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厠の華子さん―ネオ江戸魔導学園怪異録―  作者: 秋月キアラ
第4話 ― 華子さん、遊びましょう
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終章 ― 厠の華子さん

 六道魔導学園は、七日間閉鎖された。


 表向きの理由は、封門設備の大規模点検。


 公儀怪異対策局が発表した文書には、そう書かれていた。


 校域内において、古い封門装置の一部が誤作動を起こした。生徒および教職員に一時的な霊障反応が確認されたものの、迅速な避難誘導と学園側の対応により、重大な人的被害は発生していない。


 そういう、いかにも整った文章だった。


 整いすぎている。


 大事なことを何一つ言っていない文章だった。


 臨時卒業式。


 全校生徒の名前が名簿の廊下へ回収されかけたこと。


 卒業できなかった者たちが、長い年月、学園の裏側へ閉じ込められていたこと。


 北校舎三番厠、返り鏡、稲葉鬼契りが、学園を封じる古い錠前として使われていたこと。


 生徒の名前と魔力が、本人の知らないところで封門網の補助へ組み込まれていたこと。


 それらは、当然のように書かれていなかった。


 だが、今回は完全には隠しきれなかった。


 全校生徒の魔導端末には、臨時卒業式の通知が残っていた。


 何度消そうとしても、通知履歴の奥に白い封筒の印が浮かび上がる。


 卒業できない者は、学園に残されます。


 その文面を、百人以上の生徒が見ていた。


 消えかけた自分の名前を、声に出して呼び戻した生徒たちもいた。


 返り鏡に映った卒業済みの顔を覚えている者もいた。


 名簿の廊下で、自分ではない誰かの声を聞いたと証言する者もいた。


 そして何より、アサミが復元した記録があった。


 焦げた端末。


 破れた記録札。


 紙の記録帳。


 彼女はそのすべてを使って、臨時卒業式の処理ログを可能な限り復元した。


 完全ではない。


 欠落もある。


 公儀に消された部分も多い。


 けれど、十分だった。


 少なくとも、事故としてなかったことにするには、あまりに多くの名前が残っていた。


 六道学園の古い卒業名簿にも、変化があった。


 ずっと白紙だった最初のページ。


 誰も開かず、誰も説明できなかったページに、朝になって文字が浮かんでいた。


 小夜。


 六道封魔塾・第一期生。


 卒業。


 姓はない。


 生年も、正確な入学年も、家の名もない。


 彼女がどこから来て、どこへ行ったのかも、完全には分からない。


 それでも、そのページはもう白紙ではなかった。


 小夜という生徒がいた。


 彼女は卒業できなかった。


 そして、長い時間の果てに、ようやく卒業した。


 それだけは、もう消えなかった。


     ◇


 学園再開までの七日間、校舎には修繕班と調査班、そして公儀の監査官たちが出入りしていた。


 玄斎は、学園長室の机の前に立っていた。


 椅子には座っていない。


 座る資格があるかどうか、まだ自分で判断できないからだった。


 机の上には、砕けた六道学園長印が置かれている。


 あの夜、自分の手で割った校印だ。


 命令するためではなく、命令を止めるために。


 公儀の監査官は、若い男だった。


 黒い制服に、銀の封門徽章。


 目の下に疲れがあり、声だけが事務的だった。


「六道玄斎。あなたは学園長権限を私的に破棄し、公儀の緊急封門命令へ従わなかった」


「その通りだ」


 玄斎は静かに答えた。


「結果として、学園は残りました」


「結果論だ」


「周辺封門網への重大波及はありませんでした」


「結果論だ」


「全校生徒の名簿回収は阻止されました」


「それも結果論だ」


 監査官は押し黙った。


 玄斎は、相手を責めなかった。


 公儀が危険を避けようとしたことは分かる。


 霊的鎖国の封門網が壊れれば、多くの人間が死ぬ。


 黄昏災の記憶を知る者なら、安全率という数字に縋る理由も分かる。


 だが、分かることと受け入れることは違う。


「私は、処分を受ける」


 玄斎は言った。


「ただし、学園の再建までは残る。公儀が許すかどうかに関わらず、私には説明する責任がある」


 監査官は眉を動かした。


「説明?」


「生徒へ。保護者へ。教職員へ。七不思議へ。過去に学園へ閉じ込めた者たちへ」


「過去のものへ説明しても、意味はないでしょう」


「意味がないことを理由に、これまで何も説明してこなかった」


 玄斎は、割れた校印へ視線を落とした。


「だから、こうなった」


 監査官は何も言わなかった。


 黒い石板へいくつか記録を入力し、最後に淡々と告げた。


「六道玄斎は、正式な処分決定まで学園長職を停止。学園再建における代理責任者としてのみ、限定権限を認める。学園長校印は再発行しない。命令権限は、今後すべて複数承認制へ移行」


「承知した」


「不服申し立ては」


「しない」


 監査官は一瞬だけ、玄斎を見た。


 何か言いたげだった。


 だが、何も言わずに礼をして出ていった。


 玄斎は、静かな学園長室に残された。


 もう学園長室と呼ぶべきかどうかも、少し迷う。


 そこへ、扉を叩く音がした。


「入れ」


 扉が開き、雅琥が立っていた。


 制服の裾は少し乱れ、片足にはまだ包帯が巻かれている。白虎鎮門の反動は大きく、医務室では絶対安静を命じられていたはずだった。


 もちろん、守っていない。


「歩いてよいとは言われていないはずだ」


 玄斎が言うと、雅琥は顔をしかめた。


「最初にそれかよ」


「事実だ」


「説教しに来たんじゃねえのか」


「今のは心配だ」


「分かりづれえ」


 雅琥は、片足を少し引きずりながら部屋へ入った。


 机の上の割れた校印を見る。


 少しだけ黙る。


「それ、もう使えねえのか」


「ああ」


「後悔してるか」


 玄斎はすぐには答えなかった。


 そして、正直に言った。


「怖くはある」


「後悔じゃねえのか」


「違う」


 雅琥は、少しだけ視線を逸らした。


「なら、いい」


 沈黙が落ちる。


 二人きりになると、会話はまだぎこちない。


 親子というには遠く、学園長と問題児というには近すぎる。


 血の繋がりはない。


 だが、傷だけは何年も積み重なっている。


 玄斎は、机の引き出しから一冊の封筒を取り出した。


 古い事故記録だ。


 白峰澪に関する資料。


 返り鏡の事故記録。


 完全ではない。


 まだ欠けている。


 だが、これまで雅琥へ渡してこなかったものだった。


「澪の記録だ」


 雅琥の肩がわずかに強張った。


「全部か」


「全部ではない。まだ見つかっていないものもある。消されたものもある。私が、見せるのを恐れて隠したものもある」


「……今度は、理由を言うんだな」


「ああ」


 玄斎は封筒を差し出した。


「おまえを信じなかったのではない。だが、私が失うことを恐れた。その恐れを、おまえに説明しなかった」


 雅琥は封筒を受け取らない。


 ただ、じっと見ている。


「許せって言ってんのか」


「言っていない」


「じゃあ何だよ」


「これから話す。隠すときは、なぜ隠すのかも話す。答えられないときは、答えられない理由を話す」


 雅琥は、ゆっくりと封筒を受け取った。


 指先が少し震えている。


 それを見られたくないのか、彼はすぐに視線を外した。


「……親父」


 玄斎の表情が止まった。


 雅琥も、自分が言った言葉に気づいて固まった。


「いや」


 耳が少し赤い。


「……学園長」


 言い直した。


 玄斎は、何も言わなかった。


 笑いもしない。


 茶化しもしない。


 ただ、ほんの少しだけ目元が緩んだ。


 雅琥はそれを見て、ますます不機嫌そうな顔になった。


「何だよ」


「いや」


「今、嬉しそうな顔しただろ」


「していない」


「嘘つけ」


「したかもしれない」


「認めんな。気持ち悪い」


 雅琥は封筒を抱えて、さっさと扉へ向かった。


 出ていく直前、少しだけ立ち止まる。


「鏡は、まだ怖え」


「そうか」


「鬼も、名前を奪うやつも、たぶん怖え」


「そうか」


「でも、怖くても行く」


 玄斎は頷いた。


「知っている」


「そこは止めろよ」


「止めても行くだろう」


「まあな」


 雅琥は扉を開けた。


 それから、背中越しに言った。


「死ぬなよ」


「努力する」


「だから、そこは即答しろって言っただろ」


「……死なない」


「よし」


 扉が閉まった。


 玄斎は、誰もいない部屋で、ほんの小さく息を吐いた。


 許されたわけではない。


 取り戻したわけでもない。


 それでも、話し始めることだけはできた。


     ◇


 稲葉家では、霊水路の清掃が続いていた。


 水はまだ完全には澄んでいない。


 水田の一部は枯れたままだ。


 護符草の根も弱っている。


 それでも、水音は戻りつつあった。


 どろりと淀む音ではなく、ゆっくり流れる音。


 茜は、霊水路の縁に座っていた。


 制服姿ではない。


 稲葉家の若い後継者として、淡い朱色の羽織を着ている。


 肩は少し凝る。


 正直、制服のほうが楽だった。


 しかし今日は、家臣たちとの話し合いの日だった。


 父・景継は、まだ病室にいる。


 命を削る進行は止まった。


 だが、失った記憶はすぐには戻らない。


 茜の名を呼べる日もあれば、途中で止まる日もある。


 昔の出来事は覚えているのに、昨日のことを思い出せないこともある。


 回復には時間がかかる。


 戻らないものもあるかもしれない。


 それでも、景継は生きている。


 志乃は、その横で毎日、景継へ名前を呼びかけている。


 茜も、焦らないことにした。


 急いで救おうとして、また誰かを犠牲にするくらいなら。


 遅くても、話し合って進む。


 水路の向こうで、影が揺れた。


 折れ角の鬼だった。


 完全に現世へ出ているわけではない。


 霊水路の水面に、影として映っているだけだ。


 だが、その目は以前より澄んでいる。


 茜は姿勢を正した。


「来てくれてありがとう」


 鬼は答えない。


 ただ、沈黙している。


 それは拒絶ではなかった。


 考えている沈黙。


 人間の言葉へすぐに応じない自由を得た沈黙。


 茜は、その沈黙を急かさなかった。


 家臣たちは、まだ慣れない様子で控えている。


 室田も、菊江も、表情が硬い。


 鬼へ命じるのではなく、条件を話し合う。


 彼らにとっては、まったく新しい儀式だった。


「今度は、ちゃんと話して決めるから」


 茜は、鬼へ向かって言った。


「水田を守ること。霊水路を清めること。稲葉の人間が何をできるか。鬼たちが何をしたくないか。全部、一つずつ」


 折れ角の鬼は、ゆっくりと口を開いた。


「命じるな」


「命じない」


「急がせるな」


「急がせない」


「名を探せ」


「探す。勝手につけない」


 鬼は、わずかに頷いたように見えた。


 室田が震える声で言う。


「姫様、この調子では、水路の完全復旧まで年単位でかかる可能性が」


「かかるでしょうね」


「それでは、藩の収穫が」


「一部は減るわ」


「ならば」


 茜は、室田を見た。


「だからといって、命令契約には戻さない」


 室田は口を閉じた。


 茜は、厳しく言ったわけではない。


 ただ、決めていた。


「鬼を奴隷として使う制度は終わり。稲葉家の後継者も、家に食われるための供物じゃない」


 菊江が目を伏せる。


「姫様は、それでも稲葉を継がれるのですか」


 茜は少しだけ笑った。


「継ぐわ」


 即答だった。


 ただし、以前とは意味が違う。


「父上の跡を継ぐ。稲葉の土地も見捨てない。でも、継ぐっていうのは、古いやり方をそのまま飲み込むことじゃない」


 茜は、霊水路へ視線を戻した。


「変える責任も、あたしが持つ」


 折れ角の鬼は、水面の奥でじっと見ていた。


 許したわけではない。


 稲葉家の罪が消えたわけでもない。


 鬼たちの名も、まだ戻っていない。


 それでも、新しい話し合いは始まった。


 ゆっくりと。


 濁った水が、少しずつ流れるように。


     ◇


 アサミは、図書塔の閲覧室にいた。


 学園はまだ閉鎖中だが、調査協力者として特別に入室を許可されている。


 ただし、机の上には大きく札が貼られていた。


 ――無許可の危険資料閲覧を禁ず。


 貼ったのは玄斎だ。


 その横に、茜が追加で赤い字を書いている。


 ――一人でやらない。


 雅琥の筆跡で、さらに雑な文字。


 ――寝ろ。


 風彦の小さな文字。


 ――下痢止めの場所は覚えておくと便利でござる。


 アサミはそれらをしばらく見て、少し考えた。


「情報量が多い」


 誰もいない閲覧室で呟く。


 その机の向かいに、黒い水音がした。


 華子が姿を現す。


 今日は刀を腰に差しているが、鞘には布が巻かれている。修繕中の図書塔で抜刀しないという約束を、一応守るつもりらしい。


「また一人で調べ物?」


「許可は取った」


「誰に」


「玄斎先生、茜、図書塔管理式神」


「わたくしには?」


「華子の資料ではない」


「なら、よろしい」


 華子は椅子に腰掛けた。


 図書塔の椅子に厠の怪異が優雅に座る光景は、相変わらず妙だった。


 アサミは、手元のノートを開いた。


 そこには、新しい規則が箇条書きで記されている。


 一、研究対象の同意を確認する。


 二、危険情報は関係者と共有する。


 三、実行前に仮説陣で検証する。


 四、名を知っても、本人の許可なく使わない。


 五、記録は閉じ込めるためではなく、戻れる場所を残すために行う。


 華子はそれを覗き込み、少し目を細めた。


「ずいぶん真面目ね」


「必要」


「自分を縛りすぎると、今度は何もできなくなるわよ」


「その可能性もある。だから改訂可能にする」


「まあ」


 華子は扇子もないのに、扇子を広げるような仕草で笑った。


「書庫に棲む別種の怪異ね、あなた」


 アサミは、しばらく考えた。


 真剣に分類を検討している顔だった。


「分類としては不正確。でも悪くない」


「気に入ったの?」


「少し」


「では、そう呼んであげましょうか」


「毎回は不要」


「つまらない子」


「研究者としては褒め言葉?」


「いいえ。今のはただの感想」


 アサミは小さく頷いた。


「記録した」


「しなくていいわよ」


 華子は少し笑い、それから静かに視線を落とした。


 アサミの机の端には、榊原華と書かれた紙が置かれている。


 もちろん、読み上げるためではない。


 華子本人が許可したうえで、封印台帳の訂正に必要な範囲だけ写したものだ。


 華子はその紙を見て、以前ほど身構えなかった。


「その名」


 アサミが言う。


「公式記録へ戻す?」


 華子は、少し考えた。


「戻すわ。ただし、守護契約の鍵としてではなく、死亡者記録でもなく、学園礎の供物でもなく」


「どう記録する?」


 華子は窓の外を見た。


 朝の光を受ける北校舎が見える。


 三階の女子厠も、今は静かだ。


「榊原華。三番目の華子。本人の意思により、両名併記」


 アサミは頷いた。


「分かった」


「読み上げるときは」


「本人の許可を取る」


「よろしい」


 華子は満足そうに笑った。


 アサミはノートに記録した。


 その文字は、以前より少しだけ慎重で、少しだけ柔らかかった。


     ◇


 風彦は、公儀の監査を受けていた。


 場所は学園内の小会議室。


 向かいには、公儀怪異対策局の職員が三人。


 机の上には、黒い端末と封印札。


 風彦は椅子に座り、膝の上で両手を組んでいた。


 腹は痛い。


 とても痛い。


 しかし今日は、下痢止めを忘れていない。


 少し成長した気がする。


 公儀職員の一人が淡々と告げた。


「蓮田風彦。あなたは監視任務中、公儀の緊急命令に従わず、独断で異界門干渉を行った」


「はい」


「結果として、六道魔導学園の臨時卒業式は停止した」


「はい」


「しかし、あなた自身の黄風は危険域まで解放され、封印対象移行審査が正式に開始されている」


「はい」


「今後も監視は継続される」


「はい」


「公儀隠密としての任務継続を希望するか」


 風彦は顔を上げた。


 怖くないわけではない。


 公儀から離れるということは、守りを失うことでもある。


 公儀に管理されていれば、少なくとも封印の方法も、暴走の抑え方も、居場所もあった。


 その居場所は、牢に似ていたかもしれない。


 でも、牢もまた居場所ではあった。


 風彦は、名簿の廊下で華子に呼ばれたときのことを思い出した。


 風彦。


 契約でも命令でもなく、ただ選んで呼ばれた名前。


 彼は、静かに答えた。


「任務は辞退します」


 職員たちの表情が変わる。


「意味を理解しているか」


「はい」


「公儀の監視は消えない」


「はい」


「封印対象としての記録も消えない」


「はい」


「あなたの力は、あなた自身だけで制御できるほど安全ではない」


「それも分かっております」


 風彦は、膝の上の手に力を込めた。


「それでも、誰のために使うかは、自分で決めたい」


 職員はしばらく黙った。


「それは反抗と受け取れる」


「かもしれませぬ」


「公儀を敵に回す気か」


「いいえ」


 風彦は首を振った。


「公儀が必要なことも分かっています。封門網がなければ、多くの人が危険に晒される。それも分かっています」


 そこで少しだけ苦笑した。


「ただ、僕はもう、自分を道具とは呼びたくない」


 会議室に沈黙が落ちた。


 職員の一人が、黒い端末に記録を打ち込む。


 風彦は、その音を聞いていた。


 怖い。


 それでも、言葉を戻す気はなかった。


 結論はすぐには出なかった。


 任務辞退は保留扱い。


 監視は継続。


 封印審査も継続。


 公儀らしい、中途半端で冷たい決定だった。


 だが、会議室を出た風彦は、少しだけ息がしやすかった。


 廊下では、茜たちが待っていた。


 茜は腕を組んでいる。


 アサミは記録帳を持っている。


 雅琥は壁にもたれている。


 華子は窓際で、なぜか紅茶を飲んでいる。


「どうだった?」


 茜が聞く。


「監視継続、封印審査継続、任務辞退は保留でござる」


「何それ。嫌な全部乗せじゃない」


「公儀らしい結果でござる」


 アサミが記録帳を開く。


「つまり、風彦は公儀隠密ではないが、公儀の監視対象」


「そうなりますな」


「分類が面倒」


「本人も面倒でござる」


 雅琥が鼻を鳴らす。


「で、結局どうすんだよ」


 風彦は皆を見た。


 学園は再開する。


 怪異事件は、きっとまた起きる。


 七不思議は完全には消えない。


 封門網も、公儀も、向こう側も、何もかも残る。


 自分も、普通の生徒には戻れない。


 表向きは、腹の弱い地味な高等部一年。


 裏では、境界を開く危険な力を持つ少年。


 それでも。


「学園へ戻るでござる」


 風彦は言った。


「皆様と一緒に、怪異事件の調査を続けます」


 茜が笑った。


「下痢止めは忘れないでよ」


「善処します」


「忘れるなって意味よ」


「はい」


 アサミが真面目に言う。


「常備薬リストを作る」


「そこまで?」


「必要」


 雅琥は呆れた顔で言った。


「おまえ、戦う前に腹の心配される主人公ってどうなんだ」


「拙者もそう思います」


 華子が紅茶を置き、微笑んだ。


「よろしいじゃない。腹の弱い境界使い。覚えやすいわ」


「もっと格好いい二つ名が欲しいでござる」


「では、厠の風彦」


「それはほぼ華子さんの眷属では!」


「何か問題が?」


「あります!」


 茜と雅琥が同時に笑い、アサミが「候補名として記録」と呟いた。


「記録しないでください!」


 風彦は慌てて叫んだ。


 久しぶりに、廊下に普通の笑い声が響いた。


     ◇


 七日後。


 六道魔導学園は再開した。


 校門には、以前と同じように生徒たちが通っている。


 ただし、いくつか変わったことがある。


 入学時に行われる校域登録は、本人と保護者へ内容を開示した同意制へ変わった。


 生徒の名前や魔力を、封門網の補助へ無断利用する仕組みは廃止。


 緊急時に名簿を固定する場合も、複数承認と事後開示が必要になった。


 七不思議の扱いも変わった。


 強制契約で封門装置として使役する制度は終わる。


 北校舎三番厠。


 返り鏡。


 無人音楽室。


 図書塔の名前を読む図書委員。


 逆さ階段。


 零時の鐘。


 それぞれの怪談は、危険性を評価されたうえで、個別に同意を結んだ守護者、協力者、または観測対象として扱われる。


 もちろん、すぐにうまくいくわけではない。


 怪異は人間の都合よく返事をしない。


 返り鏡はまだ機嫌が悪いと窓に変な顔を映す。


 無人音楽室は、夜中に十三拍目を鳴らそうとしては雅琥に怒鳴られている。


 図書塔の図書委員は、今でも時々、生徒の名前を読み上げようとする。


 そのたびにアサミが訂正札を貼りに行く。


 第七怪の座は、空席になった。


 顔のない卒業生は、もういない。


 かわりに、卒業名簿の最初のページに小夜の名がある。


 誰も、そのページを白紙とは呼ばなくなった。


     ◇


 華子は、学園から姿を消した。


 少なくとも、再開初日の北校舎三階女子厠に、彼女はいなかった。


 三番目の個室を三回叩いても、返事はない。


 水音もしない。


 花の香りもない。


 ただ、古い木の扉が少し軋むだけだった。


 風彦は、その前にしばらく立っていた。


 当然だと思おうとした。


 華子は自由になったのだ。


 学園との守護契約は失われた。


 北校舎三番厠へ現れる義務もない。


 風彦の家の厠へいる義務もない。


 榊原華であっても、三番目の華子であっても、もう誰の道具でもない。


 なら、どこへ行ってもいい。


 小夜を見送ったように、自分も見送るべきなのだろう。


 そう思おうとした。


 思おうとしただけだった。


「……落ち着かないでござるな」


 風彦は、誰もいない個室の扉へ呟いた。


 返事はなかった。


 その日から数日、風彦は妙に調子が悪かった。


 腹はいつも通り痛い。


 それはいつも通りすぎて、もはや判断材料にならない。


 問題は、厠が静かすぎることだった。


 自宅の厠へ入っても、文句を言う声がしない。


 床の隅の水垢を指摘されない。


 茶葉の質へ不満を言われない。


 紙の補充を確認されない。


 それは平穏なはずだった。


 平穏なのに、どうにも落ち着かなかった。


 風彦は自分でも呆れた。


 厠で怪異に文句を言われないことを寂しがる人生になるとは、入学式のころには思ってもみなかった。


     ◇


 その夜。


 風彦は、自宅の厠の前で立ち止まった。


 腹は痛い。


 かなり痛い。


 夕食の揚げ物が悪かったのか、学園帰りに飲んだ冷たい茶が悪かったのか、それとも単に怪異の気配を拾っているのか、もはや判別できない。


 彼は深く息を吸い、扉を開けた。


 そして、固まった。


 便器の蓋の上に、華子が腰掛けていた。


 黒い着物。


 濡羽色の髪。


 朱の唇。


 片手には白磁の茶碗。


 もう片方の手には、なぜか風彦の家にあるはずのない高そうな茶葉の缶。


 まるで、昨日も一昨日もずっとそこにいたかのように、当然の顔で紅茶を飲んでいる。


「……」


 風彦は、何度か瞬きをした。


 扉を閉めかけた。


「閉めるんじゃないわよ」


 華子が言った。


 風彦は扉を開け直す。


「……華子さん?」


「他に誰がいるのかしら」


「いえ、しかし」


「幽霊を見たような顔ね」


「実際、幽霊では」


「厠の華子さんよ」


「分類の問題でござるか?」


 華子は茶碗を置いた。


 その動きがあまりに自然で、風彦はますます混乱した。


「どうしてここへ?」


 ようやく、それだけ聞いた。


 華子は少し考えた。


 考える必要がある問いなのかどうかも怪しかった。


 やがて、彼女は微笑んだ。


「さあ、どうしてかしら」


「そこは答えていただきたい」


「ここがいちばん落ち着くのよ」


 風彦は、言葉を失った。


 最初に出会ったとき、華子は言った。


 あの勝負、勝ったのはわたくしよ。


 ですから、あなたには一生取り憑かせてもらうわ。


 あれは勝負の結果だった。


 契約のようなものだった。


 厄介で、理不尽で、華子らしい宣言だった。


 けれど、今は違う。


 彼女は自由になった。


 学園へ戻る義務もない。


 風彦の家へ取り憑く義務もない。


 それでも、ここへ戻ってきた。


 この狭い厠へ。


 風彦が毎朝腹痛で駆け込む、あまり格好よくない場所へ。


 自分の意思で。


 風彦は、小さく笑った。


「それは……光栄でござる」


「光栄に思いなさい」


「はい」


「ただし、床の隅は相変わらず甘いわ」


「帰ってきて最初の指摘がそれでござるか」


「大事でしょう」


「大事ではありますが」


 風彦は苦笑しながら、少しだけ目元を緩めた。


 華子も、何も言わずに紅茶を飲んだ。


 そこにある沈黙は、悪くなかった。


 契約でもなく、命令でもなく、勝負の結果でもない。


 ただ、二人がそこにいるだけの沈黙だった。


 その直後。


 風彦の腹が、きゅう、と鳴った。


 いや、鳴ったというより、握り潰されたように痛んだ。


「っ……!」


 風彦は腹を押さえて、その場に膝をつきかける。


 華子が茶碗を置いた。


「どうしたの」


「これは……普通の腹痛ではないでござる……!」


「普通の腹痛と怪異の腹痛を聞き分けられるようになったのね」


「嬉しくない成長!」


 厠の鏡が、かすかに曇った。


 風彦と華子の姿の後ろ。


 鏡の奥に、見知らぬ影が立っている。


 黒い傘を差したような輪郭。


 顔は見えない。


 濡れた足跡が、鏡の内側からこちらへ向かってついている。


 ぽたり。


 洗面台に、水滴が落ちた。


 華子は立ち上がった。


 黒い袖が静かに揺れる。


 刀へ手をかける。


「あら。新しいお客様のようね」


 朱唇に、いつもの笑みが戻る。


「風彦。遊びましょうか」


 風彦は腹を押さえたまま、涙目で鏡を見た。


「できれば、下痢止めを飲んでからにしてほしいでござる……」


 華子は笑った。


 厠の鏡の中で、怪異の影がゆっくりと近づいてくる。


 風彦は片手で薬箱を探し、もう片方の手で白衣神咒を掴んだ。


 華子は刀を抜き、黒い花弁のように一歩前へ出た。


 六道魔導学園の夜は明けた。


 小夜は卒業した。


 古い命令は、いくつも破られた。


 それでも、怪異は消えない。


 厠には、また誰かが訪れる。


 泣きたい者。


 逃げたい者。


 名をなくした者。


 遊びたい者。


 そして、その三番目の扉の向こうには、黒い戦装束の女剣士がいる。


 彼女はもう、誰かに命じられてそこにいるのではない。


 自分で選んで、そこにいる。


 風彦は腹を押さえながら、眼鏡を直した。


「華子さん」


「何かしら」


「お手柔らかに」


「それは相手に言いなさい」


 鏡の中の怪異が、濡れた手をこちらへ伸ばした。


 華子が笑う。


 風彦も、少しだけ笑った。


 そして、二人は同時に動いた。


 厠の華子さんの、新しい怪異譚が始まる。

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