんの少しだけ足が前へ出る。


 彼は厠の扉を開けた。


 扉の向こうは、廊下ではなかった。


 北校舎三階の古い水場の匂い。


 薄暗い木造廊下。


 花と鉄錆の混ざった匂い。


 学園へ続く道が、すでに開いている。


「行くでござる」


「ええ」


 二人は、蓮田家の厠から夜の学園へ踏み込んだ。


     ◇


 六道魔導学園では、零時が終わらなくなっていた。


 校内の時計は、すべて十一時五十九分と五十九秒を指している。


 一秒が進む。


 零時になる。


 鐘が鳴る。


 だが次の瞬間、時計はまた十一時五十九分と五十九秒へ戻る。


 繰り返し。


 何度も。


 何度も。


 ごおん。


 鐘が鳴るたび、学園の輪郭が現世から少しずつ浮き上がる。


 正門の外にあるはずの通学路は、白い廊下へ変わっていた。


 街灯も、門前町の提灯もない。


 ただ、白い壁と白い床と、どこまでも続く卒業式場の廊下だけがある。


 恐怖に駆られた生徒が、一人、門をくぐろうとした。


「外に出ればいいんだろ!」


 彼は友人の制止を振り切り、白い廊下へ足を踏み出した。


 その瞬間、背後の友人が叫ぶ。


「おい、待て!」


 生徒は振り返った。


「何だよ、早く――」


 言葉が止まる。


 彼の胸元の名札から、文字が消えていた。


 友人は目を見開く。


「おまえ……誰だっけ」


「は?」


 生徒は笑おうとした。


 だが、笑えなかった。


 自分の名前が出てこない。


 学年も、組も、部活も、昨日の夕食も、母親の顔も。


 端末を見ようとする。


 画面には、臨時卒業式の通知だけが表示されている。


 登録名は空白。


「俺、俺は……」


 白い廊下の奥から、拍手の音が聞こえた。


 ぱち。


 ぱち。


 ぱち。


 卒業生を迎えるような、乾いた拍手。


 生徒の顔の輪郭が薄くなる。


 目元がぼやけ、鼻筋が消え、口の線が白く滲む。


 友人が悲鳴を上げて腕を掴み、必死に校内へ引き戻した。


 倒れ込んだ生徒は、震えながら自分の顔を触った。


 顔は戻りかけている。


 だが名札は白紙のままだった。


 周囲の生徒たちは、門から一斉に後ずさった。


 逃げ道は、もう外ではなかった。


     ◇


 本校舎の教室では、生徒手帳から名前が消え始めていた。


 机の上に開かれた手帳。


 学籍番号。


 所属クラス。


 氏名。


 その氏名欄だけが、白く抜けていく。


「嘘だろ」


「書いたら戻るんじゃないの?」


 生徒の一人が慌ててペンを取り、自分の名前を書こうとした。


 だが、書いた瞬間、文字は紙へ染み込み、白く消える。


 別の教室では、座席表がすべて白紙になった。


 教師が教卓の端末を叩くが、出席簿には全員分の名前がない。


 代わりに同じ文字が並んでいる。


 卒業処理中。


 卒業処理中。


 卒業処理中。


 校内掲示板も同じだった。


 部活動名簿。


 委員会名簿。


 寮生一覧。


 すべての名前が、卒業処理中へ置き換わっていく。


 放送が流れた。


 それは、玄斎の声ではなかった。


 若いようにも、幼いようにも、老いているようにも聞こえる声。


 男でも女でもない。


 ただ、顔がない声。


> 「本年度の臨時卒業式を開始します」


 校内のざわめきが止まる。


> 「在校生は、自分の名前を確認してください」

> 「卒業できない者は、学園に残されます」


 その瞬間、北校舎三階の女子厠で、三番目の個室から黒い水が溢れた。


 水は床へ広がり、廊下へ流れ出る。


 ただし、普通の水ではない。


 触れた床板を濡らさず、音だけを吸い込んでいく。


 本来なら、そこは逃げ場だった。


 泣きたい者が一人になれる場所。


 穢れを流す場所。


 怪異から隠れる小さな避難所。


 だが今、その黒い水は通路を塞ぐために広がっている。


 廊下を逃げようとした女子生徒が、黒い水に足を取られた。


 彼女は悲鳴を上げる。


 だが、水は彼女を沈める前に、不自然に止まった。


 黒い水面に、小さな花弁が浮いた。


 椿にも、夜桜にも見える花弁。


 水の奥で、誰かが不愉快そうに舌打ちした気配があった。


 黒い水は、生徒を飲み込まず、足元だけを濡らして離した。


 第七怪の命令に、完全には従いきれていない。


 華子の契約領域が、まだそこに残っている。


     ◇


 返り鏡は、もっと速く広がっていた。


 鏡術研究棟の封印布が、一斉に内側から押し上げられる。


 本校舎の窓硝子に、顔が映る。


 端末画面の黒い部分に、別の自分が立つ。


 水飲み場の水面に、生徒の卒業写真のような顔が浮かぶ。


 それらは本人の現在の顔ではない。


 表情の抜けた、卒業済みの顔。


 名簿に収められるための、完成された顔。


 ある女子生徒が、端末画面に映った自分を見た。


 画面の中の彼女は、古い卒業証書を持っている。


 にこりとも笑わない。


 次の瞬間、現実の彼女の顔が少しずつ薄くなる。


 友人が悲鳴を上げ、端末を床へ叩きつけた。


 画面は割れた。


 しかし、割れた破片一つ一つに、小さな卒業済みの顔が映っている。


 その増殖を、白い爪痕が一瞬だけ止めた。


 廊下の床に、虎の紋が浮かんだのだ。


 返り鏡の事件で雅琥が現世へ打ち込んだ力の残滓。


 白虎踏地の名残。


 鏡面のいくつかは、その力によって現世へ固定され、完全には増殖できずにひび割れたまま震えている。


     ◇


 東側結界では、稲葉鬼契りが再び引きずり出されようとしていた。


 学園東門の結界柱に、赤い縄の光が走る。


 古い契約を呼び戻そうとする力。


 命令権を復元しようとする力。


 稲葉家から接続された新しい協定を、もう一度、所有と使役の形へ戻そうとする力。


 だが、赤縄は途中で止まった。


 結界柱の奥で、無数の鬼の影が沈黙している。


 怒鳴らない。


 暴れない。


 ただ、応じない。


 命令には応じない。


 話すなら、聞く。


 命じるなら、沈黙する。


 その沈黙が、古い結界式にとっては何よりも重い抵抗だった。


     ◇


 無人音楽室では、誰もいないピアノが鳴り始めた。


 一拍。


 二拍。


 三拍。


 十二拍までは、まだ人間の時間だった。


 十三拍目から、音が変わる。


 ピアノの弦が鳴っているのではない。


 卒業式の拍手。


 校歌の前奏。


 椅子を引く音。


 名前を呼ばれる直前の沈黙。


 それらが混ざり合い、学園内の時間を一つの式典へ押し込めていく。


 拍子が進むほど、生徒たちは無意識に廊下へ出て、列を作り始めた。


 前へ倣え。


 背筋を伸ばせ。


 名前を呼ばれたら返事をしろ。


 その動作だけが、身体へ刷り込まれていく。


     ◇


 図書塔では、閲覧室の奥から一人の図書委員が現れた。


 いや、図書委員の制服を着た何かだった。


 顔はある。


 だが、誰の顔でもない。


 胸元の名札には、何も書かれていない。


 その手には、分厚い出席簿がある。


 図書委員は静かに歩きながら、生徒たちの名を読み上げ始めた。


 読まれた生徒は、返事をしてしまう。


 返事をすると、自分の名前が喉の奥から抜き取られる。


 名前を読まれた生徒は、その場に立ち尽くし、自分の顔を忘れ始める。


「私、どんな顔だったっけ」


「ねえ、私の顔、覚えてる?」


「あなた、誰?」


 泣き声が書架の間に広がる。


 だが図書委員は歩き続ける。


 次の名前を読むために。


     ◇


 逆さ階段は、校舎のあちこちに現れた。


 上へ昇っているはずなのに、足元の階数表示は地下へ降りていく。


 地下へ降りているはずなのに、窓の外には講堂の天井が見える。


 階段の踊り場には、卒業式場への案内板が立っていた。


 ――臨時卒業式会場はこちら。


 白い矢印は、どの方向から見ても下を指している。


 その先にあるのは、名簿の廊下。


 顔のない卒業生が待つ場所。


     ◇


 学園長室では、玄斎が結界図を前に立っていた。


 机の上では、学園長端末が白い通知を表示している。


> 臨時卒業式のお知らせ

> 対象者――全校生徒


 権限者は、卒業生。


 ありえない。


 だが、ありえない権限こそが、この学園の奥にずっと残されていた。


 玄斎は、右手で校印を掴んだ。


 まだ砕いてはいない。


 学園長として使える命令権は残っている。


 だが、その命令権がどこまで第七怪に利用されているのか、すぐには判断できなかった。


 下手に動けば、卒業式を止めるどころか完成させてしまう。


 結界図の上で、七つの光点が同時に明滅している。


 三番厠。


 返り鏡。


 稲葉鬼契り。


 無人音楽室。


 図書塔。


 逆さ階段。


 零時の鐘。


 七つの怪談が、七つの錠前として起動している。


「暴走ではない」


 玄斎は低く呟いた。


「封門手順だ」


 誰かが、学園を閉じようとしている。


 全生徒の名を使って。


 卒業という名で。


 守るという名で。


 玄斎の右手が、校印を強く握った。


「……小夜」


 その名を口にした瞬間、学園長室の照明が一度だけ消えた。


 暗闇の中で、顔のない卒業生の影が、窓硝子に映った。


 玄斎は振り返らない。


 ただ、深く息を吐いた。


「まだ、そこにいるのか」


 返事はない。


 代わりに、零時の鐘がまた鳴った。


     ◇


 校門前に、最初に着いたのは茜たちだった。


 稲葉家から魔導車を使ったわけではない。


 霊水路の新しい協定路を、アサミが一時的な移動経路として解析した。


 鬼たちは命じられて応じたのではない。


 茜が頼み、向こうが沈黙のうちに道を開けた。


 その違いを、茜は強く意識していた。


 校門前の石畳へ出た瞬間、茜は膝をつきかけた。


 雅琥が片手で腕を掴む。


「立てるか」


「立てるわよ」


「立ててねえから聞いてんだろ」


「今から立つの」


 茜は意地で足に力を入れた。


 アサミが端末を見ながら言う。


「霊水路経由の移動は負荷が高い。茜は三分以内に座るべき」


「座ってる時間ないでしょ」


「だから言っただけ」


「言うだけなのね」


「止めても聞かない」


「よく分かってるじゃない」


 雅琥は正門の向こうを見て、顔をしかめた。


 校門は開いている。


 だが、その外にはいつもの通学路がない。


 白い廊下。


 どこまでも続く、卒業式場の裏通路のような道。


 壁も床も天井も白く、奥から拍手の音がかすかに聞こえる。


 雅琥は低く言った。


「また閉じ込める気かよ」


 その声には、怒りがあった。


 恐怖もあった。


 だが、もう恐怖だけではなかった。


 茜は端末を見た。


 通知文はまだ消えていない。


 臨時卒業式。


 対象者、全校生徒。


 卒業できない者は、学園に残されます。


 その下に、新しい文字が浮かんだ。


 ――在校生三名、到着確認。


「見てるわね」


 茜が言うと、アサミが頷いた。


「第七怪は、学園記録を通じてワタシたちの位置を把握している」


「気持ち悪い」


「同意」


 そのとき、校門脇の古い手洗い場から水音がした。


 ぴちょん。


 黒い水が一滴落ちる。


 そこから、風が吹いた。


 黄色い風。


 続いて、風彦が腹を押さえながら姿を現した。


 その後ろから、華子が黒い着物の裾を揺らして現れる。


 まるで夜の花が水面から咲いたようだった。


 茜は少しだけ肩の力を抜いた。


「遅い」


「厠経由で最短距離を来たつもりでござるが」


 風彦は青い顔で答えた。


「というか、厠から校門に出る移動は、心理的な負荷が高いでござる」


「そこ気にするの?」


「気にします」


 雅琥が風彦を見て、眉をひそめた。


「顔色、死んでるぞ」


「生きているだけでありがたい状態でござる」


「何か来てんのか」


「公儀から、封印対象に移行する審査を開始すると通知が」


 空気が止まった。


 茜が目を見開く。


「封印対象?」


 風彦は苦笑した。


「前に命令へ逆らいましたゆえ」


「笑って言うことじゃないでしょ!」


「笑っていないと腹が余計に痛いのでござる」


 アサミが端末を操作する。


「風彦の学籍情報にも干渉が出ている。公儀の封印警告と、第七怪の卒業処理が競合している」


「それ、どういう状態?」


 茜が聞く。


「風彦を、公儀は封印対象として閉じようとしている。第七怪は卒業処理対象として学園に残そうとしている」


「大人気じゃない」


 風彦は弱々しく言った。


「全く嬉しくない人気でござる」


 華子は校門を見上げた。


 白い廊下。


 鳴り続ける零時の鐘。


 生徒手帳から消えていく名前。


 黒い水。


 鏡面。


 白い通知文。


 彼女は刀へ手を添え、朱唇に笑みを浮かべた。


「臨時卒業式なんて、ずいぶん乱暴なお誘いね」


 誰も笑わなかった。


 だが、その声で全員の呼吸が少しだけ揃った。


 華子は続ける。


「では、こちらもお行儀よく参列して差し上げましょう」


 茜は端末を帯へ差し込んだ。


「中にいる生徒を助ける。名前を回収される前に」


 アサミが頷く。


「まずは状況把握。七不思議が封門錠前として起動しているなら、中枢は零時の鐘か名簿の廊下」


 雅琥が拳を鳴らす。


「階段探せばいいんだろ」


「逆さ階段は誘導路。罠の可能性が高い」


「罠でも行くしかねえだろ」


「同意」


 風彦は眼鏡を押さえた。


 痛みは強い。


 だが、痛みの向こうに道が見える。


 学園のあちこちに閉じ込められかけている名前。


 戻る道を求める声。


 そして、顔のない卒業生が開いた白い名簿。


「行きましょう」


 風彦は言った。


 ござる口調ではなかった。


 茜が一瞬だけ彼を見る。


 風彦は気づいたように、少しだけ困った顔をした。


「……行くでござる」


「言い直さなくてもよかったのに」


「落ち着かないのでござる」


 華子が笑った。


「どちらでも、あなたはあなたよ」


 風彦は返事をしなかった。


 ただ、小さく頷いた。


 五人は、六道魔導学園の正門をくぐった。


 その瞬間、背後で校門が閉じた。


 木と鉄と結界が重なる、重い音。


 ごん。


 外の白い廊下も、門前の道も、すべて見えなくなる。


 校内放送が再び流れた。


> 「在校生五名、入場を確認しました」

> 「臨時卒業式を続行します」


 零時の鐘が鳴った。


 ごおん。


 学園の空が、夜でも朝でもない白へ変わっていく。


 遠くの講堂から、誰もいないはずの卒業式の拍手が聞こえた。


 卒業式が、始まった。

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