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厠の華子さん―ネオ江戸魔導学園怪異録―  作者: 秋月キアラ
第4話 ― 華子さん、遊びましょう
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第五幕 ― 五人の呼び直し

 名札が、雪のように降っていた。


 白い札。


 薄い木札。


 割れた学生証の欠片。


 端末から剥がれ落ちた名前の文字。


 座席表の紙片。


 卒業証書の端。


 それらが天井のない廊下の闇から舞い落ち、壁へ貼りついていく。


 貼りついた瞬間、名前は薄くなる。


 誰の名だったのか、分からなくなる。


 名簿の廊下は、膨らんでいた。


 両側の壁が遠ざかり、同時に近づいてくる。矛盾した感覚だった。空間が広がっているのに、逃げ場は狭まっている。廊下そのものが、学園全体を飲み込むために、内側から膨張しているのだ。


 奥では、卒業式場の白い光が強まっている。


 講堂の壇上。


 校旗。


 卒業証書授与台。


 その奥で、零時の鐘が揺れていた。


 鳴るたびに、学園が一歩ずつ《向こう側》へずれていく。


 ごおん。


 床が軋む。


 本校舎の影が薄くなる。


 ごおん。


 北校舎の廊下が白い式場通路へ変わる。


 ごおん。


 生徒たちの端末から名前が剥がれる。


 壁に、新しい札が生える。


 ――卒業処理中。


 ――卒業処理中。


 ――卒業処理中。


「進行が速い」


 アサミは、焦げた端末の残骸と記録札を両手に持っていた。


 額に汗が浮かんでいる。


 公儀の術式を遮断した反動で、右手の指先には火傷が残っていた。それでも彼女は、痛みを気にする余裕もなく、空中に浮かぶ文字列を追っている。


「全校生徒の名前が、通常の学籍記録から切り離されて、この廊下へ転送されている。座席表、生徒手帳、端末登録、寮名簿、部活名簿、医療記録、保護者連絡先。全部が引っ張られている」


「止め方は?」


 茜が聞く。


 声は強い。


 だが、包帯を巻いた手は震えている。


 疲労も、恐怖も、痛みも、何一つ消えていない。それでも、彼女は一歩前に立っていた。


「一つずつ防ぐのは無理」


 アサミは即答した。


「じゃあ?」


「意味を変える」


 茜は目を細めた。


「鬼契りのときみたいに?」


「うん」


 アサミは、壁に貼られていく名札を見た。


「第七怪は、卒業を『回収』として使っている。名前を学園へ残すための処理にしている。でも本来の卒業は、学園から外へ出るための手続きだった。なら、処理の意味を戻す」


「戻すって、どうやって」


「全校生徒に、自分の名前を自分で言わせる。その名が本人のものだと確定すれば、名簿の廊下は勝手に回収できない」


「全校生徒に?」


 風彦が青い顔で廊下の奥を見る。


「今この状況で、全校放送を乗っ取るのでござるか」


「乗っ取るのではなく、返す」


 アサミは短く答えた。


「図書塔の記録システムと校内放送は、名簿の廊下を通っている。ここから逆流させれば届く」


 雅琥が足元を踏みしめた。


 白虎の紋が、名札の雪を一瞬だけ押し返す。


「簡単に言ってるけど、こいつら止めながらやるんだろ」


「うん」


「無理だな」


「無理に近い」


「またそれか」


「でも、できる可能性はある」


 アサミは、茜を見た。


「茜が契約を書き換える。ワタシが名簿を返す。雅琥が学園を現世に固定する。風彦が名前の戻る道を開く。華子が古い命令を斬る」


 華子が薄く笑う。


「ずいぶん忙しいわね」


「全員必要」


「光栄ね」


 風彦は腹を押さえたまま、少しだけ乾いた笑いを漏らした。


「拙者の役割だけ、命がけに聞こえるのでござるが」


 アサミは彼を見た。


「全員、命がけ」


「安心材料がない」


「でも、風彦の道がないと、戻った名前が現世へ帰れない」


 風彦は黙った。


 自分の腹の奥で、黄風がうずいている。


 公儀の封印術式は弱まったが、完全には消えていない。黒い端末は懐の中で死んだように沈黙している。それでも、管理印の痛みは血の奥に残っていた。


 黄風を大きく使えば、封印術式が再び反応する。


 人間の姿を保てなくなるかもしれない。


 だが、使わなければ、この名簿の廊下に流れ込む名前は、現世へ戻れない。


 華子が隣で言った。


「怖いなら、怖いと言いなさい」


「怖いでござる」


「よろしい」


「よろしいので?」


「隠して格好つけるより、ずっとましよ」


 雅琥が鼻を鳴らした。


「じゃあ俺も怖い」


 茜が振り返る。


「雅琥が素直」


「今だけだ」


「貴重ね」


「記録する?」


 アサミが聞く。


「するな!」


 その短い掛け合いで、全員の呼吸が少しだけ揃った。


 名簿の廊下は今も膨らんでいる。


 小夜を中心にした第七怪は、卒業式場の壇上へ向かって後退している。無数の顔のない卒業生たちが、彼女を包み、守り、押し潰している。


 その奥で、零時の鐘が次の一打を準備していた。


 アサミが言う。


「残り時間は、玄斎先生の命令系統停止が維持されている間だけ」


「あとどのくらい?」


 茜が聞く。


 アサミは記録札を見た。


「二分弱」


「短すぎる!」


「でも、卒業式の時間は繰り返されている。零時の鐘を一拍ずらせれば、体感時間を少し引き伸ばせるかもしれない」


 華子が目を細める。


「つまり、今すぐやれということね」


「そう」


 茜は深く息を吸った。


 そして、壁に貼られた自分の名札を見た。


 稲葉茜。


 白く滲み始めている。


 その横に、アサミ、雅琥、風彦、華子の名札がある。


 さらに奥には、三崎由衣をはじめ、全校生徒の名が次々と貼られている。


 誰かに決められた卒業。


 誰かに回収される名前。


 そんなものを許す気はなかった。


「やるわよ」


 茜は言った。


「ええ」


 華子が答える。


「やりましょうか」


     ◇


 最初に動いたのは、アサミだった。


 彼女は名簿の廊下の床へ膝をつき、記録札を三枚並べた。


 一枚目は、図書塔の記録システムへつなぐ札。


 二枚目は、校内放送へ割り込む札。


 三枚目は、名簿の廊下から流れ込む名前を受け止める空白の札。


 どれも完全なものではない。


 端末は壊れている。


 公儀術式を遮断した反動で、アサミの指先も震えている。


 だが、彼女の目だけは揺らがなかった。


「名簿を復元する」


「全員分?」


 茜が聞く。


「完全には無理。だから、決めない」


「決めない?」


「ワタシが名前を確定させると、第七怪と同じになる。ここで必要なのは、本人が自分の名前を名乗るための空欄」


 アサミは、壁から剥がれ落ちた白紙の名札を一枚拾った。


 そこには何も書かれていない。


 だが、薄く、誰かの指紋のような霊痕が残っている。


「消えた名札、端末記録、座席表、生徒手帳、友人同士の記憶、写真の残像。全部を照合して、本人へ返せる場所を作る」


 記録札が光る。


 空中に、無数の断片が浮かび上がった。


 笑っている生徒の写真。


 部活動の集合写真。


 寮の部屋割り。


 出席確認の声。


 友人同士の呼び名。


 机に彫られた小さな落書き。


 忘れ物札に書かれた名前。


 保健室の問診票。


 購買部の予約票。


 それらが、星屑のように名簿の廊下へ広がっていく。


 アサミの指先から血が滲んだ。


 彼女はそれを見もしない。


「ワタシは名前を決めない」


 声が廊下に響く。


「本人が名乗る場所を、記録として残す」


 白紙の名札に、黒い枠だけが現れた。


 名前はまだない。


 だが、書き込む場所が生まれた。


 廊下の壁に貼られていた「卒業処理中」の札が、いくつか震え始める。


 白い文字が滲み、かわりに空欄が浮かぶ。


 そこへ、遠くから声が届いた。


 誰かが、自分の名前を呼んでいる。


 友達同士が、互いの名を呼び合っている。


 泣きながら、自分の名を思い出そうとしている。


 アサミは図書塔の記録システムへ接続した。


 白い図書委員の影が、彼女の背後に現れる。


 顔のない図書委員は、出席簿を開いていた。


 アサミが振り返らずに言う。


「そこは閉じる場所じゃない。返す場所」


 図書委員の影がざわめく。


 アサミは記録札を叩いた。


「校内放送へ接続」


 名簿の廊下の奥で、放送用の霊灯が灯った。


     ◇


 次に茜が動いた。


 彼女は壁に流れ込む校域登録契約を読み取っていた。


 入学時に交わしたはずの書類。


 入寮手続き。


 魔導実習同意書。


 校内結界通行許可。


 学生証登録。


 保護者署名。


 それらの奥に、小さな文字が隠れている。


 本人の魔力を、校域結界補助へ利用する。


 緊急時、学園長および公儀の判断により、生徒の名を封門網の補助記録として使用する。


 校域内における安全確保を目的とし、必要に応じて一時的な名簿固定を行う。


 細かく、難しい言葉で書かれている。


 だが、意味は一つだった。


 生徒の名前と魔力を、本人がよく知らないまま封門網へ組み込む仕組み。


 保護の名を借りた強制契約。


 茜は、鬼契りの契約書を思い出した。


 次代の血が契約を受け入れれば、現当主は解放される。


 あの一文だけを見せられたとき、自分は父を救えると思った。


 だが全文には、次代へ犠牲を移す条項が隠れていた。


 今、学園が生徒たちへしていることも同じだ。


 難しい言葉で隠し、保護という名で包み、本人の意思を曖昧にする。


 茜は、召喚杖の先で床へ赤い線を引いた。


 茜縄が床を走り、名簿の壁と校域登録契約の文字をつなぐ。


 鬼契りのときと同じ。


 ただし、今度の相手は鬼ではない。


 学園そのものだ。


「学園は、生徒を所有しない」


 茜の声が、校内放送へ乗った。


 学園中のスピーカーから、彼女の声が流れる。


 教室で怯える生徒たちが顔を上げる。


 廊下に並ばされかけていた生徒たちが、足を止める。


 図書塔で名を読まれかけた生徒が、耳を澄ませる。


「生徒は、守られるだけの燃料じゃない」


 茜縄が、古い校域契約の文字へ巻きつく。


 命令権。


 補助燃料。


 名簿固定。


 封門網使用。


 それらの文字が、赤い縄に引きずり出される。


 茜の傷ついた手が痛む。


 包帯に血が滲む。


 それでも彼女は続けた。


「ここに残るか、外へ出るかは、自分で選ぶ」


 古い契約が抵抗する。


 壁の名札が一斉に茜へ向いた。


 顔のない写真が、白い空白で彼女を見ている。


 卒業式場の奥から、第七怪の声が響いた。


> 「選ばせれば、傷つきます」

> 「選ばせれば、迷います」

> 「選ばせれば、失います」


 茜は睨み返した。


「そうよ」


 息が苦しい。


 でも、言葉は止まらない。


「でも、それを勝手に取り上げる権利は、誰にもない!」


 茜は、全校放送へ向かって叫んだ。


「聞こえてるなら、自分の名前を、自分で言って!」


 その声は、本校舎へ流れた。


 北校舎へ。


 図書塔へ。


 寮へ。


 鏡術研究棟へ。


 無人音楽室へ。


 外へつながらない校門前へ。


「誰かに決められた卒業じゃなく、自分で選んで!」


 最初に返ってきたのは、震える声だった。


 ――三崎由衣。


 その声が、返り鏡のある研究棟から届いた。


 次に、別の声。


 ――高等部一年、三崎由衣。


 彼女の名札が、名簿の廊下で白く光った。


 「卒業処理中」の文字が消え、空欄に彼女自身の名が戻る。


 続いて、別の生徒たちが名乗り始めた。


 泣きながら。


 怒鳴りながら。


 震えながら。


 友達に名前を教えられながら。


 自分の胸元の名札を見て。


 端末に残った一文字を手がかりにして。


 声が増えていく。


 名簿の廊下の壁が、ざわめいた。


     ◇


 雅琥は、床の中央へ立った。


 名簿の廊下全体が、学園を《向こう側》へ引きずり込もうとしている。


 足元の床が浮く。


 白い石畳が、現世の重さを失っていく。


 このままでは、名を取り戻した生徒ごと、学園全体が向こう側へ沈む。


 雅琥は息を吸った。


 怖い。


 怖いものは、怖い。


 足元が消えるのは怖い。


 鏡よりも、鬼門よりも、この白い廊下は気味が悪い。


 母の声を使われたときのような、胸の奥を直接掴まれる恐怖がある。


 だが、彼はもう「いない」とは言わなかった。


「怖いもんは怖い」


 雅琥は、両足を開いた。


 拳を握る。


 足裏に力を込める。


「でも、ここは現世だ」


 足元から、白い虎の紋が広がった。


 最初は小さい。


 返り鏡を固定したときのように、床の一部だけを押さえる紋。


 だが、今回はそれでは足りない。


 雅琥は奥歯を噛んだ。


 紋が広がる。


 名簿の廊下の床を越え、逆さ階段へ。


 学園長室へ。


 本校舎へ。


 北校舎へ。


 図書塔へ。


 鏡術研究棟へ。


 無人音楽室へ。


 東側結界から、稲葉家の契約蔵へつながる細い協定路へ。


 白い虎の爪痕が、学園全体へ打ち込まれていく。


「《白虎鎮門》」


 雅琥が唱えた瞬間、学園全体が大きく震えた。


 校舎が現世へ引き戻される。


 白い廊下になりかけていた通学路が、一瞬だけ夜の門前町を映す。


 教室の床が戻る。


 窓の外に、ほんの少しだけ本物の夜空が見える。


 だが、代償はすぐに来た。


 雅琥の脚に、赤い線が走る。


 皮膚が裂けた。


 膝が震える。


 喉の奥から血の味が上がる。


「雅琥!」


 茜が叫ぶ。


「こっち見るな!」


 雅琥は怒鳴った。


 口の端から血が垂れる。


 それでも、足を動かさない。


「勝手に向こう側へ持っていくんじゃねえ!」


 白虎の紋が、さらに深く床へ食い込んだ。


 廊下の壁が軋む。


 名札の雪が一瞬、落下を止める。


 雅琥は、血の混じった息で笑った。


「ここは、六道学園だ」


 顔のない卒業生の声が、冷たく響く。


> 「その学園が、子どもを閉じ込めてきました」


「だから変えるんだろうが!」


 雅琥は床を踏み抜くように力を込めた。


「逃げ場所ごと奪うな!」


     ◇


 風彦は、眼鏡に手をかけた。


 華子が隣で見ている。


 止めない。


 ただ、見ている。


 風彦は苦笑した。


「華子さん」


「何かしら」


「今から、少し見苦しい姿になるかもしれませぬ」


「いつも十分見苦しいわ」


「ひどい」


「冗談よ」


 華子は真顔で言った。


「どんな姿でも、あなたが帰ってくるならそれでいい」


 風彦は、何も言えなくなった。


 胸の奥が痛い。


 腹も痛い。


 全身が痛い。


 だが、今はその痛みを足場にするしかない。


 風彦は眼鏡を外した。


 世界が、変わった。


 名簿の廊下は、ただの廊下ではなくなる。


 無数の名前の流れが見える。


 細い糸。


 切れかけた光。


 白い札に吸い込まれようとする声。


 泣いている魂。


 学園から外へ出ようとして、何度も壁にぶつかっている卒業者たちの残響。


 そして、奥でうずくまる小夜の名。


 風彦の影が、足元で膨らむ。


 黄色い風が吹く。


 制服の裾が激しく揺れ、背後から黒い異相肢が伸びた。


 一本ではない。


 風の中に、腕とも翼とも触手ともつかない影が広がる。


 人間の輪郭が、薄れる。


 風彦は歯を食いしばった。


 怖い。


 自分がどう見えているのか分からない。


 茜たちに、怪物として見えているかもしれない。


 でも、今は道を開く。


 それだけを考える。


「声だけを通す」


 風彦の声が、黄風の中で響いた。


「名前だけを返す」


 彼は両手を広げた。


 第1話で、鬼を鬼門へ送り返した。


 第2話で、三崎由衣の魂を鏡から引き戻した。


 第3話で、鬼たちと現世の間に対話の境界を開いた。


 今、その全部を使う。


 帰る道。


 落ちない道。


 吸い込まれた名前が、本人へ戻る道。


 風彦は、名簿の廊下と現世の間へ黄風を通した。


 風が吹く。


 白い札に吸い込まれかけた声が、風に乗って逆流する。


 校内放送へ。


 教室へ。


 寮へ。


 廊下へ。


 生徒たちの喉へ。


 誰かが名乗る。


 その声が、本人の胸へ戻る。


「誰も置いていかない」


 風彦の声は、少しずつ人のものではなくなっていく。


 喉の奥に、風の音が混じる。


 背後の異相肢がさらに広がる。


 公儀の管理印が反応し、黒い封印文字が皮膚に浮かび上がった。


 風彦の膝が崩れかける。


 華子が支えようとした。


 だが、彼は首を振った。


「まだ……」


 声が掠れる。


「まだ、道を閉じない」


     ◇


 華子は、花切を抜いた。


 黒い刃が、白い廊下の光を吸う。


 だが、今回の刃は第七怪へ向いていない。


 小夜を斬るつもりもない。


 卒業できなかった者たちを斬るつもりもない。


 斬るのは、古い命令だけだ。


 華子は目を閉じた。


 懐にある紙。


 榊原華。


 その名を、心の中で受け止める。


 声には出さない。


 誰にも命じさせない。


 だが、逃げもしない。


「わたくしは、三番目の華子」


 彼女は言った。


 名簿の廊下が震える。


 壁に貼られた「三番目の華子」の札が黒く光る。


「そして、榊原華でもある」


 今度は、別の札が浮かび上がる。


 榊原華。


 生前の名。


 守護契約の鍵。


 公儀が使おうとした名。


 学園が隠していた名。


 華子は、その二つの札へ視線を向けた。


「けれど、どちらの名であっても、もう誰の道具にもならない」


 彼女の刀が、静かに揺れた。


「《無銘断ち》」


 刃が走る。


 最初に斬ったのは、小夜を学園へ縛る役割だった。


 名簿の壁から伸びる白い糸。


 小夜の名札と卒業処理中の札を結ぶ糸。


 それが断たれる。


 小夜の影が、壇上の奥で一瞬揺れた。


 次に、華子自身を守護神へ縛る黒い水の鎖を斬る。


 北校舎三番厠から伸びる契約水脈が、命令回路だけを失い、自由な水音へ変わる。


 さらに、生徒を結界燃料へ変える校域契約を斬る。


 茜が引きずり出した古い文字へ、華子の刃が触れる。


 補助燃料。


 名簿固定。


 緊急時使用。


 それらの文字だけが、紙くずのように散った。


 華子の刃は、玄斎を命令者へ固定する学園長契約にも届く。


 学園長室で血を流す玄斎の背後から、見えない鎖が一本切れた。


 最後に、公儀と学園をつなぐ一方的な命令権。


 黒い石板の残響から伸びる黒い線。


 それは太く、硬く、何重にも術式で補強されている。


 華子は笑った。


「ずいぶん太い縄ね」


 刃を振る。


 一閃では切れない。


 二度目。


 三度目。


 黒い線が軋む。


 公儀の術式が反撃し、華子の腕に黒い火花が走る。


 風彦が叫ぶ。


「華子さん!」


「よそ見しないの」


 華子は、痛みに眉一つ動かさず言った。


「あなたは道を保ちなさい」


「でも」


「わたくしも、少しくらい格好をつけさせなさい」


 華子の刃が、四度目で黒い命令線を断った。


 名簿の廊下が大きく揺れる。


     ◇


 同じころ、学園長室では玄斎が片膝をついていた。


 割れた校印の破片に血を注ぎ続けている。


 白い光は弱まりつつあった。


 五分。


 そのわずかな時間を引き延ばすために、彼は自分の血と霊力を使っている。


 黒い石板はひび割れながらも、まだ命令を吐き続けていた。


> 命令違反。

> 学園長権限の私的停止を確認。

> 六道玄斎を公儀審問対象として記録。

> 命令系統を復旧せよ。


 玄斎は笑わなかった。


 ただ、息を吐いた。


「記録したければ、するがいい」


 血が床へ落ちる。


 学園長契約の古い文字が、彼の腕に浮かぶ。


 命令者。


 管理者。


 封門責任者。


 校域所有者。


 それらの文字が、皮膚へ食い込む。


 玄斎は、自分の血でその文字を塗り潰した。


「命令する学園長ではなく」


 彼は低く言った。


「選択の結果を引き受ける者として残る」


 割れた校印が、再び白く光る。


 学園長室の扉の向こうから、雅琥の白虎鎮門の震動が伝わってきた。


 玄斎には分かる。


 雅琥が無理をしている。


 脚が裂けても、血を吐いても、立っている。


 玄斎の胸に痛みが走った。


「雅琥」


 彼は、誰もいない部屋で言った。


「おまえを守るためだと言って、おまえの選ぶ権利を奪った」


 校印の光が揺れる。


「同じことを、もう繰り返さない」


 その声が、白虎の紋を通じて、名簿の廊下へ届いた。


 雅琥は、血を吐きながら顔をしかめた。


「……聞こえてんだよ、親父」


 小さな声だった。


 誰にも聞かせるつもりはなかった。


 だが、茜には聞こえた。


 アサミにも。


 華子は少しだけ笑った。


 雅琥はすぐに怒鳴る。


「今のなし!」


「記録した」


 アサミが即答する。


「消せ!」


「重要記録」


「消せって!」


 茜が笑いそうになりながら叫んだ。


「今それどころじゃないでしょ!」


 その通りだった。


 名簿の廊下は、まだ崩れない。


 第七怪は、まだ卒業式場の壇上にいる。


 小夜は、まだ集合意識の奥へ押し込められている。


 だが、流れは変わっていた。


 卒業処理中の札が、次々と空欄へ変わっていく。


 空欄へ、生徒たち自身の声が戻っていく。


 茜の呼びかけに応じ、自分の名を叫ぶ声が、学園中から上がり始めていた。


 ――佐伯律!


 ――二年東組、佐伯律!


 ――水野カナ!


 ――まだ卒業しない!


 ――高等部一年、三崎由衣!


 ――私はここにいる!


 声が、名簿の廊下へ流れ込む。


 風彦の黄風が、その声を現世へ戻す。


 アサミの空欄が、受け止める。


 茜の書き換えた契約が、学園による所有を拒む。


 雅琥の白虎鎮門が、学園全体を現世に踏み留める。


 華子の無銘断ちが、古い命令だけを斬る。


 玄斎の血が、命令系統を止め続ける。


 五つの力と、一つの責任が、名簿の廊下で噛み合った。


 卒業式の進行率が、空中に浮かぶ。


 六十二パーセント。


 六十。


 五十八。


 五十一。


 逆流している。


 茜が叫ぶ。


「いける!」


 アサミが頷く。


「まだ。第七怪の中心が残っている」


 卒業式場の奥で、小夜の影が震えた。


 顔のない卒業生たちが、彼女を包み直そうとしている。


 白い顔が無数に重なり、小夜を再び見えなくする。


 華子が前へ出ようとした。


 しかし、その瞬間。


 風彦が、がくりと膝をついた。


 黄風が暴れた。


 黒い異相肢が一気に広がり、廊下の壁へ爪を立てる。


 名札が吹き飛ぶ。


 茜が振り返る。


「蓮田くん!」


 風彦の眼鏡は、床に落ちている。


 彼の顔は、もう半分ほど人間の輪郭を失っていた。


 黄色い風の中で、目だけが苦しそうに揺れている。


「道が……広がりすぎて……」


 声が、風に混じって歪む。


「戻れなく、なる……」


 華子の表情が変わった。


 風彦の名札が、壁から剥がれかけている。


 蓮田風彦。


 文字が白く滲む。


 その下に、公儀の黒い文字が浮かぶ。


 ――ハスター血統個体。


 ――異界門開閉具。


 ――封印対象。


 さらに、第七怪の白い文字が重なる。


 ――卒業処理中。


 風彦の名前が、二つの仕組みに同時に奪われようとしている。


 公儀の封印。


 第七怪の卒業処理。


 黄風の解放。


 三つが重なり、風彦自身の輪郭を削っている。


 アサミが叫んだ。


「風彦の名前が保持できない!」


「どうすればいいの!」


 茜の声が裏返る。


「呼ぶしかない」


 アサミは、焦げた記録札を握りしめた。


「本人へ返す。今すぐ」


 風彦は、首を振った。


 その動きも、もう人間のものではない。


「見ないで……」


 かすれた声。


「今の僕を……見ないでくれ……」


 華子が一歩、彼へ向かう。


 黄風が刃のように吹きつけ、彼女の袖を裂いた。


 それでも、華子は止まらなかった。


 五人の呼び直しは、学園を押し戻し始めた。


 生徒たちの名も戻り始めている。


 だがその代償として、帰る道を開いた風彦自身が、道の向こうへ引きずられようとしていた。


 零時の鐘が鳴る。


 ごおん。


 名簿の廊下に、風彦の名札が白く滲んだ。

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