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厠の華子さん―ネオ江戸魔導学園怪異録―  作者: 秋月キアラ
第4話 ― 華子さん、遊びましょう
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第二幕 ― 卒業できない者たち

 本校舎の扉は、開いていた。


 いや、開かれていた。


 五人が校門をくぐるのを待っていたかのように、正面玄関の重い硝子扉は内側へ向かって静かに開き、白い光を吐き出している。


 いつもの本校舎なら、夜の玄関には消灯後の暗さと、警備式神の青い目だけが浮かんでいるはずだった。


 だが今は違う。


 廊下の天井灯はすべて点灯している。


 床は磨き上げられ、壁には白い布が掛けられ、掲示板には卒業式用の飾り花が並んでいた。季節外れの白い紙花。赤いリボン。誰が用意したのか分からない祝辞の短冊。


 そこに書かれている文字は、どれも同じだった。


 ――ご卒業おめでとうございます。


 茜は、それを見て顔をしかめた。


「気味悪い」


「同意」


 アサミがすぐに言った。


 端末を手にしているが、画面には相変わらず臨時卒業式の通知しか出ない。解析をかけようとするたび、白いノイズが走り、権限者欄の「卒業生」という文字だけが濃くなる。


 雅琥は玄関の床を睨んでいた。


 床の黒い大理石に、自分たちの姿がぼんやり映っている。返り鏡ほどの力はない。けれど、映るというだけで彼の肩は少し強張っていた。


 それでも、彼は目を逸らさない。


「床まで鏡みてえにすんなよ」


「怖い?」


 茜が聞く。


 雅琥は睨み返した。


「怖えよ」


 即答だった。


 茜は少しだけ驚いた。


 雅琥は続ける。


「怖えから、割りたくなる。でも割ったら廊下全部壊れる。だから我慢してる」


「……進歩ね」


「うるせえ」


 風彦は腹を押さえながら、玄関の上部を見上げていた。


 そこには、普段なら校訓が掲げられている。


 ――名に責任を持て。


 入学式の日、玄斎が同じ言葉を訓示で告げた。


 だが今、その校訓は白い布で覆われている。


 代わりに、卒業式の式次第が掲示されていた。


 一、開式の辞。


 二、在校生名簿確認。


 三、卒業処理。


 四、校歌斉唱。


 五、閉式。


「卒業処理って何でござるか」


 風彦が呟く。


「聞くだけで嫌な響きね」


 茜が答えた。


 華子は玄関の中央に立ち、目を細めて廊下の奥を見ていた。


 黒い着物姿の彼女は、白い卒業式の装飾の中で、ただ一つの墨のように浮いている。だが、その黒さが今は頼もしくもあった。


「ここ、学園であって学園ではないわね」


「どういう意味でござるか」


「校舎の形をしているけれど、内側の意味が書き換えられている。廊下は廊下ではなく、式場へ向かう通路。教室は教室ではなく、待機室。名簿は名簿ではなく、回収票」


「回収票……」


 アサミが低く繰り返す。


「第七怪は、生徒を卒業させるのではなく、回収しようとしている」


「卒業って言葉を使ってるだけで、中身は封印ってこと?」


 茜が聞くと、アサミは頷いた。


「可能性が高い」


 校内放送が、再び流れた。


> 「在校生は、正面玄関より本校舎へお入りください」

> 「卒業式場までは、案内に従ってお進みください」

> 「途中で名前を忘れた場合は、近くの図書委員へお申し出ください」


 雅琥が舌打ちした。


「親切そうに言うのが余計腹立つ」


「本当にね」


 茜は召喚杖を握り直した。


 契約蔵から戻ってきてすぐだというのに、腕が重い。


 でも、重いからといって置いていくわけにはいかない。


 アサミは、壁の式次第を確認しながら言った。


「五人で離れないほうがいい」


「当然でござる」


 風彦が頷く。


「この手の校舎怪異は、分断が定番でござるからな」


 華子が横目で見る。


「あら。分かっているなら対策は?」


「全員で手をつなぐ」


「却下」


 雅琥が即答した。


「なぜでござる!」


「嫌だ」


「理由が明快!」


 茜は苦笑しながらも、アサミの袖を軽く掴んだ。


「じゃあ、少なくとも近くにいること」


「うん」


 アサミは頷いた。


 風彦は華子を見る。


「華子さんは」


「わたくしは水音で追えるわ」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶんが多い」


「怪異相手に絶対なんて言うほうが信用できないでしょう?」


「それはそうでござるが」


 五人は、正面玄関を越えた。


 その瞬間、背後の扉が閉まる。


 音はなかった。


 ただ、外の気配が消えた。


 稲葉家の霊水路も、蓮田家の厠も、門前町の夜気も、すべて一枚の白い布の向こうへ隠されたように遠のく。


 廊下の奥で、ピアノが一拍鳴った。


 一拍。


 続いて二拍。


 三拍。


 無人音楽室の拍子だ。


 アサミが顔を上げる。


「まずい。十三拍を超える前に――」


 言い終える前に、廊下の壁が動いた。


 白い布が膨らむ。


 廊下の左右にあった教室の扉が、一斉に開く。


 中から白い光が溢れ出した。


 風が吹く。


 卒業式で配られる花の匂い。


 新しい制服の糊の匂い。


 古い木の床に染みた涙の匂い。


 それらが混ざり、五人の間へ割り込んだ。


「離れないで!」


 茜が叫ぶ。


 アサミの袖を掴んでいたはずの手が、空を切った。


 すぐ隣にいたアサミの姿が、白い光の向こうへ消える。


 雅琥が何か怒鳴った。


 風彦の声もした。


 華子の舌打ちも。


 だが、それぞれの声は別々の廊下へ吸い込まれていく。


 茜は腕を伸ばした。


 誰の手にも届かなかった。


 白い光が、視界を覆った。


     ◇


 風彦が目を開けると、そこは公儀の研修室だった。


 白い壁。


 白い床。


 白い天井。


 窓はあるが、外は見えない。


 机の上には、整然と並んだ封印具、白衣神咒、霊的測定器。


 壁には公儀怪異対策局の標語が掲げられている。


 ――異界を知り、異界を封じ、異界に呑まれるな。


 風彦は椅子に座っていた。


 腹は痛くない。


 思わず腹に手を当てる。


 痛くない。


 違和感があるほどに。


 身体も軽い。


 背筋も伸びている。


 眼鏡の度も合っている。


 机の上の記録板には、蓮田風彦の名前がある。


 監視任務者。


 安定。


 封印不要。


 使用条件、良好。


「……封印不要」


 風彦は、その文字を読み上げた。


 その言葉だけで、胸の奥に薄い安堵が生まれる。


 封印されない。


 公儀から危険物として扱われない。


 人間の形でいられる。


 その向かいに、白衣の公儀職員が座っていた。


 顔は見えない。


 輪郭だけが白くぼやけている。


 しかし、その声は丁寧だった。


「蓮田風彦。あなたはよく管理されています」


「管理……」


「はい。規則を守り、命令に従い、必要以上に他者と関わらない。理想的な監視任務者です」


 風彦は周囲を見た。


 誰もいない。


 茜はいない。


 アサミもいない。


 雅琥も。


 華子も。


 机の上に、六道魔導学園の資料が置いてある。


 だが、その資料には事件の記録がない。


 北校舎の鬼門事故も。


 返り鏡の事件も。


 稲葉鬼契りの呼び直しも。


 何もない。


 風彦は、学園内結界異常の監視を無難に終え、何も深く関わらず、報告書だけを書いたことになっていた。


「ここでは、あなたは誰にも恐れられません」


 顔のない職員が言う。


「なぜなら、誰もあなたを知りません」


 その言葉に、風彦は胸の奥がざわついた。


 研修室の隅に鏡がある。


 そこに映る自分は、きちんと人間の形をしていた。


 黄風も漏れていない。


 影も人間の影だ。


 腹痛もない。


 服装も乱れていない。


 公儀の管理下で、正しく保たれた蓮田風彦。


 安全だ。


 安全すぎるほどに。


 白い職員の声が、今度は少しだけ別の響きを帯びた。


「誰とも関わらなければ、誰にも恐れられません」


 研修室の壁が、白い廊下へ変わっていく。


 卒業式の拍手が遠くから聞こえる。


「あなたは、怪物として見られずに済む」


 風彦の手が震えた。


 怪物として見られない。


 それは、望んだことだった。


 幼いころから、何度も。


 ハスターの血。


 黄風。


 境界を削る力。


 公儀の職員たちが、恐れを隠して自分を観察する視線。


 人間でいたいなら従え、と言われ続けた日々。


 もし誰とも関わらなければ。


 もし誰にも知られなければ。


 自分は誰かを怖がらせずに済む。


 封印もされない。


 腹も痛くない。


 静かに、安全に、人間らしく保存される。


 保存。


 その言葉が浮かんだ瞬間、風彦は机の記録板を見た。


 蓮田風彦。


 監視任務者。


 安定。


 封印不要。


 その下に、細かい文字がある。


 ――関係構築、不要。


 ――交友記録、なし。


 ――怪異接触、なし。


 ――自発的判断、なし。


 ――現状維持。


 胸の奥が冷えた。


 これは安全ではない。


 これは保管だ。


 公儀の棚に、崩れないよう丁寧に置かれた自分。


 誰にも恐れられない。


 だが、誰にも呼ばれない。


 茜が怒った声もない。


 アサミが淡々と心配する声もない。


 雅琥が雑に背中を叩く声もない。


 華子が厠の掃除へ文句をつける声もない。


 自分は腹痛に悩まされない代わりに、誰の記憶にも残らない。


 風彦は、ゆっくりと立ち上がった。


「怖がられるのは嫌でござる」


 顔のない職員が首を傾げる。


「では、このままでよいでしょう」


「でも」


 風彦は白衣神咒を手に取った。


 手が震えている。


 腹は痛くない。


 しかし、胸が痛い。


「誰にも覚えられないまま安全でいるのは、もっと嫌でござる」


 白い研修室にひびが入った。


 職員の顔が、つるりとした白い面へ変わる。


 卒業生の声が、部屋全体から響いた。


「外へ出れば、あなたはまた恐れられます」


「それでも」


 風彦は経文を広げた。


「僕は、誰かに名前を呼ばれたい」


 白い部屋が砕けた。


     ◇


 茜は、稲葉家の水田に立っていた。


 朝だった。


 空は青い。


 霊水路は澄み、水は金色に輝いている。


 稲は青く、風に揺れていた。


 護符草の白い花も咲いている。


 遠くで、家臣たちが茜へ頭を下げている。


 誰も苦しんでいない。


 誰も責めていない。


 屋敷の縁側には、父・景継が立っていた。


 痩せていない。


 顔色もよい。


 右手も動く。


 彼は茜を見ると、笑った。


「茜」


 その名が、まっすぐ届いた。


 茜の胸が詰まる。


「父上」


「茜」


 もう一度、呼ばれる。


 父が自分の名前を呼ぶ。


 ただそれだけで、世界が戻ったように感じた。


 母・志乃が父の隣で涙を拭っている。


「よかったわね、茜」


 家臣たちも口々に言う。


「姫様が契約を継いでくださったおかげです」


「稲葉家は救われました」


「水田も戻りました」


「景継様もお元気に」


 茜は自分の手首を見た。


 赤い縄が巻かれている。


 痛みはない。


 ただ、少しだけ温かい。


 契約者の証。


 鬼契りを継いだ印。


 でも、周囲は幸せそうだった。


 父は元気になった。


 母は泣いて喜んでいる。


 土地は救われた。


 家臣たちは感謝している。


 誰も茜を責めない。


 誰も茜を犠牲と呼ばない。


 むしろ、誇りと呼ぶ。


「これでよかったのよ」


 どこからか声が聞こえた。


 顔のない卒業生の声。


 けれど、この世界では少し優しく聞こえる。


「あなた一人が契約を継げば、家は守られます」


 父が、もう一度呼ぶ。


「茜」


「はい」


 茜は答える。


 泣きそうになるほど嬉しかった。


「父も、母も、土地も、誰も失いません」


 その言葉に、茜は頷きかけた。


 だが、そのとき。


 誰かの名前が浮かばなくなった。


 隣に、誰かがいたはずだ。


 いつも冷静で、でもときどき変なところで頑固で、自分を置いていくなと怒った友達。


 名前は。


「……あれ」


 茜は眉を寄せる。


 思い出そうとする。


 ア。


 アサ。


 その先が出ない。


 胸が冷える。


 遠くに、白衣神咒を持った少年の顔が浮かんだ。


 腹痛を押さえながら笑う、地味でお人好しな同級生。


 彼の名前は。


 蓮田。


 その先がぼやける。


 銀白色の髪の少年が、腕を組んで何か言っている。


 口は悪い。


 でも、借りがあると言って来てくれた。


 彼の言葉が、風に紛れて消える。


 黒い着物の女が、刀を持って立っている。


 家を守ることと、家に食われることは違うわ。


 その言葉が遠くなる。


 誰の言葉だったのか、思い出せない。


 茜は手首の赤縄を見た。


 温かいと思っていた縄は、少しずつ肌へ食い込んでいる。


 痛みはない。


 痛みを感じる部分から先に、何かが削られているのだ。


 父は笑っている。


 母は泣いている。


 家臣たちは称えている。


 水田は青い。


 だが、その中心にいる自分だけが、少しずつ薄くなっている。


 顔のない卒業生の声が囁く。


「誰も失いません」


 茜は歯を食いしばった。


「嘘」


 景継が首を傾げる。


「茜?」


 父の声だ。


 本物のように聞こえる。


 それでも、茜は赤縄を掴んだ。


「父上を救いたい気持ちは本当よ」


 水田の風が止まる。


「でも、あたしが消えていくことを救いとは呼ばない」


 赤縄が強く締まった。


 周囲の家臣たちの顔が白くぼやけていく。


 志乃の涙も、景継の笑みも、すべて卒業写真のように平たくなる。


「家を守るなら」


 茜は赤縄を引きちぎるように力を込めた。


「生きて話し合って守る!」


 水田の景色が、紙のように破れた。


     ◇


 アサミは、図書館にいた。


 ただし、六道魔導学園の図書塔ではない。


 見渡す限り、書架が続いている。


 天井は見えない。


 床も果てがない。


 書架は円形に並び、その中心に巨大な閲覧机がある。


 机の上には、無数の本が開かれていた。


 怪異記録。


 鬼契り全文。


 返り鏡事故報告書。


 北校舎三番厠守護契約。


 華子の生前記録。


 公儀の封印対象一覧。


 ハスター血統管理記録。


 白峰澪の研究ノート。


 稲葉景継の未完の鬼名復元資料。


 六道学園の地下封門設計図。


 第七怪に関する消された記録。


 すべてがあった。


 アサミは呼吸を忘れた。


 知りたいものが、ここにある。


 ずっと欠けていた記録。


 黒塗りされた部分。


 誰かが隠したもの。


 危険だからと閉じたもの。


 それらが、すべて。


 手を伸ばせば読める。


「ここでは、失われたものをすべて記録できます」


 図書館の奥から声がした。


 顔のない図書委員が立っている。


 白い手袋。


 胸元の名札は空白。


 手には出席簿ではなく、貸出カードを持っている。


「理解できないものは危険です」


 その声は、アサミの頭の奥へ静かに入ってくる。


「だから、すべて記録し、分類し、閉じておきましょう」


 アサミは本へ目を落とした。


 そこには、華子の名がある。


 榊原華。


 声に出せば、拘束できる名。


 その横には、注釈があった。


 ――使用権限、研究者へ付与可能。


 アサミの手が止まる。


 別の本には、鬼たちの名の残滓がある。


 まだ取り戻されていない名。


 アサミが解析すれば、仮名を与え、整理し、分類できる。


 さらに別の本には、風彦の血統記録。


 それを読めば、彼の力の構造が分かる。


 どうすれば安全に封じられるかも。


 雅琥の白虎踏地の再現条件。


 茜の鬼契り適性。


 すべてある。


 すべて分かる。


 分かれば、危険を減らせる。


 誰も傷つかないように、怪異も人間も本の中で管理できる。


「本の中にいれば、誰も失われません」


 図書委員が言う。


「名前も、姿も、記憶も、安全に保存できます」


 アサミは、本のページへ触れた。


 紙は温かかった。


 その中に、誰かの鼓動があるようだった。


 記録されている。


 生きているのではない。


 保存されている。


 その違いに気づいた瞬間、アサミは指を引いた。


「違う」


 図書委員が首を傾げる。


「何が違うのですか」


「知ることと、使うことは違う」


 アサミは、机の上に置かれた華子の名の本を閉じた。


「記録することと、閉じ込めることも違う」


 次に、鬼たちの名の残滓が書かれた本へ手を置く。


 開かない。


「ワタシは、相手が外へ出る権利まで奪う研究者にはならない」


 図書館全体が、ざわめいた。


 本が一斉に開き、ページがめくれる。


 そこにはアサミ自身の過去が記録されていた。


 鬼門の写本。


 短剣。


 茜へ向けて動いた自分の手。


 アサミは目を閉じない。


「ワタシは失敗した」


 声は震えた。


 それでも、逃げなかった。


「だから、扱い方を選ぶ」


 彼女は閲覧机の上に、空白の紙を一枚置いた。


「記録とは、閉じることではなく、本人が戻ってこられる場所を残すこと」


 図書館の天井に、ひびが入った。


 白い本棚が崩れ、ページが風に舞う。


 アサミは、消えていく本たちを惜しいと思った。


 心の底から。


 それでも、手を伸ばさなかった。


     ◇


 雅琥は、昼の学園にいた。


 鏡術研究棟の前。


 空は青い。


 生徒たちは笑っている。


 校舎は白く、窓硝子は明るい光を返している。


 それを見ても、怖くない。


 雅琥は自分の手を見た。


 震えていない。


 傷もない。


 教師傷害事件の噂もない。


 問題児を見る目もない。


「雅琥」


 声がした。


 振り返る。


 白峰澪が立っていた。


 白衣姿で、研究資料を抱え、少し困ったように笑っている。


「また授業を抜け出したの?」


 雅琥は息を呑んだ。


 声が出ない。


 母だ。


 記録の中でも、鏡の中でも、歪められた幻でもない。


 生きている母。


 澪は近づいてきて、雅琥の乱れた襟を直した。


「まったく。背ばかり伸びて、身だしなみは変わらないのね」


「母、さん」


 声がかすれた。


 澪は微笑む。


「何その顔。幽霊でも見たみたい」


 雅琥は笑えなかった。


 胸の奥が痛い。


 痛いのに、逃げたくない。


 このまま、ここにいたい。


 遠くから玄斎が歩いてくる。


 険しい顔ではない。


 隠し事を抱えた顔でもない。


 ただ、研究棟の管理者として、澪へ書類を渡している。


「澪。午後の会議資料だ」


「ありがとうございます、玄斎先生」


 雅琥は、その光景を見た。


 何も起きていない世界。


 返り鏡の事故はない。


 母は消えない。


 玄斎は秘密を抱えない。


 自分は鏡を恐れない。


 教師を殴った問題児にもならない。


 普通に叱られ、普通に腹を立て、普通に帰る。


 そんな世界。


「ここでは、怖いものを見なくて済みます」


 声がした。


 鏡術研究棟の窓に、顔のない卒業生が映っている。


 だが、この世界ではそれすら怖くなかった。


「怖いものを見なければ、あなたは傷つきません」


 澪が、雅琥の頭に手を置く。


 子ども扱いするな、といつもなら怒る。


 だが、今はその手を振り払えなかった。


「母を失った記憶も、隠された怒りも、ここでは必要ありません」


 雅琥は目を閉じた。


 会いてえよ。


 言葉にならなかった。


 ずっと会いたかった。


 母に叱られたかった。


 母に名前を呼ばれたかった。


 鏡の中の偽物ではなく、本物の声で。


「雅琥?」


 澪が心配そうに覗き込む。


 その顔は、本当に母に見えた。


 雅琥は拳を握る。


 爪が手のひらへ食い込む。


 痛い。


 この世界では痛みも薄い。


 だから余計に、嘘だと分かった。


「会いてえよ」


 雅琥は呟いた。


 澪が微笑む。


「ここにいるわ」


「会いてえよ、母さんに」


 雅琥は顔を上げた。


「でも、母さんは、俺を鏡の中に置いていく人じゃねえ」


 澪の笑みが止まった。


 窓硝子に映る顔のない卒業生が、ゆっくりと首を傾げる。


「ここは鏡ではありません。安全な学園です」


「同じだ」


 雅琥は窓へ向かって歩き出した。


 足元に白い虎の紋が広がる。


「怖いものを見せねえために、閉じ込めるなら同じだ」


 澪の姿が揺らぐ。


 雅琥は一瞬だけ足を止めた。


 壊したくない。


 この幻を。


 母の顔を。


 それでも、拳を上げた。


「母さんなら、外へ行けって言う」


 窓硝子の中で、顔のない卒業生が澪の顔をかぶる。


 雅琥は叫んだ。


「勝手に母さんの顔を使うんじゃねえ!」


 拳が窓を砕いた。


 硝子ではなく、幻の学園そのものが割れた。


     ◇


 華子は、榊原家の庭にいた。


 夜ではなかった。


 昼下がりの光が、庭の白砂に落ちている。


 松の影。


 道場から聞こえる木刀の音。


 縁側に置かれた稽古用の防具。


 自分の手は、肉のある手だった。


 白く透けていない。


 水の気配に引かれて揺らぐこともない。


 足は地面についている。


 息もできる。


 腰には刀がある。


 だが、それは怪異の刀ではなく、生前の稽古刀だった。


「華」


 声がした。


 懐かしい声だった。


 小夜が庭の端に立っていた。


 まだ幼い。


 泣き虫で、いつも華の袖を掴んでいた少女。


 だが今の小夜は笑っている。


 着物も綺麗で、顔色もよい。


 井戸へ捧げられるための白装束ではない。


「華さま!」


 小夜が駆け寄ってくる。


 華子――いや、榊原華は、その小さな身体を受け止めた。


 温かい。


 幽霊の感触ではない。


 本当に生きている。


 小夜も。


 自分も。


 庭の奥から、家人たちの声がする。


 井戸の怪異は鎮まったという。


 誰も犠牲にならなかったという。


 父も兄たちも、華が剣を続けることを認めたという。


 剣を捨てる必要はない。


 嫁ぎ先のために黙る必要もない。


 小夜を逃がす必要もない。


 井戸へ入る必要もない。


 死なない。


 学園の礎に骨を埋められることもない。


 三番目の個室に縛られることもない。


 守護神などという便利な名を着せられることもない。


「やり直せます」


 声が聞こえた。


 庭の井戸の水面に、顔のない卒業生が映っている。


「あなたは死なずに済む」


 華は、小夜の髪を撫でた。


 小夜は嬉しそうに笑う。


「小夜を失わず、あなたも縛られずに済みます」


 華は目を閉じた。


 甘い。


 あまりにも甘い幻だった。


 これを望まなかったと言えば嘘になる。


 何度も思った。


 もしあの日、別の道があったなら。


 小夜を逃がし、自分も生き延びる道があったなら。


 家に剣を捨てろと言われず、自由に生きられたなら。


 井戸にも、学園にも、厠にも縛られなかったなら。


 どれほどよかったか。


 小夜が華の袖を引く。


「華さま、どうしたの?」


 その声が、胸を刺した。


 華は、小夜の顔を見た。


 この子は幻だ。


 けれど、かつて救いたかった小夜の顔をしている。


 華は、長く黙っていた。


 五人の中で、いちばん長く。


 刀の柄に手を添えたまま、動けなかった。


 庭には風が吹いている。


 生きている身体に、その風は温かい。


 厠の冷たい水音など、どこにもない。


 風彦もいない。


 腹の弱い少年の情けない声も。


 茜のまっすぐな怒りも。


 アサミの危うい好奇心も。


 雅琥の乱暴な優しさも。


 誰もいない。


 そのことに気づいた瞬間、華は薄く笑った。


「そう」


 小夜が首を傾げる。


「華さま?」


「この世界には、あの子たちがいないのね」


 顔のない卒業生の声が、井戸から響く。


「必要ありません。これは、あなたが失わなかった世界です」


「いいえ」


 華は、小夜からそっと手を離した。


「過去を作り替えても、今取り残されている子は救えないわ」


 小夜の顔が、少しだけ曇る。


 華は胸元へ手を当てた。


 懐にある紙。


 榊原華。


 アサミが渡した名。


 華は、その名を自分の内側で読む。


 声には出さない。


 命令にも使わせない。


 ただ、自分のものとして受け取る。


「わたくしは、小夜を迎えに行く」


 庭の井戸が黒く染まった。


 小夜の姿が揺らぐ。


 幻の少女は、泣きそうな顔で華を見る。


「行っちゃうの?」


 華は膝をつき、幻の小夜の頬へ触れた。


「ええ」


「また置いていくの?」


 その言葉に、華の胸が痛んだ。


 だが、今度は目を逸らさなかった。


「いいえ。今度は迎えに行くの」


 井戸の水が跳ね上がる。


 庭が黒い水に沈む。


 華は刀を抜いた。


「だから、少しだけ待っていなさい」


 幻の小夜が、白い花びらのように消えた。


 華は水面を斬った。


     ◇


 五つの幻は、同時に砕けた。


 白い光が割れ、卒業式の拍手が遠のき、無数の紙花が雪のように散る。


 風彦は白い公儀研修室から転がり出た。


 腹痛が戻ってきた。


 ひどい痛みだった。


 だが、痛いことに少しだけ安心した。


「痛い……生きている……痛い……」


「喜ぶか苦しむか、どちらかにしなさい」


 華子の声がした。


 風彦が顔を上げると、彼女もすぐ近くに立っていた。


 黒い着物の裾が水に濡れている。


 だが、表情はいつもの華子に戻っている。


「華子さん」


「何かしら」


「ご無事で」


「ええ。少し、嫌な夢を見たわ」


「同じくでござる」


 茜は床に膝をつき、赤縄の幻を振り払うように手首を押さえていた。


 アサミがすぐそばで彼女を支える。


「茜」


「平気。今度は本当に平気じゃないけど、倒れてない」


「その表現は不安」


「アサミこそ、顔色悪いわよ」


「情報量の多い幻だった」


「読みたかった?」


 アサミは一瞬黙った。


「読みたかった」


「正直ね」


「でも、戻った」


「うん。戻ってきた」


 雅琥は少し離れた壁際に立っていた。


 拳から血が出ている。


 幻の鏡を砕いた反動だろう。


 茜が気づいて声を上げる。


「雅琥、手!」


「大したことねえ」


「大したことある人の出血よ」


「鏡は割った」


「そこは聞いてない」


 雅琥は、少しだけ目を伏せた。


「母さんがいた」


 その言葉に、全員が静かになった。


 雅琥は拳を握りしめる。


「でも、違った。会いたいのは本当だ。でも、あんな場所にいる母さんは本物じゃねえ」


 華子が静かに言う。


「よく戻ったわね」


「おまえに言われると腹立つ」


「照れ隠しが下手ね」


「違う」


 風彦は周囲を見回した。


 そこは本校舎の中央階段前だった。


 ただし、普段の階段ではない。


 上下が逆転している。


 上へ伸びる階段は、途中から地下へ向かって沈んでいるように見える。下へ降りる階段は、なぜか講堂の天井へつながっている。


 踊り場には白い案内板が立っていた。


 ――臨時卒業式会場はこちら。


 矢印は下を指している。


 上から見ても、下から見ても、どの角度から見ても、下を指している。


 逆さ階段。


 五人を、名簿の廊下へ誘導するための道。


 アサミが端末を確認する。


「幻の中で、それぞれ卒業処理へ誘導されていた。拒否したことで、逆さ階段前へ集められた」


「つまり、罠の先へご招待ってことね」


 茜が言う。


「そう」


「行くしかない?」


「行くしかない」


 雅琥が拳の血を制服で拭う。


「分かりやすくていい」


「手当ては?」


 茜が聞く。


「あとでいい」


「あとでって言う人、多すぎ」


「おまえもだろ」


「……それは否定できない」


 華子は逆さ階段を見上げる。


 その奥から、顔のない卒業生の声が響いた。


> 「卒業を拒むのですか」


 声は、廊下のどこからでも聞こえた。


 壁から。


 床から。


 階段の奥から。


 端末画面から。


 それぞれが見た幻の中から。


> 「外へ出れば、また失います」

> 「選べば、傷つきます」

> 「話し合えば、裏切られます」

> 「大人になれば、また役割を押しつけられます」


 茜は顔を上げた。


 その言葉は、痛いほど分かる。


 外へ出れば傷つく。


 選べば後悔する。


 話し合っても、分かり合えないことがある。


 大人は守ると言って隠す。


 家は愛しながら食おうとする。


 公儀は安全のために人を封じる。


 学園は生徒を守るために名前を使う。


 全部、現実だ。


 だからこそ、閉じ込めることは救いではない。


 茜は一歩前へ出た。


「それでも、勝手に残されるよりはましよ」


 声は階段の奥へ届いた。


 零時の鐘が鳴る。


 ごおん。


 逆さ階段の白い矢印が、血のように赤く染まった。


 顔のない卒業生の声が、静かに告げる。


> 「では、名簿の廊下へお進みください」


 五人は顔を見合わせた。


 誰も、もう引き返そうとは言わなかった。


 華子が刀を軽く鳴らす。


「ずいぶん丁寧な案内ね」


 風彦は腹を押さえながら答えた。


「丁寧すぎる怪異ほど信用ならぬでござる」


 アサミが頷く。


「同意」


 雅琥が先に階段へ足をかける。


「行くぞ」


 茜は召喚杖を握り直した。


「ええ」


 五人は、下へ向かって昇る階段へ踏み出した。


 卒業式場の奥、名簿の廊下へ向かって。

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