終章 ― 厠の華子さん
六道魔導学園は、七日間閉鎖された。
表向きの理由は、封門設備の大規模点検。
公儀怪異対策局が発表した文書には、そう書かれていた。
校域内において、古い封門装置の一部が誤作動を起こした。生徒および教職員に一時的な霊障反応が確認されたものの、迅速な避難誘導と学園側の対応により、重大な人的被害は発生していない。
そういう、いかにも整った文章だった。
整いすぎている。
大事なことを何一つ言っていない文章だった。
臨時卒業式。
全校生徒の名前が名簿の廊下へ回収されかけたこと。
卒業できなかった者たちが、長い年月、学園の裏側へ閉じ込められていたこと。
北校舎三番厠、返り鏡、稲葉鬼契りが、学園を封じる古い錠前として使われていたこと。
生徒の名前と魔力が、本人の知らないところで封門網の補助へ組み込まれていたこと。
それらは、当然のように書かれていなかった。
だが、今回は完全には隠しきれなかった。
全校生徒の魔導端末には、臨時卒業式の通知が残っていた。
何度消そうとしても、通知履歴の奥に白い封筒の印が浮かび上がる。
卒業できない者は、学園に残されます。
その文面を、百人以上の生徒が見ていた。
消えかけた自分の名前を、声に出して呼び戻した生徒たちもいた。
返り鏡に映った卒業済みの顔を覚えている者もいた。
名簿の廊下で、自分ではない誰かの声を聞いたと証言する者もいた。
そして何より、アサミが復元した記録があった。
焦げた端末。
破れた記録札。
紙の記録帳。
彼女はそのすべてを使って、臨時卒業式の処理ログを可能な限り復元した。
完全ではない。
欠落もある。
公儀に消された部分も多い。
けれど、十分だった。
少なくとも、事故としてなかったことにするには、あまりに多くの名前が残っていた。
六道学園の古い卒業名簿にも、変化があった。
ずっと白紙だった最初のページ。
誰も開かず、誰も説明できなかったページに、朝になって文字が浮かんでいた。
小夜。
六道封魔塾・第一期生。
卒業。
姓はない。
生年も、正確な入学年も、家の名もない。
彼女がどこから来て、どこへ行ったのかも、完全には分からない。
それでも、そのページはもう白紙ではなかった。
小夜という生徒がいた。
彼女は卒業できなかった。
そして、長い時間の果てに、ようやく卒業した。
それだけは、もう消えなかった。
◇
学園再開までの七日間、校舎には修繕班と調査班、そして公儀の監査官たちが出入りしていた。
玄斎は、学園長室の机の前に立っていた。
椅子には座っていない。
座る資格があるかどうか、まだ自分で判断できないからだった。
机の上には、砕けた六道学園長印が置かれている。
あの夜、自分の手で割った校印だ。
命令するためではなく、命令を止めるために。
公儀の監査官は、若い男だった。
黒い制服に、銀の封門徽章。
目の下に疲れがあり、声だけが事務的だった。
「六道玄斎。あなたは学園長権限を私的に破棄し、公儀の緊急封門命令へ従わなかった」
「その通りだ」
玄斎は静かに答えた。
「結果として、学園は残りました」
「結果論だ」
「周辺封門網への重大波及はありませんでした」
「結果論だ」
「全校生徒の名簿回収は阻止されました」
「それも結果論だ」
監査官は押し黙った。
玄斎は、相手を責めなかった。
公儀が危険を避けようとしたことは分かる。
霊的鎖国の封門網が壊れれば、多くの人間が死ぬ。
黄昏災の記憶を知る者なら、安全率という数字に縋る理由も分かる。
だが、分かることと受け入れることは違う。
「私は、処分を受ける」
玄斎は言った。
「ただし、学園の再建までは残る。公儀が許すかどうかに関わらず、私には説明する責任がある」
監査官は眉を動かした。
「説明?」
「生徒へ。保護者へ。教職員へ。七不思議へ。過去に学園へ閉じ込めた者たちへ」
「過去のものへ説明しても、意味はないでしょう」
「意味がないことを理由に、これまで何も説明してこなかった」
玄斎は、割れた校印へ視線を落とした。
「だから、こうなった」
監査官は何も言わなかった。
黒い石板へいくつか記録を入力し、最後に淡々と告げた。
「六道玄斎は、正式な処分決定まで学園長職を停止。学園再建における代理責任者としてのみ、限定権限を認める。学園長校印は再発行しない。命令権限は、今後すべて複数承認制へ移行」
「承知した」
「不服申し立ては」
「しない」
監査官は一瞬だけ、玄斎を見た。
何か言いたげだった。
だが、何も言わずに礼をして出ていった。
玄斎は、静かな学園長室に残された。
もう学園長室と呼ぶべきかどうかも、少し迷う。
そこへ、扉を叩く音がした。
「入れ」
扉が開き、雅琥が立っていた。
制服の裾は少し乱れ、片足にはまだ包帯が巻かれている。白虎鎮門の反動は大きく、医務室では絶対安静を命じられていたはずだった。
もちろん、守っていない。
「歩いてよいとは言われていないはずだ」
玄斎が言うと、雅琥は顔をしかめた。
「最初にそれかよ」
「事実だ」
「説教しに来たんじゃねえのか」
「今のは心配だ」
「分かりづれえ」
雅琥は、片足を少し引きずりながら部屋へ入った。
机の上の割れた校印を見る。
少しだけ黙る。
「それ、もう使えねえのか」
「ああ」
「後悔してるか」
玄斎はすぐには答えなかった。
そして、正直に言った。
「怖くはある」
「後悔じゃねえのか」
「違う」
雅琥は、少しだけ視線を逸らした。
「なら、いい」
沈黙が落ちる。
二人きりになると、会話はまだぎこちない。
親子というには遠く、学園長と問題児というには近すぎる。
血の繋がりはない。
だが、傷だけは何年も積み重なっている。
玄斎は、机の引き出しから一冊の封筒を取り出した。
古い事故記録だ。
白峰澪に関する資料。
返り鏡の事故記録。
完全ではない。
まだ欠けている。
だが、これまで雅琥へ渡してこなかったものだった。
「澪の記録だ」
雅琥の肩がわずかに強張った。
「全部か」
「全部ではない。まだ見つかっていないものもある。消されたものもある。私が、見せるのを恐れて隠したものもある」
「……今度は、理由を言うんだな」
「ああ」
玄斎は封筒を差し出した。
「おまえを信じなかったのではない。だが、私が失うことを恐れた。その恐れを、おまえに説明しなかった」
雅琥は封筒を受け取らない。
ただ、じっと見ている。
「許せって言ってんのか」
「言っていない」
「じゃあ何だよ」
「これから話す。隠すときは、なぜ隠すのかも話す。答えられないときは、答えられない理由を話す」
雅琥は、ゆっくりと封筒を受け取った。
指先が少し震えている。
それを見られたくないのか、彼はすぐに視線を外した。
「……親父」
玄斎の表情が止まった。
雅琥も、自分が言った言葉に気づいて固まった。
「いや」
耳が少し赤い。
「……学園長」
言い直した。
玄斎は、何も言わなかった。
笑いもしない。
茶化しもしない。
ただ、ほんの少しだけ目元が緩んだ。
雅琥はそれを見て、ますます不機嫌そうな顔になった。
「何だよ」
「いや」
「今、嬉しそうな顔しただろ」
「していない」
「嘘つけ」
「したかもしれない」
「認めんな。気持ち悪い」
雅琥は封筒を抱えて、さっさと扉へ向かった。
出ていく直前、少しだけ立ち止まる。
「鏡は、まだ怖え」
「そうか」
「鬼も、名前を奪うやつも、たぶん怖え」
「そうか」
「でも、怖くても行く」
玄斎は頷いた。
「知っている」
「そこは止めろよ」
「止めても行くだろう」
「まあな」
雅琥は扉を開けた。
それから、背中越しに言った。
「死ぬなよ」
「努力する」
「だから、そこは即答しろって言っただろ」
「……死なない」
「よし」
扉が閉まった。
玄斎は、誰もいない部屋で、ほんの小さく息を吐いた。
許されたわけではない。
取り戻したわけでもない。
それでも、話し始めることだけはできた。
◇
稲葉家では、霊水路の清掃が続いていた。
水はまだ完全には澄んでいない。
水田の一部は枯れたままだ。
護符草の根も弱っている。
それでも、水音は戻りつつあった。
どろりと淀む音ではなく、ゆっくり流れる音。
茜は、霊水路の縁に座っていた。
制服姿ではない。
稲葉家の若い後継者として、淡い朱色の羽織を着ている。
肩は少し凝る。
正直、制服のほうが楽だった。
しかし今日は、家臣たちとの話し合いの日だった。
父・景継は、まだ病室にいる。
命を削る進行は止まった。
だが、失った記憶はすぐには戻らない。
茜の名を呼べる日もあれば、途中で止まる日もある。
昔の出来事は覚えているのに、昨日のことを思い出せないこともある。
回復には時間がかかる。
戻らないものもあるかもしれない。
それでも、景継は生きている。
志乃は、その横で毎日、景継へ名前を呼びかけている。
茜も、焦らないことにした。
急いで救おうとして、また誰かを犠牲にするくらいなら。
遅くても、話し合って進む。
水路の向こうで、影が揺れた。
折れ角の鬼だった。
完全に現世へ出ているわけではない。
霊水路の水面に、影として映っているだけだ。
だが、その目は以前より澄んでいる。
茜は姿勢を正した。
「来てくれてありがとう」
鬼は答えない。
ただ、沈黙している。
それは拒絶ではなかった。
考えている沈黙。
人間の言葉へすぐに応じない自由を得た沈黙。
茜は、その沈黙を急かさなかった。
家臣たちは、まだ慣れない様子で控えている。
室田も、菊江も、表情が硬い。
鬼へ命じるのではなく、条件を話し合う。
彼らにとっては、まったく新しい儀式だった。
「今度は、ちゃんと話して決めるから」
茜は、鬼へ向かって言った。
「水田を守ること。霊水路を清めること。稲葉の人間が何をできるか。鬼たちが何をしたくないか。全部、一つずつ」
折れ角の鬼は、ゆっくりと口を開いた。
「命じるな」
「命じない」
「急がせるな」
「急がせない」
「名を探せ」
「探す。勝手につけない」
鬼は、わずかに頷いたように見えた。
室田が震える声で言う。
「姫様、この調子では、水路の完全復旧まで年単位でかかる可能性が」
「かかるでしょうね」
「それでは、藩の収穫が」
「一部は減るわ」
「ならば」
茜は、室田を見た。
「だからといって、命令契約には戻さない」
室田は口を閉じた。
茜は、厳しく言ったわけではない。
ただ、決めていた。
「鬼を奴隷として使う制度は終わり。稲葉家の後継者も、家に食われるための供物じゃない」
菊江が目を伏せる。
「姫様は、それでも稲葉を継がれるのですか」
茜は少しだけ笑った。
「継ぐわ」
即答だった。
ただし、以前とは意味が違う。
「父上の跡を継ぐ。稲葉の土地も見捨てない。でも、継ぐっていうのは、古いやり方をそのまま飲み込むことじゃない」
茜は、霊水路へ視線を戻した。
「変える責任も、あたしが持つ」
折れ角の鬼は、水面の奥でじっと見ていた。
許したわけではない。
稲葉家の罪が消えたわけでもない。
鬼たちの名も、まだ戻っていない。
それでも、新しい話し合いは始まった。
ゆっくりと。
濁った水が、少しずつ流れるように。
◇
アサミは、図書塔の閲覧室にいた。
学園はまだ閉鎖中だが、調査協力者として特別に入室を許可されている。
ただし、机の上には大きく札が貼られていた。
――無許可の危険資料閲覧を禁ず。
貼ったのは玄斎だ。
その横に、茜が追加で赤い字を書いている。
――一人でやらない。
雅琥の筆跡で、さらに雑な文字。
――寝ろ。
風彦の小さな文字。
――下痢止めの場所は覚えておくと便利でござる。
アサミはそれらをしばらく見て、少し考えた。
「情報量が多い」
誰もいない閲覧室で呟く。
その机の向かいに、黒い水音がした。
華子が姿を現す。
今日は刀を腰に差しているが、鞘には布が巻かれている。修繕中の図書塔で抜刀しないという約束を、一応守るつもりらしい。
「また一人で調べ物?」
「許可は取った」
「誰に」
「玄斎先生、茜、図書塔管理式神」
「わたくしには?」
「華子の資料ではない」
「なら、よろしい」
華子は椅子に腰掛けた。
図書塔の椅子に厠の怪異が優雅に座る光景は、相変わらず妙だった。
アサミは、手元のノートを開いた。
そこには、新しい規則が箇条書きで記されている。
一、研究対象の同意を確認する。
二、危険情報は関係者と共有する。
三、実行前に仮説陣で検証する。
四、名を知っても、本人の許可なく使わない。
五、記録は閉じ込めるためではなく、戻れる場所を残すために行う。
華子はそれを覗き込み、少し目を細めた。
「ずいぶん真面目ね」
「必要」
「自分を縛りすぎると、今度は何もできなくなるわよ」
「その可能性もある。だから改訂可能にする」
「まあ」
華子は扇子もないのに、扇子を広げるような仕草で笑った。
「書庫に棲む別種の怪異ね、あなた」
アサミは、しばらく考えた。
真剣に分類を検討している顔だった。
「分類としては不正確。でも悪くない」
「気に入ったの?」
「少し」
「では、そう呼んであげましょうか」
「毎回は不要」
「つまらない子」
「研究者としては褒め言葉?」
「いいえ。今のはただの感想」
アサミは小さく頷いた。
「記録した」
「しなくていいわよ」
華子は少し笑い、それから静かに視線を落とした。
アサミの机の端には、榊原華と書かれた紙が置かれている。
もちろん、読み上げるためではない。
華子本人が許可したうえで、封印台帳の訂正に必要な範囲だけ写したものだ。
華子はその紙を見て、以前ほど身構えなかった。
「その名」
アサミが言う。
「公式記録へ戻す?」
華子は、少し考えた。
「戻すわ。ただし、守護契約の鍵としてではなく、死亡者記録でもなく、学園礎の供物でもなく」
「どう記録する?」
華子は窓の外を見た。
朝の光を受ける北校舎が見える。
三階の女子厠も、今は静かだ。
「榊原華。三番目の華子。本人の意思により、両名併記」
アサミは頷いた。
「分かった」
「読み上げるときは」
「本人の許可を取る」
「よろしい」
華子は満足そうに笑った。
アサミはノートに記録した。
その文字は、以前より少しだけ慎重で、少しだけ柔らかかった。
◇
風彦は、公儀の監査を受けていた。
場所は学園内の小会議室。
向かいには、公儀怪異対策局の職員が三人。
机の上には、黒い端末と封印札。
風彦は椅子に座り、膝の上で両手を組んでいた。
腹は痛い。
とても痛い。
しかし今日は、下痢止めを忘れていない。
少し成長した気がする。
公儀職員の一人が淡々と告げた。
「蓮田風彦。あなたは監視任務中、公儀の緊急命令に従わず、独断で異界門干渉を行った」
「はい」
「結果として、六道魔導学園の臨時卒業式は停止した」
「はい」
「しかし、あなた自身の黄風は危険域まで解放され、封印対象移行審査が正式に開始されている」
「はい」
「今後も監視は継続される」
「はい」
「公儀隠密としての任務継続を希望するか」
風彦は顔を上げた。
怖くないわけではない。
公儀から離れるということは、守りを失うことでもある。
公儀に管理されていれば、少なくとも封印の方法も、暴走の抑え方も、居場所もあった。
その居場所は、牢に似ていたかもしれない。
でも、牢もまた居場所ではあった。
風彦は、名簿の廊下で華子に呼ばれたときのことを思い出した。
風彦。
契約でも命令でもなく、ただ選んで呼ばれた名前。
彼は、静かに答えた。
「任務は辞退します」
職員たちの表情が変わる。
「意味を理解しているか」
「はい」
「公儀の監視は消えない」
「はい」
「封印対象としての記録も消えない」
「はい」
「あなたの力は、あなた自身だけで制御できるほど安全ではない」
「それも分かっております」
風彦は、膝の上の手に力を込めた。
「それでも、誰のために使うかは、自分で決めたい」
職員はしばらく黙った。
「それは反抗と受け取れる」
「かもしれませぬ」
「公儀を敵に回す気か」
「いいえ」
風彦は首を振った。
「公儀が必要なことも分かっています。封門網がなければ、多くの人が危険に晒される。それも分かっています」
そこで少しだけ苦笑した。
「ただ、僕はもう、自分を道具とは呼びたくない」
会議室に沈黙が落ちた。
職員の一人が、黒い端末に記録を打ち込む。
風彦は、その音を聞いていた。
怖い。
それでも、言葉を戻す気はなかった。
結論はすぐには出なかった。
任務辞退は保留扱い。
監視は継続。
封印審査も継続。
公儀らしい、中途半端で冷たい決定だった。
だが、会議室を出た風彦は、少しだけ息がしやすかった。
廊下では、茜たちが待っていた。
茜は腕を組んでいる。
アサミは記録帳を持っている。
雅琥は壁にもたれている。
華子は窓際で、なぜか紅茶を飲んでいる。
「どうだった?」
茜が聞く。
「監視継続、封印審査継続、任務辞退は保留でござる」
「何それ。嫌な全部乗せじゃない」
「公儀らしい結果でござる」
アサミが記録帳を開く。
「つまり、風彦は公儀隠密ではないが、公儀の監視対象」
「そうなりますな」
「分類が面倒」
「本人も面倒でござる」
雅琥が鼻を鳴らす。
「で、結局どうすんだよ」
風彦は皆を見た。
学園は再開する。
怪異事件は、きっとまた起きる。
七不思議は完全には消えない。
封門網も、公儀も、向こう側も、何もかも残る。
自分も、普通の生徒には戻れない。
表向きは、腹の弱い地味な高等部一年。
裏では、境界を開く危険な力を持つ少年。
それでも。
「学園へ戻るでござる」
風彦は言った。
「皆様と一緒に、怪異事件の調査を続けます」
茜が笑った。
「下痢止めは忘れないでよ」
「善処します」
「忘れるなって意味よ」
「はい」
アサミが真面目に言う。
「常備薬リストを作る」
「そこまで?」
「必要」
雅琥は呆れた顔で言った。
「おまえ、戦う前に腹の心配される主人公ってどうなんだ」
「拙者もそう思います」
華子が紅茶を置き、微笑んだ。
「よろしいじゃない。腹の弱い境界使い。覚えやすいわ」
「もっと格好いい二つ名が欲しいでござる」
「では、厠の風彦」
「それはほぼ華子さんの眷属では!」
「何か問題が?」
「あります!」
茜と雅琥が同時に笑い、アサミが「候補名として記録」と呟いた。
「記録しないでください!」
風彦は慌てて叫んだ。
久しぶりに、廊下に普通の笑い声が響いた。
◇
七日後。
六道魔導学園は再開した。
校門には、以前と同じように生徒たちが通っている。
ただし、いくつか変わったことがある。
入学時に行われる校域登録は、本人と保護者へ内容を開示した同意制へ変わった。
生徒の名前や魔力を、封門網の補助へ無断利用する仕組みは廃止。
緊急時に名簿を固定する場合も、複数承認と事後開示が必要になった。
七不思議の扱いも変わった。
強制契約で封門装置として使役する制度は終わる。
北校舎三番厠。
返り鏡。
無人音楽室。
図書塔の名前を読む図書委員。
逆さ階段。
零時の鐘。
それぞれの怪談は、危険性を評価されたうえで、個別に同意を結んだ守護者、協力者、または観測対象として扱われる。
もちろん、すぐにうまくいくわけではない。
怪異は人間の都合よく返事をしない。
返り鏡はまだ機嫌が悪いと窓に変な顔を映す。
無人音楽室は、夜中に十三拍目を鳴らそうとしては雅琥に怒鳴られている。
図書塔の図書委員は、今でも時々、生徒の名前を読み上げようとする。
そのたびにアサミが訂正札を貼りに行く。
第七怪の座は、空席になった。
顔のない卒業生は、もういない。
かわりに、卒業名簿の最初のページに小夜の名がある。
誰も、そのページを白紙とは呼ばなくなった。
◇
華子は、学園から姿を消した。
少なくとも、再開初日の北校舎三階女子厠に、彼女はいなかった。
三番目の個室を三回叩いても、返事はない。
水音もしない。
花の香りもない。
ただ、古い木の扉が少し軋むだけだった。
風彦は、その前にしばらく立っていた。
当然だと思おうとした。
華子は自由になったのだ。
学園との守護契約は失われた。
北校舎三番厠へ現れる義務もない。
風彦の家の厠へいる義務もない。
榊原華であっても、三番目の華子であっても、もう誰の道具でもない。
なら、どこへ行ってもいい。
小夜を見送ったように、自分も見送るべきなのだろう。
そう思おうとした。
思おうとしただけだった。
「……落ち着かないでござるな」
風彦は、誰もいない個室の扉へ呟いた。
返事はなかった。
その日から数日、風彦は妙に調子が悪かった。
腹はいつも通り痛い。
それはいつも通りすぎて、もはや判断材料にならない。
問題は、厠が静かすぎることだった。
自宅の厠へ入っても、文句を言う声がしない。
床の隅の水垢を指摘されない。
茶葉の質へ不満を言われない。
紙の補充を確認されない。
それは平穏なはずだった。
平穏なのに、どうにも落ち着かなかった。
風彦は自分でも呆れた。
厠で怪異に文句を言われないことを寂しがる人生になるとは、入学式のころには思ってもみなかった。
◇
その夜。
風彦は、自宅の厠の前で立ち止まった。
腹は痛い。
かなり痛い。
夕食の揚げ物が悪かったのか、学園帰りに飲んだ冷たい茶が悪かったのか、それとも単に怪異の気配を拾っているのか、もはや判別できない。
彼は深く息を吸い、扉を開けた。
そして、固まった。
便器の蓋の上に、華子が腰掛けていた。
黒い着物。
濡羽色の髪。
朱の唇。
片手には白磁の茶碗。
もう片方の手には、なぜか風彦の家にあるはずのない高そうな茶葉の缶。
まるで、昨日も一昨日もずっとそこにいたかのように、当然の顔で紅茶を飲んでいる。
「……」
風彦は、何度か瞬きをした。
扉を閉めかけた。
「閉めるんじゃないわよ」
華子が言った。
風彦は扉を開け直す。
「……華子さん?」
「他に誰がいるのかしら」
「いえ、しかし」
「幽霊を見たような顔ね」
「実際、幽霊では」
「厠の華子さんよ」
「分類の問題でござるか?」
華子は茶碗を置いた。
その動きがあまりに自然で、風彦はますます混乱した。
「どうしてここへ?」
ようやく、それだけ聞いた。
華子は少し考えた。
考える必要がある問いなのかどうかも怪しかった。
やがて、彼女は微笑んだ。
「さあ、どうしてかしら」
「そこは答えていただきたい」
「ここがいちばん落ち着くのよ」
風彦は、言葉を失った。
最初に出会ったとき、華子は言った。
あの勝負、勝ったのはわたくしよ。
ですから、あなたには一生取り憑かせてもらうわ。
あれは勝負の結果だった。
契約のようなものだった。
厄介で、理不尽で、華子らしい宣言だった。
けれど、今は違う。
彼女は自由になった。
学園へ戻る義務もない。
風彦の家へ取り憑く義務もない。
それでも、ここへ戻ってきた。
この狭い厠へ。
風彦が毎朝腹痛で駆け込む、あまり格好よくない場所へ。
自分の意思で。
風彦は、小さく笑った。
「それは……光栄でござる」
「光栄に思いなさい」
「はい」
「ただし、床の隅は相変わらず甘いわ」
「帰ってきて最初の指摘がそれでござるか」
「大事でしょう」
「大事ではありますが」
風彦は苦笑しながら、少しだけ目元を緩めた。
華子も、何も言わずに紅茶を飲んだ。
そこにある沈黙は、悪くなかった。
契約でもなく、命令でもなく、勝負の結果でもない。
ただ、二人がそこにいるだけの沈黙だった。
その直後。
風彦の腹が、きゅう、と鳴った。
いや、鳴ったというより、握り潰されたように痛んだ。
「っ……!」
風彦は腹を押さえて、その場に膝をつきかける。
華子が茶碗を置いた。
「どうしたの」
「これは……普通の腹痛ではないでござる……!」
「普通の腹痛と怪異の腹痛を聞き分けられるようになったのね」
「嬉しくない成長!」
厠の鏡が、かすかに曇った。
風彦と華子の姿の後ろ。
鏡の奥に、見知らぬ影が立っている。
黒い傘を差したような輪郭。
顔は見えない。
濡れた足跡が、鏡の内側からこちらへ向かってついている。
ぽたり。
洗面台に、水滴が落ちた。
華子は立ち上がった。
黒い袖が静かに揺れる。
刀へ手をかける。
「あら。新しいお客様のようね」
朱唇に、いつもの笑みが戻る。
「風彦。遊びましょうか」
風彦は腹を押さえたまま、涙目で鏡を見た。
「できれば、下痢止めを飲んでからにしてほしいでござる……」
華子は笑った。
厠の鏡の中で、怪異の影がゆっくりと近づいてくる。
風彦は片手で薬箱を探し、もう片方の手で白衣神咒を掴んだ。
華子は刀を抜き、黒い花弁のように一歩前へ出た。
六道魔導学園の夜は明けた。
小夜は卒業した。
古い命令は、いくつも破られた。
それでも、怪異は消えない。
厠には、また誰かが訪れる。
泣きたい者。
逃げたい者。
名をなくした者。
遊びたい者。
そして、その三番目の扉の向こうには、黒い戦装束の女剣士がいる。
彼女はもう、誰かに命じられてそこにいるのではない。
自分で選んで、そこにいる。
風彦は腹を押さえながら、眼鏡を直した。
「華子さん」
「何かしら」
「お手柔らかに」
「それは相手に言いなさい」
鏡の中の怪異が、濡れた手をこちらへ伸ばした。
華子が笑う。
風彦も、少しだけ笑った。
そして、二人は同時に動いた。
厠の華子さんの、新しい怪異譚が始まる。




