第10話「無刀の領域」
重装甲の男が放つ圧倒的な暴力の気配に、廊下の空気は完全に凍りついていた。
巨大な戦斧が床を引きずるたびに、火花が散って甲高い金属音が鳴り響く。
男の赤い瞳は、木刀一本で自分の攻撃を躱し続けるレオンを面白そうに見下ろしていた。
「どうした、逃げ回るだけか? 魔法を使えないなら、さっさと土下座して命乞いでもしろ」
男が嘲笑うように言い放つが、レオンの表情に焦りは一切ない。
彼は木刀の切先をゆっくりと下げ、自然体に近い構えへと移行した。
足の裏から大地の感覚を拾い上げ、膝の力を抜き、肩の緊張を完全に解き放つ。
先ほどまでの静かな闘志すらも内側に沈み込み、レオンの周囲からはあらゆる気配が消え失せた。
「……気味が悪いな、貴様」
男はわずかに眉間にしわを寄せ、戦斧を両手で強く握り直した。
目の前にいるはずの敵から、生き物としての熱や鼓動が一切感じられなくなったのだ。
まるで、そこに一本の古い樹木が立っているかのような錯覚。
男は苛立ちを隠すように咆哮を上げ、再び重戦車のような突進を仕掛けた。
今度は戦斧に濃密な炎の魔力を纏わせ、周囲の酸素を燃やし尽くしながらの必殺の一撃。
廊下全体が業火に包まれ、逃げ場はどこにもないように見えた。
「燃えカスになれ」
戦斧がレオンの身体を真っ二つに両断しようと迫る。
だが、レオンはその場から一歩も動かなかった。
彼は戦斧が肌に触れる寸前、自身の重心を極限まで低く落とし、男の踏み込んだ右足の甲を自身の足で軽く踏みつけた。
それだけで、男の突進の勢いは完全に前方へとつんのめる形になる。
バランスを崩した男の顎の下に、レオンの左の掌がそっと添えられた。
打撃ではない。
ただ、優しく押し上げるような動作。
その瞬間、男の巨体が空高く舞い上がった。
「なっ……」
男の口から驚愕の声が漏れる。
自身が放ったすさまじい突進の運動エネルギーが、レオンの掌を経由して、そのまま自分自身を上へと跳ね上げる力に変換されたのだ。
天井に背中から激突し、男の肺から空気が根こそぎ吐き出される。
重力に従って落下してくる男の背中に向け、レオンは初めて木刀を振り上げた。
魔力装甲は打撃の衝撃を分散させるが、装甲そのものがない関節の隙間や、内臓を直接揺らす浸透勁には対応できない。
木刀の先端が、男の装甲の継ぎ目である首の後ろ、延髄の真上を正確に打ち抜いた。
パンッ、という乾いた破裂音。
魔力装甲の内側で神経の束に直接叩き込まれた物理的な衝撃波が、男の脳を激しく揺らした。
落下してきた巨体は床に叩きつけられると、ピクピクと痙攣したのち、完全に沈黙した。
「……ふぅ」
レオンは短く息を吐き出し、木刀を帯に差した。
額にわずかに浮いた汗を手の甲で拭い、振り返ってガイルとセリアの無事を確認する。
2人は口を半開きにしたまま、目の前で起きた現実を処理しきれずに固まっていた。
圧倒的な質量と魔力を持つ怪物が、ただの体捌きと木刀の一撃で完全に無力化されたのだ。
「怪我はないか」
レオンが声をかけると、セリアがハッと我に返り、何度も頷いた。
「は、はい……でも、今の動きは一体……」
「相手の力を利用しただけだ。力任せに振るう刃は、軌道が読めれば怖くはない」
平然と言ってのけるレオンの姿に、ガイルはゴクリと唾を飲み込んだ。
魔法適性ゼロという評価が、いかに的外れなものであったかを、この場にいる全員が骨の髄まで理解させられていた。
「行くぞ。中枢管理棟はもう目の前だ」
レオンは倒れた男を一瞥することなく、吹き飛ばされた鉄扉の奥へと歩みを進めた。
その背中を追う2人の目には、もはや恐怖の色はなかった。
ただ、この規格外の男の背中についていけば、どんな絶望的な状況でも必ず道は開けるという、絶対的な信頼だけが宿っていた。




