第3話「呼吸の形」
西日が特務高等学園の土のグラウンドを長く赤銅色に焦がし始めている。
吹き抜ける生温かい風が砂埃を巻き上げる中、荒々しい呼気と木が空気を裂く鈍い音だけが等間隔に響いていた。
「……っ、ふぅっ」
銀色の髪を汗で頬に張り付かせたセリアが、顔を歪めながら木刀を振り下ろす。
彼女の細く白い指の皮はとうに擦り切れ、にじんだ血が柄のさらし布を黒ずませていた。
魔法使いである彼女の筋力はすでに限界を超え、刃筋は力なくブレて空を泳いでいる。
それでも倒れ込むことを許さない強烈な自尊心が、小刻みに震える膝を辛うじて支えていた。
レオンは少し離れた木箱に腰を下ろし、その痛々しい姿を静かに観察している。
手元の水筒を軽く揺らすと、氷の溶けかけた冷たい音が響いた。
「そこまでだ。10分間の休憩とする」
その言葉が耳に届いた瞬間、セリアは糸の切れた操り人形のように膝から崩れ落ちた。
乾いた土の上に両手をつき、肩を大きく上下させて酸素を肺の奥底まで貪るように吸い込んでいる。
制服のブラウスは汗で肌に張り付き、普段の完璧な公爵令嬢の面影はどこにも見当たらない。
「まだまだいけるぜ。俺はあと100回でも振れる」
10歩ほど離れた場所では、ガイルが滝のような汗を流しながらも元気に木刀を素振りし続けていた。
彼のシャツの背中には濃い染みが広がり、隆起した筋肉の熱気が陽炎のように立ち上っている。
無尽蔵の体力と魔力による身体強化は素晴らしいが、力任せに空気を叩くだけの動作には無駄が多すぎた。
レオンはゆっくりと立ち上がり、足音ひとつ立てずにガイルの背後へ歩み寄る。
大きく振りかぶった木刀の柄の底を、指先で下から軽く弾いた。
「あでっ」
軌道をミリ単位で狂わされたガイルは、自身の振った圧倒的な遠心力に巻き込まれて派手に転倒した。
顔面から真っ直ぐに土へ突っ込み、むせ返る広い背中を見下ろしてレオンは静かに告げる。
「右肩に余計な力が入っているから重心が外へ逃げている。それでは実戦で足元をすくわれるぞ」
ガイルはペッと口の中の砂を吐き出しながら身を起こし、照れ隠しのように頭を掻いた。
「へへっ、どうも力が入りすぎちまって」
レオンは手にした水筒をガイルに放り投げ、もう一つの水筒を持ってセリアのそばへしゃがみ込む。
夕暮れの冷え込み始めた空気が、火照った皮膚の表面の熱を奪っていく。
彼女の瞳には、強い焦燥感と自分自身へのいらだちが色濃く張り付いていた。
魔法の天才ともてはやされながら、己の技術が頭打ちになっている現実に苦しんでいるのだ。
前世で何万回と武術の反復練習を繰り返し、血の滲むような停滞期を経験してきたレオンには、その痛みが手にとるようにわかった。
他人の人生に深く立ち入るつもりはないが、目の前で必死にもがく不器用な少女を見捨てるほど冷淡にもなりきれない。
「魔法の詠唱も、結局は呼吸の延長だ」
セリアの肩がわずかに跳ね、うつむいていた顔がゆっくりと上がる。
「身体に無駄な力みがあれば気道が狭ばまり、声は細る。結果として魔力の流れも滞る」
レオンは立ち上がり、腰の帯から自身の木刀を引き抜いて正眼に構えた。
足の裏全体で地面の起伏を捉え、腰の重心を丹田と呼ばれる下腹部の奥深くへピタリと落とす。
全身の筋肉が滑らかに連動し、水面のように凪いだ静寂がレオンの周囲にだけ落ちた。
魔力を一切使っていないにもかかわらず、その立ち姿だけで空間の空気が張り詰める。
ガイルもセリアも、瞬きすら忘れてその無駄のない動作の美しさに釘付けになっていた。
「足裏で大地を掴み、肺の底まで空気を落とせ。頭で考えるな、細胞の隅々にまで覚えさせろ」
短く言い放つと、レオンは木刀の刃を返すようにして滑らかに帯へ戻した。
張り詰めていた緊張の糸がふっと解け、いつもの気怠げな青年の空気に戻る。
セリアは自分の震える手のひらをじっと見つめ、ゆっくりと立ち上がった。
土を払い落とし、背筋を伸ばしてレオンが教えた通りに深く長く息を吸い込む。
彼女の周囲の空気が陽炎のように揺らぎ、これまでよりもはるかに澄んだ魔力の波紋が広がっていくのが肉眼でも見えた。
理屈ではなく身体感覚として正解を掴みつつあるその様子に、レオンは小さく顎を引く。
『目立たない平穏な生活からは、完全に遠ざかっているな』
遠くの空を赤く染める夕焼け雲を眺めながら、レオンは心の中でひっそりと毒づいた。
厄介な連中を引き受けてしまったという後悔の念はあるが、不器用な者たちが殻を破る瞬間を見るのは意外と悪くない。
レオンはため息を夕風に乗せて流し、特訓の再開を告げるために手を一度だけ高く叩いた。




