第3話:初陣、そして化学者の防衛戦
「若! 筒井の軍勢、その数およそ三千! 我が領境を越え、こちらへ向かって進軍中とのこと!」
息を切らせて飛び込んできた伝令の報告に、本陣の空気は一瞬で凍りついた。
対する我が松永軍は、急きょかき集めた手代や領民、手負いから復帰したばかりの兵を合わせて、わずか八百。
圧倒的な戦力差。
普通なら絶望するシチュエーションだ。
だが、私の心は驚くほど冷静だった。
前世の化学メーカー時代、納期前日に仕様変更を食らった修羅場に比べれば、ただの数合わせの軍勢など恐怖の対象にすらならない。
「若殿……やはり大殿に援軍を請うべきでは。今から伝令を飛ばせば、二日のうちに――」
不安げな顔をする老臣の柳生に、私はフッと不敵な笑みを浮かべてみせた。
「必要ないよ、柳生。わざわざ向こうから、我が松永の『新しい力』の実験台になりに来てくれたんだ。父上を煩わせるまでもない」
「じ、実験台……でございますか?」
「ああ。戦というのはね、数でするものじゃない。――『科学格差』でするものさ」
私は本陣の地図を指差した。
筒井軍がこちらへ進軍する場合、必ず通らなければならない狭い一本道がある。
ぬかるんだ泥地と、切り立った崖に挟まれた、戦国時代の典型的なチョークポイントである要衝だ。
私はそこに、この数ヶ月間、石鹸ビジネスの裏で密かに作り溜めていた「あるもの」を大量に仕掛けておいた。
数時間後。大和の有力大名・筒井順慶の配下である、不破という猛将が率いる筒井軍三千が、予定通りその一本道へと差し掛かった。
「ふん、松永の若造め、恐れをなして引きこもったか! 奇妙な泥の山を作って遊んでいるような子供だ、一揉みにしてくれるわ!」
不破の怒号と共に、三千の兵が狭い道へとなだれ込む。
小高い丘の上からその様子を双眼鏡(堺の今井宗久に特注で作らせたガラスレンズの試作品)で覗きながら、私は静かに右手を上げた。
「若、敵の先頭が『第一区域』に入りました!」「よし。柳生、合図の狼煙を上げろ」
「はっ!」
ヒュルルルル……と、空に一筋の煙が上がる。
それと同時に、一本道の地面に仕掛けられていた、竹筒製の「地雷」の導火線に火が走った。
ドォン!!! ドォン!!!凄まじい爆音と轟音が、狭い谷間に木霊した。
私が泥と糞尿から精製した純度100%の国産火薬。
南蛮の粗悪な火薬とは一線を画す、化学者が調合した高威力の黒色火薬だ。
爆発そのものの殺傷力はそれほどでもないが、戦国時代の兵士たちにとって「足元が突然爆発する」という事態は、文字通り理解を超えた恐怖だった。
「な、何だ!? 雷か!? 地面が弾けたぞ!?」
「ひ、悲鳴を上げるな! 落ち着け!」
不破が必死に軍を統制しようとするが、混乱はそれだけで終わらない。
爆発の衝撃で、街道の脇に配置されていた「特製の樽」が一斉にひっくり返り、中身が坂道を猛スピードで流れ落ちた。
どろりと広がる、大量の、泡立つ液体。
これこそが、私の開発した『対集団用・超高濃度アルカリ廃液(石鹸の残りカス)』である。
「ぬおっ!? なんだこの生臭い液体は! ……うわああああっ!?」
先頭の兵が、一歩踏み出した瞬間に激しく転倒した。ただの泥ではない。
油とアルカリ成分が絶妙に混ざり合った、現代のローションをも凌ぐ「超極悪の潤滑液」だ。
しかも、草鞋の裏に染み込むと、強アルカリ成分が皮膚を激しく刺激して激痛が走る。
「滑る! 立てん! 前へ進めぬ!」
「後ろから押すな! 落ちる、崖に落ちる――うわあああ!」
三千の軍勢が、自重と混乱で将棋倒しになっていく。
爆音に怯えた馬が暴れ、狭い一本道は瞬く間に、阿鼻叫喚の地獄絵図へと変わった。
「……信じられぬ。一兵も交えぬうちに、三千の敵軍が壊滅していく……」
私の後ろで、柳生がガタガタと震えていた。
その目は、完全に「この世の終わり」を見るかのような恐怖に満ちている。
いや、ただの化学反応と物理法則を利用した、低コストな防衛戦なんだけどな。
「仕上げだ。柳生、全軍に通達。動けない敵に向かって、斜面の上から一斉に鉄砲を撃ち込め。ただし、命までは取るな。足を狙え。生かして捕らえて、我が領内の『硝石丘』の労働力にする」
「しょ、硝石丘の労働力……。敵の兵を殺さず、自らの火薬の糧(生贄)にするというのですか……。なんという、なんという冷酷な御方だ……!」
(違う! 人道的に命を助けて、ついでに人手不足を補おうとしただけだ!)
私の必死の弁明など届くはずもなく、松永の兵たちは「若殿は、あの久秀様を遥かに凌ぐ本物の魔王だ……!」と、完全に誤解した目で私を崇め始めたのだった。
結果、松永軍の損害はゼロ。
筒井軍は、将大将の不破を含む一千人以上が捕虜となり、戦いは完全なワンサイドゲームで幕を閉じた。
この『不破の戦い』の噂は、またたく間に畿内、そして日ノ本中へと駆け巡ることになる。
――「松永の息子、妖術を使い、指一本触れずに三千の軍勢を泥に沈める」
――「捕らえた兵の血肉を使い、大和の山奥で怪しげな雷の粉を増殖させている」
悪名が、史実の十倍くらいのスピードでカンストしていく。
そして数日後。
我が松永家の本拠地に、一人の「招かれざる客」が姿を現した。
「――お初にお目にかかる、松永の神童殿。織田弾正忠が家臣、木下藤吉郎と申します。我が主である信長様が、貴殿をぜひ尾張へ招待したいと申しておりましてな?」
人懐っこい猿のような笑みを浮かべる男――のちの豊臣秀吉が、そこに立っていた。
(第3話・了)




