第六幕 ― 蓮田風彦
風彦の名札が、白く滲んでいく。
蓮田風彦。
その四文字が、名簿の廊下の壁で、端から雪に埋もれるように消えていく。
同時に、黒い文字が浮かんだ。
――ハスター血統個体。
――異界門開閉具。
――封印対象。
さらに、その上から白い文字が重なる。
――卒業処理中。
公儀の封印。
第七怪の卒業処理。
そして、風彦自身が開いた帰還路。
三つの力が、彼の名前を違う方向へ引き裂いていた。
黄風が荒れ狂う。
名簿の廊下に貼られていた白紙の札が、暴風に巻かれて舞い上がった。壁に並ぶ名札ががたがたと震え、卒業式場の奥にある零時の鐘までもが、風に押されるように揺れる。
風彦は、もう人間の輪郭を保てていなかった。
背中から広がる黒い異相肢は、腕にも翼にも見えた。黄色い風の中でそれらは裂け、伸び、また縮み、彼の影そのものが生き物のように廊下を這っている。
顔も、半分が風にほどけていた。
眼鏡は床に落ちている。
いつも頼りなく光っていた目の輪郭も、今は黄風と黒い影に混ざり、どこまでが風彦で、どこからが《向こう側》のものなのか分からない。
茜は一瞬、息を呑んだ。
怖くないと言えば嘘になる。
目の前にいるものは、教室で腹を押さえていた地味な少年には見えなかった。
巨大な異形。
名前を持たない門。
人間の形をかろうじて思い出している怪物。
そう見えてしまう。
だが、その異形は、震えていた。
怖がっているのは、こちらではない。
風彦自身だ。
「僕を見ないでくれ」
声がした。
風の中から。
いつもの「ござる」ではなかった。
仮面が剥がれた、蓮田風彦の声だった。
「今の僕が、君たちにどう見えているのか分からない」
黄風が一段強く吹いた。
風彦の影がさらに広がり、名簿の廊下の壁へ爪を立てる。
白い名札が裂ける。
その裂け目から、名前を奪われかけた生徒たちの声が漏れた。
助けて。
名前が分からない。
ここから出たい。
風彦は、その声へ向かって無意識に道を開こうとした。
だが、開けば開くほど、自分自身が薄れていく。
「僕は、もう人間に見えていないかもしれない」
その言葉に、茜の胸が熱くなった。
怒りだった。
悲しみだった。
そして、恐怖を踏み越えるための熱だった。
「蓮田風彦!」
茜は叫んだ。
名簿の廊下が震える。
風彦の異相肢がぴくりと止まる。
彼が、こちらを向いた気がした。
顔は分からない。
目も見えない。
それでも、茜はそこに風彦がいると決めた。
「あんたは、勝手に消えていい名前じゃない!」
茜縄が伸びる。
それは拘束の縄ではない。
鬼契りで鬼を縛った古い赤縄ではない。
ただ、そこにいる誰かへ手を伸ばすための縄だった。
茜は、風彦の名札へ茜縄を結びつける。
白く滲みかけていた「蓮田風彦」の文字に、赤い線が一本引かれた。
「聞こえてるなら返事しなさい!」
風彦は首を振る。
「近づかないで……」
「嫌よ!」
「巻き込む……!」
「巻き込まれに来たのよ!」
茜は一歩踏み出した。
黄風が頬を切る。
薄く血が滲んだ。
それでも止まらない。
「鬼だって、名前を奪われたままじゃ終われなかった。あんただって同じでしょ!」
風彦の影が揺れる。
「僕は……」
「あたしたちを戻す道を開いたのに、自分だけ向こう側へ行く気? ふざけないで!」
茜の声が、校内放送の残響へ混じって響く。
「蓮田風彦! あんたはここにいる!」
その叫びに重ねるように、アサミが記録帳を開いた。
端末は壊れている。
記録札は焦げている。
それでも、紙の帳面だけは彼女の手に残っていた。
アサミは膝をつき、震える指でペンを取る。
風が強すぎて、ページがめくれる。
紙が裂けそうになる。
彼女は片手で押さえつけ、ゆっくりと文字を書いた。
観察記録ではない。
研究対象の分類でもない。
公儀へ提出する報告書でもない。
ただ、忘れないための記録。
「蓮田風彦」
アサミは声に出して書いた。
「高等部一年。腹痛あり。お人好し。怪異に巻き込まれやすい。危険な状況ほど逃げ遅れる。下痢止めを忘れがち」
「新垣殿……それは今必要な情報でござるか……?」
風の中から、かすかな声が返った。
アサミの目が揺れる。
聞こえた。
まだ、風彦がいる。
「必要」
彼女は続けた。
「記録対象ではなく、友人」
その一文を書いた瞬間、白く滲みかけていた風彦の名札に、黒い文字が戻り始めた。
完全ではない。
だが、滲みが止まった。
アサミは顔を上げる。
「風彦。ワタシはあなたを観察物として記録しない。公儀の血統個体としても、異界門開閉具としても記録しない」
ペンを握る手に血が滲む。
「友人として記録する。だから、勝手に分類を変えないで」
風彦の異形の影が、また震えた。
黄風はまだ止まらない。
名前を留めただけでは、身体が戻らない。
風彦は、自分自身から逃げようとしている。
怪物として見られるくらいなら、皆から離れようとしている。
そのとき、雅琥が前へ出た。
白虎鎮門を維持したままなので、脚は血で濡れている。呼吸も荒い。口元にも血が残っていた。
それでも、彼は風彦へ向かって歩いた。
黄風が、刃のように吹きつける。
茜が叫ぶ。
「雅琥、危ない!」
「知ってる!」
雅琥は怒鳴り返した。
怖い。
目の前にいる風彦は、やはり怪物に見える。
巨大な影。
風の中で形を変える異形。
触れれば、そのまま向こう側へ引きずり込まれるかもしれない。
だが、雅琥は歯を食いしばった。
「怖いもんは怖いって、さっき言っただろうが」
彼は、風彦から伸びる黒い異相肢の一本を掴んだ。
手のひらが焼けるように痛む。
黄風が腕を切る。
皮膚が裂ける。
それでも、掴んだ。
「離すんじゃねえ」
雅琥は、風彦の異形の腕を力任せに引いた。
「おまえもだ」
風彦の声が、風の中で歪む。
「六道殿……」
「勝手に向こう側へ行くな」
「でも、僕は」
「でもじゃねえ!」
雅琥の足元から白い虎の紋が再び広がる。
今度は学園全体ではなく、風彦の足元へ。
彼が現世に立つための足場を作る。
「ここは現世だ。おまえも、ここにいろ」
風彦の影が、ほんの少し縮んだ。
だが、まだ戻らない。
公儀の黒い文字が、名札の下で蠢いている。
ハスター血統個体。
異界門開閉具。
封印対象。
それらの文字が、風彦自身の名を下から塗り潰そうとしていた。
最後に、華子が歩き出した。
黒い着物の袖は裂け、腕には公儀の命令線を斬った反動の火傷が残っている。
それでも、彼女の歩き方は変わらなかった。
背筋を伸ばし、刀を片手に、まるで夜の廊下を散歩するように、風彦の前へ進む。
黄風が吹きつける。
彼女の髪が乱れる。
黒い袖が揺れる。
だが、華子は目を細めただけだった。
「風彦」
その声は、静かだった。
風彦の異形の輪郭が止まる。
華子は、彼の前に立った。
人間から見れば、風彦は巨大な怪物に見える。
だが、華子は態度を変えない。
怯えない。
哀れまない。
怪異として斬ろうともしない。
北校舎の女子厠で初めて呼び出されたときから見てきた、腹を押さえながらも誰かを助けようとする少年を見る目だった。
「あなたが何者かなんて、厠ではどうでもいいのよ」
風彦の影が揺れる。
「人はみんな、独りになったときだけ本当の顔をするもの」
華子は、少しだけ笑った。
「わたくしが見てきたあなたは、誰かを置いて逃げられない、腹の弱いお人好しよ」
風彦は震えた。
その言葉が、黄風の奥へ届く。
怪物。
ハスターの血。
公儀の道具。
異界門開閉具。
封印対象。
どれでもない。
それより先に、華子は自分を見ていた。
下痢止めを取りに戻って事件へ巻き込まれた少年。
鬼から茜とアサミを守ろうとした少年。
鏡に閉じ込められた生徒を引き戻そうとした少年。
鬼たちとの対話の道を開いた少年。
そして今、全校生徒の名前を帰す道を開き、自分だけが消えかけている少年。
華子は一歩近づく。
風彦の黄風が彼女の頬を切った。
細い血が白い肌を伝う。
それでも、彼女は微笑んだ。
「風彦」
ただ名前を呼んだ。
契約名ではない。
命令でもない。
召喚でも、拘束でも、役割でもない。
彼女が、彼を選んで呼ぶ名前だった。
名簿の廊下の壁で、「蓮田風彦」の名札が強く光った。
風彦は、自分の中に落ちていく。
黄風の奥。
公儀の封印文字の奥。
ハスターの血の奥。
そこに、小さな自分がいた。
ずっと怖がっていた自分。
誰かに怪物として見られたくない自分。
だから、ござる口調で距離を取り、公儀の命令で自分を囲い、腹痛の冗談で本音を隠してきた自分。
その自分が、顔を上げた。
「僕は」
風彦の声が戻る。
まだ風は混じっている。
でも、人の声だった。
「ハスターではない」
黒い文字が、一つ剥がれた。
――ハスター血統個体。
「公儀の道具でもない」
次の文字が砕ける。
――異界門開閉具。
――封印対象。
「僕は」
黄風が収束していく。
黒い異相肢が縮む。
人間の影へ戻ろうとする。
風彦は、華子の目を見た。
「蓮田風彦だ」
名札が光った。
茜縄が赤く弾け、アサミの記録帳の文字が黒く定着し、雅琥の白虎紋が足元を固め、華子の呼び声が最後の輪郭を結んだ。
風彦の身体から、黄風が一気に抜ける。
黒い異相肢が消える。
彼は人間の姿へ戻った。
眼鏡はない。
顔色は最悪。
制服は裂け、髪は乱れ、膝は震えている。
だが、そこにいるのは確かに風彦だった。
彼は立とうとして、すぐに崩れた。
華子が受け止める。
「まったく」
華子は呆れた声で言った。
「格好をつけた直後に倒れるのね」
「限界でござる……」
風彦は弱々しく答えた。
いつもの口調が戻った。
茜は思わず笑い、泣きそうになった。
「戻った……」
「まだ油断できない」
アサミが言う。
だが、その声にも安堵が滲んでいた。
雅琥は掴んでいた風彦の腕を乱暴に離した。
「二度と勝手に消えようとすんな」
「努力します」
「努力じゃなくて約束しろ」
「……約束するでござる」
「よし」
華子は、風彦を支えたまま名簿の廊下の奥を見た。
卒業式は、完全には止まっていない。
だが、風彦の道は保たれている。
生徒たちの名も戻り始めている。
残っているのは、小夜だ。
そして、彼女を覆い隠す顔のない卒業生たち。
華子は風彦をそっと茜たちへ預けた。
「少し、行ってくるわ」
風彦が息を整えながら顔を上げる。
「華子さん」
「何かしら」
「今度は、拙者も」
「あなたは立っているだけで精一杯でしょう」
「面目ない」
「でも、道は開いておきなさい」
華子は微笑んだ。
「小夜が卒業するための道を」
風彦は、深く息を吐いた。
黄風が、今度は静かに名簿の廊下へ流れた。
「承知したでござる」
◇
## 第七幕 ― 小夜の卒業
名簿の廊下に、顔が戻り始めていた。
白紙だった名札に、名前が戻る。
一文字だけだった札が、本人の声を受けて少しずつ満ちる。
顔写真から消えていた目鼻立ちが戻り、卒業処理中の文字が剥がれていく。
生徒たちだけではない。
長い間ここに保留されていた者たちも、少しずつ揺れ始めていた。
古い教師。
封門作業に巻き込まれた者。
記録の都合で消された者。
守護者として役割に変えられた者。
死亡者としても卒業者としても扱われなかった者たち。
彼らはまだ、自分の名前を完全には思い出せない。
だが、顔のない白い面に、薄く表情が戻り始めていた。
華子は、その中を歩いた。
黒い着物の裾が、名札の雪を分ける。
白い卒業式場の奥。
壇上の前に、小夜がいた。
小さな少女の姿。
六道封魔塾の生徒服を着た姿。
長い年月を名簿の廊下で過ごした卒業生の姿。
三つが重なり合い、まだ一つに定まっていない。
顔は半分だけ戻っていた。
幼い目。
大人びた口元。
白く抜けた頬。
その周囲に、無数の顔のない卒業生たちがまだまとわりついている。
小夜は、華子を見た。
「来たんだ」
「ええ」
「また、助けに?」
「そうね」
華子は頷いた。
「ただし、今度は勝手には助けないわ」
小夜の目が揺れる。
「勝手に?」
「ええ。井戸のとき、わたくしはあなたを逃がした。あのときのわたくしは、それが正しいと信じていた。今でも、間違っていたとは思わない」
小夜は何も言わない。
「でも、そのあとあなたがどう生きるか、わたくしは見届けられなかった。あなたが何を選んだのかも、何を失ったのかも、知らなかった」
華子は一歩近づく。
「だから今度は、聞く」
小夜は、少しだけ後ずさった。
背後の顔のない卒業生たちがざわめく。
「聞いて、どうするの」
「あなたが選んだことを、手伝う」
「その名で、わたしを縛るの?」
小夜の声が震えた。
「小夜って呼べば、私はまた誰かの役割になるの?」
華子は、すぐには答えなかった。
小夜の恐怖を、急いで否定しなかった。
名は力だ。
名を呼ぶことは、時に支配になる。
華子自身も、それを知っている。
榊原華。
その名を声に出されれば、自分は守護神契約へ縛られるかもしれなかった。
だからこそ、華子は慎重に言葉を選んだ。
「違う」
彼女は言った。
「返しに来たのよ」
小夜の目が揺れる。
「返す?」
「ええ」
華子は刀を抜かなかった。
手も伸ばさなかった。
ただ、名を差し出すように声に乗せた。
「小夜」
その呼び方は、命令ではなかった。
召喚でもない。
封印でもない。
卒業処理でもない。
ただ、かつて逃がした少女へ、長い時間を越えて返す名前だった。
名簿の廊下が、静まり返る。
小夜の胸元のかすれた名札に、黒い文字が戻る。
小夜。
たった二文字。
だが、それは誰かがつけた役割ではない。
彼女が失い、長い時間をかけてなお残っていた名前だった。
小夜の顔が戻り始める。
まず、幼い少女の顔。
井戸へ沈められそうになって泣いていた子。
次に、成長して六道封魔塾で学んだ少女の顔。
名簿を抱え、生徒たちを外へ出す制度を作ろうとした生徒。
最後に、長い年月を名簿の廊下で過ごした卒業生の顔。
疲れ、怒り、恐れ、それでもまだ外を見ている顔。
三つの姿が重なり、やがて一人の少女になった。
小夜は、自分の頬に触れた。
「顔……」
声が震える。
「私、顔がある」
華子は微笑んだ。
「ええ。ずいぶん待たせたわね」
「華さん」
その呼び名に、華子の目がわずかに揺れた。
小夜は泣きそうな顔で笑った。
だが、まだ足は動かない。
卒業式場の奥から、朝焼けではなく白い廊下が見えている。
外へ出る道。
だが、それは小夜にとって怖い道でもある。
外へ出れば、また傷つくかもしれない。
また役割を押しつけられるかもしれない。
また誰かに守ると言われ、閉じ込められるかもしれない。
華子は、彼女を急かさなかった。
背後では、茜たちが必死に卒業処理の逆流を支えている。
アサミが記録の空欄を保ち、茜が校域契約を書き換え、雅琥が学園を現世へ踏み留め、風彦が帰る道を開いている。
時間はない。
それでも、ここで急がせれば、同じことになる。
本人の意思を奪ってしまう。
だから華子は、静かに尋ねた。
「小夜」
「うん」
「あなたは、ここを出たい?」
小夜は、すぐには答えられなかった。
顔の戻り始めた卒業生たちが、彼女を見ている。
彼らもまた、答えを待っている。
外へ出たいのか。
ここに残りたいのか。
忘れられたまま保管される安全を選ぶのか。
傷つくかもしれない外を選ぶのか。
小夜は、胸元の名札を握った。
小さな手が震えている。
「怖い」
彼女は言った。
「外へ出るのが、怖い」
「ええ」
「また誰かに使われるかもしれない」
「そうね」
「また、守るって言われるかもしれない」
「ええ」
「また、失うかもしれない」
「そうよ」
華子は、何一つ否定しなかった。
小夜は涙をこぼした。
「でも」
声が小さくなる。
「ここにいるのも、もう嫌」
名簿の廊下が震えた。
顔のない卒業生たちが、ざわめく。
小夜は顔を上げる。
今度は、自分の声で。
「うん」
涙を拭わずに、笑った。
「ずっと、卒業したかった」
その言葉が、卒業式場に響いた。
零時の鐘が、最後に大きく揺れた。
だが、鳴らなかった。
代わりに、朝の鳥の声がした。
どこか遠くから。
現世の外からではない。
校門の向こうから。
小夜の胸元の名札が光り、彼女を覆っていた白い卒業生たちの影がほどけていく。
一人。
また一人。
顔のない卒業生たちが、自分の顔を取り戻す。
名前を思い出す者もいた。
まだ思い出せず、空欄の名札を抱えたまま立つ者もいた。
けれど、その空欄はもう檻ではなかった。
自分で名乗るための場所だった。
アサミの作った空欄。
茜が所有を拒んだ契約。
雅琥が現世に踏み留めた学園。
風彦が開いた帰る道。
華子が斬った古い命令。
玄斎が手放した命令者の権限。
そのすべてが、名簿の廊下を変えていく。
白い壁が崩れる。
名札が一斉に舞い上がる。
だが、それはもう回収ではない。
返却だった。
卒業式場の扉が開く。
その向こうに、校門が見えた。
白い廊下ではない。
朝焼けの通学路。
まだ夜の名残を残した空に、薄い金色の光が差している。
校門の外には、街がある。
門前町の屋根。
遠くの霊水路。
駅へ続く道。
現世の冷たい朝の空気。
卒業生たちは、ひとりずつ校門へ向かって歩き始めた。
泣いている者がいた。
笑っている者がいた。
まだ顔を触りながら、自分がいることを確かめる者がいた。
長い時間をここで過ごした者たちが、初めて外へ出る。
小夜は、最後に残った。
華子の前で立ち止まる。
「華さん」
「何かしら」
「助けてくれて、ありがとう」
華子は、一瞬だけ目を細めた。
それから、いつものように朱唇を上げる。
「ずいぶん遅いお礼ね」
小夜は笑った。
幼い少女のように。
六道封魔塾の生徒のように。
長い時間を越えた卒業生のように。
「うん。遅くなって、ごめんなさい」
「謝ることではないわ」
華子は、小夜の髪へ手を伸ばしかけた。
けれど、触れる前に止めた。
代わりに、問いかける。
「行ける?」
小夜は頷いた。
「行く」
その答えを聞いてから、華子はそっと小夜の背を押した。
命令ではない。
追放でもない。
ただ、送り出すために。
小夜は校門へ向かって歩いた。
門の前で一度振り返る。
朝焼けの光が、その顔を照らしている。
「華さん」
「ええ」
「卒業しても、忘れないよ」
華子は笑った。
「忘れてもいいわ」
小夜が驚く。
華子は続けた。
「でも、思い出したくなったら思い出しなさい。それくらいでいいのよ」
小夜は少し考え、また笑った。
「うん」
そして、校門を出た。
その瞬間、名簿の廊下に残っていた白い光が、朝焼けの中へ溶けた。
第七怪《顔のない卒業生》は、消滅しなかった。
祓われたのでも、斬られたのでもない。
卒業した。
最初で最後の卒業を迎えた。
零時の鐘が、朝の光の中で静かに砕ける。
何度も繰り返されていた十一時五十九分五十九秒が、ようやく進んだ。
時計の針が、零時を越える。
そして、夜明けへ向かう。
◇
名簿の廊下が消えていく。
床が、本校舎の廊下へ戻る。
壁の名札は消え、かわりに朝日が窓から差し込んでいた。
茜は、その場に座り込んだ。
「……終わった?」
アサミが端末の残骸を見る。
もう何も表示されていない。
「臨時卒業式の処理は停止。全校生徒の名前は、各自の記録へ戻っている。少なくとも、現時点では」
「最後に不穏な言い方するのやめて」
「完全確認には時間が必要」
「分かってるけど」
雅琥は壁にもたれ、ずるずると座り込んだ。
脚の傷がひどい。
それでも、彼は窓の外を見た。
朝焼けの通学路が見える。
白い廊下ではない。
本物の外だ。
「戻ったな」
短い言葉だった。
だが、その声には深い疲労と、ほんの少しの安堵があった。
風彦は、華子に支えられたまま床へ座っていた。
眼鏡は茜が拾って渡した。
レンズにはひびが入っている。
彼はそれをかけ直し、ぼやけた視界で皆を見た。
「皆様……拙者、ちゃんと人間に見えているでござるか」
茜は、涙目のまま笑った。
「見えてるわよ。顔色最悪の腹痛少年に」
「それはそれで複雑」
アサミが記録帳を確認する。
「蓮田風彦。記録上も復帰。腹痛あり」
「腹痛まで復帰しなくてもよかったのでござるが」
雅琥が鼻を鳴らす。
「贅沢言うな」
華子は、風彦の隣で小夜が出ていった校門の方を見ていた。
その横顔に、いつもの余裕は少なかった。
悲しみではない。
後悔でもない。
長い時間をかけて、ようやく誰かを送り出した者の静けさだった。
風彦は小さく声をかける。
「華子さん」
「何かしら」
「小夜殿は」
「卒業したわ」
華子は答えた。
「今度こそ」
朝日が廊下に伸びる。
六道魔導学園の白い壁を、柔らかい金色に染めていく。
長い夜が終わろうとしていた。




