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07 Take the tide when it offers.

07 善は急げ

「おめでとうございます」


たいしておめでたくもなさそうに、事務的な言葉を投げかけられたことで少しだけ現実味が増した気がするけれど。

呆然と立ち尽くす私の肩をポンッと叩く掌の温もりに、恐る恐る隣に並ぶ人を見ると。


「よろしく奥さん」


と、目の前の事務員と同様、淡々と告げるシゲ。

どうしてこうなった。いや、ちゃんと同意はしてるけど、本当にどうしてこうなった。


「次、何する?」

「……何、しましょうか?」


未だ現実に追いつかない思考で口先だけの返答をすると、シゲはうーんと考えてから「あっ」と思いついたように言った。


「じゃあ、旦那さんって言ってみて?」

「え。それ、次やることに含まれるの?」


思わず突っ込みを入れてみると「別にいいじゃん」とシゲが明らかに不貞腐れるものだから、どうしようもなく苦笑するしかない。


岡田夏樹、27歳。たった今を持ちまして、木嶋夏樹になりました。


……え。ていうか……マジで?


 ◇◆◇


昨日まで他人だったシゲを家に泊め、目覚めた次に行ったのは昼食に近い食事だった。相変わらず勝手気ままにキッチンを使い、昨夜残った夕食を食べるのかと思いきや、新たにトースト、目玉焼きに焼いたウインナーを添え、ポテトサラダにオニオンスープが出てきた時には度肝を抜いた。


実を言えば、私は起きてすぐにご飯を食べる習慣がない。実家に居た時は食べていたけれど、一人暮らしをし始めてからは睡眠欲を優先した為、また自分が料理ベタという事もあってほとんど朝食を取らずに出勤していた。

流石に何も食べず仕事をするのは無理があって、栄養補給菓子やゼリーを口にするようにはなったけれど、こんなまともな朝食を食べるのは実家を出て以来初めてかもしれない。


シゲに至っては新たに用意された食事プラス、夕食の残りをパクパクと食べ始めたものだから、さらに驚きが二重になった。

一向に手を付けない私に「食べねぇの?」と不思議そうに聞いてくるシゲに対し、申し訳ないながら事実を口にすると、シゲは少し考えたあとおもむろに立ち上がり、キッチンへ向かって数分後にはマグを一つ持って戻ってきて。


飲め、と差し出されたそれは白湯だった。


受け取りながらもどうしたらいいのかよく分からずに首を傾げていると、シゲは既に再開した食事の片手間に教えてくれた。


「白湯ってのは、内臓機能を温めて活性化してくれてんだ。消化作用を促進してくれるし、体内の老廃物も体の外に出してくれる」


だから、飲め。ということらしい。


白湯にそんな効果があるのかと感心しながら一口飲むと、ほっこりとした気持ちになって肩の力が抜けていく。


「ちなみにダイエット効果もあるぞ」


とシゲが付け加えたので、ちょっと習慣にしてみようかと思えた。白湯くらいなら沸かすだけだし、朝の時間がない時でもできるんじゃないかと。


「シゲ、なんでそんな事知ってるの?」

「体が資本だからな。老化には逆らえん」

「老化って……シゲって何歳だっけ?」

「29」

「老化……?」

「お前もいずれわかる」

「うっ、わかりたくない……」


そう呟きながら白湯をすすると、シゲはクククッと笑ってそのまま黙々と食事を続けた。

ゆっくりと白湯を呑み終わる頃には、今まで感じなかった空腹感がやってきて、少し覚めてしまった食事を勧めることに成功した。

まさかこんな風に食事をする方法があったなんてと感動していると、私の倍の量は食べていたはずのシゲは先に食事が終わったらしく、早々に後片付けを終えて一人だけコーヒーを飲んでいる。

慌ててトーストに齧りついた私を横目で見たシゲは慌てて食うと太るぞ、という女性に対してパンチのある一言をくれたものだから、ゆっくりと咀嚼することを覚えることになった。

元のペースで食べ始めた私に、ふっと微笑みかけたのを見て、ようやく彼が言いたかった事を理解する。


言い方はともかくだけれど、この人はたぶん自分に合わせなくていいからゆっくり食べろと言いたかったらしい。

比べては悪いけれど、前の婚約者だった男は私の食事の遅さにいつもイライラしているような人だったから、こんな風に言ってもらえるのは正直ありがたい。


……うん、優しい人だ。


言葉は辛辣で冷たくぶっきら棒な言い方をするけれど、ちゃんと解釈しようと心がければ自分を気にかけてくれていることが理解できる。

むず痒い感覚になるのは、仕方がない事なのかもしれないけれど。

ゆっくりと食事を続ける私の隣で、シゲがマグに残ったコーヒーを飲み干したと同時に立ち上がった。


「俺、一旦、自分のマンションに戻るわ。後でまた来るからゆっくり飯食ってろ。あと、自分の食ったもんくらいは片せるよな?」

「う、はい……。えっと、すぐに戻ってくる?」

「出掛ける用でもあるのか?」

「ううん、特には」


実はちょっと寂しい、って思ってしまったのを呑み込んで答えれば、シゲはくしゃりと笑ってみせた。


「二時間、もかからないとは思う。ちょっと用事済ませてくるから、その後一緒に出掛けるぞ」

「わかった。あ、でも、一緒に出掛けるってどこに?」

「役所」

「へ?」


随分間抜けな声が出たはずなのに、シゲはスタスタとキッチンへマグを片づけに行ってしまう。すぐに戻ってきたかと思えば、シワだらけのスーツを身に付け、自分のカバンを持つと振り返りながら言った。


「婚姻届取ってくる。あと、保証人はこっちで用意する。ナツはハンコだけ用意しといて。一緒に役所行って提出してくるぞ」

「え? え?」


いきなりの展開過ぎやしませんか、おまいさん。


テンパり過ぎて思わず時代を間違えちゃったじゃないの。


「結婚するんだろ?」


私の動揺を察してかシゲがようやく自分の行動に関する説明を行うと、停止しかけていた思考がフル稼働してオーバーヒートした。


「ええっ!? あれって今日!? なんでそんな急に!?」

「善は急げ」

「急ぎ過ぎて善も困惑してるよっ!?」

「ナツが困惑してなきゃいい。ってか、返しが上手いな」

「充分に困惑してます! どうもありがとう!」

「行ってきまーす」

「ちょっと待って!」


私の困惑を完璧に無視してスタスタと玄関へ歩き出したシゲの後を慌てて追うも、彼の歩行は止まらない。


「急ぎすぎもどうかと思うよ!? だって、色々段階すっ飛ばしてるし! ほ、ほら! 急いては事を仕損ずるって言うじゃない!」

「思い立ったが吉日」

「石橋叩いて渡ってください!」

「旨い物は宵に食えとも言うな」

「急がば回れ!」

「好機逸すべからず」


玄関先で靴を履き始めた彼の背後で、訳も分からないことわざ合戦が始まってしまったけれど、どうしても彼の知識量には敵わない。

他に何か類語はあっただろうかと必死に自分の知識内をさまよっていると、振り返ったシゲがグイッと私の胸倉を掴んで引き寄せた。


「なんっ……ブッ……んっ!?」


女性の胸倉を掴むとは何事だと抗議しようとしたが、慌て過ぎたせいか変な声が出た。が、変な声が出たのは慌てたからではなく、口が塞がれたから。シゲの唇で。

目を閉じるどころか驚きのあまり大きく見開いた瞳に映ったのは、至近距離にあるシゲの目を閉じた顔。ゆっくりと離れて行くと同時に開かれたシゲの目がまっすぐに私を見つめていた。


「余裕ねぇって言ってるだろうが。さっさと俺のモンになれ」


先ほどまでのやり取りが嘘みたいに真面目な視線と声色に、全身から湯気が出るほど真っ赤になっていたと思う。


「…………は、い」


無意識のうちに答えてしまった私の言葉に満足したらしいシゲが「ん」と呟き、私の胸倉から手を離すと、ぽんぽんと頭を撫でてふにゃりと笑った。


「いい子で待ってろ」


彼が踵を返して玄関を出ていった。重いドアが音を立てて閉まると同時に、私の体はへにゃりとその場に座り込む。


「ひ……卑怯だ……」


顔面を両手で覆いながら、いやいやと力なく首を横に振っても先ほどの同意は取り消すことが不可能だった。


やら、れた……。


言い負かされて悔しいというより、あんなふうに強引にでも自分を求められたら誰だって腰砕けになってしまうと思うんですよ。だって、私、それから10分ほど玄関でそのまま悶絶してましたし。はい。


そんなこんなでシゲが出て行った後は残していた食事をなんとか自分のペースで平らげて、食器を洗いながら悶絶をぶり返し。手持無沙汰になったので、先に出かける準備を済ませてしまおうと、無駄に気合の入った洋服を選び始め、そんな乙女な自分に悶絶。

軽く化粧を整えてもまだシゲが来なかったので、録画して溜まっていたドラマを見ていてキスシーンでぶり返し悶絶をもう一回。それ以降、楽しみにしていたドラマの続きが、全然頭に入ってこなかったのはシゲのせいだと八つ当たり気味に腹を立て始め、それもようやく収まった頃にようやく帰ってきたシゲ。


もう一度だけ思い直してもらおうかと玄関まで迎えに出たものの、戻ってきたシゲが私服の登場だったので言葉を失ってしまった。ベージュのトレンチコートの下にブイネックにグレーのカットソー。オリーブ色のチノパンをあわせて、ビターチョコレートのような色をしたレザーブーツ。細身とは言い難いけれど決して太っているわけでもない――しかし、引き締まった体のラインにピッタリな落ち着いた雰囲気を醸し出しているシゲの装いに、思わず見惚れてしまったのも仕方はない。


私はと言えばドルマン袖になっているパステルピンクのチュニックにジーンズ柄のトレンカを合わせ、コットンレースのチュニックを肩にかけた状態で、見るからに出かける準備が出来ていますと言いたげな化粧顔。シゲは満足そうに笑って部屋に上がってくる。


テンパる私を無視して卓上に「夫になる人」の欄がすでに記入済みの婚姻届を差出し、さっさと自分の分を書けと言う。慌てて書いたものだから書き損じてしまったけれど、シゲは「こんなこともあろうかと」と、同様に記入済みの書類をもう一枚取り出した。


どんだけ用意周到なの。


ようやく書き終えたところで本籍を聞かれたので、ここ(・・)であることを伝えると、シゲは早々に立ち上がって私を引き連れて部屋を出る。後で知った話、本籍が違うと戸籍謄本が必要になるらしく、取り寄せるならば時間がかかってしまうとか。それなら移すんじゃなかったと思ったのも後の祭り。


シゲの用意周到さは留まるところを知らず、私が逃げないようにするためか、それとも先を急ぐためかはわからなかったけれど、レンタカーを借りてた。


もうね、脱帽の領域。


シゲが家を出てから約束していた二時間程度で帰ってきたけれど、二時間でそれだけの用意をするという行動力を今後見習いたい所存。


ええ。若干現実逃避入ってます。


甲斐甲斐しく助手席のドアを開けて私を座らせ、シートベルトまで世話になるところなんか、彼が世話好きなのかよほど急いているのかが分からなくなってきた。


と、いうわけで冒頭に戻るわけですけども――。


「しちゃった……結婚しちゃった……」

「んな、後悔するような言い方しなくても」


役所から出て再び車内に戻ってきた私が、助手席で頭を抱えてブツブツと呟いていたのを聞いて、シゲがちょっと不貞腐れた声で言いながらエンジンをかける。

思わず上半身を起こして抗議の視線を向けたけれど、シゲは思いの他嬉しそうに笑っているから余計に腹が立った。


「結婚する決意はあったけど! でもっ!」

「しちゃったもんは仕方がない」

「~っ! 親にも家族にも言わず、結婚式もせずってっ!!」

「順番は違うが、ちゃんとするよ」

「だから、そういうっ……え? するの?」


抗議を続けようとしたけれど、意外だったシゲの言葉に呆けてしまった。シゲは何の悪びれもなく車を発進させると、運転をしながら小さく頷いて。


「ナツの親にも挨拶するし、結婚式もするつもりでいるよ。するでしょ普通」


シゲ(あんた)が普通を語るなっ! と言いたいのを呑み込んで、現実自分が頭を抱えている事項を優先させてもらった。


「シゲ……するつもりで居てくれたの?」

「言ってなかったのはこっちに非があるよな。スマン」


素直に謝られると、あまりに取り乱したこっちも分が悪くなった。


「……うん、私もごめんなさい。ちゃんと言えばよかった」

「俺が言うのもなんだが、昨日の今日だからお互いわかんねぇことだらけだと思うし。そうなったら思ってる事その場で言った方がいいな」

「うん、そうするよう心がけるよ。……ま、本当にシゲが言うなって思うけど」


いきなり素直になるのもなんだか恥ずかしくなって、シゲの言葉に輪をかけると彼はハンドルを器用に操作しながらハハッと乾いたように笑って。


ちょっと気まずくなりながらも、シゲは自分の考えている事を教えてくれた。


自分の親はどうにでもなるから、先に私の親へ挨拶したいこと。結婚式も当然だけれど、できれば新婚旅行もしたいこと。それは互いの仕事状況も関わってくるから、考えるのは先送りとその場で決まる。私がシゲの親に挨拶するのは後回しでもいいって言っていたのは、シゲの両親が海外に住んでいるからという理由だったのもようやく知ることができた。こんな話をしているうちに、どんどんと実感がわいてきた。


言葉の端々はやっぱり刺々しい、投げやりな部分も否めないけれど、けっしてこちらを理解しようとしないとか、馬鹿にしているとかではないとわかる。時々ムカッと苛立つことはあるけれど、彼の言葉の意図を理解しようと口を閉ざせば、シゲは私が怒ったのかと誤解して後から解釈を付け加えてくれる。

私が怒っていない旨を伝えると、運転するシゲの横顔がホッとするのが分かった。たぶん、今まで誤解されてきたからだろうな、と思えるような表情。


「ナツっていいな」

「どういうこと?」


唐突に呟かれた言葉の意味がわからなかったので、今度は黙らずに素直に聞き返せば彼は嬉しそうに笑って。


「自分でも分かってるんだ。大人が遣う言い回しじゃねぇだろってくらい言葉遣いが悪い事。結構それで色々問題起こしたし」

「あー……」


噂には聞いています、とは言えなかったが、昨日と今日との付き合いでなんとなくそれを理解できた私が納得したように声を上げると、シゲは苦笑して続けた。


「冗談で言ったつもりが真面目にとられることも多々あるし、冗談にしてはキツ過ぎるって怒られることもあった。真面目に言っても、俺の言葉は辛辣で怖いって怯えられた事もあったな」

「……そっか」

「自然と口数少なくなって、今度は逆に何考えてっかわかんねぇって言われてどうしろっつーんだって思ってたからさ」

「口数少ない? そんな風には思えないけど」


むしろ多い方なんじゃないかと思うけれど、と首を捻れば、シゲはククッと愉快な気持ちを口元に表現した。


「そ。だからナツっていいなぁって」

「うん?」

「言ったら言っただけちゃんと返してくれるし、意味がわかんねぇって思ったらいったん呑み込んで考えてから返してくれるだろ? 俺にとってはソレってスゲェ嬉しいわけ」


クシャッと笑ってみせたシゲ。思わず可愛いと感想を抱いてしまうほど愛らしいその笑顔に、胸がキュンッと締め付けられる。ここぞという時に母性本能をくすぐるこの人は本当にズルい。


「私、結構短気な方だと思うけど」


言い訳に近い自分の欠点を呟けば、彼は「そうか?」とあっさりとした言葉で返してくる。


「勉強・知識の分野においては未確認だから何とも言えねぇけど、頭の回転は速いんだろうなって思うぞ。極論、女って感情で生きる生きモンだと思ってたから、そう言った意味では感心してる」

「私もあながち外れてないよ」

「じゃあ楽しみにしてる」


楽しみって……。


「変な人」


苦笑というより、しょうがないなというニュアンスを含んでそう零すと、彼は同じように笑って「よく言われる」と言いながらハンドルを切った。


「……ところで、今ってどこに向かってるの?」


会話を進めながらも、車窓の行方が気になっていた私は話題を変えてシゲに尋ねた。勝手な憶測でまた私の家に帰るものだと思っていたけれど、どうも景色は私のマンションとは会社を挟んで逆方向だ。

流れゆく街並みの中で、そういえばあの店にも行ってみたいんだったと店を見て思い出しながらも口にしないでいると、シゲはあっけらかんとした口調で言った。


「俺の家」

「…………え?」

「俺の家」


……大事な事だから二度言ったんですか?

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