第五幕 ― 五人の呼び直し
名札が、雪のように降っていた。
白い札。
薄い木札。
割れた学生証の欠片。
端末から剥がれ落ちた名前の文字。
座席表の紙片。
卒業証書の端。
それらが天井のない廊下の闇から舞い落ち、壁へ貼りついていく。
貼りついた瞬間、名前は薄くなる。
誰の名だったのか、分からなくなる。
名簿の廊下は、膨らんでいた。
両側の壁が遠ざかり、同時に近づいてくる。矛盾した感覚だった。空間が広がっているのに、逃げ場は狭まっている。廊下そのものが、学園全体を飲み込むために、内側から膨張しているのだ。
奥では、卒業式場の白い光が強まっている。
講堂の壇上。
校旗。
卒業証書授与台。
その奥で、零時の鐘が揺れていた。
鳴るたびに、学園が一歩ずつ《向こう側》へずれていく。
ごおん。
床が軋む。
本校舎の影が薄くなる。
ごおん。
北校舎の廊下が白い式場通路へ変わる。
ごおん。
生徒たちの端末から名前が剥がれる。
壁に、新しい札が生える。
――卒業処理中。
――卒業処理中。
――卒業処理中。
「進行が速い」
アサミは、焦げた端末の残骸と記録札を両手に持っていた。
額に汗が浮かんでいる。
公儀の術式を遮断した反動で、右手の指先には火傷が残っていた。それでも彼女は、痛みを気にする余裕もなく、空中に浮かぶ文字列を追っている。
「全校生徒の名前が、通常の学籍記録から切り離されて、この廊下へ転送されている。座席表、生徒手帳、端末登録、寮名簿、部活名簿、医療記録、保護者連絡先。全部が引っ張られている」
「止め方は?」
茜が聞く。
声は強い。
だが、包帯を巻いた手は震えている。
疲労も、恐怖も、痛みも、何一つ消えていない。それでも、彼女は一歩前に立っていた。
「一つずつ防ぐのは無理」
アサミは即答した。
「じゃあ?」
「意味を変える」
茜は目を細めた。
「鬼契りのときみたいに?」
「うん」
アサミは、壁に貼られていく名札を見た。
「第七怪は、卒業を『回収』として使っている。名前を学園へ残すための処理にしている。でも本来の卒業は、学園から外へ出るための手続きだった。なら、処理の意味を戻す」
「戻すって、どうやって」
「全校生徒に、自分の名前を自分で言わせる。その名が本人のものだと確定すれば、名簿の廊下は勝手に回収できない」
「全校生徒に?」
風彦が青い顔で廊下の奥を見る。
「今この状況で、全校放送を乗っ取るのでござるか」
「乗っ取るのではなく、返す」
アサミは短く答えた。
「図書塔の記録システムと校内放送は、名簿の廊下を通っている。ここから逆流させれば届く」
雅琥が足元を踏みしめた。
白虎の紋が、名札の雪を一瞬だけ押し返す。
「簡単に言ってるけど、こいつら止めながらやるんだろ」
「うん」
「無理だな」
「無理に近い」
「またそれか」
「でも、できる可能性はある」
アサミは、茜を見た。
「茜が契約を書き換える。ワタシが名簿を返す。雅琥が学園を現世に固定する。風彦が名前の戻る道を開く。華子が古い命令を斬る」
華子が薄く笑う。
「ずいぶん忙しいわね」
「全員必要」
「光栄ね」
風彦は腹を押さえたまま、少しだけ乾いた笑いを漏らした。
「拙者の役割だけ、命がけに聞こえるのでござるが」
アサミは彼を見た。
「全員、命がけ」
「安心材料がない」
「でも、風彦の道がないと、戻った名前が現世へ帰れない」
風彦は黙った。
自分の腹の奥で、黄風がうずいている。
公儀の封印術式は弱まったが、完全には消えていない。黒い端末は懐の中で死んだように沈黙している。それでも、管理印の痛みは血の奥に残っていた。
黄風を大きく使えば、封印術式が再び反応する。
人間の姿を保てなくなるかもしれない。
だが、使わなければ、この名簿の廊下に流れ込む名前は、現世へ戻れない。
華子が隣で言った。
「怖いなら、怖いと言いなさい」
「怖いでござる」
「よろしい」
「よろしいので?」
「隠して格好つけるより、ずっとましよ」
雅琥が鼻を鳴らした。
「じゃあ俺も怖い」
茜が振り返る。
「雅琥が素直」
「今だけだ」
「貴重ね」
「記録する?」
アサミが聞く。
「するな!」
その短い掛け合いで、全員の呼吸が少しだけ揃った。
名簿の廊下は今も膨らんでいる。
小夜を中心にした第七怪は、卒業式場の壇上へ向かって後退している。無数の顔のない卒業生たちが、彼女を包み、守り、押し潰している。
その奥で、零時の鐘が次の一打を準備していた。
アサミが言う。
「残り時間は、玄斎先生の命令系統停止が維持されている間だけ」
「あとどのくらい?」
茜が聞く。
アサミは記録札を見た。
「二分弱」
「短すぎる!」
「でも、卒業式の時間は繰り返されている。零時の鐘を一拍ずらせれば、体感時間を少し引き伸ばせるかもしれない」
華子が目を細める。
「つまり、今すぐやれということね」
「そう」
茜は深く息を吸った。
そして、壁に貼られた自分の名札を見た。
稲葉茜。
白く滲み始めている。
その横に、アサミ、雅琥、風彦、華子の名札がある。
さらに奥には、三崎由衣をはじめ、全校生徒の名が次々と貼られている。
誰かに決められた卒業。
誰かに回収される名前。
そんなものを許す気はなかった。
「やるわよ」
茜は言った。
「ええ」
華子が答える。
「やりましょうか」
◇
最初に動いたのは、アサミだった。
彼女は名簿の廊下の床へ膝をつき、記録札を三枚並べた。
一枚目は、図書塔の記録システムへつなぐ札。
二枚目は、校内放送へ割り込む札。
三枚目は、名簿の廊下から流れ込む名前を受け止める空白の札。
どれも完全なものではない。
端末は壊れている。
公儀術式を遮断した反動で、アサミの指先も震えている。
だが、彼女の目だけは揺らがなかった。
「名簿を復元する」
「全員分?」
茜が聞く。
「完全には無理。だから、決めない」
「決めない?」
「ワタシが名前を確定させると、第七怪と同じになる。ここで必要なのは、本人が自分の名前を名乗るための空欄」
アサミは、壁から剥がれ落ちた白紙の名札を一枚拾った。
そこには何も書かれていない。
だが、薄く、誰かの指紋のような霊痕が残っている。
「消えた名札、端末記録、座席表、生徒手帳、友人同士の記憶、写真の残像。全部を照合して、本人へ返せる場所を作る」
記録札が光る。
空中に、無数の断片が浮かび上がった。
笑っている生徒の写真。
部活動の集合写真。
寮の部屋割り。
出席確認の声。
友人同士の呼び名。
机に彫られた小さな落書き。
忘れ物札に書かれた名前。
保健室の問診票。
購買部の予約票。
それらが、星屑のように名簿の廊下へ広がっていく。
アサミの指先から血が滲んだ。
彼女はそれを見もしない。
「ワタシは名前を決めない」
声が廊下に響く。
「本人が名乗る場所を、記録として残す」
白紙の名札に、黒い枠だけが現れた。
名前はまだない。
だが、書き込む場所が生まれた。
廊下の壁に貼られていた「卒業処理中」の札が、いくつか震え始める。
白い文字が滲み、かわりに空欄が浮かぶ。
そこへ、遠くから声が届いた。
誰かが、自分の名前を呼んでいる。
友達同士が、互いの名を呼び合っている。
泣きながら、自分の名を思い出そうとしている。
アサミは図書塔の記録システムへ接続した。
白い図書委員の影が、彼女の背後に現れる。
顔のない図書委員は、出席簿を開いていた。
アサミが振り返らずに言う。
「そこは閉じる場所じゃない。返す場所」
図書委員の影がざわめく。
アサミは記録札を叩いた。
「校内放送へ接続」
名簿の廊下の奥で、放送用の霊灯が灯った。
◇
次に茜が動いた。
彼女は壁に流れ込む校域登録契約を読み取っていた。
入学時に交わしたはずの書類。
入寮手続き。
魔導実習同意書。
校内結界通行許可。
学生証登録。
保護者署名。
それらの奥に、小さな文字が隠れている。
本人の魔力を、校域結界補助へ利用する。
緊急時、学園長および公儀の判断により、生徒の名を封門網の補助記録として使用する。
校域内における安全確保を目的とし、必要に応じて一時的な名簿固定を行う。
細かく、難しい言葉で書かれている。
だが、意味は一つだった。
生徒の名前と魔力を、本人がよく知らないまま封門網へ組み込む仕組み。
保護の名を借りた強制契約。
茜は、鬼契りの契約書を思い出した。
次代の血が契約を受け入れれば、現当主は解放される。
あの一文だけを見せられたとき、自分は父を救えると思った。
だが全文には、次代へ犠牲を移す条項が隠れていた。
今、学園が生徒たちへしていることも同じだ。
難しい言葉で隠し、保護という名で包み、本人の意思を曖昧にする。
茜は、召喚杖の先で床へ赤い線を引いた。
茜縄が床を走り、名簿の壁と校域登録契約の文字をつなぐ。
鬼契りのときと同じ。
ただし、今度の相手は鬼ではない。
学園そのものだ。
「学園は、生徒を所有しない」
茜の声が、校内放送へ乗った。
学園中のスピーカーから、彼女の声が流れる。
教室で怯える生徒たちが顔を上げる。
廊下に並ばされかけていた生徒たちが、足を止める。
図書塔で名を読まれかけた生徒が、耳を澄ませる。
「生徒は、守られるだけの燃料じゃない」
茜縄が、古い校域契約の文字へ巻きつく。
命令権。
補助燃料。
名簿固定。
封門網使用。
それらの文字が、赤い縄に引きずり出される。
茜の傷ついた手が痛む。
包帯に血が滲む。
それでも彼女は続けた。
「ここに残るか、外へ出るかは、自分で選ぶ」
古い契約が抵抗する。
壁の名札が一斉に茜へ向いた。
顔のない写真が、白い空白で彼女を見ている。
卒業式場の奥から、第七怪の声が響いた。
> 「選ばせれば、傷つきます」
> 「選ばせれば、迷います」
> 「選ばせれば、失います」
茜は睨み返した。
「そうよ」
息が苦しい。
でも、言葉は止まらない。
「でも、それを勝手に取り上げる権利は、誰にもない!」
茜は、全校放送へ向かって叫んだ。
「聞こえてるなら、自分の名前を、自分で言って!」
その声は、本校舎へ流れた。
北校舎へ。
図書塔へ。
寮へ。
鏡術研究棟へ。
無人音楽室へ。
外へつながらない校門前へ。
「誰かに決められた卒業じゃなく、自分で選んで!」
最初に返ってきたのは、震える声だった。
――三崎由衣。
その声が、返り鏡のある研究棟から届いた。
次に、別の声。
――高等部一年、三崎由衣。
彼女の名札が、名簿の廊下で白く光った。
「卒業処理中」の文字が消え、空欄に彼女自身の名が戻る。
続いて、別の生徒たちが名乗り始めた。
泣きながら。
怒鳴りながら。
震えながら。
友達に名前を教えられながら。
自分の胸元の名札を見て。
端末に残った一文字を手がかりにして。
声が増えていく。
名簿の廊下の壁が、ざわめいた。
◇
雅琥は、床の中央へ立った。
名簿の廊下全体が、学園を《向こう側》へ引きずり込もうとしている。
足元の床が浮く。
白い石畳が、現世の重さを失っていく。
このままでは、名を取り戻した生徒ごと、学園全体が向こう側へ沈む。
雅琥は息を吸った。
怖い。
怖いものは、怖い。
足元が消えるのは怖い。
鏡よりも、鬼門よりも、この白い廊下は気味が悪い。
母の声を使われたときのような、胸の奥を直接掴まれる恐怖がある。
だが、彼はもう「いない」とは言わなかった。
「怖いもんは怖い」
雅琥は、両足を開いた。
拳を握る。
足裏に力を込める。
「でも、ここは現世だ」
足元から、白い虎の紋が広がった。
最初は小さい。
返り鏡を固定したときのように、床の一部だけを押さえる紋。
だが、今回はそれでは足りない。
雅琥は奥歯を噛んだ。
紋が広がる。
名簿の廊下の床を越え、逆さ階段へ。
学園長室へ。
本校舎へ。
北校舎へ。
図書塔へ。
鏡術研究棟へ。
無人音楽室へ。
東側結界から、稲葉家の契約蔵へつながる細い協定路へ。
白い虎の爪痕が、学園全体へ打ち込まれていく。
「《白虎鎮門》」
雅琥が唱えた瞬間、学園全体が大きく震えた。
校舎が現世へ引き戻される。
白い廊下になりかけていた通学路が、一瞬だけ夜の門前町を映す。
教室の床が戻る。
窓の外に、ほんの少しだけ本物の夜空が見える。
だが、代償はすぐに来た。
雅琥の脚に、赤い線が走る。
皮膚が裂けた。
膝が震える。
喉の奥から血の味が上がる。
「雅琥!」
茜が叫ぶ。
「こっち見るな!」
雅琥は怒鳴った。
口の端から血が垂れる。
それでも、足を動かさない。
「勝手に向こう側へ持っていくんじゃねえ!」
白虎の紋が、さらに深く床へ食い込んだ。
廊下の壁が軋む。
名札の雪が一瞬、落下を止める。
雅琥は、血の混じった息で笑った。
「ここは、六道学園だ」
顔のない卒業生の声が、冷たく響く。
> 「その学園が、子どもを閉じ込めてきました」
「だから変えるんだろうが!」
雅琥は床を踏み抜くように力を込めた。
「逃げ場所ごと奪うな!」
◇
風彦は、眼鏡に手をかけた。
華子が隣で見ている。
止めない。
ただ、見ている。
風彦は苦笑した。
「華子さん」
「何かしら」
「今から、少し見苦しい姿になるかもしれませぬ」
「いつも十分見苦しいわ」
「ひどい」
「冗談よ」
華子は真顔で言った。
「どんな姿でも、あなたが帰ってくるならそれでいい」
風彦は、何も言えなくなった。
胸の奥が痛い。
腹も痛い。
全身が痛い。
だが、今はその痛みを足場にするしかない。
風彦は眼鏡を外した。
世界が、変わった。
名簿の廊下は、ただの廊下ではなくなる。
無数の名前の流れが見える。
細い糸。
切れかけた光。
白い札に吸い込まれようとする声。
泣いている魂。
学園から外へ出ようとして、何度も壁にぶつかっている卒業者たちの残響。
そして、奥でうずくまる小夜の名。
風彦の影が、足元で膨らむ。
黄色い風が吹く。
制服の裾が激しく揺れ、背後から黒い異相肢が伸びた。
一本ではない。
風の中に、腕とも翼とも触手ともつかない影が広がる。
人間の輪郭が、薄れる。
風彦は歯を食いしばった。
怖い。
自分がどう見えているのか分からない。
茜たちに、怪物として見えているかもしれない。
でも、今は道を開く。
それだけを考える。
「声だけを通す」
風彦の声が、黄風の中で響いた。
「名前だけを返す」
彼は両手を広げた。
第1話で、鬼を鬼門へ送り返した。
第2話で、三崎由衣の魂を鏡から引き戻した。
第3話で、鬼たちと現世の間に対話の境界を開いた。
今、その全部を使う。
帰る道。
落ちない道。
吸い込まれた名前が、本人へ戻る道。
風彦は、名簿の廊下と現世の間へ黄風を通した。
風が吹く。
白い札に吸い込まれかけた声が、風に乗って逆流する。
校内放送へ。
教室へ。
寮へ。
廊下へ。
生徒たちの喉へ。
誰かが名乗る。
その声が、本人の胸へ戻る。
「誰も置いていかない」
風彦の声は、少しずつ人のものではなくなっていく。
喉の奥に、風の音が混じる。
背後の異相肢がさらに広がる。
公儀の管理印が反応し、黒い封印文字が皮膚に浮かび上がった。
風彦の膝が崩れかける。
華子が支えようとした。
だが、彼は首を振った。
「まだ……」
声が掠れる。
「まだ、道を閉じない」
◇
華子は、花切を抜いた。
黒い刃が、白い廊下の光を吸う。
だが、今回の刃は第七怪へ向いていない。
小夜を斬るつもりもない。
卒業できなかった者たちを斬るつもりもない。
斬るのは、古い命令だけだ。
華子は目を閉じた。
懐にある紙。
榊原華。
その名を、心の中で受け止める。
声には出さない。
誰にも命じさせない。
だが、逃げもしない。
「わたくしは、三番目の華子」
彼女は言った。
名簿の廊下が震える。
壁に貼られた「三番目の華子」の札が黒く光る。
「そして、榊原華でもある」
今度は、別の札が浮かび上がる。
榊原華。
生前の名。
守護契約の鍵。
公儀が使おうとした名。
学園が隠していた名。
華子は、その二つの札へ視線を向けた。
「けれど、どちらの名であっても、もう誰の道具にもならない」
彼女の刀が、静かに揺れた。
「《無銘断ち》」
刃が走る。
最初に斬ったのは、小夜を学園へ縛る役割だった。
名簿の壁から伸びる白い糸。
小夜の名札と卒業処理中の札を結ぶ糸。
それが断たれる。
小夜の影が、壇上の奥で一瞬揺れた。
次に、華子自身を守護神へ縛る黒い水の鎖を斬る。
北校舎三番厠から伸びる契約水脈が、命令回路だけを失い、自由な水音へ変わる。
さらに、生徒を結界燃料へ変える校域契約を斬る。
茜が引きずり出した古い文字へ、華子の刃が触れる。
補助燃料。
名簿固定。
緊急時使用。
それらの文字だけが、紙くずのように散った。
華子の刃は、玄斎を命令者へ固定する学園長契約にも届く。
学園長室で血を流す玄斎の背後から、見えない鎖が一本切れた。
最後に、公儀と学園をつなぐ一方的な命令権。
黒い石板の残響から伸びる黒い線。
それは太く、硬く、何重にも術式で補強されている。
華子は笑った。
「ずいぶん太い縄ね」
刃を振る。
一閃では切れない。
二度目。
三度目。
黒い線が軋む。
公儀の術式が反撃し、華子の腕に黒い火花が走る。
風彦が叫ぶ。
「華子さん!」
「よそ見しないの」
華子は、痛みに眉一つ動かさず言った。
「あなたは道を保ちなさい」
「でも」
「わたくしも、少しくらい格好をつけさせなさい」
華子の刃が、四度目で黒い命令線を断った。
名簿の廊下が大きく揺れる。
◇
同じころ、学園長室では玄斎が片膝をついていた。
割れた校印の破片に血を注ぎ続けている。
白い光は弱まりつつあった。
五分。
そのわずかな時間を引き延ばすために、彼は自分の血と霊力を使っている。
黒い石板はひび割れながらも、まだ命令を吐き続けていた。
> 命令違反。
> 学園長権限の私的停止を確認。
> 六道玄斎を公儀審問対象として記録。
> 命令系統を復旧せよ。
玄斎は笑わなかった。
ただ、息を吐いた。
「記録したければ、するがいい」
血が床へ落ちる。
学園長契約の古い文字が、彼の腕に浮かぶ。
命令者。
管理者。
封門責任者。
校域所有者。
それらの文字が、皮膚へ食い込む。
玄斎は、自分の血でその文字を塗り潰した。
「命令する学園長ではなく」
彼は低く言った。
「選択の結果を引き受ける者として残る」
割れた校印が、再び白く光る。
学園長室の扉の向こうから、雅琥の白虎鎮門の震動が伝わってきた。
玄斎には分かる。
雅琥が無理をしている。
脚が裂けても、血を吐いても、立っている。
玄斎の胸に痛みが走った。
「雅琥」
彼は、誰もいない部屋で言った。
「おまえを守るためだと言って、おまえの選ぶ権利を奪った」
校印の光が揺れる。
「同じことを、もう繰り返さない」
その声が、白虎の紋を通じて、名簿の廊下へ届いた。
雅琥は、血を吐きながら顔をしかめた。
「……聞こえてんだよ、親父」
小さな声だった。
誰にも聞かせるつもりはなかった。
だが、茜には聞こえた。
アサミにも。
華子は少しだけ笑った。
雅琥はすぐに怒鳴る。
「今のなし!」
「記録した」
アサミが即答する。
「消せ!」
「重要記録」
「消せって!」
茜が笑いそうになりながら叫んだ。
「今それどころじゃないでしょ!」
その通りだった。
名簿の廊下は、まだ崩れない。
第七怪は、まだ卒業式場の壇上にいる。
小夜は、まだ集合意識の奥へ押し込められている。
だが、流れは変わっていた。
卒業処理中の札が、次々と空欄へ変わっていく。
空欄へ、生徒たち自身の声が戻っていく。
茜の呼びかけに応じ、自分の名を叫ぶ声が、学園中から上がり始めていた。
――佐伯律!
――二年東組、佐伯律!
――水野カナ!
――まだ卒業しない!
――高等部一年、三崎由衣!
――私はここにいる!
声が、名簿の廊下へ流れ込む。
風彦の黄風が、その声を現世へ戻す。
アサミの空欄が、受け止める。
茜の書き換えた契約が、学園による所有を拒む。
雅琥の白虎鎮門が、学園全体を現世に踏み留める。
華子の無銘断ちが、古い命令だけを斬る。
玄斎の血が、命令系統を止め続ける。
五つの力と、一つの責任が、名簿の廊下で噛み合った。
卒業式の進行率が、空中に浮かぶ。
六十二パーセント。
六十。
五十八。
五十一。
逆流している。
茜が叫ぶ。
「いける!」
アサミが頷く。
「まだ。第七怪の中心が残っている」
卒業式場の奥で、小夜の影が震えた。
顔のない卒業生たちが、彼女を包み直そうとしている。
白い顔が無数に重なり、小夜を再び見えなくする。
華子が前へ出ようとした。
しかし、その瞬間。
風彦が、がくりと膝をついた。
黄風が暴れた。
黒い異相肢が一気に広がり、廊下の壁へ爪を立てる。
名札が吹き飛ぶ。
茜が振り返る。
「蓮田くん!」
風彦の眼鏡は、床に落ちている。
彼の顔は、もう半分ほど人間の輪郭を失っていた。
黄色い風の中で、目だけが苦しそうに揺れている。
「道が……広がりすぎて……」
声が、風に混じって歪む。
「戻れなく、なる……」
華子の表情が変わった。
風彦の名札が、壁から剥がれかけている。
蓮田風彦。
文字が白く滲む。
その下に、公儀の黒い文字が浮かぶ。
――ハスター血統個体。
――異界門開閉具。
――封印対象。
さらに、第七怪の白い文字が重なる。
――卒業処理中。
風彦の名前が、二つの仕組みに同時に奪われようとしている。
公儀の封印。
第七怪の卒業処理。
黄風の解放。
三つが重なり、風彦自身の輪郭を削っている。
アサミが叫んだ。
「風彦の名前が保持できない!」
「どうすればいいの!」
茜の声が裏返る。
「呼ぶしかない」
アサミは、焦げた記録札を握りしめた。
「本人へ返す。今すぐ」
風彦は、首を振った。
その動きも、もう人間のものではない。
「見ないで……」
かすれた声。
「今の僕を……見ないでくれ……」
華子が一歩、彼へ向かう。
黄風が刃のように吹きつけ、彼女の袖を裂いた。
それでも、華子は止まらなかった。
五人の呼び直しは、学園を押し戻し始めた。
生徒たちの名も戻り始めている。
だがその代償として、帰る道を開いた風彦自身が、道の向こうへ引きずられようとしていた。
零時の鐘が鳴る。
ごおん。
名簿の廊下に、風彦の名札が白く滲んだ。




