第二幕 ― 卒業できない者たち
本校舎の扉は、開いていた。
いや、開かれていた。
五人が校門をくぐるのを待っていたかのように、正面玄関の重い硝子扉は内側へ向かって静かに開き、白い光を吐き出している。
いつもの本校舎なら、夜の玄関には消灯後の暗さと、警備式神の青い目だけが浮かんでいるはずだった。
だが今は違う。
廊下の天井灯はすべて点灯している。
床は磨き上げられ、壁には白い布が掛けられ、掲示板には卒業式用の飾り花が並んでいた。季節外れの白い紙花。赤いリボン。誰が用意したのか分からない祝辞の短冊。
そこに書かれている文字は、どれも同じだった。
――ご卒業おめでとうございます。
茜は、それを見て顔をしかめた。
「気味悪い」
「同意」
アサミがすぐに言った。
端末を手にしているが、画面には相変わらず臨時卒業式の通知しか出ない。解析をかけようとするたび、白いノイズが走り、権限者欄の「卒業生」という文字だけが濃くなる。
雅琥は玄関の床を睨んでいた。
床の黒い大理石に、自分たちの姿がぼんやり映っている。返り鏡ほどの力はない。けれど、映るというだけで彼の肩は少し強張っていた。
それでも、彼は目を逸らさない。
「床まで鏡みてえにすんなよ」
「怖い?」
茜が聞く。
雅琥は睨み返した。
「怖えよ」
即答だった。
茜は少しだけ驚いた。
雅琥は続ける。
「怖えから、割りたくなる。でも割ったら廊下全部壊れる。だから我慢してる」
「……進歩ね」
「うるせえ」
風彦は腹を押さえながら、玄関の上部を見上げていた。
そこには、普段なら校訓が掲げられている。
――名に責任を持て。
入学式の日、玄斎が同じ言葉を訓示で告げた。
だが今、その校訓は白い布で覆われている。
代わりに、卒業式の式次第が掲示されていた。
一、開式の辞。
二、在校生名簿確認。
三、卒業処理。
四、校歌斉唱。
五、閉式。
「卒業処理って何でござるか」
風彦が呟く。
「聞くだけで嫌な響きね」
茜が答えた。
華子は玄関の中央に立ち、目を細めて廊下の奥を見ていた。
黒い着物姿の彼女は、白い卒業式の装飾の中で、ただ一つの墨のように浮いている。だが、その黒さが今は頼もしくもあった。
「ここ、学園であって学園ではないわね」
「どういう意味でござるか」
「校舎の形をしているけれど、内側の意味が書き換えられている。廊下は廊下ではなく、式場へ向かう通路。教室は教室ではなく、待機室。名簿は名簿ではなく、回収票」
「回収票……」
アサミが低く繰り返す。
「第七怪は、生徒を卒業させるのではなく、回収しようとしている」
「卒業って言葉を使ってるだけで、中身は封印ってこと?」
茜が聞くと、アサミは頷いた。
「可能性が高い」
校内放送が、再び流れた。
> 「在校生は、正面玄関より本校舎へお入りください」
> 「卒業式場までは、案内に従ってお進みください」
> 「途中で名前を忘れた場合は、近くの図書委員へお申し出ください」
雅琥が舌打ちした。
「親切そうに言うのが余計腹立つ」
「本当にね」
茜は召喚杖を握り直した。
契約蔵から戻ってきてすぐだというのに、腕が重い。
でも、重いからといって置いていくわけにはいかない。
アサミは、壁の式次第を確認しながら言った。
「五人で離れないほうがいい」
「当然でござる」
風彦が頷く。
「この手の校舎怪異は、分断が定番でござるからな」
華子が横目で見る。
「あら。分かっているなら対策は?」
「全員で手をつなぐ」
「却下」
雅琥が即答した。
「なぜでござる!」
「嫌だ」
「理由が明快!」
茜は苦笑しながらも、アサミの袖を軽く掴んだ。
「じゃあ、少なくとも近くにいること」
「うん」
アサミは頷いた。
風彦は華子を見る。
「華子さんは」
「わたくしは水音で追えるわ」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんが多い」
「怪異相手に絶対なんて言うほうが信用できないでしょう?」
「それはそうでござるが」
五人は、正面玄関を越えた。
その瞬間、背後の扉が閉まる。
音はなかった。
ただ、外の気配が消えた。
稲葉家の霊水路も、蓮田家の厠も、門前町の夜気も、すべて一枚の白い布の向こうへ隠されたように遠のく。
廊下の奥で、ピアノが一拍鳴った。
一拍。
続いて二拍。
三拍。
無人音楽室の拍子だ。
アサミが顔を上げる。
「まずい。十三拍を超える前に――」
言い終える前に、廊下の壁が動いた。
白い布が膨らむ。
廊下の左右にあった教室の扉が、一斉に開く。
中から白い光が溢れ出した。
風が吹く。
卒業式で配られる花の匂い。
新しい制服の糊の匂い。
古い木の床に染みた涙の匂い。
それらが混ざり、五人の間へ割り込んだ。
「離れないで!」
茜が叫ぶ。
アサミの袖を掴んでいたはずの手が、空を切った。
すぐ隣にいたアサミの姿が、白い光の向こうへ消える。
雅琥が何か怒鳴った。
風彦の声もした。
華子の舌打ちも。
だが、それぞれの声は別々の廊下へ吸い込まれていく。
茜は腕を伸ばした。
誰の手にも届かなかった。
白い光が、視界を覆った。
◇
風彦が目を開けると、そこは公儀の研修室だった。
白い壁。
白い床。
白い天井。
窓はあるが、外は見えない。
机の上には、整然と並んだ封印具、白衣神咒、霊的測定器。
壁には公儀怪異対策局の標語が掲げられている。
――異界を知り、異界を封じ、異界に呑まれるな。
風彦は椅子に座っていた。
腹は痛くない。
思わず腹に手を当てる。
痛くない。
違和感があるほどに。
身体も軽い。
背筋も伸びている。
眼鏡の度も合っている。
机の上の記録板には、蓮田風彦の名前がある。
監視任務者。
安定。
封印不要。
使用条件、良好。
「……封印不要」
風彦は、その文字を読み上げた。
その言葉だけで、胸の奥に薄い安堵が生まれる。
封印されない。
公儀から危険物として扱われない。
人間の形でいられる。
その向かいに、白衣の公儀職員が座っていた。
顔は見えない。
輪郭だけが白くぼやけている。
しかし、その声は丁寧だった。
「蓮田風彦。あなたはよく管理されています」
「管理……」
「はい。規則を守り、命令に従い、必要以上に他者と関わらない。理想的な監視任務者です」
風彦は周囲を見た。
誰もいない。
茜はいない。
アサミもいない。
雅琥も。
華子も。
机の上に、六道魔導学園の資料が置いてある。
だが、その資料には事件の記録がない。
北校舎の鬼門事故も。
返り鏡の事件も。
稲葉鬼契りの呼び直しも。
何もない。
風彦は、学園内結界異常の監視を無難に終え、何も深く関わらず、報告書だけを書いたことになっていた。
「ここでは、あなたは誰にも恐れられません」
顔のない職員が言う。
「なぜなら、誰もあなたを知りません」
その言葉に、風彦は胸の奥がざわついた。
研修室の隅に鏡がある。
そこに映る自分は、きちんと人間の形をしていた。
黄風も漏れていない。
影も人間の影だ。
腹痛もない。
服装も乱れていない。
公儀の管理下で、正しく保たれた蓮田風彦。
安全だ。
安全すぎるほどに。
白い職員の声が、今度は少しだけ別の響きを帯びた。
「誰とも関わらなければ、誰にも恐れられません」
研修室の壁が、白い廊下へ変わっていく。
卒業式の拍手が遠くから聞こえる。
「あなたは、怪物として見られずに済む」
風彦の手が震えた。
怪物として見られない。
それは、望んだことだった。
幼いころから、何度も。
ハスターの血。
黄風。
境界を削る力。
公儀の職員たちが、恐れを隠して自分を観察する視線。
人間でいたいなら従え、と言われ続けた日々。
もし誰とも関わらなければ。
もし誰にも知られなければ。
自分は誰かを怖がらせずに済む。
封印もされない。
腹も痛くない。
静かに、安全に、人間らしく保存される。
保存。
その言葉が浮かんだ瞬間、風彦は机の記録板を見た。
蓮田風彦。
監視任務者。
安定。
封印不要。
その下に、細かい文字がある。
――関係構築、不要。
――交友記録、なし。
――怪異接触、なし。
――自発的判断、なし。
――現状維持。
胸の奥が冷えた。
これは安全ではない。
これは保管だ。
公儀の棚に、崩れないよう丁寧に置かれた自分。
誰にも恐れられない。
だが、誰にも呼ばれない。
茜が怒った声もない。
アサミが淡々と心配する声もない。
雅琥が雑に背中を叩く声もない。
華子が厠の掃除へ文句をつける声もない。
自分は腹痛に悩まされない代わりに、誰の記憶にも残らない。
風彦は、ゆっくりと立ち上がった。
「怖がられるのは嫌でござる」
顔のない職員が首を傾げる。
「では、このままでよいでしょう」
「でも」
風彦は白衣神咒を手に取った。
手が震えている。
腹は痛くない。
しかし、胸が痛い。
「誰にも覚えられないまま安全でいるのは、もっと嫌でござる」
白い研修室にひびが入った。
職員の顔が、つるりとした白い面へ変わる。
卒業生の声が、部屋全体から響いた。
「外へ出れば、あなたはまた恐れられます」
「それでも」
風彦は経文を広げた。
「僕は、誰かに名前を呼ばれたい」
白い部屋が砕けた。
◇
茜は、稲葉家の水田に立っていた。
朝だった。
空は青い。
霊水路は澄み、水は金色に輝いている。
稲は青く、風に揺れていた。
護符草の白い花も咲いている。
遠くで、家臣たちが茜へ頭を下げている。
誰も苦しんでいない。
誰も責めていない。
屋敷の縁側には、父・景継が立っていた。
痩せていない。
顔色もよい。
右手も動く。
彼は茜を見ると、笑った。
「茜」
その名が、まっすぐ届いた。
茜の胸が詰まる。
「父上」
「茜」
もう一度、呼ばれる。
父が自分の名前を呼ぶ。
ただそれだけで、世界が戻ったように感じた。
母・志乃が父の隣で涙を拭っている。
「よかったわね、茜」
家臣たちも口々に言う。
「姫様が契約を継いでくださったおかげです」
「稲葉家は救われました」
「水田も戻りました」
「景継様もお元気に」
茜は自分の手首を見た。
赤い縄が巻かれている。
痛みはない。
ただ、少しだけ温かい。
契約者の証。
鬼契りを継いだ印。
でも、周囲は幸せそうだった。
父は元気になった。
母は泣いて喜んでいる。
土地は救われた。
家臣たちは感謝している。
誰も茜を責めない。
誰も茜を犠牲と呼ばない。
むしろ、誇りと呼ぶ。
「これでよかったのよ」
どこからか声が聞こえた。
顔のない卒業生の声。
けれど、この世界では少し優しく聞こえる。
「あなた一人が契約を継げば、家は守られます」
父が、もう一度呼ぶ。
「茜」
「はい」
茜は答える。
泣きそうになるほど嬉しかった。
「父も、母も、土地も、誰も失いません」
その言葉に、茜は頷きかけた。
だが、そのとき。
誰かの名前が浮かばなくなった。
隣に、誰かがいたはずだ。
いつも冷静で、でもときどき変なところで頑固で、自分を置いていくなと怒った友達。
名前は。
「……あれ」
茜は眉を寄せる。
思い出そうとする。
ア。
アサ。
その先が出ない。
胸が冷える。
遠くに、白衣神咒を持った少年の顔が浮かんだ。
腹痛を押さえながら笑う、地味でお人好しな同級生。
彼の名前は。
蓮田。
その先がぼやける。
銀白色の髪の少年が、腕を組んで何か言っている。
口は悪い。
でも、借りがあると言って来てくれた。
彼の言葉が、風に紛れて消える。
黒い着物の女が、刀を持って立っている。
家を守ることと、家に食われることは違うわ。
その言葉が遠くなる。
誰の言葉だったのか、思い出せない。
茜は手首の赤縄を見た。
温かいと思っていた縄は、少しずつ肌へ食い込んでいる。
痛みはない。
痛みを感じる部分から先に、何かが削られているのだ。
父は笑っている。
母は泣いている。
家臣たちは称えている。
水田は青い。
だが、その中心にいる自分だけが、少しずつ薄くなっている。
顔のない卒業生の声が囁く。
「誰も失いません」
茜は歯を食いしばった。
「嘘」
景継が首を傾げる。
「茜?」
父の声だ。
本物のように聞こえる。
それでも、茜は赤縄を掴んだ。
「父上を救いたい気持ちは本当よ」
水田の風が止まる。
「でも、あたしが消えていくことを救いとは呼ばない」
赤縄が強く締まった。
周囲の家臣たちの顔が白くぼやけていく。
志乃の涙も、景継の笑みも、すべて卒業写真のように平たくなる。
「家を守るなら」
茜は赤縄を引きちぎるように力を込めた。
「生きて話し合って守る!」
水田の景色が、紙のように破れた。
◇
アサミは、図書館にいた。
ただし、六道魔導学園の図書塔ではない。
見渡す限り、書架が続いている。
天井は見えない。
床も果てがない。
書架は円形に並び、その中心に巨大な閲覧机がある。
机の上には、無数の本が開かれていた。
怪異記録。
鬼契り全文。
返り鏡事故報告書。
北校舎三番厠守護契約。
華子の生前記録。
公儀の封印対象一覧。
ハスター血統管理記録。
白峰澪の研究ノート。
稲葉景継の未完の鬼名復元資料。
六道学園の地下封門設計図。
第七怪に関する消された記録。
すべてがあった。
アサミは呼吸を忘れた。
知りたいものが、ここにある。
ずっと欠けていた記録。
黒塗りされた部分。
誰かが隠したもの。
危険だからと閉じたもの。
それらが、すべて。
手を伸ばせば読める。
「ここでは、失われたものをすべて記録できます」
図書館の奥から声がした。
顔のない図書委員が立っている。
白い手袋。
胸元の名札は空白。
手には出席簿ではなく、貸出カードを持っている。
「理解できないものは危険です」
その声は、アサミの頭の奥へ静かに入ってくる。
「だから、すべて記録し、分類し、閉じておきましょう」
アサミは本へ目を落とした。
そこには、華子の名がある。
榊原華。
声に出せば、拘束できる名。
その横には、注釈があった。
――使用権限、研究者へ付与可能。
アサミの手が止まる。
別の本には、鬼たちの名の残滓がある。
まだ取り戻されていない名。
アサミが解析すれば、仮名を与え、整理し、分類できる。
さらに別の本には、風彦の血統記録。
それを読めば、彼の力の構造が分かる。
どうすれば安全に封じられるかも。
雅琥の白虎踏地の再現条件。
茜の鬼契り適性。
すべてある。
すべて分かる。
分かれば、危険を減らせる。
誰も傷つかないように、怪異も人間も本の中で管理できる。
「本の中にいれば、誰も失われません」
図書委員が言う。
「名前も、姿も、記憶も、安全に保存できます」
アサミは、本のページへ触れた。
紙は温かかった。
その中に、誰かの鼓動があるようだった。
記録されている。
生きているのではない。
保存されている。
その違いに気づいた瞬間、アサミは指を引いた。
「違う」
図書委員が首を傾げる。
「何が違うのですか」
「知ることと、使うことは違う」
アサミは、机の上に置かれた華子の名の本を閉じた。
「記録することと、閉じ込めることも違う」
次に、鬼たちの名の残滓が書かれた本へ手を置く。
開かない。
「ワタシは、相手が外へ出る権利まで奪う研究者にはならない」
図書館全体が、ざわめいた。
本が一斉に開き、ページがめくれる。
そこにはアサミ自身の過去が記録されていた。
鬼門の写本。
短剣。
茜へ向けて動いた自分の手。
アサミは目を閉じない。
「ワタシは失敗した」
声は震えた。
それでも、逃げなかった。
「だから、扱い方を選ぶ」
彼女は閲覧机の上に、空白の紙を一枚置いた。
「記録とは、閉じることではなく、本人が戻ってこられる場所を残すこと」
図書館の天井に、ひびが入った。
白い本棚が崩れ、ページが風に舞う。
アサミは、消えていく本たちを惜しいと思った。
心の底から。
それでも、手を伸ばさなかった。
◇
雅琥は、昼の学園にいた。
鏡術研究棟の前。
空は青い。
生徒たちは笑っている。
校舎は白く、窓硝子は明るい光を返している。
それを見ても、怖くない。
雅琥は自分の手を見た。
震えていない。
傷もない。
教師傷害事件の噂もない。
問題児を見る目もない。
「雅琥」
声がした。
振り返る。
白峰澪が立っていた。
白衣姿で、研究資料を抱え、少し困ったように笑っている。
「また授業を抜け出したの?」
雅琥は息を呑んだ。
声が出ない。
母だ。
記録の中でも、鏡の中でも、歪められた幻でもない。
生きている母。
澪は近づいてきて、雅琥の乱れた襟を直した。
「まったく。背ばかり伸びて、身だしなみは変わらないのね」
「母、さん」
声がかすれた。
澪は微笑む。
「何その顔。幽霊でも見たみたい」
雅琥は笑えなかった。
胸の奥が痛い。
痛いのに、逃げたくない。
このまま、ここにいたい。
遠くから玄斎が歩いてくる。
険しい顔ではない。
隠し事を抱えた顔でもない。
ただ、研究棟の管理者として、澪へ書類を渡している。
「澪。午後の会議資料だ」
「ありがとうございます、玄斎先生」
雅琥は、その光景を見た。
何も起きていない世界。
返り鏡の事故はない。
母は消えない。
玄斎は秘密を抱えない。
自分は鏡を恐れない。
教師を殴った問題児にもならない。
普通に叱られ、普通に腹を立て、普通に帰る。
そんな世界。
「ここでは、怖いものを見なくて済みます」
声がした。
鏡術研究棟の窓に、顔のない卒業生が映っている。
だが、この世界ではそれすら怖くなかった。
「怖いものを見なければ、あなたは傷つきません」
澪が、雅琥の頭に手を置く。
子ども扱いするな、といつもなら怒る。
だが、今はその手を振り払えなかった。
「母を失った記憶も、隠された怒りも、ここでは必要ありません」
雅琥は目を閉じた。
会いてえよ。
言葉にならなかった。
ずっと会いたかった。
母に叱られたかった。
母に名前を呼ばれたかった。
鏡の中の偽物ではなく、本物の声で。
「雅琥?」
澪が心配そうに覗き込む。
その顔は、本当に母に見えた。
雅琥は拳を握る。
爪が手のひらへ食い込む。
痛い。
この世界では痛みも薄い。
だから余計に、嘘だと分かった。
「会いてえよ」
雅琥は呟いた。
澪が微笑む。
「ここにいるわ」
「会いてえよ、母さんに」
雅琥は顔を上げた。
「でも、母さんは、俺を鏡の中に置いていく人じゃねえ」
澪の笑みが止まった。
窓硝子に映る顔のない卒業生が、ゆっくりと首を傾げる。
「ここは鏡ではありません。安全な学園です」
「同じだ」
雅琥は窓へ向かって歩き出した。
足元に白い虎の紋が広がる。
「怖いものを見せねえために、閉じ込めるなら同じだ」
澪の姿が揺らぐ。
雅琥は一瞬だけ足を止めた。
壊したくない。
この幻を。
母の顔を。
それでも、拳を上げた。
「母さんなら、外へ行けって言う」
窓硝子の中で、顔のない卒業生が澪の顔をかぶる。
雅琥は叫んだ。
「勝手に母さんの顔を使うんじゃねえ!」
拳が窓を砕いた。
硝子ではなく、幻の学園そのものが割れた。
◇
華子は、榊原家の庭にいた。
夜ではなかった。
昼下がりの光が、庭の白砂に落ちている。
松の影。
道場から聞こえる木刀の音。
縁側に置かれた稽古用の防具。
自分の手は、肉のある手だった。
白く透けていない。
水の気配に引かれて揺らぐこともない。
足は地面についている。
息もできる。
腰には刀がある。
だが、それは怪異の刀ではなく、生前の稽古刀だった。
「華」
声がした。
懐かしい声だった。
小夜が庭の端に立っていた。
まだ幼い。
泣き虫で、いつも華の袖を掴んでいた少女。
だが今の小夜は笑っている。
着物も綺麗で、顔色もよい。
井戸へ捧げられるための白装束ではない。
「華さま!」
小夜が駆け寄ってくる。
華子――いや、榊原華は、その小さな身体を受け止めた。
温かい。
幽霊の感触ではない。
本当に生きている。
小夜も。
自分も。
庭の奥から、家人たちの声がする。
井戸の怪異は鎮まったという。
誰も犠牲にならなかったという。
父も兄たちも、華が剣を続けることを認めたという。
剣を捨てる必要はない。
嫁ぎ先のために黙る必要もない。
小夜を逃がす必要もない。
井戸へ入る必要もない。
死なない。
学園の礎に骨を埋められることもない。
三番目の個室に縛られることもない。
守護神などという便利な名を着せられることもない。
「やり直せます」
声が聞こえた。
庭の井戸の水面に、顔のない卒業生が映っている。
「あなたは死なずに済む」
華は、小夜の髪を撫でた。
小夜は嬉しそうに笑う。
「小夜を失わず、あなたも縛られずに済みます」
華は目を閉じた。
甘い。
あまりにも甘い幻だった。
これを望まなかったと言えば嘘になる。
何度も思った。
もしあの日、別の道があったなら。
小夜を逃がし、自分も生き延びる道があったなら。
家に剣を捨てろと言われず、自由に生きられたなら。
井戸にも、学園にも、厠にも縛られなかったなら。
どれほどよかったか。
小夜が華の袖を引く。
「華さま、どうしたの?」
その声が、胸を刺した。
華は、小夜の顔を見た。
この子は幻だ。
けれど、かつて救いたかった小夜の顔をしている。
華は、長く黙っていた。
五人の中で、いちばん長く。
刀の柄に手を添えたまま、動けなかった。
庭には風が吹いている。
生きている身体に、その風は温かい。
厠の冷たい水音など、どこにもない。
風彦もいない。
腹の弱い少年の情けない声も。
茜のまっすぐな怒りも。
アサミの危うい好奇心も。
雅琥の乱暴な優しさも。
誰もいない。
そのことに気づいた瞬間、華は薄く笑った。
「そう」
小夜が首を傾げる。
「華さま?」
「この世界には、あの子たちがいないのね」
顔のない卒業生の声が、井戸から響く。
「必要ありません。これは、あなたが失わなかった世界です」
「いいえ」
華は、小夜からそっと手を離した。
「過去を作り替えても、今取り残されている子は救えないわ」
小夜の顔が、少しだけ曇る。
華は胸元へ手を当てた。
懐にある紙。
榊原華。
アサミが渡した名。
華は、その名を自分の内側で読む。
声には出さない。
命令にも使わせない。
ただ、自分のものとして受け取る。
「わたくしは、小夜を迎えに行く」
庭の井戸が黒く染まった。
小夜の姿が揺らぐ。
幻の少女は、泣きそうな顔で華を見る。
「行っちゃうの?」
華は膝をつき、幻の小夜の頬へ触れた。
「ええ」
「また置いていくの?」
その言葉に、華の胸が痛んだ。
だが、今度は目を逸らさなかった。
「いいえ。今度は迎えに行くの」
井戸の水が跳ね上がる。
庭が黒い水に沈む。
華は刀を抜いた。
「だから、少しだけ待っていなさい」
幻の小夜が、白い花びらのように消えた。
華は水面を斬った。
◇
五つの幻は、同時に砕けた。
白い光が割れ、卒業式の拍手が遠のき、無数の紙花が雪のように散る。
風彦は白い公儀研修室から転がり出た。
腹痛が戻ってきた。
ひどい痛みだった。
だが、痛いことに少しだけ安心した。
「痛い……生きている……痛い……」
「喜ぶか苦しむか、どちらかにしなさい」
華子の声がした。
風彦が顔を上げると、彼女もすぐ近くに立っていた。
黒い着物の裾が水に濡れている。
だが、表情はいつもの華子に戻っている。
「華子さん」
「何かしら」
「ご無事で」
「ええ。少し、嫌な夢を見たわ」
「同じくでござる」
茜は床に膝をつき、赤縄の幻を振り払うように手首を押さえていた。
アサミがすぐそばで彼女を支える。
「茜」
「平気。今度は本当に平気じゃないけど、倒れてない」
「その表現は不安」
「アサミこそ、顔色悪いわよ」
「情報量の多い幻だった」
「読みたかった?」
アサミは一瞬黙った。
「読みたかった」
「正直ね」
「でも、戻った」
「うん。戻ってきた」
雅琥は少し離れた壁際に立っていた。
拳から血が出ている。
幻の鏡を砕いた反動だろう。
茜が気づいて声を上げる。
「雅琥、手!」
「大したことねえ」
「大したことある人の出血よ」
「鏡は割った」
「そこは聞いてない」
雅琥は、少しだけ目を伏せた。
「母さんがいた」
その言葉に、全員が静かになった。
雅琥は拳を握りしめる。
「でも、違った。会いたいのは本当だ。でも、あんな場所にいる母さんは本物じゃねえ」
華子が静かに言う。
「よく戻ったわね」
「おまえに言われると腹立つ」
「照れ隠しが下手ね」
「違う」
風彦は周囲を見回した。
そこは本校舎の中央階段前だった。
ただし、普段の階段ではない。
上下が逆転している。
上へ伸びる階段は、途中から地下へ向かって沈んでいるように見える。下へ降りる階段は、なぜか講堂の天井へつながっている。
踊り場には白い案内板が立っていた。
――臨時卒業式会場はこちら。
矢印は下を指している。
上から見ても、下から見ても、どの角度から見ても、下を指している。
逆さ階段。
五人を、名簿の廊下へ誘導するための道。
アサミが端末を確認する。
「幻の中で、それぞれ卒業処理へ誘導されていた。拒否したことで、逆さ階段前へ集められた」
「つまり、罠の先へご招待ってことね」
茜が言う。
「そう」
「行くしかない?」
「行くしかない」
雅琥が拳の血を制服で拭う。
「分かりやすくていい」
「手当ては?」
茜が聞く。
「あとでいい」
「あとでって言う人、多すぎ」
「おまえもだろ」
「……それは否定できない」
華子は逆さ階段を見上げる。
その奥から、顔のない卒業生の声が響いた。
> 「卒業を拒むのですか」
声は、廊下のどこからでも聞こえた。
壁から。
床から。
階段の奥から。
端末画面から。
それぞれが見た幻の中から。
> 「外へ出れば、また失います」
> 「選べば、傷つきます」
> 「話し合えば、裏切られます」
> 「大人になれば、また役割を押しつけられます」
茜は顔を上げた。
その言葉は、痛いほど分かる。
外へ出れば傷つく。
選べば後悔する。
話し合っても、分かり合えないことがある。
大人は守ると言って隠す。
家は愛しながら食おうとする。
公儀は安全のために人を封じる。
学園は生徒を守るために名前を使う。
全部、現実だ。
だからこそ、閉じ込めることは救いではない。
茜は一歩前へ出た。
「それでも、勝手に残されるよりはましよ」
声は階段の奥へ届いた。
零時の鐘が鳴る。
ごおん。
逆さ階段の白い矢印が、血のように赤く染まった。
顔のない卒業生の声が、静かに告げる。
> 「では、名簿の廊下へお進みください」
五人は顔を見合わせた。
誰も、もう引き返そうとは言わなかった。
華子が刀を軽く鳴らす。
「ずいぶん丁寧な案内ね」
風彦は腹を押さえながら答えた。
「丁寧すぎる怪異ほど信用ならぬでござる」
アサミが頷く。
「同意」
雅琥が先に階段へ足をかける。
「行くぞ」
茜は召喚杖を握り直した。
「ええ」
五人は、下へ向かって昇る階段へ踏み出した。
卒業式場の奥、名簿の廊下へ向かって。




